12 届いたメール : 20XX / 07 / 01
そのメールに気付いたのは、暢志が風呂からあがったあとだった。
あまり交友関係の広くない暢志には、普段からたくさんメールが来るわけではない。
だからそのときも、念のためという気持ちで確認しただけだった。
(え……?)
表示された『熊咲瑞穂さん』という名前に、画面を凝視したまま体が固まった。
(なななな、なんで?)
一瞬止まった心臓が暴れ出す。
スマホを持つ手に力が入る。
画面に触れようとした手が震えて、あと数センチの距離が縮められなくなった。
(ど、どうしよう?)
ただメールを読むだけのことが、こんなに怖いなんて。
何を言って来たのだろうか。
ただのあいさつか、断りの言葉か。
一旦スマホを机に戻し、深呼吸をしてみる。
それから今日の帰りの出来事を、順を追って思い出す……。
横崎駅で出発時間待ちの始発電車に乗ったら、となりの車両から連結部分を抜けて来た瑞穂とばったり会ったのだった。
驚いて立ち止まった暢志を見て、彼女は今にも泣きそうな顔をして小走りに近寄った。
すぐに彼女の後ろから、「あの、すみません。俺たち…」と声がして、制服姿の男が二人現れた。
声に向き直った暢志は、成り行き上、その二人と向かい合う形になった。
瑞穂の表情と二人組が暢志を見て立ち止まった様子で、だいたいの事情は察せられた。
内気な瑞穂はこの二人に声をかけられて、驚いて逃げて来たのだ。
思わず頭に血がのぼった。
二人が瑞穂に怖い思いをさせたことに。
同時に、こんなやつらに負けたくない、と。
感情を外に出すことにはまったく慣れない暢志だったが、このときは初めて他人を睨んでしまった。
言葉は控え目にしたつもりだったけれど、かなり威圧的に聞こえたはずだ。
あの二人がこういう場面に慣れていたら危なかっただろう。
けれど、幸いにも二人とも見るからに普通の生徒だったし、実際、暢志の一言にちょっと言い訳しただけで去って行った。
暢志の脅すような気配で、瑞穂の彼氏が現れたと勘違いした可能性が高い。
それに、去り際に「一葉じゃ…」という言葉が聞こえたことを考えると、暢志の制服を見て、学校のブランド的に負けたと思ってくれたらしい。
暢志は初めて校章入りのワイシャツに有り難味を感じたのだった。
あのときは、彼女を守れたことの誇らしさと偶然会えた嬉しさで、なんだかすべてが上手く行きそうな気がした。
実のところ、ホッとしたあまり膝から力が抜けて、急いで座らなくてはならなかったのだけれど。
(そう。あのときはあいつらに勝ったつもりでいたんだ。でも……。)
帰ってからずっと考えている。
「自分は本当に勝っているのか?」と。
瑞穂はもちろん、暢志が自分を助けてくれたと思っている。
とは言え、あの二人には、そもそも “遊んでいる” という印象はなかった。
むしろ、普通の高校生という雰囲気は、暢志とほとんど変わらない。
ということは、声をかけるにあたって、それなりの決意と覚悟が必要だったはずだ。
ただ名前を教えてほしいと頼むだけだったとしても。
それに引き換え自分はどうなのか、と暢志は問いかけた。
大切なことを言葉にして伝えたことはあるのか、と。
未だに瑞穂の学校も学年も尋ねられないでいるじゃないか、と。
あらためて思い返してみると、「自分は何もしていない」という事実が嫌でも自分に迫って来る。
今日のことだけじゃない。
今までのこと全部が。
彼女と知り合うことができたのも、たまたま自分が彼女の傘で転んだからだ。
しかもあの日も次の朝も、自分は逃げたのだ。
瑞穂が拾った生徒手帳を手渡そうと思ってくれなければ、今だって彼女を離れた場所から見ているだけだったはずだ。
そして、おそらく自分には、今日の二人組のように自分から瑞穂に話しかけることなどできなかっただろう。
暢志の行動はいつも、偶然か、行きがかり上の結果に過ぎない。
それを、瑞穂が良い方に解釈してくれているだけだ。
自分はあの二人組に勝ってなんかいない。
(いや。むしろ負けてるんだ…。)
決断できない自分。
行動に移せず、現状に甘んじることを「それでもいいじゃないか」と納得しようとする自分。
最初からあきらめている自分――。
そう結論付けると、不思議と気持ちが落ち着いた。
そして、今のままの自分では嫌だと心の底から思った。
同時に、メールを開く恐怖心も消えて、瑞穂がどんなことを言って来たにせよ、きちんと受け止めたいと思った。
きちんと受け止めて、今度こそ自分の気持ちを伝えようと。
覚悟を決めて画面に触れる。
あらわれたメールには自分を非難する言葉は無かった。
本文は短かったけれど、それがかえって人見知りの瑞穂らしさを感じさせた。
メールを打ちながら困ったり、微笑んだりしている瑞穂が見えるようだ。
ほんの何時間か前に会ったばかりなのに、暢志の胸はなつかしい気持ちでいっぱいになった。
そしてあらためて、このままじゃダメだ、と思った。
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20XX/07/01 21:49
Subject: 今日はどうもありがとう(*^_^*)
こんばんは。瑞穂です。
今日は困っているところを助けていただいて、ありがとうございました。
それと、部活の後輩のお話を聞かせてくれたこと、嬉しかったです。
本当は、もっと早くご連絡するつもりだったのですが…ごめんなさい。
では、また明日。
おやすみなさい。
瑞穂
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(ありがとう。)
短いメールにこめられた気持ちが嬉しい。
きっと彼女はメールを打つときも、送信ボタンを押すときも、ドキドキしていたことだろう。
今だって、今にも返信が来るのではないかとそわそわしているかも知れない。
そうやって気持ちを込めてくれた彼女に、うわべだけを取り繕った言葉など送れない。
(どうしたらいいだろう……。)
きちんと自分の気持ちを伝えるなら、顔を見て話すべきだという気がする。
けれど、朝は無理だ。あの電車の中では。通学時間も気になるし。
だったら帰りに会う約束をするか?
(いや。たぶん無理だ。)
約束はできても、彼女と向き合った途端に、やっぱり頭の中が真っ白になってしまう可能性が高い。
どれだけ覚悟をしていても、順を追ってきちんと話ができるとは思えない。
それに、明日の夕方まで引き延ばすのも後ろめたい。
(やっぱり今だよな……。)
彼女が待っているとしたら申し訳ないと思う。
でも、今の中途半端な状態で、簡単な返信だけを送る気にはなれない。
そんなことをするのは、もっといけないことのような気がする。
(うん。正直に書こう。)
逃げた自分のこと。
意気地のない自分のこと。
全部伝えて、それで瑞穂が離れて行ってしまったら仕方が無い。
そもそも自分はたいした男ではないのだから。
そう決めたら気持ちが軽くなった。
暢志はあらたまった姿勢で机に向かい、深呼吸をしてからスマホの画面に触れた。