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「婚約破棄は柔らかく訳せ」と命じられたので、王太子殿下の失言を全部お届けしました

作者: MIYA
掲載日:2026/10/16

「通訳官。今夜の私の言葉は、できるだけ柔らかく訳せ」


 王太子殿下からそう命じられたのは、夜会が始まる三分前だった。


 私は手元の用語帳を閉じた。『港湾使用料』の訳語を確認していたところである。婚約披露の夜会でなぜ港湾使用料が必要なのかと問われれば、私にも答えに困る。ただ、ザフラン王国との婚約は海峡(かいきょう)の交易協定と一緒に結ばれたものだ。協定には、婚約が一方的に解消された場合、ザフラン側が優先寄港地を選び直せる条項まである。宮廷通訳官は、花嫁(はなよめ)の宝石より港の税率を覚えておいた方が役に立つ。


「どのようなお言葉を予定しておいでですか」


「そこはお前が考えろ。私の気持ちを損なわず、向こうの機嫌も損なわないようにな」


 両方を満たす言葉を思いついたなら、通訳官より外交官になった方がいい。


「恐れ入ります。公式通訳では、発言の趣旨と語調を変えられません」


「少しくらい融通を利かせろ」


「でしたら、最初から柔らかいお言葉をお選びください」


 殿下の眉(まゆ)が動いた。私は用語帳の下から速記帳を出す。革の表紙を留める真鍮(しんちゅう)の金具が、指に冷たかった。


 見開きの左側は原発言の速記、右側は訳した内容の控え。短い発言ごとに話者と通訳官が交互に話す、いつもの逐次通訳(ちくじつうやく)だ。最初の頁(ページ)には国王印の任命状の写しを挟んでいる。公式通訳は国王の名で任命され、王太子が気に入らないからという理由では途中交代できない。宮廷通訳規程第三条には、発言の意味と語調を足さず引かず伝えること、誤訳を聞けばその場で訂正(ていせい)することが記されていた。言葉を別の言語にする以上、単語を同じ順序で置き換えるわけではない。けれど、相手に届く意味まで変える権限は私にない。


「その帳面をしまえ」


「記録なしでの公式通訳はできません」


「私は王太子だぞ」


「存じております。殿下への任命も陛下の御名によるものでございますから」


 この国の王太子は、生まれた順だけで決まる地位ではない。国王が後継者として指名し、取り消せるのも国王だ。私の職よりはるかに重いが、任命者が同じという一点だけは変わらない。


 殿下は鼻を鳴らした。


「前にも外務卿(がいむきょう)に口答えして、北の記録室に飛ばされかけたそうだな」


 胸の奥で、重い物が一つ落ちた。あの時の外務卿(がいむきょう)は隣国の贈答品を「安物」と言った。私はそのとおり訳した。あとで外務卿(がいむきょう)が「廉価(れんか)な品と申したはずだ」と言い張り、速記帳を三日間調べられた。北の記録室は冬になるとインクが凍ると聞く。


「覚えております」


「ならば賢く立ち回れ」


「努めます」


 何に努めるかまでは、殿下も尋ねなかった。


 奥から鐘(かね)の試し打ちが一つ聞こえた。侍従(じじゅう)が呼びに来ると、殿下は自分の襟元(えりもと)を整え、胸に下げた金鎖を指ではじいた。


「今夜が済めば、私も自由だ」


「おめでとうございます、と申し上げてよろしい件でしょうか」


「当然だ。ナディラとの婚約は終わりにする」


 私の筆先が止まった。


 婚約解消には両国への正式通告と国王の承認がいる。王太子が夜会で口にしたところで、契約書が勝手に燃えるわけではない。


「本日の議題に、そのような変更はございません」


「議題は私が決める」


 殿下はそう言って広間へ向かった。公式の議題を決めるのは国王と両国の外務官である。私は用語帳を持ち直し、港湾使用料の頁(ページ)に指を挟んだ。同じ見開きには「潮」と「刃(やいば)」を区別する発音の印も付けてある。ザフラン語を習い始めた人が、よく取り違える二語だった。


*


 ザフラン第二王女ナディラ殿下は、控え室へ続く廊下(ろうか)で私を待っていた。


 銀色の刺繍(ししゅう)が入った濃紺(のうこん)の衣装に、真珠(しんじゅ)を一粒だけ留めている。隣国の正装だ。彼女の足元には、訪問団が置いた木箱が三つ。交易品の見本らしく、封には港の印が押されていた。


