プロローグ
「震電に乗る気はあるか、シノブ?」
その問いかけが、全ての始まりだった。
薄汚れたツナギ、暑苦しいヒゲと笑顔。
どこからどう見ても気のいいそこらのメカニックといった風貌の男。
彼の名はエドワード・R・エドワーズ。この僕、雑賀忍にとって歳の離れた『兄弟』に当たる男だ。
「震電って、あれか? 旧日本軍の戦闘機の……」
「そうだ。J7W1〈震電〉――こんなにもいかした名前の飛行機が他にあるってんなら、ぜひこのエディさんにご教授願いたいもんだね。な、お前もそう思うだろ、シノブ?」
「あんたのそのフレーズはもう何度も聞いたよ」
ずいぶん長いこと電話をしていると思っていたら、戻ってくるなりこれだ。クリスマスプレゼントを目の前にした子供のように上機嫌に振る舞うエディの様子に、思わず吹き出してしまう。この様子では仕事にならなそうだ。そう思ってスパナを握った手を下ろす。
「電話は、親父さんからか?」
半ば答えを予想しつつも聞くと、エディは大きくうなずく。
「シノブも、親父が大戦機復元プロジェクトに関わってることは知ってるだろ? スーパーマリン〈スピットファイア〉、メッサーシュミット〈Bf109〉に、三菱の〈ゼロ〉こと零戦……これまでも数々の名機を甦らせ、現代の空に羽ばたかせてきた由緒あるプロジェクトだ。次はどれを現代に復活させるのか? 航空ファンなら誰もがその動向に注目してる。そんなプロジェクトが今回『シラハノヤ』を立てたのが、旧日本軍の幻の戦闘機、J7W1〈震電〉ってわけだ。すごいだろ、な、わくわくしないかシノブ!」
いかにも言い慣れない感じで発音される『シラハノヤ』には妙な愛嬌があって、苦笑が漏れる。
「けど、震電って試作機の段階で終戦を迎えた機体だろ? 設計図どころか現存する機体だって一機もないのに、一体どうやって復元するんだ?」
「ふふん。そこが今回のプロジェクトの肝だな。……シノブも、スミソニアンに震電の試作機が保存されてるのは知ってるだろ?」
もちろんだ。スミソニアン航空宇宙博物館。世界初の動力飛行機であるライトフライヤー号からスタートレックのエンタープライズ号に至るまで、リアルとフィクションとを問わず航空と宇宙に関するありとあらゆるものを収蔵した世界最高の博物館。九州飛行機で試作が進められていた震電が、アメリカ軍に接収されて性能試験を行った後にここへ収蔵されたのは有名な話だった。
「親父が、あれの型取りの許可を取り付けた」
「……どうやって?」
「……知らん」
「…………」
絶句するしかない。
「ま、細かいことはいいだろ」
「相変わらず、すごい人だな……」
その人脈の広さと交渉術には、毎度のことながら感心してしまう。
エディの親父ことエドワード・R・エドワーズは、アメリカではちょっと名の知れた投資家だ。エディと全く同じ名なので、親しい者は彼のことを『シニア』あるいは『少佐』と呼ぶ。大戦機復元プロジェクトは、謹厳で知られ、ときに冷血な判断を下す彼が唯一金に糸目を付けずに打ち込む、一種の道楽と言ってもよかった。
シニアの名が出たことで、復元の話が忍の中で急速に現実味を持ち始める。
エンテ型戦闘機〈震電〉を現代に甦らせる。
これに心を震わせないパイロットがいるだろうか?
「復元と言っても、電装部品やなんかの再現には限界がある。今回のプロジェクトでは、あくまで実際に飛行できるものを目指す。飛行機と言えば前にプロペラ後ろにゃ尾翼だと思いこんでる頭の固い奴らが、ぶったまげて椅子から転げ落ちるようなすごい機体を作ってやるんだ。日本人として、そしてパイロットとして。参加しない手はないだろ、シノブ?」
そう言って、満面の笑みを浮かべて無骨な手を差し出すエディ。
「……ああ、もちろん!」
がっしりと握手を交わす。
幻の戦闘機、震電。
実用一歩手前まで漕ぎつけ、ついに日の目を見なかった幻影の翼。
それをこの世に甦らせ、羽ばたかせるのだ。
乗りたい、飛ばしてみたい。
忍は、胸の内に点った火が、強く静かに燃え盛るのを感じていた。
※短編競作企画〈犬吉杯〉参加作品です。
※作中には実在の地名・イベント名が出ますが、フィクションです。