「婚約破棄は柔らかく訳せ」と命じられたので、王太子殿下の失言を全部お届けしました
「通訳官。今夜の私の言葉は、できるだけ柔らかく訳せ」
王太子殿下からそう命じられたのは、夜会が始まる三分前だった。
私は手元の用語帳を閉じた。『港湾使用料』の訳語を確認していたところである。婚約披露の夜会でなぜ港湾使用料が必要なのかと問われれば、私にも答えに困る。ただ、ザフラン王国との婚約は海峡の交易協定と一緒に結ばれたものだ。協定には、婚約が一方的に解消された場合、ザフラン側が優先寄港地を選び直せる条項まである。宮廷通訳官は、花嫁の宝石より港の税率を覚えておいた方が役に立つ。
「どのようなお言葉を予定しておいでですか」
「そこはお前が考えろ。私の気持ちを損なわず、向こうの機嫌も損なわないようにな」
両方を満たす言葉を思いついたなら、通訳官より外交官になった方がいい。
「恐れ入ります。公式通訳では、発言の趣旨と語調を変えられません」
「少しくらい融通を利かせろ」
「でしたら、最初から柔らかいお言葉をお選びください」
殿下の眉が動いた。私は用語帳の下から速記帳を出す。革の表紙を留める真鍮の金具が、指に冷たかった。
見開きの左側は原発言の速記、右側は訳した内容の控え。短い発言ごとに話者と通訳官が交互に話す、いつもの逐次通訳だ。最初の頁には国王印の任命状の写しを挟んでいる。公式通訳は国王の名で任命され、王太子が気に入らないからという理由では途中交代できない。宮廷通訳規程第三条には、発言の意味と語調を足さず引かず伝えること、誤訳を聞けばその場で訂正することが記されていた。言葉を別の言語にする以上、単語を同じ順序で置き換えるわけではない。けれど、相手に届く意味まで変える権限は私にない。
「その帳面をしまえ」
「記録なしでの公式通訳はできません」
「私は王太子だぞ」
「存じております。殿下への任命も陛下の御名によるものでございますから」
この国の王太子は、生まれた順だけで決まる地位ではない。国王が後継者として指名し、取り消せるのも国王だ。私の職よりはるかに重いが、任命者が同じという一点だけは変わらない。
殿下は鼻を鳴らした。
「前にも外務卿に口答えして、北の記録室に飛ばされかけたそうだな」
胸の奥で、重い物が一つ落ちた。あの時の外務卿は隣国の贈答品を「安物」と言った。私はそのとおり訳した。あとで外務卿が「廉価な品と申したはずだ」と言い張り、速記帳を三日間調べられた。北の記録室は冬になるとインクが凍ると聞く。
「覚えております」
「ならば賢く立ち回れ」
「努めます」
何に努めるかまでは、殿下も尋ねなかった。
奥から鐘の試し打ちが一つ聞こえた。侍従が呼びに来ると、殿下は自分の襟元を整え、胸に下げた金鎖を指ではじいた。
「今夜が済めば、私も自由だ」
「おめでとうございます、と申し上げてよろしい件でしょうか」
「当然だ。ナディラとの婚約は終わりにする」
私の筆先が止まった。
婚約解消には両国への正式通告と国王の承認がいる。王太子が夜会で口にしたところで、契約書が勝手に燃えるわけではない。
「本日の議題に、そのような変更はございません」
「議題は私が決める」
殿下はそう言って広間へ向かった。公式の議題を決めるのは国王と両国の外務官である。私は用語帳を持ち直し、港湾使用料の頁に指を挟んだ。同じ見開きには「潮」と「刃」を区別する発音の印も付けてある。ザフラン語を習い始めた人が、よく取り違える二語だった。
*
ザフラン第二王女ナディラ殿下は、控え室へ続く廊下で私を待っていた。
銀色の刺繍が入った濃紺の衣装に、真珠を一粒だけ留めている。隣国の正装だ。彼女の足元には、訪問団が置いた木箱が三つ。交易品の見本らしく、封には港の印が押されていた。
