10 保存された手紙 : 20XX / 06 / 30
熊咲瑞穂さま
気付いたら6月も今日で終わりだ。
きみと初めて言葉を交わしてから、ちょうど二週間。
なんだか、あっという間だった。
きみが先輩の妹だと知り、朝の電車であいさつをするようになってから、毎日がどんどん過ぎて行く。
朝、僕はいつも同じ場所に乗り、丸宮台で乗車したきみが隣にやってくる。
お互いに「おはよう」とあいさつをして、「今日も暑いね」とか「また雨だね」なんてことを僕が言い、きみが「うん」とうなずく。
そして、二人で並んで乗って行く。
ただ黙って、それぞれに本を開いて。
最後に改札口を出たところで、ちょっと合図をしておしまい。
“一緒に” なんていう言葉を使ってもいいのかどうか、微妙な状態だよね。
未だにきみの学校も学年も知らないなんて言ったら、友人たちは「何やってんだ!」と呆れる…いや、怒るかも知れない。
本当は、今でも朝になると迷ってしまう。
僕はあの場所に乗っていてもいいんだろうか、って。
きみはもう僕と一緒にいたくないかも知れない、本当は嫌だけど、僕に気を遣って場所を変えることができないんじゃないか、って。
だけど、やっぱりあの場所に立つのをやめられない。
ようやくできた接点を、自分から失くすことなんてできない。
それに今のところ、きみは……僕を拒否していない……と、思う。
僕はきみが隣に来てくれることだけで、とても嬉しくて、満足なんだ。
最初の2日くらいは、僕だって、もう少し何か話をしなくちゃ、と思っていた。
でも、やっぱり何を話したらいいのかわからないし、きみが隣で落ち着いて本を読んでいる様子を見ていたら、無理をする必要はないんだと思うようになった。
それに、 “あいさつ以外ゼロ” っていうわけでも無いし。
思い出すと微笑まずにいられないけれど、きみは少し……不器用な、と言うか、そそっかしいところがあるみたいだよね。
傘を持っていることが多いこの時期は、きみには憂うつかも知れないね。
この2週間の間に、本を出そうとして2回、きみは僕に傘をぶつけ、一度は倒れかけた傘を僕がつかまえた。
荷物が多い日に、改札口で引っ掛かっていたこともあった。
そんなときにあたふたしているきみを見ると、なんだか楽しくなって、親近感が湧いて来る。
知り合うまでは、きみは落ち着いて大人びた女の子だと思っていた。
でも、小さな失敗をして慌てているきみを見ても、それほど意外だとは感じなかった。
本を読んでこっそり笑ったり泣いたりしていたきみを見ていたから、僕の中ではパズルのピースがはまるようにストンと納得できたんだ。
それにあの日のことを―――生徒手帳を返してもらった日に一緒に帰ることになったいきさつを落ち着いて思い出せるようになってから思っていた。
あれは僕の言い方も変だったけれど、きみの反応が普通よりも早かったのではないかって。
まあ、お互いに緊張していたし、今の日々があるのはそのお陰でもあるのだから、僕にとってはラッキーだった。
それに何より、そんなきみは……とても可愛いと思う。
きみには、僕はどんな男に見えているのだろう。
もちろん、これといった見どころなんてないのは分かっているけれど。
「普通」だったらいいな。
で、「ちょっと親しみやすい感じ」なんて思っていてくれたら嬉しい。
きみの「おはよう」には気持ちがこもっているように感じる。
僕はそれを見ながら、「ああ、今日も大丈夫だ」とホッとする。
最近のきみは、穏やかな優しい表情になってきた。
ちらりとしか合わない視線は相変わらず僕をドキドキさせるし、ちゃんとした会話もできない僕は情けないままだけれど。
2週間か……。
今日、これを書いたのは、きみに話せたらいいなと思うことがあるからだと思う。
今までは朝のひとときのことを一日に何度も思い出して、満ち足りた気分にひたっていた。
どうやら、満足しているときには、こんな手紙を書こうとは思わないみたいだね。
でも、今日は話したいことがあるんだ。
学校で、とても嬉しいことがあったから。
今日の帰りに、バレー部の後輩に呼び止められた。
一つ下の、今のチームでエースアタッカーをつとめている依田という後輩だった。
僕はそれほど上手くなかったし、性格も目立たなかったから、特に仲良くしている後輩はいなかった。
だから、彼に会ったのも偶然だと思った。