「ユリア・ベック」


 呼ばれたのは、私の国の言葉だった。


 立ち止まると、王女は少し首を傾げた。


「今夜もあなたが通訳してくださるのね」


「はい。国王陛下のご命令でございます」


「よかった。あなたの訳し方、好きよ」


 私は廊下(ろうか)の左右を見た。ザフランの王族は正式な発言を母国語で行う。殿下は挨拶以外(あいさついがい)の王国語を話さないと、王太子は信じている。だがこの人の発音には、外国語を探り探り口にする迷いがなかった。


「わたくしどもの言葉を、いつから」


「十四の頃から。教科書を間違えて買ったのが始まりだったの」


「間違えて」


「海図が欲しかったのよ。棚(たな)を一つ間違えて、文法書を持って帰ってしまった」


 それで七年間学んだのなら、棚(たな)の店主は表彰されるべきだろう。


 王女は木箱に目をやり、それから声を低くした。


「私の言葉も、あの方の言葉も、足さず引かずにお願い。今夜は、特に」


「承知しております」


「お願いする立場の私が言うことではないけれど、あなた、困ったらちゃんと断れる?」


「断るべきことでしたら」


「そう。それならいいわ」


 王女は広間の扉(とびら)の前で一度だけ振り向き、私に小さく笑いかけた。先ほどのやり取りを知らない殿下なら、その笑顔を婚約への未練と受け取るだろう。


 私は女官に先導され、通訳官の立ち位置へ戻った。左に王太子、右に王女。ザフラン大使ハリドは王女の一歩後ろに立っている。彼の側には細長い箱を抱えた記録係がいた。中身はザフラン式の速記具だろう。こちらの帳面と、あちらの控え。互いに聞き取った原発言を照合できるよう、今夜は両国の記録係が控えている。


*


 国王陛下は奥の会談室で商人代表との協議中だった。夜会の挨拶(あいさつ)は王太子が代行する。広間の大きな扉(とびら)が閉じられ、楽団の演奏が止まった。


 殿下は一歩前に出た。


「諸君。本日は大切な知らせがある」


 私は訳した。向かい側で王女が顎(あご)を上げる。


「私はナディラ王女との婚約を破棄する」


 右側の頁(ページ)に訳を書き終えると、ザフラン側の記録係も同じ速さで羽根ペンを走らせていた。


 扇子(せんす)が一斉に開き、閉じた。給仕が盆(ぼん)を持ったまま立ち止まる。今の一文は、夜会の挨拶(あいさつ)としてはだいぶ変わっている。婚約を終える手続きは何一つ進んでいないのに、披露だけは済んだ。


「その理由も伝えろ」


「続けてくださいませ」


「ナディラは無愛想で、私への愛情を一度も示さなかった。いつ会っても笑わず、質問には短く答えるだけだ」


 私は、冷淡さを責める原発言と同じ程度にきつい言葉を選んだ。ザフラン語には似た悪口がいくつかある。顔立ちや生まれまで侮辱(ぶじょく)する語なら、殿下が言っていない嘘(うそ)を足すことになる。


 訳し終えると、王女は一拍置いて答えた。


「ご不満をお聞かせくださり、ありがとうございます。私の答えが短いのは、殿下のお尋ねがいつも『私を愛するか』の一つだけでしたから」


 私は王国語で、そのまま伝えた。


 笑ったのは、扇子(せんす)を閉じ損ねた年配の婦人だった。隣の紳士(しんし)が咳(せき)をする。少し遅れて、舞踏の相手を待っていた若者がグラスを口元へ運び、まだ中身を飲んでいないことに気づいた。