「ユリア・ベック」
呼ばれたのは、私の国の言葉だった。
立ち止まると、王女は少し首を傾げた。
「今夜もあなたが通訳してくださるのね」
「はい。国王陛下のご命令でございます」
「よかった。あなたの訳し方、好きよ」
私は廊下の左右を見た。ザフランの王族は正式な発言を母国語で行う。殿下は挨拶以外の王国語を話さないと、王太子は信じている。だがこの人の発音には、外国語を探り探り口にする迷いがなかった。
「わたくしどもの言葉を、いつから」
「十四の頃から。教科書を間違えて買ったのが始まりだったの」
「間違えて」
「海図が欲しかったのよ。棚を一つ間違えて、文法書を持って帰ってしまった」
それで七年間学んだのなら、棚の店主は表彰されるべきだろう。
王女は木箱に目をやり、それから声を低くした。
「私の言葉も、あの方の言葉も、足さず引かずにお願い。今夜は、特に」
「承知しております」
「お願いする立場の私が言うことではないけれど、あなた、困ったらちゃんと断れる?」
「断るべきことでしたら」
「そう。それならいいわ」
王女は広間の扉の前で一度だけ振り向き、私に小さく笑いかけた。先ほどのやり取りを知らない殿下なら、その笑顔を婚約への未練と受け取るだろう。
私は女官に先導され、通訳官の立ち位置へ戻った。左に王太子、右に王女。ザフラン大使ハリドは王女の一歩後ろに立っている。彼の側には細長い箱を抱えた記録係がいた。中身はザフラン式の速記具だろう。こちらの帳面と、あちらの控え。互いに聞き取った原発言を照合できるよう、今夜は両国の記録係が控えている。
*
国王陛下は奥の会談室で商人代表との協議中だった。夜会の挨拶は王太子が代行する。広間の大きな扉が閉じられ、楽団の演奏が止まった。
殿下は一歩前に出た。
「諸君。本日は大切な知らせがある」
私は訳した。向かい側で王女が顎を上げる。
「私はナディラ王女との婚約を破棄する」
右側の頁に訳を書き終えると、ザフラン側の記録係も同じ速さで羽根ペンを走らせていた。
扇子が一斉に開き、閉じた。給仕が盆を持ったまま立ち止まる。今の一文は、夜会の挨拶としてはだいぶ変わっている。婚約を終える手続きは何一つ進んでいないのに、披露だけは済んだ。
「その理由も伝えろ」
「続けてくださいませ」
「ナディラは無愛想で、私への愛情を一度も示さなかった。いつ会っても笑わず、質問には短く答えるだけだ」
私は、冷淡さを責める原発言と同じ程度にきつい言葉を選んだ。ザフラン語には似た悪口がいくつかある。顔立ちや生まれまで侮辱する語なら、殿下が言っていない嘘を足すことになる。
訳し終えると、王女は一拍置いて答えた。
「ご不満をお聞かせくださり、ありがとうございます。私の答えが短いのは、殿下のお尋ねがいつも『私を愛するか』の一つだけでしたから」
私は王国語で、そのまま伝えた。
笑ったのは、扇子を閉じ損ねた年配の婦人だった。隣の紳士が咳をする。少し遅れて、舞踏の相手を待っていた若者がグラスを口元へ運び、まだ中身を飲んでいないことに気づいた。
殿下は微笑んだ。
「ようやく謝ったか」
「謝罪ではございません」
「何だと」
「ご不満を聞いたことへのお礼と、回答が短かった理由でございます」
「もっと柔らかく訳せと言っただろう」
私は余白に日時を記した。王女は肩を揺らさず、じっとこちらを見ている。
「殿下、今のお言葉も訳しますか」
「いや、それは訳すな」
「公式の発言には含めません。私へのご指示ですね」
「いちいち確認するな!」
