143話 闇に眼を凝らす
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ボクは少し気になった事を確かめるべく、建物内を話しやすそうな女性でも居ないかと、案内図を確認して社内食堂兼休憩所と書かれた方へと足を運んだ。
星ノ宮のお嬢さんは石田君や、宇隆さんオマケで瀬里沢君も居る事だし、問題は起きないだろうと考えつつ、あの運転手の田神と言う人物を思い浮かべていた。
どこかで聞いた気がする筈なのに上手く思い出せず、何か歯に物が詰まった様な違和感を覚える。
まだ年を取ったと言うには、修練も足りて無い自分を可笑しく思いながら、比べるのに師匠でもある父様を思いだし、暫く直接に会っては居なかったが、少しは丸くなったかと思えば、性格は相変わらずのままだった事に溜息しか出ない。
ただ、前よりも頭髪のボリュームが心なしか減って、少しばかり額の生え際が後退した様に感じたのは、ボクの気のせいだっただろうか?
一度父様に気付かれない様に母様に連絡を取って、箱根崎君の容態も確認したい所だけど、中々それが難しい事だと分かっているだけに、手袋で隠した包帯の巻かれた痛む手を見る。
外から見た印象では、中も似たような物かも知れないと期待せずにいたのだが、意外と言ってしまうと失礼だろうけど普通に綺麗だった。
所々誰の趣味かは分からないが、観葉植物が置かれ外の様に壁に汚れが在ると言う事も無ければ、掃除も行き届いていると思う。
ただ、あの先程石田君達と居た場所も含め、ここは余り長く滞在するに良い場所では無いと感じる。
かなり微弱な気配で目に映るまででは無いのだが、建物内にも“居る”のだ。
不自然なほど、人の通る場所から離れていると思うのは気のせいだろうか? ここに関してはまだ分からない事の方が当然多く、少し気を引き締める必要があるかもしれないと感じた。
そんな事を考えながら、何度かロビーから角を曲がり着いた場所では、何組かの大きめの詰さえすれば六人は座れるテーブルで、今も食事をとっている人達が目に入ってる。
中をざっと眺め、分かった事は作業着を着た外部の人間らしい人が多い事だ。
その中でも特に目立つのは、子供でも知っている紺に近い紫と縦縞が印象に残る相良急便の制服や、トラネコナガトの黒と黄色の配色をした虎柄の制服姿も居た。
個々に固まっている者も居れば、一人の者だけで席を占領しているのを見ると、広くスペースを取っているこの空間は、誰でも自由に利用できるように解放されているようだったが、体を動かす仕事だけに居るのは残念と言うか、やはり体格の良い男性ばかりだ。
そこで外部の者には聞いても意味が無さそうだと除外し、作業着以外の人間が居ないか中をぐるっと見回す。
何とか二人だけ居た女性を見つけ、声を掛けてみたのだが余り良い顔をされず、初日じゃ無理かなと諦めかけた所で、一人だけ暇そうに文庫本を開き読む訳でも無く、コーヒーを啜っているスーツ姿の男性が目に入る。
この人は仕事をしないで大丈夫なのだろうかと、筋違いな感想が浮かぶ。
ボクも以前読んだ覚えのある本だったので、それを話題に話をしたのだが、椅子を勧められ座って直ぐに、突然得体のしれない凄まじい気配を一瞬感じ、驚いた拍子に立ち上がりかけ、誤ってテーブルにぶつかり飲みかけのコーヒーを零してしまう。
まあ、これが本当の切っ掛けになって、変に腹の探り合いや堅苦しい挨拶から入る必要は無くなったのは、まさに僥倖だっただろう。
「――よく分かりました。ありがとうございます。前に用事で来た時はこんな事誰にも話せなくて不安だったのですけど、こうして貴方みたいな此処の事に詳しい方に、色々と相談に乗って頂けて本当に気が晴れましたわ」
「いや~はは、別に大した事じゃないよ。それに、確かにその気持ちは分かるしね。……あと、ここだけの話。ごく偶に『お得意様』の関係で遅くまで残ったりするんだけど、直接顔を合わす事なんてほぼないから、そんな時は同期も混ざって警備の奴と宿直室で麻雀をする機会があるんだ」
「そ、そうでしたか、それなら聞いて納得です。だから先程の話に繋がるのですね。貴方って本当に何でも知っていて、とても頼りになる方なので私、感心致しますわ」
「本当に? 俺ってそんなに頼り甲斐があるって思っちゃうかな? 何か嬉しいな~。まあ確かに俺だから集まった時に、色々と社内の噂話なんかも聞けるんだけどね。あと俺が知っている事と言えば思い返してみても、雨の日以外はさっきのような目撃談をさっぱり聞かないね。不思議だろ~? でさ、君さえよければこの後も、もっと面白い話があるんだけど、今夜食事でもどうかな?」
こうして話を聞けた事には感謝しているが、どうもこの男性がボクを見る目つきが、舐め回されている様で不快だ。