 殿下は微笑んだ。


「ようやく謝ったか」


「謝罪ではございません」


「何だと」


「ご不満を聞いたことへのお礼と、回答が短かった理由でございます」


「もっと柔らかく訳せと言っただろう」


 私は余白に日時を記した。王女は肩を揺らさず、じっとこちらを見ている。


「殿下、今のお言葉も訳しますか」


「いや、それは訳すな」


「公式の発言には含めません。私へのご指示ですね」


「いちいち確認するな!」


 この叫びだけは、ザフランの客にだって意味が伝わりそうだった。私は訳さず、記録帳の隅へ小さく「通訳への指示」と書いた。


 楽団長が指揮棒を持ち上げていいのか判断できず、楽譜(がくふ)を一枚だけめくった。めくった先の曲は、お祝いの行進曲だったらしい。彼は元の頁(ページ)へ戻した。


 殿下は広間を見回し、さらに声を張った。


「これからは、私の望む相手を紹介する!」


 その後ろで、ミレイユ嬢(じょう)が一歩進んだ。私は筆の握り方を直す。殿下が選んだ女性の名まで、両国の記録に載ることになる。

*


「こちらがミレイユ・アルノー男爵令嬢(だんしゃくれいじょう)。私の心を理解する女性だ」


 エドガー殿下が手を差し出すと、ミレイユ嬢(じょう)は淡い桃色(ももいろ)の裾(すそ)をつまみ、王女に礼をした。


 そこは、先ほどまで婚約者が立つはずだった位置だ。王女は半歩横へずれて場所を空けた。ミレイユ嬢(じょう)はそのまま殿下の隣へ収まり、桃色(ももいろ)の裾(すそ)を整える。ハリド大使は二人の間にできたわずかな空間を見て、何も言わなかった。


「妃(ひ)としてふさわしいのは、彼女だ。身分は私が補えばよい」


 私は訳した。王女の表情は変わらなかった。


「殿下の好みは尊重いたします。私の身分はどうするのです?」


「は?」


「あなたが『身分を補う』とおっしゃった部分でございます」


 私が説明すると、殿下は手を振った。


「向こうの身分の話ではない。ミレイユのことだ」


「そのようにお伝えしました」


「ではなぜ聞き返す」


 王女の言葉を訳す。


「では、私の身分は今後どう扱われますか、と王女殿下はお尋ねです。婚約の手続きが残っておりますので」


「私が破棄すると言った。それで終わりだ」


 ザフラン側の記録係が顔を上げた。


 王女は穏(おだ)やかにうなずく。


「それでは、正式な通告書と陛下の承認をお待ちしています。それまで私は今夜の国賓(こくひん)でしょうか。それとも帰りの船を手配した方がよろしいでしょうか」


 殿下は考える顔をした。私は答えを待つ。こんなときに上手な答えを助言するのは通訳官の仕事ではない。それに、私にだって思いつかない。


「大使。そちらの国は、些細(ささい)な手続きばかり気にするのか」


 ハリド大使が動いた。あの方は、挨拶(あいさつ)の時でさえ余分に一歩進まない。今日は長い衣装の袖(そで)をわずかに正すだけだった。


「手続きは、後で言葉を違えぬためにございます」


 私は二国語の間を往復した。殿下が片手を振り、声を荒げる。


「ザフランのような小国が、わが王国に条件を付けるつもりか。港一つで栄えている国が、礼を忘れるとは」


 訳しながら、私は用語帳に挟んだ指を抜いた。『港湾使用料』の頁(ページ)を見つける必要がなくなった。寄港地を選び直せる条項を、殿下は読んでいないのだろうか。今から教えるには、もう遅い。


 大使は私の訳を最後まで聞いてから口を開いた。


「殿下。ただいまのお言葉は、王国の公式見解と理解してよろしいでしょうか」


 ここで王太子が「私個人の感想だ」と答えれば、まだ引き返せた。大使の質問はそのための道だった。私にも分かったし、広間の外務官たちは相次いで背筋を伸ばした。


 殿下は胸の金鎖をつまんだ。


「もちろんだ。私は王太子だぞ」


 私は訳した。相手国の記録係のペン先が、軽く音を立てる。大使はその部下へ合図を送り、部下が頁(ページ)の端へ赤い紙片を差し込んだ。


「お返事を確かに承りました」


 大使の声は低かった。怒りを隠しているのか、すでに商談を始めているのかは分からない。分かったのは、港の運営に関する協議へ、今夜の発言が持ち込まれるということだけだった。