でも、そうじゃなかった。
彼は僕にお礼を言うために来てくれたんだ。
僕たちが引退する最後の日にきちんと言えなかったから、と言って。
依田は、去年の夏にケガをしていた後輩なんだ。
1年生の中でも飛びぬけて上手かった彼は、3年生が引退した新チームでレギュラー入りできるかも知れないと噂されていた。
たぶんそのことがあったから、膝の調子が悪くなっても黙っていたんだ。
僕は、ずいぶんテーピングを念入りにやっているなあ、と思っていたのだけど、声をかけると「念のため」と彼は笑って答えていた。
けれど、結局それが悪い結果を招いてしまった。
痛みをカバーして動いているうちにほかの場所も痛めてしまい、様子に気付いた顧問から医者に行くように命じられた。
受診してみると予想外にひどくなっていることが判明して、当分の間、通常の練習は禁止と言われてしまったんだ。
彼にはそれは大きなショックで、受け入れがたいことだった。
顧問に自分は大丈夫だと交渉したけれど、顧問もコーチもダメだと言った。
その分、ケガに影響のない部分のトレーニングのメニューを組んで、あとは回復の度合いに応じて…ということになった。
コートに入ることはできないし、ほかの部員ともまったく別の、筋トレ中心の練習だ。
少し経ったころ、気付いたら、彼が練習に来ない日が続いていた。
僕はケガの具合が良くないのかと思って、校内で会ったときに「悪いのか?」と尋ねてみた。
そのときの彼の投げやりな様子を見て気付いた。
それまで部活で花形だった彼には、みんなと違う地味なトレーニングは、孤独だし辛かったんだ。
僕は部長と顧問と相談して、彼の練習に付き合うことにした。
もともとレギュラー入りも何も期待していない僕なら、通常の練習に参加しなくてもどうってことはないから。
彼は僕のことを「見張り役かよ」なんて言い、不機嫌な顔をしてばっかりだった。
僕は尊敬されるような先輩ではないから、それは仕方がないことだ。
でも、そんな僕に面倒を見られているということが彼のプライドに働きかけたらしくて、それからは練習をサボらなくなった。
まあ、僕に嫌味を言ったり、「こんな練習、面白くない」とか「治ったって、ほかの部員に追い付けない」とか、文句タラタラだったけど。
そんな彼をなだめたり諭したりしながら、回復期の個人練習も含めて3か月くらい付き合ったのかな。
みんなと同じ練習に復帰できたとき、彼はレギュラーには選ばれなかった。
けれど、そのあと真面目に努力して、今ではエースアタッカーをつとめるほどになった。
我慢して地味な練習を経験したことで、精神的にも成長したんだと思う。
彼が復帰してからは、僕は彼と話すことはあまりなかった。
もともと明るくて賑やかな性格の彼には、僕よりも気の合う部員がたくさんいたから。
僕はそうやって楽しそうにしている彼を見て、「良かったなあ」と思っていた。
そんな依田が、真剣な顔をして、僕に「先輩のお陰です」ってわざわざ言いに来てくれたんだ。
「引退の日にちゃんと言えなくてすみませんでした」って。
生意気でプライドの高い彼が、「先輩がいなかったら、バレー部をやめていたかも知れません」なんて、半分べそをかきながら頭を下げたりするんだよ。
僕までつられて泣きそうになってしまったよ。
驚いたし、とても嬉しかった。
そして、あの練習中に彼が僕に生意気な態度を見せていたのは、実は甘えていたのかも知れないな、なんて思った。
僕はこのことを、きみに話したいと思った。
自慢したいんじゃない。
自分が彼の役に立てたことが、ただ嬉しいんだ。
その気持ちをきみにも分かってもらえたらいいな、って思ったんだ。
…話すのは難しいことじゃないのにね。
メールアドレスも電話番号も知っている。
朝の電車でも会う。
チャンスはいくらでもある。
なのに……。
まだ僕は意気地無しのままなんだな……。
依田と僕のやり取りを見ていた友達が、「俺が女なら、お前みたいな男に惚れちゃうなあ」と言って笑った。
どうしてかと尋ねると、「だって、自分の得にならないことにとことん付き合うって、すげえ優しいじゃん」だって。
僕は自分が優しいなんて考えたことは無かったけど…、実は学校でラブレターをもらったことがある。
うちは男子校だからすごくびっくりしたし、きみには絶対に言わないけどね。