この叫びだけは、ザフランの客にだって意味が伝わりそうだった。私は訳さず、記録帳の隅へ小さく「通訳への指示」と書いた。
楽団長が指揮棒を持ち上げていいのか判断できず、楽譜を一枚だけめくった。めくった先の曲は、お祝いの行進曲だったらしい。彼は元の頁へ戻した。
殿下は広間を見回し、さらに声を張った。
「これからは、私の望む相手を紹介する!」
その後ろで、ミレイユ嬢が一歩進んだ。私は筆の握り方を直す。殿下が選んだ女性の名まで、両国の記録に載ることになる。
*
「こちらがミレイユ・アルノー男爵令嬢。私の心を理解する女性だ」
エドガー殿下が手を差し出すと、ミレイユ嬢は淡い桃色の裾をつまみ、王女に礼をした。
そこは、先ほどまで婚約者が立つはずだった位置だ。王女は半歩横へずれて場所を空けた。ミレイユ嬢はそのまま殿下の隣へ収まり、桃色の裾を整える。ハリド大使は二人の間にできたわずかな空間を見て、何も言わなかった。
「妃としてふさわしいのは、彼女だ。身分は私が補えばよい」
私は訳した。王女の表情は変わらなかった。
「殿下の好みは尊重いたします。私の身分はどうするのです?」
「は?」
「あなたが『身分を補う』とおっしゃった部分でございます」
私が説明すると、殿下は手を振った。
「向こうの身分の話ではない。ミレイユのことだ」
「そのようにお伝えしました」
「ではなぜ聞き返す」
王女の言葉を訳す。
「では、私の身分は今後どう扱われますか、と王女殿下はお尋ねです。婚約の手続きが残っておりますので」
「私が破棄すると言った。それで終わりだ」
ザフラン側の記録係が顔を上げた。
王女は穏やかにうなずく。
「それでは、正式な通告書と陛下の承認をお待ちしています。それまで私は今夜の国賓でしょうか。それとも帰りの船を手配した方がよろしいでしょうか」
殿下は考える顔をした。私は答えを待つ。こんなときに上手な答えを助言するのは通訳官の仕事ではない。それに、私にだって思いつかない。
「大使。そちらの国は、些細な手続きばかり気にするのか」
ハリド大使が動いた。あの方は、挨拶の時でさえ余分に一歩進まない。今日は長い衣装の袖をわずかに正すだけだった。
「手続きは、後で言葉を違えぬためにございます」
私は二国語の間を往復した。殿下が片手を振り、声を荒げる。
「ザフランのような小国が、わが王国に条件を付けるつもりか。港一つで栄えている国が、礼を忘れるとは」
訳しながら、私は用語帳に挟んだ指を抜いた。『港湾使用料』の頁を見つける必要がなくなった。寄港地を選び直せる条項を、殿下は読んでいないのだろうか。今から教えるには、もう遅い。
大使は私の訳を最後まで聞いてから口を開いた。
「殿下。ただいまのお言葉は、王国の公式見解と理解してよろしいでしょうか」
ここで王太子が「私個人の感想だ」と答えれば、まだ引き返せた。大使の質問はそのための道だった。私にも分かったし、広間の外務官たちは相次いで背筋を伸ばした。
殿下は胸の金鎖をつまんだ。
「もちろんだ。私は王太子だぞ」
私は訳した。相手国の記録係のペン先が、軽く音を立てる。大使はその部下へ合図を送り、部下が頁の端へ赤い紙片を差し込んだ。
「お返事を確かに承りました」
大使の声は低かった。怒りを隠しているのか、すでに商談を始めているのかは分からない。分かったのは、港の運営に関する協議へ、今夜の発言が持ち込まれるということだけだった。
「ほら、納得したではないか」
殿下は満足げに私を見る。
「納得されたかどうかは分かりません」
「何だと」
「『承った』とのお返事でした」
「同じことだろう」
同じなら、二つの言葉を使い分ける職業は必要ない。