「ほら、納得したではないか」


 殿下は満足げに私を見る。


「納得されたかどうかは分かりません」


「何だと」


「『承った』とのお返事でした」


「同じことだろう」


 同じなら、二つの言葉を使い分ける職業は必要ない。


 私が次の発言を待っていると、ミレイユ嬢(じょう)が小声で殿下へ何かを囁(ささや)いた。殿下の顔に、妙案を得た人特有の明るさが戻る。


「私にはザフラン語に詳しい者がいる。余計な一言を足す通訳官は要らん」


「余計な一言はお足ししておりません」


「そういう口答えだ!」


 殿下はミレイユ嬢(じょう)の手を取り、前へ出した。


「今からは彼女に訳してもらう」


 広間の中央で、二本のペンが同時に止まった。一つは私の。もう一つはザフランの記録係のものだ。


 私は国王印の写しを取り出した。


「殿下。私の任命は国王陛下の御名でなされております。ご命令による担当変更はできません」


「では黙って立っていろ。ミレイユは私的に訳すだけだ」


「私的なご説明であれば、公式通訳は継続いたします」


「好きにしろ」


 そうおっしゃるなら、私は好きな仕事をする。もっとも、好きで選んだ仕事が今夜のような仕事だと知っていたら、試験の日に一度は考え直したかもしれない。


*


 ミレイユ嬢(じょう)はザフランの王女へ、覚えたてらしい挨拶(あいさつ)を送った。


 発音は慎重で、一音ごとに小さな間が空く。王女も礼儀正しく返す。挨拶(あいさつ)だけなら問題はなかった。私の隣で大使がふっと息を吐(は)いたのは、そこまで見届けたからだろう。


「ね。通じますわ」


 ミレイユ嬢(じょう)は殿下へ笑いかけた。殿下は誇らしげにうなずく。


「ナディラ。これが、本当の国際親善というものだ」


 私はその一言を訳した。王女はミレイユ嬢(じょう)へ向き直り、ザフラン語で短い質問をした。


「どの港からこちらへいらしたの?」


 ミレイユ嬢(じょう)の唇(くちびる)が止まる。


 私は口を開きかけたが、王女が軽く手を上げた。ミレイユ嬢(じょう)から直接答えを聞きたい、という合図だ。本人も私を振り向かない。私は次の公式発言に備えて、ペンを持ち直した。


「ええと……良いお天気で」


 ザフラン語の返事は、空についてのものだった。王女はうなずき、そこでは追及しなかった。


 大使が殿下へ声をかける。


「本日の発言について、陛下へ改めて申し入れます。婚約は国王陛下のご承認まで現状を維持し、交易条約は今後の協議に委ねられるものと理解いたします」


 私は訳した。


 殿下は顔をしかめた。


「まだ婚約していると言いたいのか」


「正式な解消はこれから、という意味です」


「まったく、書類ばかりだな」


 王女は大使の言葉を受け、ザフラン語で付け加えた。


「潮が変われば、船は港を選び直すでしょう」


 交易国でよく使う言い回しだった。協定の条件が変わるなら、船の寄港地も変わる。私はペンを走らせながら王国語への訳を組み立てる。


 ところが、私より早くミレイユ嬢(じょう)が声を上げた。


「い、今……刃(やいば)が変われば、剣を向け直す、と! 宣戦ですわ!」


 潮と刃(やいば)はザフラン語では一音だけ違う。最初の一語を聞き違えたため、後に続く「船」まで「剣」に結び付けてしまったのだろう。私の用語帳には、あの二語を区別する印を付けてある。まさか夜会で役立つとは思わなかった。


 しかし広間の近衛は、教本を読んでいなかった。


 王太子の後ろで金具が鳴り、警備隊長が剣の柄に手を掛ける。入口の近衛もそれにつられて半歩動いた。ザフランの護衛が王女の前へ出る。大使の記録係が帳面を抱えて後ずさった。


 ミレイユ嬢(じょう)は自分の発言が招いたことに気づき、扇子(せんす)を口に当てた。殿下だけが彼女を守るように前へ出た。


「聞いたか! 向こうが先に脅してきたのだ」


「殿下、その訳は違います」


「お前はもう通訳ではない!」


「国王陛下の命による正式な担当変更は受けておりません」


「黙れと言っている!」


 記録帳の右の頁(ページ)には、まだ声にしていない正しい訳が書かれていた。今ここで黙れば、剣を抜く理由にされたのは王女の言葉になる。私的な誤訳を放置したまま、公式の記録に署名することもできない。


