エアレース
震電の初飛行から一週間。
忍とエディはネバダ州リノ・ステッド空港に降り立っていた。
その目的は、二つ。
一つは、リノ・エアレースへの参加だ。リノ・エアレースは1964年から30年以上に渡って続いている伝統あるエアレースの一つで、複葉機クラス、練習機クラス、そしてレシプロ機である限り改造無制限のアンリミテッドクラスに分かれて行われる。エディは愛機であるF8Fベアキャット「Naughty Cat」で、忍はJ7W1「震電」を駆って、これに参加するのだ。
そしてもう一つの目的。それは、完成した震電のお披露目である。レシプロ機を愛好するマニアたちの集いであるエアレースはその会場としてうってつけだし、エディと忍が所属するチーム「ライトニングフライヤ」は過去にも大戦機復元プロジェクトの完成機をこの場で発表した実績がある。
民間の航空路を使ってきたのは、無用な注目を集めるのを避けるためでもある。
「……その割に、やたら注目集めてないか?」
「あー……こういうのは、どっかから漏れるんだよなぁ」
後頭部をがりがりと掻くエディ。
二人が空港に降り立った途端、いかにも飛行機乗りやその関係者といった風貌の人間たちが、こちらをちらちらと見ながら噂話を始めたのだ。中には「期待してるぜ」「今度は何を作りやがった?」などと言ってエディの肩を叩いていく者もいる。
「できるだけ注目を集めないように民間航空を使ったってのに……こりゃ直接飛んできて、曲芸の一つでもかまして度肝を抜いてやった方がよかったか?」
盛大に鼻息を漏らすエディ。獲物が取れなくていらつく熊みたいだ。
怒っても笑っても不思議な愛嬌があるエディは、飛行機乗りたち皆の兄貴分として人望があるのだ。
「いや、ぎりぎりまで隠した方がインパクトは強くなる。この感じだと、みんな何がお披露目されるのかまでは分かってない。行けるさ」
「こうなったら奴らの腰を抜かしてやらんことには収まりがつかん。いいかシノブ、これ以降機名を出すのは禁止だ。機体を推測させるいかなる単語も口にするな。いいな、わかったな?」
「……了解!」
ぷりぷりした口振りのエディの姿に思わず苦笑する。
いずれにしろ、忍がやることは変わらない。
エアレースに参加し、震電のお披露目をする。
目的は二つだが、震電を飛ばすという意味では同じこと。
この一週間ですっかり馴染んだ操縦桿の感じはいつでも頭に思い描ける。
忍は、あの頼れる相棒を気持ちよく大空へと飛ばしてやれば、それでいいのだ。
空港を出れば、併設されたエアレース会場までは歩いてでも行ける距離だ。
明日からの一週間、ここリノ・ステッド空港から車で小一時間の距離にある小都市リノは、街を上げての大騒ぎとなる。年に一度の空の祭典、伝統のリノ・エアレースは全米に向けてテレビ中継もされる。新機体のお披露目にぴったりと言うのはそんな理由もあった。
「お、やってるな」
先に会場入りしていたライトニングフライヤのスタッフが二人を出迎える。
万が一にも傷つけたりしないよう厳重に梱包した機体を空輸し、他のチームにばれないよう滑走路脇に設置した仮設テントの中で組み立ててもらっている。根っからの航空マニアである彼らは、わずかな手当だけでそれらの作業全てを引き受けてくれているのだ。全く頭が上がらない。
彼らがいるからこそ、エディと忍は飛べるのだ。
「ジュニア、それにシノブ! よく来た!」
手にした帽子をぶんぶんと振り回し、禿げ上がった頭頂部をネバダの太陽に晒すのは、チームでも最古参のメカニックであるマイク――誰もが親しみを込めて彼をおやっさんと呼ぶ――だった。
エディと抱擁を交わし、忍に向かって両手を広げる。
こういうコミュニケーションにも、いい加減慣れてしまった。
軽く抱擁を交わす。
汗とオイルの匂い。
決して快いものではないが、嫌いではない。
「二機とも調子は上々だ。今すぐにでも飛ばせるぜ」