私が次の発言を待っていると、ミレイユ嬢が小声で殿下へ何かを囁いた。殿下の顔に、妙案を得た人特有の明るさが戻る。
「私にはザフラン語に詳しい者がいる。余計な一言を足す通訳官は要らん」
「余計な一言はお足ししておりません」
「そういう口答えだ!」
殿下はミレイユ嬢の手を取り、前へ出した。
「今からは彼女に訳してもらう」
広間の中央で、二本のペンが同時に止まった。一つは私の。もう一つはザフランの記録係のものだ。
私は国王印の写しを取り出した。
「殿下。私の任命は国王陛下の御名でなされております。ご命令による担当変更はできません」
「では黙って立っていろ。ミレイユは私的に訳すだけだ」
「私的なご説明であれば、公式通訳は継続いたします」
「好きにしろ」
そうおっしゃるなら、私は好きな仕事をする。もっとも、好きで選んだ仕事が今夜のような仕事だと知っていたら、試験の日に一度は考え直したかもしれない。
*
ミレイユ嬢はザフランの王女へ、覚えたてらしい挨拶を送った。
発音は慎重で、一音ごとに小さな間が空く。王女も礼儀正しく返す。挨拶だけなら問題はなかった。私の隣で大使がふっと息を吐いたのは、そこまで見届けたからだろう。
「ね。通じますわ」
ミレイユ嬢は殿下へ笑いかけた。殿下は誇らしげにうなずく。
「ナディラ。これが、本当の国際親善というものだ」
私はその一言を訳した。王女はミレイユ嬢へ向き直り、ザフラン語で短い質問をした。
「どの港からこちらへいらしたの?」
ミレイユ嬢の唇が止まる。
私は口を開きかけたが、王女が軽く手を上げた。ミレイユ嬢から直接答えを聞きたい、という合図だ。本人も私を振り向かない。私は次の公式発言に備えて、ペンを持ち直した。
「ええと……良いお天気で」
ザフラン語の返事は、空についてのものだった。王女はうなずき、そこでは追及しなかった。
大使が殿下へ声をかける。
「本日の発言について、陛下へ改めて申し入れます。婚約は国王陛下のご承認まで現状を維持し、交易条約は今後の協議に委ねられるものと理解いたします」
私は訳した。
殿下は顔をしかめた。
「まだ婚約していると言いたいのか」
「正式な解消はこれから、という意味です」
「まったく、書類ばかりだな」
王女は大使の言葉を受け、ザフラン語で付け加えた。
「潮が変われば、船は港を選び直すでしょう」
交易国でよく使う言い回しだった。協定の条件が変わるなら、船の寄港地も変わる。私はペンを走らせながら王国語への訳を組み立てる。
ところが、私より早くミレイユ嬢が声を上げた。
「い、今……刃が変われば、剣を向け直す、と! 宣戦ですわ!」
潮と刃はザフラン語では一音だけ違う。最初の一語を聞き違えたため、後に続く「船」まで「剣」に結び付けてしまったのだろう。私の用語帳には、あの二語を区別する印を付けてある。まさか夜会で役立つとは思わなかった。
しかし広間の近衛は、教本を読んでいなかった。
王太子の後ろで金具が鳴り、警備隊長が剣の柄に手を掛ける。入口の近衛もそれにつられて半歩動いた。ザフランの護衛が王女の前へ出る。大使の記録係が帳面を抱えて後ずさった。
ミレイユ嬢は自分の発言が招いたことに気づき、扇子を口に当てた。殿下だけが彼女を守るように前へ出た。
「聞いたか! 向こうが先に脅してきたのだ」
「殿下、その訳は違います」
「お前はもう通訳ではない!」
「国王陛下の命による正式な担当変更は受けておりません」
「黙れと言っている!」
記録帳の右の頁には、まだ声にしていない正しい訳が書かれていた。今ここで黙れば、剣を抜く理由にされたのは王女の言葉になる。私的な誤訳を放置したまま、公式の記録に署名することもできない。
私は一歩だけ、広間の中央へ進んだ。