 私は一歩だけ、広間の中央へ進んだ。


「宮廷通訳規程第三条により、誤訳を訂正(ていせい)いたします」


 振り向いた近衛の剣の柄から、指がわずかに離れた。


「王女殿下は、武力の行使を告げておりません。『潮が変われば船は港を選び直す』。交易条件の再検討を示す言葉です」


 ハリド大使が大きくうなずいた。


「そのとおりです。ザフラン王国はこの場で宣戦をしておりません」


 双方の護衛が、互いの手元を見た。警備隊長が指を下ろすと、入口の近衛もそれに続く。抜かれなかった剣は、誰の血も見ずに済んだ。


 殿下は私を睨(にら)みつけた。


「誤りだと? では彼女を辱(はずかし)めたのか!」


「私的な訳が誤っておりました。正式な記録には、正しい訳だけを残します」


 奥の会談室へ走った侍従(じじゅう)の靴音が聞こえる。国王陛下を呼びに行ったのだ。


 私は記録帳を開いたまま待った。ページの上でインクの一滴が乾くまで、妙に長く感じられた。

*


 国王陛下がお出ましになった時、広間では誰も剣を抜いておらず、誰も音楽を奏でていなかった。


 楽団長は指揮棒を胸の前に立て、石像のように待っていた。彼は今夜、何度演奏を始めかけては止めただろう。職務の難しさでは、私といい勝負かもしれない。


「誰か、何が起きたか順序立てて話せ」


 国王は出入口から広間の一段高い席へ上がり、宰相(さいしょう)とともに客を見渡した。王冠(おうかん)をかぶっていない。商人代表との協議に出ていたため、礼装も夜会のものではなかった。それでも、広間の人々は一斉に頭を下げる。


「父上! ザフランの者が我々へ剣を向けると宣言しました!」


 エドガー殿下だけは顔を上げたまま訴えた。


「誰が訳した」


「ミレイユです」


 国王はミレイユ嬢(じょう)へ視線を向ける。


「そなたは今夜の通訳官か」


「い、いいえ。ですが殿下のためにお手伝いを……」


「では、任命された通訳官はどこだ」


「こちらに」


 私は一歩進み、任命状の写しと記録帳を見える高さに持った。


「ユリア・ベックです。通訳規程第三条による訂正(ていせい)は先ほど行いました。王女殿下は武力による攻撃を宣言しておりません」


 宰相(さいしょう)が私の横へ来て、王国語の記録の頁(ページ)を確かめた。国王は大使にも発言を求めた。


「ザフラン王国の立場を聞こう」


 ハリド大使は王女の前から動かず、きちんと頭を下げた。


「今夜、我が国が求めたのは婚約の正式な解消手続きと、港湾協定の協議です。いずれも武力行使の申し入れではございません」


 私は訳した。大使の記録係は別の帳面を開き、同じ発言をこちらの宰相(さいしょう)にも見せた。


「それなら、この騒ぎは何だ」


 国王が尋ねる。殿下は間髪を入れずに答えた。


「通訳官が勝手に言葉を大げさにしたのです。最初から!」


 私は帳面の端をつかんだ。紙が少し曲がり、すぐに手を緩める。


 前にもこの言い方を聞いた。訳された発言は消せないのに、言った人だけがいくらでも言い直せると思っている。


「陛下。王太子殿下の発言と、私が付した訳を、両国の記録で照合していただけますか」


「許す。宰相(さいしょう)」


 宰相(さいしょう)が手を上げると、王国側の外務官二人が進み出た。ザフランの記録係もその向かいへ立つ。片方の帳面を正しいと決めつけず、双方が同じ発言を聞き取ったかを確かめる。時間はかかるが、そのための記録だ。


「まず王女殿下の言葉から」


 私は正訳を読み上げた。王女が原発言をもう一度口にすると、ザフランの記録係が速記の同じ箇所(かしょ)を示す。王国側の外務官も、私の訳文と照合した。


「『潮が変われば船は港を選び直す』。条件が変われば寄港先を再検討する、という意味でございます」


「ほら、やはり私を脅している!」


 殿下が声を上げた。


「港を移すと言っているのだぞ」


 国王は息子を見た。


「寄港地を他国へ移すというのは商いの話だ。剣を抜く話ではない。私が先ほどまで商人代表と協議していたのも、その港の条件だ。あの木箱は見本だ。船が来なくなれば、次の品は届かん」