「ありがとう、おやっさん」
早く震電と対面したくてうずうずする。
「それでだな、シノブ……その、なんだ……」
「ん?」
珍しく歯切れ悪いおやっさんの様子に首を傾げると、背後からその原因が抱きついてきた。
「しーのぶっ!」
「わっ! 抱きつくなよ、母さん!」
「バカ、マコトって呼べって言ってんでしょ」
年の割には引き締まった身体をラフな格好で強調しているマコトだった。
首に巻きついた腕が締まる。細いので、ぐいぐい入ってくる。
「なにやってんの……」
「来ちゃった」
「来ちゃった、じゃないよもう。シニアのお世話は?」
「メイドに任せてきた。その方があの人も羽が伸ばせるでしょ?」
しれっと言い放つ。
実際、あの人ならそれもありえそうだと思えてしまうのが嫌だ。
「で、なんでここにいるの」
「その言い草。応援に来てあげたのに」
「……ありがと」
「つれないなぁ」
ぱっと忍を離すと、ことさらに頬を膨らませてみせる。
何歳になっても、子供みたいな人だ。
見た目が若く見えるので、アジア人は大体若く見えるらしいアメリカ人からは、カップルだと思われることも多い。そしてマコト自身はそれを楽しんでいる節がある。エディは羨ましいと言うが、実の母親にそれをやられる身にもなって欲しい。
「ね、忍。ちょっと時間ある?」
「ん? これから機体の調子を……」
「そんなの後々! ね、おやっさん?」
マコトがおやっさんの腕にくっつく。
「ん? おう……そうだな。シノブ、行ってきていいぞ。後はやっとく」
「おやっさん……」
助けを求めてエディに目をやる。
しかしエディは知らんぷりを決め込み、メカニックの一人と何やら熱心に話し込んでいた。
裏切り者め。
「はあ……」
まあ、マコトがいてはおやっさんたちも仕事にならないのだろう。
彼女をこの場から引き剥がすことが、機体の整備、ひいては明日の勝利に結びつくのだ。
そう、無理やりにでも自分を納得させるしかなかった。
「……いいよ。で、どこ行くの?」
「レーナちゃんのとこ」
「誰なの、それ……」
もう、ため息しか出ない。
二十歳にして当時四歳の忍を連れて渡米、何をどうやったのかそのままアメリカへ根を下ろした彼女の行動力と場に馴染む力は半端なものではない。幼いころからアメリカ中を引き回されて何度も死ぬような思いをした忍に、マコトに抗う術はなかった。
移動に便利なのだと言ってバイクに二人乗りで向かった先は、半ば予想していたがリノ・エアレースに参加する他のチームの張るテントだった。空港の格納庫はとてもではないが数が足りないので、参加チームはそれぞれ滑走路脇のスペースにテントを張って、こうして機体の組み立てと整備を行っている。
「ハイ、レーナ。元気?」
本当は他チームのテントに許可も得ずに入るのはマナー違反なのだが、マコトは知っているのかいないのか遠慮する様子など微塵も見せず、ごく自然に分け入っていく。その姿には逆に感心してしまう。
「何してるの? 来なさいよ」
テントから顔だけ出したマコトに手を引っ張られ、中に入る。
飛行機一機と整備道具一式が楽々入る広いテントの中には、シーファイアが鎮座していた。
特徴的な二重反転プロペラと巨大なエンジンから見て、おそらく最後期のMk.47だろう。
テントの奥にはイギリス国旗がかかっているところを見ると、どうやらイギリスのチームらしい。
「あら、マコト。よく来たわね、お茶でもいかが?」
「いただくわ」
にっこりと笑うマコト。
テントの中は空調が効いているとは言え、この暑い季節に彼らは紅茶を嗜んでいたらしい。
折り畳みの椅子に腰かけ優雅にティーカップを傾けるのは、金髪碧眼のいかにもイギリス人といった感じの美女だった。年のころは忍と同じ二十代半ばだろうか。肩にかかるくらいの長い髪を適当に後ろでくくり、油じみ一つない作業服を身につけたその姿は、貴族のお嬢様がメカニックのコスプレをしているようにも見える。