「宮廷通訳規程第三条により、誤訳を訂正いたします」
振り向いた近衛の剣の柄から、指がわずかに離れた。
「王女殿下は、武力の行使を告げておりません。『潮が変われば船は港を選び直す』。交易条件の再検討を示す言葉です」
ハリド大使が大きくうなずいた。
「そのとおりです。ザフラン王国はこの場で宣戦をしておりません」
双方の護衛が、互いの手元を見た。警備隊長が指を下ろすと、入口の近衛もそれに続く。抜かれなかった剣は、誰の血も見ずに済んだ。
殿下は私を睨みつけた。
「誤りだと? では彼女を辱めたのか!」
「私的な訳が誤っておりました。正式な記録には、正しい訳だけを残します」
奥の会談室へ走った侍従の靴音が聞こえる。国王陛下を呼びに行ったのだ。
私は記録帳を開いたまま待った。ページの上でインクの一滴が乾くまで、妙に長く感じられた。
*
国王陛下がお出ましになった時、広間では誰も剣を抜いておらず、誰も音楽を奏でていなかった。
楽団長は指揮棒を胸の前に立て、石像のように待っていた。彼は今夜、何度演奏を始めかけては止めただろう。職務の難しさでは、私といい勝負かもしれない。
「誰か、何が起きたか順序立てて話せ」
国王は出入口から広間の一段高い席へ上がり、宰相とともに客を見渡した。王冠をかぶっていない。商人代表との協議に出ていたため、礼装も夜会のものではなかった。それでも、広間の人々は一斉に頭を下げる。
「父上! ザフランの者が我々へ剣を向けると宣言しました!」
エドガー殿下だけは顔を上げたまま訴えた。
「誰が訳した」
「ミレイユです」
国王はミレイユ嬢へ視線を向ける。
「そなたは今夜の通訳官か」
「い、いいえ。ですが殿下のためにお手伝いを……」
「では、任命された通訳官はどこだ」
「こちらに」
私は一歩進み、任命状の写しと記録帳を見える高さに持った。
「ユリア・ベックです。通訳規程第三条による訂正は先ほど行いました。王女殿下は武力による攻撃を宣言しておりません」
宰相が私の横へ来て、王国語の記録の頁を確かめた。国王は大使にも発言を求めた。
「ザフラン王国の立場を聞こう」
ハリド大使は王女の前から動かず、きちんと頭を下げた。
「今夜、我が国が求めたのは婚約の正式な解消手続きと、港湾協定の協議です。いずれも武力行使の申し入れではございません」
私は訳した。大使の記録係は別の帳面を開き、同じ発言をこちらの宰相にも見せた。
「それなら、この騒ぎは何だ」
国王が尋ねる。殿下は間髪を入れずに答えた。
「通訳官が勝手に言葉を大げさにしたのです。最初から!」
私は帳面の端をつかんだ。紙が少し曲がり、すぐに手を緩める。
前にもこの言い方を聞いた。訳された発言は消せないのに、言った人だけがいくらでも言い直せると思っている。
「陛下。王太子殿下の発言と、私が付した訳を、両国の記録で照合していただけますか」
「許す。宰相」
宰相が手を上げると、王国側の外務官二人が進み出た。ザフランの記録係もその向かいへ立つ。片方の帳面を正しいと決めつけず、双方が同じ発言を聞き取ったかを確かめる。時間はかかるが、そのための記録だ。
「まず王女殿下の言葉から」
私は正訳を読み上げた。王女が原発言をもう一度口にすると、ザフランの記録係が速記の同じ箇所を示す。王国側の外務官も、私の訳文と照合した。
「『潮が変われば船は港を選び直す』。条件が変われば寄港先を再検討する、という意味でございます」
「ほら、やはり私を脅している!」
殿下が声を上げた。
「港を移すと言っているのだぞ」
国王は息子を見た。
「寄港地を他国へ移すというのは商いの話だ。剣を抜く話ではない。私が先ほどまで商人代表と協議していたのも、その港の条件だ。あの木箱は見本だ。船が来なくなれば、次の品は届かん」