「しかし……!」


「お前は婚約を破棄すると言ったのか」


「言いました。私はもうナディラとは……」


「承認した覚えはない」


 殿下の口が開いたままになった。国王は宰相(さいしょう)へ、婚約と交易条約の書類を明朝そろえるよう命じた。それから再び私へ向いた。


「ほかに、争いのもとになった発言は」


「ございます」


 私は頁(ページ)を一枚戻す。赤い紙片を差し込んだ、ザフラン側の記録係と同じ行だった。


「殿下は、ザフラン王国を『小国』と呼び、港一つで栄える国が礼を忘れたと述べられました。その後、ハリド大使より、王国の公式見解かとのご確認がありました」


「その返答は」


 殿下が私の言葉を遮(さえぎ)った。


「そんな細かいことを記録する必要はなかった! お前は私の言葉を曲げている!」


「でしたら、こちらの原発言を確認いたします」


 私は殿下の側へ向き直った。いつもは視線を合わせるとすぐ目を伏(ふ)せてしまう相手だが、今は右の頁(ページ)を開いてまっすぐ見る。


「大使は『王国の公式見解ですか』とお尋ねになりました。その時、殿下は何とお答えになりましたか」


「私は……王太子だと言った」


「その前に『もちろんだ』とおっしゃいました。『もちろんだ。私は王太子だぞ』。両国の記録は一致しております」


 殿下は大使を見た。大使は逃げ道を作ろうとする人へ、穏(おだ)やかに問いを置いた。


「私が確認を求めた時、殿下は一度お考えになりました。ご自身で答えを選ぶ時間はございましたね」


「あれは……通訳がもっと言葉を丸めるべきだったのだ。私は王国の威厳を示したかっただけだ!」


「では、殿下が実際におっしゃった『小国』を、私が『大切な友好国』と訳せばよろしかったのでしょうか」


「そうだ!」


 殿下の声が広間に響いた。


「王国の威厳が保てるだろう!」


 宰相(さいしょう)の羽根ペンが止まった。国王が長く目を閉じ、再び開く。


「エドガー。以前にも言ったはずだ。国の名で約束するなら、その言葉の責任を負えと。お前は他国の使節の前で、自分の言葉を偽らせようとしたのだな」


「偽るなどという言い方は――」


「その場で気に入らない言葉を選び、責任だけを他人へ渡したかった。そういう意味か」


 殿下は父王へ手を伸ばしたが、答えが見つからないらしい。ミレイユ嬢(じょう)が一歩近づき、声を上げた。


「殿下はただ、私との幸せを願っただけなのです!」


 国王は彼女へ目を向けた。


「私が問うているのは、王国の名で行った外交上の発言だ。そなたとの縁談についてではない」


 ミレイユ嬢(じょう)は扇子(せんす)を閉じた。あれほど自信に満ちていた声が出てこない。国王は怒鳴りもしなかった。


「そなたは正式な通訳ではなかった。学びの途中にある言葉を急いで用いたことは、失敗として正せばよい。だが、人が剣へ手を掛ける事態になったのを見たのなら、次は分からぬと申せ」


「……はい」


 彼女は王太子の袖(そで)から手を離した。国王はそれ以上責めず、宰相(さいしょう)に命じて彼女を使節団の近くから下がらせた。


 残された殿下は、なお言った。


「父上。私は王太子です。国を代表する資格があります」


「国を代表する資格と、国王の承認なしに約束を壊す権限は別だ」


 陛下は玉座に座る時の声で続けた。


「エドガー。今夜をもって王太子の指名を撤回する。王位継承の順序は改めて定める。それまで公務から退き、私の許可なく外交の席へ出てはならぬ。友好国を侮辱(ぶじょく)した言葉も、お前に代わって国王の名で撤回する。ただし、口にしなかったことにはできん」


 広間のあちこちで、先ほどとは違うざわめきが起きた。金鎖をつまもうとした殿下の手が、胸の前で宙に止まる。


「たかが通訳のために、そこまで……!」


「通訳のためではない。お前のしたことのためだ」


 国王は国の記録官に、その処分も書き取らせた。殿下は自分の発言が記録されるたび、私へ責任を押しつけようとした。今度は誰に頼むこともできず、自分の処分が文字になるのを見つめていた。


