表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
長夜将明

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

87/91

第八十三章

 暗い。


 想像を絶する暗さだ。


 カロンが深海の色に慣れていなければ、きっと慌ててすぐに泳ぎ去っていただろう。


「こんにちは、小さな者よ」


 暗闇から声が聞こえた。長い眠りから覚めたばかりのような、気だるい声音だ。


「迷子かい?」


 二つの微かな光が闇の中で輝き、開いたり閉じたりする。まるで星が瞬いているようだ。


「私だ」


 カロンの声は平静だ。


「おお——」


 声が語尾を引き伸ばす。獲物を認めた後の愉悦を帯びて。


「どうやら私の愛しいカロン様じゃないか。何の風が吹いておいでなすった?」


「久しぶりだな、ステュクス」


 カロンは彼女の言葉に乗らなかった。


「頼みがあって来た」


「頼み?」


 ステュクスの声に笑みが混じる。


「私が忙しいのはご存知でしょう。このところずっと暇がなくてね」


「忙しい?」


 カロンの眉が上がった。


「ここで寝ているだけで、どれだけ忙しいっていうんだ?」


「深海で生き延びるには、飢えたら食い、眠くなったら眠る。それ以外の活動は——」


 声が一瞬間止まる。まるで何かを味わっているかのようだ。


「無意味にエネルギーを消費しているだけさ」


「お前が何を言おうと、私の背中をこっそり触るのはやめろ」


 カロンは逆手に一掴み、いつの間にか背後に回っていたその手首を正確に掴んだ。


「ふふふ」


 ステュクスの笑い声が彼女の耳の後ろから聞こえる。湿った吐息を伴って。


「深海の生物は、光るものが大好きだって知ってるかい?だってそれが一番美味しい餌だからね——」


 彼女の視線はカロンの首筋の古い傷跡に留まる。傷跡の奥深くで、あの神の欠片の骨髄が幽かに輝いている。


 カロンの指先が微かに強くなる。


 あの傷跡。あの骨髄。


 彼女は遠い昔のことを思い出していた。


 あのエルフの連中が彼女を海に投げ込んだ時、自分は死ぬんだと思った。


 尾びれを切り取られ、血が海水を暗赤色に染め、体温が傷口から少しずつ漏れ出ていた。


 彼女は沈んでいく。長く、長く。


 そして彼女はあの目を見た。


 真っ黒で、星の点が瞬いている。


 あの口が開かれた時、彼女は思った——死とはこういうものなのか、と。


 しかし彼女の手は動いた。抵抗ではない。生存への渇望だ。


 彼女は死にたくなかった。まだ終えていないことがあった。


 あの電流はその瞬間から始まった。


 彼女の体から生まれたわけではない。もっと遠くから来たものだ。何かに導かれた稲妻のように、消えかけていた彼女の意識に正確に打ち込まれた。


 彼女は自分の体が急に縮むのを感じた。水に溺れた心臓が電気ショックを受けて再び動き出すように——そして流動体が彼女の体内から溢れ出し、彼女を絡めていた触手を断ち切り、彼女を噛んでいたあの口を押し開けた。


