06 保存された手紙 : 20XX / 06 / 16
その夜、暢志はメールソフトを開いた。
しばらく迷ってから、本文欄に「熊咲瑞穂 様」と打ち込む。
それから何度もキーを一つ二つ押しては、すぐに削除キーを押してまた迷う。
そんなことを30分も続けたあと、ため息をついて、暢志はメールソフトを閉じた。
次に開いたのはメモ帳。
さっきと同じように何度も迷いながら、けれど今度は少しずつ画面が文字で埋められていった。
* * * * * * * * * * * * * * * * *
熊咲瑞穂 様
今日はどうもありがとう。
……ごめん。
何をどう書いたらいいのか、まったくわからなくて。
まだあのときのショックから完璧には立ち直れていないみたいだ。
熊咲先輩の妹さんがきみだったなんて。
あれからずっと落ち着かない気分のままだ。
緊張してきちんと言えなかったお礼を、せめてメールで伝えようと思った。
けれど、それも決心がつかなくて、結局こうやってきみに送らない手紙を書いている。
僕は……本当に意気地なしだね。
でも……、とにかくありがとう。
僕の生徒手帳を直接届けてくれたこと。
転んだとき、僕はずいぶん失礼な態度をとってしまった。
なのに、きみは逆に自分が悪いと思い込んで、僕のことを心配してくれていたんだね。
本当にごめん。
いや。
「ごめん」なんて言葉じゃ足りないよね。
ごめんなさい。
すみませんでした。
そして、ありがとうございました。
本当はこんなところで言う言葉じゃないってわかっている。
しかも、直接言うチャンスはたくさんあったのに。
だけど、きみといる間、僕はずっと緊張のしどおしで、頭の中は真っ白で。
くだらないことばかり延々としゃべり続けてしまった。
きみと別れたあとになって、自分の言葉がどれほど足りなかったかを思い出して落ち込んだ。
本当に情けない。
……そう。
チャンスはたくさんあったんだよね。
丸宮台まで一緒に帰って来たんだから。
でもどうか、僕の驚きと緊張をわかってほしい。
きみが熊咲先輩の妹だと知った動揺が治まりきれないうちに、新たな驚きが加わったのだから。
僕はあの瞬間まで、きみと一緒に電車に乗ることになるなんて考えてもみなかったのだから。
今まで一度も女の子と二人だけで話したことなんてなかった僕が。
もう何時間も前のことなのに、思い出すたびに、胸がドキドキして苦しくなってしまう……。
僕が生徒手帳を受け取り、きみが傘は壊れなかったと教えてくれたあとのこと。
僕はホッとして、そして、それならきみと早くサヨナラをした方がいいと考えた。
だって、それまでの緊張と驚きで焦りまくっていて、また新たな失敗をしそうで怖かったんだ。
お礼の言葉が全然足りていないことはわかっていたのだけれど。
お礼に買ったお菓子のことはすっかり頭から飛び去って。
せめてきみに失礼にならないようにと言葉をひねり出して、僕は「じゃあ、帰ろうかな。」と言おうとした。
でも、当然のごとく僕は失敗した。
緊張して、慌て過ぎて、こんなに短い言葉なのにつっかえつっかえで。
ようやく「帰ろう」までたどり着いたところで驚いたように顔を上げたきみと目が合って、僕はまた慌ててしまった。
同時に、きみが、僕が一緒に帰ろうと誘ったと勘違いをしたのかも知れないと気付いた。
それで余計に焦ってしまった僕の声は、次の「か」まではなんとか惰性で出たけれど……、そこで間が空いたせいで、僕の言葉が確定したように聞こえたんだよね、きっと。
きみが恥ずかしそうに「はい。」と頷いたとき、僕はほとんどパニックに陥ってしまった。
きみが了解してくれたという驚きと、嬉しさと、自分にきみのエスコートが務まるのかという恐怖と…そして、きみのあまりにも可愛らしい様子に胸がいっぱいになってしまって。
結局、僕は最後の「な」を声に出すことができなかった。
きみと並んで歩いていることが信じられなかった。
歩きながらも電車の中でも、僕の頭はずっとふわふわした状態だった。
もしかしたら、足取りも怪しかったのではないかと思う。
もともと口下手な僕がそんな状態では、ますます気の利いた話題なんか浮かんでこない。
せっかくきみが返してくれた言葉も、実を言うと、半分以上はちゃんと聞こえていなかった。
きっと誰が見ても、僕の様子は変だったと思う。
そんな状態の僕に嫌な顔をしないでいてくれて、本当にありがとう。
そして……こんな僕に付き合わせてごめんね。
ああ……。
こうやって文字にして書いてみると、自分の情けなさが本当によく分かる。
僕はいつも逃げることばかり考えている。
転んだ時も、今朝の電車をずらしたことも、このときも。
でも、きみは違う。
僕が転んだのを自分のせいだと責任を感じたうえに、生徒手帳を直接渡そうと思ってくれた。
帰る方向が同じだからと、相手はこんな僕なのに、口実を作ったりしないで一緒に帰ってくれた。
きみは僕よりもずっと勇気がある。
しかも、きみはかなり人見知りだよね?
僕もそうだから分かるよ。
きみの態度とか、会話の雰囲気で。
人見知りなのに、よく知らない僕に生徒手帳を手渡そうと思ってくれた。
そのきみの決意を、僕は尊敬する。
そして僕は、逃げてばかりいた自分が情けない……。
僕は……。
僕も、もう少し勇気を出してみようかな。
きみに対して、という意味ではないよ。
いろいろなことに、逃げないで向かい合ってみようかな、と思うんだ。
きみが見せてくれた勇気に自分を比べて落ち込んでいるだけじゃなく、僕も頑張ってみたいと思う。
少しでも勇気が持てたら、きみの隣にもっと自信を持って立つことができるような気がする。
そうしたら……、きみは友達になってくれる?
うん。
そうだ。
僕はきみと友達になりたい。
本の話や学校の話、面白い出来事や失敗したこと。
そんな普通のことを、普通に話したい。
顔を見たらあいさつをして、別れるときに「じゃあね」って言って。
……あれ?
もしかしたら明日、電車で会ったら「おはよう」って言うべき?
え?
そうなのかな?
考えただけで緊張してきたけど……。
いいのかな?
できるのかな?
きみは迷惑じゃない?
でも、知らん顔する方が失礼だよね?
あれ?
どうしたらいいんだろう?
だって、きみはもう僕には会いたくないかも知れない。
あんな変なおしゃべりばかり延々とするような男だもんね、僕は。
だけど、だからと言って電車を変えたりしたら、きみに失礼な気がするし……。
あ。
僕はまた逃げようとしている。
これじゃダメだ。
勇気を出さなくちゃ。
うん、そうだよね。
瑞穂さん。
明日の朝、僕はいつもの電車に乗ります。
もしもきみも同じ電車に乗って来たら……、僕はあいさつをしたいと思います。
遠くからちょっとだけでも。
今考えただけで、もう心臓がバクバクしてきてしまった。
その場になってみたら、やっぱりできないかも知れない。
できたとしても、気付いてもらえないくらい微かかも知れない。
でも……ちょっとだけ勇気を出してみようと思う。
無視しないでくれたら嬉しいけど……。
そういえば、僕はきみの学校も学年も訊き忘れてしまった。
もしももう一度話すチャンスができたら、これを話題にすればいいんだね。
……なんて思っていても、きっとまた緊張で忘れてしまうだろうな。
だって僕だから。
おやすみなさい。
今日は本当にどうもありがとう。