 私は記録帳を閉じなかった。終わっていない言葉が、まだ残っている。


「ベック通訳官。正しく訂正(ていせい)しなければ、今夜の記録には宣戦布告が載るところだった。職務を果たしたことを、国王として認める」


「ありがとうございます、陛下」


 私の隣で外務官が、頭を下げたまま短く息を吐(は)いた。北の記録室へ送られる者を、今この場で決めているのではなさそうだった。


「ナディラ王女。王国として、今夜の非礼をお詫(わ)び申し上げる。婚約については、あなたご自身の意思も改めて確かめたい」


 王女は私が訳し終えるのを待ち、静かに答えた。


「婚約を続ける意思はございません。ただし、私の国との約束を、私個人の婚約と同じように扱わないでいただきたいのです」


「もっともだ」


 国王は大使へ顔を向けた。


「私も婚約の継続は求めない。双方の意思を踏まえ、正式な解消を明朝の文書で進めよう。優先寄港地についても、婚約と切り離して協議の席を設ける」


 大使が初めて深く礼をした。私は両者の合意を、互いの言葉へ運ぶ。


 その時、楽団長が小さく手を上げた。今度こそ弾いていいのか、国王に尋ねたいらしい。


「どうした」


「陛下。本日の祝賀曲は、婚約を祝う曲として用意しておりまして」


 国王は数秒考えた。


「歌詞のない曲にしなさい」


 楽団長は、今夜初めて晴れやかな顔で一礼した。


*


 夜会が終わり、客が引き始めたころ、私は控え室の隅で記録を清書していた。国王からいただいた言葉がまだ耳に残っている。あの北の記録室への異動は、当面ないらしい。


 机の横には、開いたままの用語帳がある。朝から確認していた『港湾使用料』の欄(らん)に、鉛筆(えんぴつ)で細い線を引いておいた。今夜、港の名は幾度も飛び交ったのに、税率を尋ねる者は一人もいなかった。準備した答えを使わずに済んだのだから、幸運だったのだろう。けれど、明朝はきっとこの頁(ページ)が必要になる。私は帳面の角をそろえ、乾きかけたインクの瓶に栓(せん)をした。


 そこへナディラ王女が歩み寄った。広間ではずっと母国語を使っていたのに、私の前では王国語に戻る。


「お疲れさま、ユリア。今夜の訳、最後まで正確だったわ」


「ありがとうございます。王女殿下が早くから王国語をお分かりだとは、殿下はお気づきでなかったようですね」


「ええ。『無愛想』も『小国』も、全部聞いていたの」


 少し離れたところを護衛を伴って通りかかったエドガー殿下が、足を止めた。


「……全部?」


 王女は、先ほどの夜会と同じ丁寧(ていねい)な礼をした。


「はい。殿下。通訳官のお言葉だけではなく、殿下ご自身のお言葉も」


 殿下の唇(くちびる)が何度か動いた。自分の言葉を柔らかくするよう頼める人は、もう近くにいなかった。護衛に促され、彼は廊下(ろうか)の向こうへ歩いていった。


 王女は私の机に目を落とした。


「ザフランの通訳局では、いま人を探しているの。あなたが来てくだされば心強いけれど」


 思わず声が出そうになった。北の記録室と違って、ザフランの港町は暖かいと聞く。だが、宮廷の後始末にもまだ私の仕事は残っているし、今夜の勢いで決めたくはなかった。


「お返事は明日、正確に申し上げます」


「ええ。足さず、引かずにね」


 王女が去ったあと、私は清書の最後の頁(ページ)を確かめた。横には、双方で確認した原発言と訳文が並んでいる。殿下の命令も、王女の返事も、失われていない。


 清書の末尾には、規程どおり「以上」とだけ記した。私は用語帳の余白に「足さず、引かず」と書き添(そ)え、速記帳の留め金を掛けた。

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― 新着の感想 ―
面白かったです。足さず引かずというのも分かります。真意がわからなくなりますからね。昔の話ですが、設備保全の仕事をしていて、米国製の装置を使おうとして商社が和訳した取扱説明書を見て操作していたけど、上手…
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