 後になって彼女は知った。何かの力が彼女を選んだのだと。


 しかし彼女はいつも思っている。自分の「死にたくない」という想いが先に何かを掴み、それからあの電流が来たのだと。


 彼女はこれまで、この詳細を誰にも話したことがない。


 あの記憶を読む霧のような女が一瞬だけ覗き見たが、それも一瞬だけだった。彼女は説明しなかったし、相手も問い詰めなかった。


 彼女は説明したくなかった。その必要もないと思っている。


 そんなことを話せば、同情を買っているように聞こえる。彼女には同情はいらない。


 彼女が必要なのは、みんなにただ一つだけ知ってもらうことだ——彼女は生き延びた。彼女は強くなった。それで十分だ。


 そして今、彼女はここに立ち、同じ口に直面している。


「まだ私を食いたいのか?」


 カロンの指が強くなる。


「よし、今お前の腕をねじ切ってやる」


「おいおい!やめてよ!」


 ステュクスの声が急に柔らかくなり、哀願の色が混じる。


「ちょっと冗談を言っただけだよ。ねじ切られたら、私もう生きていけない」


 彼女は闇の中から身を乗り出す。


 深紫色の肌が微かな光の中に湿った光沢を放ち、桃色の長い髪が触手のように彼女の背後に漂い、その間を時折細かな蛍光が走る。


 彼女の下半身は無数の細長い触手で、それぞれが忙しそうに蠢き、上半身をいっそう小さく見せている。


「こんなに触手があるんじゃないか?」


 カロンは一瞥した。


「こいつらはうっかり屋でね」


 ステュクスは手を引っ込め、うつむいて自分のあの落ち着かない触手たちを見る。


「どれだけ私がもう少し遊びたかった獲物を、こいつらが引き裂いてしまったか、お分かりになりませんよ」


「つまり、やっぱり手伝わないってことか?」


「手伝いたくないわけじゃないんだ」


 ステュクスは顔を上げる。その真っ黒な瞳の奥で、細かな星の点が微かに瞬いている。


「戦争なんてものは、あなたのような強大な人魚の族長がいれば十分じゃないか?」


「お前、陸の上のことまで知ってるのか」


「あなたが現れる前から——」


 ステュクスの声に、微かな誇りが浮かぶ。


「私が深海の覇者だって名声は、伊達じゃないんだよ」


「しかし私だけでは、全く足りない」


「どうした?」


 ステュクスは首をかしげる。それらの触手も一緒に揺れる。


「下半身が馬で上半身が甲冑の鉄屑野郎が怖いのか?」


「それも知ってるのか」


「まさかカロン様にも怖いものがあるとはね?」


「怖いわけじゃない」


 カロンの声が冷たくなる。


「私はこれまで、怖いと思ったことは一度もない」


「死以外は、だろ?」


 ステュクスは軽く笑い、あの星の点の目を細める。


「あの時、私があなたを飲み込もうとした時、あなたは浜に打ち上げられた魚みたいにもがいてたじゃないか」


 カロンは否定しなかった。


 確かに彼女はもがいた。


 あの時、彼女は覚醒したばかりで、力はまだ不安定だった。流動体が体内から溢れ出た時には、彼女自身も驚いたほどだ。


 あの触手が彼女の腰に絡みつけば、彼女はそれを断ち切った。あの口が彼女の肩に噛みつけば、彼女は流動体でその顎を押し開けた。


 彼女は死にたくなかった。


 彼女は勝った。


 そしてあの化け物は、そんな目で彼女を見た。


 打ち負かされた後の怒りではなく——別の何かを。


「それはまだ気にかけることがあったからだ」


 カロンは言う。


「もし心残りがなければ、喜んで死を受け入れるさ」


「あなたが気にかけているのは——あなたの族人か?」


「そうだ」


 カロンの声が沈む。


「両親を守れなかったが、彼らだけは守れる」


 ステュクスは沈黙した。


 それらの触手も静まり、あちこち彷徨うのをやめ、何かに押さえつけられたかのようだ。


「もし私が保護を提供するとしたら——」


 彼女の声が突然変わる。もはや気だるい冗談ではなく、もっと沈んだ、もっと真剣なものだ。


「彼らを捕殺から、汚染から、侵擾から守る——」


 彼女は前に漂い、その顔をカロンの目前に寄せる。


