07 もう一人 : 20XX / 06 / 16
暢志が決意と緊張の面持ちでパソコンを閉じたころ、丸宮台のある家には、机にひじをついてぼんやりとため息をついている瑞穂の姿があった。
机の上に置かれたスマートフォンのストラップの黒猫が、瑞穂を見上げるように寝転がっている。
しばらくぼんやりしたあと何度目かわからないため息をついて、瑞穂はスマートフォンを手に取った。
パスコードを入力し、明るくなった画面から選ぶのはメールのアイコン。そして<下書き>へと進む。
いつもはカラフルなアイコンが混じるその画面には、今は文字がぎっしり並んでいる。
そしてただ一か所、<宛先>だけは空欄だった。
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<件名>
今日はすみませんでした。
<本文>
辻浦暢志さま
熊咲瑞穂です。
今日はすみませんでした。きちんとお話しできなくて。
帰るとき、私に気を遣って、いろいろ話しかけてくださっているのはわかっていました。普段はあんなにしゃべったりしないのですよね? 兄からおとなしい方だと聞いていましたし、朝の電車の中でも静かな雰囲気が漂っていましたから。
そうやって気を遣っていただいたのに、つまらない受け答えしかできなくて、本当に申し訳ありませんでした。
そもそも私、とんでもない勘違いをしてしまいましたよね? 辻浦くんは、本当は私と一緒に帰るつもりはなかったのではないですか? そうですよね?
電車を降りてから気付きました。あのとき、一瞬辻浦くんの次の言葉が遅れたような気がしていたのです。そのときは気持ちに余裕が無く、それにすぐに笑顔で「行こう。」って言ってくださったから、よく考えないままで…。
ちゃんと聞いていれば間違えたりするはずがないのに、もともとそそっかしいうえに、緊張していたので…本当にごめんなさい。いくら帰る方向が同じだからと言っても、初対面の私なんかと一緒に帰ろうなんて、普通は考えませんよね? 特に可愛いわけでもなく、しかも辻浦くんを転ばせてしまった加害者なのに。
気付いてからずっと申し訳なくて、自分の図々しさに落ち込んでいます。本当にごめんなさい。そして私の勘違いに合わせてくださって、本当にありがとうございました。
ただ、少しだけ言い訳させてください。
実は私、4月から、辻浦くんのことを知っていたのです。あ、お名前を知ったのはきのうですけれど。
「知っていた」とは言わないのかも知れません。見かけていたというか…。
春休みに引っ越して通学経路が変わったことや新年度の新しいクラスのことで、4月は不安になったり緊張したりすることが多かったのです。そんなときに、兄と同じ制服とバッグに気付きました。
辻浦くんは兄とは全然似ていませんが、それでも自分が知っている制服姿を毎朝電車で見かけると、なんとなくホッとしました。それに、辻浦くんの静かな姿は私を落ち着かせてくれて、前向きな気持ちになることができたのです。
そんな経過があったので、私にとって辻浦くんは、少しだけ知っているひとだったのです。だから辻浦くんの言葉を勘違いしてしまった……と納得していただけますか? そそっかしいのは事実なのですけど…。
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(こんなこと言えないよね……。黙って見られてたなんて、気味悪がられちゃうよ、きっと。)
ここまで読み返して、瑞穂はまたため息をついた。
(それに、「辻浦くん」って、なんだか馴れ馴れしい感じもするし…。)
本当はお詫びの気持ちを伝えたい。けれど、メールを送ること自体も図々しいような気がする。だから万が一にもうっかり送信しないように、宛先は空欄のままなのだ。
(お詫びを言わなくちゃってわかってるけど……。メールくらい送ってもいいんじゃないかなって思うけど……。)
そっと画面をスクロールして、続きに目を通していく。
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それから、きっと兄は、私のことをちゃんと説明していなかったのですよね? だって辻浦くんは、私のことを自分を転ばせた傘の持ち主だとしか認識していなかったですものね?