今はまだ戻って来てないが、こう言った輩を排除するのに頼りになる箱根崎君には、早く戻ってきて欲しいと思う。
確かにこの男性、自ら社内の噂話を知っていると言うだけあって、話題は豊富だった。その為余計に長話になり必要な情報を得るためとは言え、少々持ち上げすぎたかもしれないと、心の中で舌打ちを放つ。
気になるのは先程感じた気配が異様だった割に、騒ぎにもならず直ぐに収まった事だったが、丁度良く話を振られたので、切り上げ時だと判断し戻ろうと「じゃあ、ちょっと確認してから」と言って手帳を取り出し、さり気なく時計に目をやり、慌てたように席を立つ。
「あのすみません。貴方との話に夢中になり過ぎて、予定の時間が過ぎていました。急がないといけないので、これで失礼します。あとコーヒーを台無しにしてしまってごめんなさいね。まだこの後取引もありますので、またここでお会いした時には、改めて私がコーヒーを御馳走致しますわ」
ここで相手には口を挟ませない様に何も言わせず、一気に畳みかけ次回もある事を臭わせつつ、こちらから声を掛けると約束した様に思わせ、相手の精神に余裕を持たせて撤収。
心にもない笑顔で別れ、無理矢理最後に名刺を渡されはしたが、次に遭う事は先ず無いだろうとそれを適当にポケットに放り込み、やはり慣れない口調で話すのはオニを祓うよりも疲れると感じた。
足早にロビーの出口を通り抜けコンテナの位置を目指しながら、懐に手を入れ外していたメガネを取り出し、大雑把に髪をまとめ上げて帽子をかぶる。
外に出た所で凝り固まった背骨と肩を解し、その開放感で伸びをして気持ちの良い音を鳴らした。
一人がこんなに心細く怖いなんて思うのは、子供の頃爺さんが倒れた時に、一晩だけ留守番を任され、家で夜を明かした時以来かも知れない。
明確な線引きは無かったが、あの境界を越えた時から漂うこの妙な気配は、既に俺を通り越して広がりつつあり、下手に動く事を戸惑わせるには十分な早さだ。
音も無くその範囲と包囲を広める様に、思い浮かぶのは以前早起きした時に見た、白い霧にすっぽりと包みこまれた近所の通り。
偶々朝早くに目が覚めて、天気かどうか窓の外をカーテンから覗いてみたのだが、あの時は『空から雲が落ちて来た』と、とても驚いたもんだ。
後で起きて来た親父に聞いてみたら、麓谷市は周りを大きな深い河と山に囲まれているせいで、山沿いに濃い霧が発生しやすいと聞いた。
航空写真でも見た事が在るけど、その特異な条件に位置する為、麓谷の地では昔から極稀に、山に発生したその霧が下まで降りてくる時があって、そんな時は雲に包まれたような不思議な街並みになる。
それで今は殆ど呼ばれる事は無くなったが、忌み名として『限りなくあの世に近い地』と揶揄された事も在ったらしい。
……何で今そんな不吉な事を思い出すのか、自分で己の脳味噌にクレームを付けたい気分だ。
とは言え日が高くになるにつれ、その霧は消えるのだがこの気配にはそんな様子は全く無く、向こうもこちらに遠慮する気は微塵も無さそうだった。
気配もそうだがそれ以上今は音にも過敏になり、その為奥の方で何かが動きカサカサと小さく耳に聞こえ始め、徐々に近くに寄ってきているのに気付く。
既に先程から全身の産毛が反応し鳥肌が立ちゾクゾクと悪寒が走った。
最初に感じた独自のひんやり感など、今では子供騙しと言って良いくらいに、気温まで下がった気がする。
手に持っていたスマホが照らす明かりも、心なしか暗くなった様に感じて電池の残量を確認しようとした。
だが、そんな俺の恐怖心を更に煽るかのように、不安定に揺れる明かりがチカチカと点滅を繰り返し、終いにはフッとまるで蝋燭の火を吹き消されたように、俺の手の中でスマホの電源までが落ちる。
それなのに耳だけは絶えず、あの音を拾う。
――視界は既に何も捉える事は無く、闇は常に隣に存在する――
今まで在った小さな明かりが突然消え、目に映るのは先程まで照らしていた水の跡と、砂利のぼんやりとした残滓だけで、俺は『この次に来るであろう』何かに対し、カチカチと自分の歯の根が合ってない事に気付き、気合負けしない様に息を吸い込み、舌を噛まない様に歯を食いしばって、ぐっと腹に力を込めた。
でも本当は、今直ぐに来た道を戻り走って逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
じゃあ何故逃げないかと誰かに言われれば、今この場に居て気配が漂ってくる先に、背中を向ける方がもっと怖かったからと答えるだろう。
ここに来て初めて俺は、相手に向かう怖さよりも逃げる方が、より深い恐怖を生むと言う、途轍もなく理不尽な体験を自分の身をもってする事になった。
つづく