しかし、その眼はそうではないことを物語っていた。
「そちらの方は?」
見知らぬ人間――マコトの後ろに立つ忍を見据える眼は感情を映さない。
あるものをあるがままに捉える、それはパイロットの眼だった。
「シノブ・サイカという」
「聞き覚えがある。ライトニングフライヤのパイロットね? 貴方がどうしてここに?」
一瞬の間も置かない、素早い反応。
そこからも、彼女がパイロットとして高い資質を備えていることは読み取れる。
「邪魔をした。悪気はなかったんだ」
歓迎されざる客なら、長居は無用。
両手を上げて降参を示し、踵を返そうとした、その瞬間。
「待ちなさい忍。レーナも、失礼じゃないの? それが英国流のもてなし方なのかしら?」
厳しい声音でそれを制止したのは、マコトだった。
「マコト。彼は他のチームのパイロットで――」
そこまで言いかけて、はっとしたように目を見開くレーナ。
「――マコトの息子さん? なるほど、そういうことですか」
納得したように一人うなずくと、鶴を思わせる雅やかな所作で立ち上がり、つかつかと近づいてくる。
「わたくし、エアロバティックスチーム『R.S.S』のメインパイロットを務めております、レジーナ・J・ミッチェルと申します。レーナとお呼びになって下さって結構です。以後、お見知りおきを」
優雅に一礼。アメリカ人のパイロットにはいないタイプで、少し気圧される。
「……挨拶が遅れて申し訳ない。ライトニングフライヤのパイロット、シノブ・サイカだ」
「シノブとお呼びしても?」
断られるなどつゆほども思っていない、大胆な踏み込み。
「構わないが……」
「では、シノブ。改めて……ここで見聞きしたものを、誰にも話さないと約束頂けるかしら?」
「もちろんだ」
忍の返答を受けて、レーナがにこりと笑う。
不意を突かれて、心臓が跳ねる。
「それでは、貴方を歓迎しましょう、シノブ。さあ、かけて下さい。……むさ苦しいところですけどね」
従士然として控えるメカニック連中を見回してレーナが口の端に笑みを浮かべる。
「ここではどこに行ったってむさ苦しい男しかいない。貴方がいるだけで場が華やぐよ」
「……軽薄な男はもてませんよ?」
ふっと笑うレーナ。
その横顔はとても魅力的だった。
横でにやにやと笑うマコトがいなかったら、ずっと眺めていたかも知れない。
そこからは、しばらく飛行機について話して過ごした。
同じパイロットということもあり、話題は尽きることがない。
そして、いつしか話題は明日からのエアレースの参加機体へと移っていた。
こちらとしては、震電のこともあってあまり触れたくない話題だったので、上手く話を合わせて別の方向へ会話を誘導するべく、戦術を練りながら紅茶のカップを傾ける。そう、彼女の機体シーファイアについての話を振ればいいのではと思いつく。誰だって、自分の機体の話をするのは嬉しいものだ。そう考えて紅茶で口をしめした、その瞬間。
「でね、シノブはね、すごいのよ? なんて言ったかしら、ほら、そう、シンデン? っていうのに乗るのよね」
ぽんと発されたマコトの言葉に、お茶を吹きそうになった。
その拍子にお茶が気管に入って、盛大にむせる。
「やだ、なにやってるのこの子」
あんたのせいだ、とも言えず。
「今」
呆然、といった感じのレーナの声。
ほら、食いついた。
もうダメだ。
「シンデン、と言いましたか? それは、あの震電のことでしょうか? あのエンテ型の?」
エンテ型とは先尾翼機のこと。
彼女が思い浮かべているのが震電であることは間違いなかった。
この場はなんとか、誤魔化さなければ。
「ごほっ……すみませんが、それは言えません」
それだけを、何とか絞り出す。
「否定はしないのね?」
「…………」
自分はバカか。
答えたも、同然だった。
帰ったら。
エディに、なんと言い訳しようか。