「しかし……!」
「お前は婚約を破棄すると言ったのか」
「言いました。私はもうナディラとは……」
「承認した覚えはない」
殿下の口が開いたままになった。国王は宰相へ、婚約と交易条約の書類を明朝そろえるよう命じた。それから再び私へ向いた。
「ほかに、争いのもとになった発言は」
「ございます」
私は頁を一枚戻す。赤い紙片を差し込んだ、ザフラン側の記録係と同じ行だった。
「殿下は、ザフラン王国を『小国』と呼び、港一つで栄える国が礼を忘れたと述べられました。その後、ハリド大使より、王国の公式見解かとのご確認がありました」
「その返答は」
殿下が私の言葉を遮った。
「そんな細かいことを記録する必要はなかった! お前は私の言葉を曲げている!」
「でしたら、こちらの原発言を確認いたします」
私は殿下の側へ向き直った。いつもは視線を合わせるとすぐ目を伏せてしまう相手だが、今は右の頁を開いてまっすぐ見る。
「大使は『王国の公式見解ですか』とお尋ねになりました。その時、殿下は何とお答えになりましたか」
「私は……王太子だと言った」
「その前に『もちろんだ』とおっしゃいました。『もちろんだ。私は王太子だぞ』。両国の記録は一致しております」
殿下は大使を見た。大使は逃げ道を作ろうとする人へ、穏やかに問いを置いた。
「私が確認を求めた時、殿下は一度お考えになりました。ご自身で答えを選ぶ時間はございましたね」
「あれは……通訳がもっと言葉を丸めるべきだったのだ。私は王国の威厳を示したかっただけだ!」
「では、殿下が実際におっしゃった『小国』を、私が『大切な友好国』と訳せばよろしかったのでしょうか」
「そうだ!」
殿下の声が広間に響いた。
「王国の威厳が保てるだろう!」
宰相の羽根ペンが止まった。国王が長く目を閉じ、再び開く。
「エドガー。以前にも言ったはずだ。国の名で約束するなら、その言葉の責任を負えと。お前は他国の使節の前で、自分の言葉を偽らせようとしたのだな」
「偽るなどという言い方は――」
「その場で気に入らない言葉を選び、責任だけを他人へ渡したかった。そういう意味か」
殿下は父王へ手を伸ばしたが、答えが見つからないらしい。ミレイユ嬢が一歩近づき、声を上げた。
「殿下はただ、私との幸せを願っただけなのです!」
国王は彼女へ目を向けた。
「私が問うているのは、王国の名で行った外交上の発言だ。そなたとの縁談についてではない」
ミレイユ嬢は扇子を閉じた。あれほど自信に満ちていた声が出てこない。国王は怒鳴りもしなかった。
「そなたは正式な通訳ではなかった。学びの途中にある言葉を急いで用いたことは、失敗として正せばよい。だが、人が剣へ手を掛ける事態になったのを見たのなら、次は分からぬと申せ」
「……はい」
彼女は王太子の袖から手を離した。国王はそれ以上責めず、宰相に命じて彼女を使節団の近くから下がらせた。
残された殿下は、なお言った。
「父上。私は王太子です。国を代表する資格があります」
「国を代表する資格と、国王の承認なしに約束を壊す権限は別だ」
陛下は玉座に座る時の声で続けた。
「エドガー。今夜をもって王太子の指名を撤回する。王位継承の順序は改めて定める。それまで公務から退き、私の許可なく外交の席へ出てはならぬ。友好国を侮辱した言葉も、お前に代わって国王の名で撤回する。ただし、口にしなかったことにはできん」
広間のあちこちで、先ほどとは違うざわめきが起きた。金鎖をつまもうとした殿下の手が、胸の前で宙に止まる。
「たかが通訳のために、そこまで……!」
