第七話 とまどい
(やっぱり来てないや。)
がっかりしながら、ポケットにスマホを戻した。
5月6日の朝。
学校の最寄り駅、椿ケ丘のホームでもう一度、スマホを確認してみる。家のパソコンを使っているどんぐりが、こんな時間帯にメールを送ってくるはずはないと分かっているけれど。
(まあ、今日は仕方ないな。)
たぶん、向こうだって学校があるはずだ。
わりと早めの登校時間なので、駅は混雑しているというほどでもない。それでも改札口への階段に九重生の列ができている。そこに加わりながら、ぼんやりと視線をめぐらすと。
「お、久野樹。」
「あ、お、おはよう。」
俺を見てそんなにぎょっとしなくてもいいのに……。
でも、気にしない。久野樹はもう俺を許してくれたんだから。「山根」って呼んでくれるんだから。
改札口を抜けたところで、水色のリュックを背負い直している久野樹に話しかける。
「ゴールデンウィークなんか、ずっと休みにしてくれればいいのになあ。」
ほら。話しかければ、こうやってちゃんと笑顔を向けてくれる。
「でも、電車がすいてるし、球技大会だからいいじゃない? 山根は球技は得意なんでしょ?」
「うーん、まあ、バスケット一試合で突き指三本もすることはないくらいにはね。」
それを聞いて、彼女がしかめっつらをした。
月曜日の放課後の部活で、彼女はそのことを嘆いていた。今朝もまだ三本の指に、湿布が痛々しく巻かれている。
「馬鹿にしてるでしょ!? ホントに痛いのに! ポキッて音がしたんだよ!?」
そう言いながら、両手を俺の目の前に突きつけた。
「わ〜、そうだった、ごめんごめん。べつに久野樹のことを言ったわけじゃないよ〜。あははは。」
「ふん! わざとらしい! あ、でも、ふ。ぷふっ。」
そこで彼女は吹き出した。
「あたしはバレーボールの網にひっかかったりしないもん。」
「え、見てたのか?」
「ちょっとヒマだったからね。まさか、まっすぐ飛び込んでいくとは。」
「ふん。コートの真ん中にネットが張ってあるのがおかしいんだよ。」
「そうだよね〜。サッカーには無いもんね〜。」
俺がネットにひっかかった姿を思い出しているのだろう。彼女は下を向いてくすくす笑っている。俺は一緒に笑いたいのをこらえて、無理に不機嫌な顔をつくってみせる。
どうということのない会話。ただの世間ばなし。彼女の表情も言葉も飾り気が無く、おもしろいことを言っては「あははは!」と笑い、俺にからかわれるとふくれっつらをする。
それを見るとほっとする。彼女の中に、小学校時代の彼女がそのまま残っているから。
地味なセーラー服と生真面目な顔、つややかに肩にかかる髪、おだやかなアルトの声。普段の彼女。そこには、怒って俺を追いかけまわしていた少女の片鱗も見えない
けれど、あの日から。
俺の失敗談に大笑いした彼女は、確かに昔のとおりの彼女だった。落ち着いた外見の内側には、ちゃんとあのころの彼女が潜んでいたのだ。その顔が、俺と話しているときには現れるようになった。部活仲間に見せるのとは少し違う顔が。
それを見るたびに、胸の中に小さなあかりがともったような温かさを感じる。
「あれ? 山根?」
「あ、横谷、おはよう。」
追い抜こうとして、俺に気付いたらしい。同じクラスの横谷が久野樹の向こうでスピードを落とした。
「え? あれ?」
俺と久野樹を交互に見て、俺に視線で問いかける。クラスで一番よく話す横谷は、俺には彼女などいないということを知っているから。
「同じ合唱部の久野樹。小学校から一緒なんだ。」
説明を聞いて「へえ。」と感心した横谷に、久野樹が優雅に微笑んで会釈した。その優等生の顔にこっそり笑いながら、彼女に横谷を紹介する。そのとき、横谷が何かを思い出したように笑顔になった。
「久野樹って、もしかして、ことりちゃん?」
(え?)
俺と久野樹が同時に驚いた。
「どうして知ってるの?」
「あ、やっぱりそう?」
(どうしてそんなに嬉しそうなんだよ! しかも「ことりちゃん」って!)
さっきまで温かかった胸がちくちくする。でも、横谷はもう俺を見ていない。笑顔を向けている相手は久野樹だ。クラスの女子たちならぽーっとしそうなさわやかな笑顔を、惜しげも無く久野樹に向けている。
「ほら、クラス分けの名簿でさ、6文字で名前も変わってるから目立つだろ? 気になって覚えちゃった。」
「あ、ああ。どうも……。」
曖昧に微笑んでうなずく久野樹。
「かわいい名前だよなあ、ことりちゃんなんてさあ。」
「ああ、そう、かな?」
「うん。雰囲気もぴったり。」
「そんなこと――」
「でも、こいつ、上履き投げるんだぜ。」
思わず言ってしまった。
「山根!?」
目を剥いて見上げた久野樹を一瞬見てから、横谷に視線を戻す。
「怒ると何するかわかんないぞ。気を付けろよ?」
視界の隅に、久野樹のムッとした顔が見えた。彼女が片手を持ち上げたところも。そして――。
「うわ!?」
彼女が俺の腕を押した瞬間、タイミングを合わせて大袈裟によろめいてみせた。彼女がまた目を剥いた。
「いってー。ほらな?」
わざとらしく腕をさすりながら、さらに飛んできた彼女の手を身をひねってかわす。
久野樹はうらめしげに俺を一にらみすると、ふうっと大袈裟に息をついて、無言で前を向いてしまった。その頭越しに俺に視線を向けた横谷ににやりと笑みを返すと、横谷は呆れたように笑った。
そこからは横谷と俺が話をし、久野樹は黙っていた。やがて、学校が近付いて知り合いを見付けた彼女は、俺たちをおいてさっさと行ってしまった。
(どうしてあんなこと……。)
体操着に着替えながら、自分のしたことに落ち着かない気持ちを味わう。
(どうして……。)
あのとき、何とも言えない気持ちだった。イライラして、横谷と久野樹の会話に黙っていられなかった。久野樹と俺は遠慮のいらない仲なのだと見せつけたくなった。どうしてもそうしなくちゃいけないような気がした。
(おかしいじゃないか。)
べつに俺たちは付き合ってるわけじゃない。だいたい、ついこの前、仲直りしたばかりだ。中学の三年間は、一度も話したことすらなかった。
(変なの。)
考えてみても分からない。まあ、小学校からの知り合いは久野樹しかいないから、俺の中に、彼女を頼りにしている気持ちがあるのかも知れない。中学時代の、友だちに無視されて淋しい思いをした経験は、簡単に忘れられるようなものではないから。
(でも、そうだ。)
久野樹は俺がバレーで失敗したことを知っていた。ってことは、今日の試合だって見に来る可能性がある。
(よし!)
今日はいいところを見せてやるぜ!