驚かせてしまってごめんなさい。本当に兄はいい加減な性格なのです。もちろん、どう説明したのかきちんと確認しなかったわたしも悪いのですけれど。
でも、あのときの辻浦くん、潔くて凛々しかったです。まっすぐにこちらを見て、「すみませんでした」って言ってくれて。
毎朝の静かな姿しか見ていなかったので、ちょっとびっくりしました。そして、さすが一葉高校の男の子だなあ、と思いました。あのときの態度も、「弁償します」って言ってくれたことも。
そのうえ、人混みで転ばせて恥をかかせてしまったわたしを責めずに、逆に傘を壊したかも知れないと心配してくれるなんて。辻浦くんは、とても優しいひとです。自分のことよりも、相手のことを優先に考えることができるのですから。
だから私の勘違いも、気付かないふりをして合わせてくれたのですよね。
待ち合わせの場所に向かいながら…いいえ、本当は朝からずっと、緊張していました。もしかしたら、辻浦くんは私の顔なんか見たくないのではないかと思って。朝、いつもの電車で見かけなかったこともあって。
そうしたら、ちっとも怒ってなんかいなくて、逆に謝ってくれるなんて。辻浦くんは何も悪くないのに。悪いのは私だけなのに。
それまでの緊張に、驚きと、感動と、申し訳ない気持ちが加わって胸がいっぱいになってしまって、何を言ったらいいのかわからなくなってしまいました。
予定ではもっときちんと謝るはずだったのです。でも、考えていた言葉は思い出せませんでした。だから中途半端なお詫びしか言えなくて、ごめんなさい。
それから……お礼のお菓子、わたしがいただいても良かったのでしょうか? 電車から降りる瞬間に、慌てて渡されたから受け取ってしまったけれど……。
だって辻浦くんは、生徒手帳を拾ったのは私ではないと思っていたのですよね? つまり、その人は単純に親切な人だと思っていたということですよね?
でも、私はそうではありません。
転ばせて、恥ずかしい思いと痛い思いをさせた人間です。生徒手帳を拾って届けるくらいでは、釣り合いなんかとれません。
生徒手帳だって、本当は駅に届けておけば、わざわざ時間を取らせたりすることもなかったはずです。もちろん、お礼の品にお金を使う必要もなかったのです。
…なんて書いてしまいましたが、もう食べてしまいました。
ごめんなさい。
このことに気付いたのは食べた後でした。
私、プリンが大好きで、出発する電車を見送ったあとに袋をのぞいたらプリンが入っていたので、いいのかな、とは思ったのですが、賞味期限もあるし、お返しするのもおかしいような気がして…。
家に着いて、自分の言動を反省したり落ち込んだりしながら食べて……いいえ、ごめんなさい。食べている間は、そんなことは考えませんでした。ただ美味しくて、嬉しくて、満足していました。
それからハッとしました。で、また落ち込みました。やっぱり私はそそっかしくて、そのうえ食いしん坊です。ものすごく情けないです。
でもやっぱり賞味期限もあるし、明日の朝にまた持って行ってお返ししたりしたら失礼ですよね? 私が受け取りたくないように見えそうですし…。
なので、プリンの分はお礼の品を考えたいと思います。
あまり遅くならないうちに……。
つまらない言い訳をだらだらと書いてしまいました。言い訳ばっかりですね。すみません。
きのうも今日も、本当に申し訳ありませんでした。
そして、ありがとうございました。
熊咲瑞穂
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(なんか…正直に書き過ぎかな?)
読み終えて、瑞穂は少し首を傾げた。
ちょっと甘えているような気もする。
でも、彼なら許してくれるような気がする。
(って言ったって、どうせ出さないんだし。)
そう思って少し笑った。
出さないつもりで書いたけれど、これでもずいぶん言葉を控え目にしているのだ。
心の中では、もっと好意的な言葉を使っている。
(だって……格好良かったんだもん……。)
スマートフォンを胸に当てて、ほぅっとため息をつく。
(潔さとか、あたしを責めないこととか、優しいところとか……。)
初めて見たときから気にはなっていた。兄と同じ制服だったことがきっかけになったのは本当のことだ。でもそれだけではなく、どこか安心できる雰囲気があった。二人で話しているところを簡単に思い浮かべることができた。
それが予想もしなかった状況で事実になってみたら、会話をすることなど、人見知りの自分には難易度が高すぎると知った。けれど、そんな自分を気遣ってくれた暢志に対する想いは今までとは比べ物にならないほど強くなってしまっている。
(来月のお誕生日に…とか?)
プリンのお礼を渡してもいいだろうか?
お礼だと言えば、警戒せずに受け取ってくれるだろうか?
(お誕生日を生徒手帳で見たって言ったら気持ち悪がられちゃうかな? でも、表側に書いてあったんだもの……。)
そんなことを考えながら、すでに知っているメールアドレスさえも有効に使えていない自分に気付いて、瑞穂は「ああ…。」と机に倒れ込んだ。