「通訳のためではない。お前のしたことのためだ」
国王は国の記録官に、その処分も書き取らせた。殿下は自分の発言が記録されるたび、私へ責任を押しつけようとした。今度は誰に頼むこともできず、自分の処分が文字になるのを見つめていた。
私は記録帳を閉じなかった。終わっていない言葉が、まだ残っている。
「ベック通訳官。正しく訂正しなければ、今夜の記録には宣戦布告が載るところだった。職務を果たしたことを、国王として認める」
「ありがとうございます、陛下」
私の隣で外務官が、頭を下げたまま短く息を吐いた。北の記録室へ送られる者を、今この場で決めているのではなさそうだった。
「ナディラ王女。王国として、今夜の非礼をお詫び申し上げる。婚約については、あなたご自身の意思も改めて確かめたい」
王女は私が訳し終えるのを待ち、静かに答えた。
「婚約を続ける意思はございません。ただし、私の国との約束を、私個人の婚約と同じように扱わないでいただきたいのです」
「もっともだ」
国王は大使へ顔を向けた。
「私も婚約の継続は求めない。双方の意思を踏まえ、正式な解消を明朝の文書で進めよう。優先寄港地についても、婚約と切り離して協議の席を設ける」
大使が初めて深く礼をした。私は両者の合意を、互いの言葉へ運ぶ。
その時、楽団長が小さく手を上げた。今度こそ弾いていいのか、国王に尋ねたいらしい。
「どうした」
「陛下。本日の祝賀曲は、婚約を祝う曲として用意しておりまして」
国王は数秒考えた。
「歌詞のない曲にしなさい」
楽団長は、今夜初めて晴れやかな顔で一礼した。
*
夜会が終わり、客が引き始めたころ、私は控え室の隅で記録を清書していた。国王からいただいた言葉がまだ耳に残っている。あの北の記録室への異動は、当面ないらしい。
机の横には、開いたままの用語帳がある。朝から確認していた『港湾使用料』の欄に、鉛筆で細い線を引いておいた。今夜、港の名は幾度も飛び交ったのに、税率を尋ねる者は一人もいなかった。準備した答えを使わずに済んだのだから、幸運だったのだろう。けれど、明朝はきっとこの頁が必要になる。私は帳面の角をそろえ、乾きかけたインクの瓶に栓をした。
そこへナディラ王女が歩み寄った。広間ではずっと母国語を使っていたのに、私の前では王国語に戻る。
「お疲れさま、ユリア。今夜の訳、最後まで正確だったわ」
「ありがとうございます。王女殿下が早くから王国語をお分かりだとは、殿下はお気づきでなかったようですね」
「ええ。『無愛想』も『小国』も、全部聞いていたの」
少し離れたところを護衛を伴って通りかかったエドガー殿下が、足を止めた。
「……全部?」
王女は、先ほどの夜会と同じ丁寧な礼をした。
「はい。殿下。通訳官のお言葉だけではなく、殿下ご自身のお言葉も」
殿下の唇が何度か動いた。自分の言葉を柔らかくするよう頼める人は、もう近くにいなかった。護衛に促され、彼は廊下の向こうへ歩いていった。
王女は私の机に目を落とした。
「ザフランの通訳局では、いま人を探しているの。あなたが来てくだされば心強いけれど」
思わず声が出そうになった。北の記録室と違って、ザフランの港町は暖かいと聞く。だが、宮廷の後始末にもまだ私の仕事は残っているし、今夜の勢いで決めたくはなかった。
「お返事は明日、正確に申し上げます」
「ええ。足さず、引かずにね」
王女が去ったあと、私は清書の最後の頁を確かめた。横には、双方で確認した原発言と訳文が並んでいる。殿下の命令も、王女の返事も、失われていない。
清書の末尾には、規程どおり「以上」とだけ記した。私は用語帳の余白に「足さず、引かず」と書き添え、速記帳の留め金を掛けた。