「あなたは!心から喜んで——私の餌食になってくれるかい!」


 カロンは後退らなかった。


 彼女の鼓動が一拍速くなった。


 恐怖からではない。


「やはり私を食いたいのか」


「もちろん」


 ステュクスの口元がゆっくりと広がる。


 その口はどんどん大きく開いていく。こんなに美しい顔に似合わないほどに。


 細かな牙が唇の間から露わになる。一つ一つが並び、深海魚の咽歯のように——噛み砕くためではなく、獲物を捕らえたら決して離さないためのものだ。


 彼女の笑みはあのままだ。気だるく、満ち足りた、まるで寝起きの猫のような。


 カロンの視線は彼女の唇の端に一瞬留まる。


 あの化け物の口。彼女はこの口が最大に開いたところを見たことがある。


 しかし彼女は避けなかった。


「私の手から逃れ、なおかつ私を屈服させた餌は、あなただけだ」


 ステュクスの声が低くなる。胸の奥から絞り出すかのように。


「だから、知りたい?私がどれだけ——どれだけ——どれだけあなたを食べたくて仕方ないかってことを?」


「もし私が承知したら——」


 カロンはあの星の点の目をまっすぐ見つめる。


「お前は手を貸してくれるのか?」


 ステュクスは一瞬呆けた。


 それらの触手も蠢きを止め、この返答に驚いたかのようだ。


「私はあなたの族人と敵対する全ての存在を——」


 彼女の声に、ある種の狂熱的な愉悦が浮かぶ。


「この世界から消し去ってみせる!」


「そして、あなたをじっくり味わうのさ」


「彼らを消し去る必要はない」


 カロンの声は平静だ。


「それではもっと大きな面倒を招くだけだ」


 ステュクスは首をかしげる。


「私が望むのは、賞罰をはっきりさせることだ」


 カロンは続ける。


「奴らが私たちに与えた損害の分だけ、償わせる。そして均衡が取れた後には、奴らも二度と私たちに手を出す気はなくなるだろう」


「なぜそんなに慈悲深くある必要がある!」


 ステュクスの声が突然高くなり、それらの触手も一緒に騒ぎ出す。


「カロン様、あなたは本来、全ての人に恐れられる存在になれたはずだ」


「それが強大さの意味だからだ」


 カロンの声に一切の起伏はない。


「強大さは、より互恵的な平和をもたらすためのものであって、より残酷な暴力のためではない」


 彼女はステュクスを見る。


「だから、お前がすべきことはただ罰することだけだ。殲滅することではない」


 ステュクスは沈黙した。


 それらの触手も静まり、一本一本垂れ下がる。力を抜かれたかのように。


「あなたはそんなに私を縛るおつもりですか?」


「もし開戦した後、私の目にあなたが残酷に虐殺しているのが映ったら——」


 カロンの声はとても軽いが、一言一言がはっきりと噛みしめられている。


「我々の協力は即座に終了だ」


 彼女は一瞬間を置いた。


「そして私は、お前の触手を、お前の体から完全に引き離す」


 ステュクスは数秒間、彼女を見つめた。


 そして、彼女は笑った。


 その笑みはとても軽く、一瞬で消え、まるで何か古びた、とっくに忘れ去られていたものがようやく帰る場所を見つけたかのようだ。


「あなたの方がよっぽど残酷じゃないですか?」


 彼女の声が柔らかくなる。


「でも、好きだよ」


 彼女は口を開け、あの返しのある舌を牙の間から出し、そっとカロンの横顔を舐めた。


 カロンは避けなかった。


 避けるべきではなかった。あの化け物は彼女を食いかけていた。あの化け物は今でも彼女を食べたがっている。


 しかし彼女は避けなかった。


 彼女は一瞬だけ——あまりに短く、後で思い出すだけで全身が震えるような一瞬だけ——あの舌があと少し長く留まってほしいと願っていた。


 私は病気なのか?


 その思いが一瞬頭をよぎり、彼女は力いっぱい押し殺した。


 血の滴が傷口から滲み出る。深海中で赤い星のように。


「うん」


 ステュクスは目を細める。


「甘いね」


「本当に美味しいご馳走だ」


 カロンは彼女を押しのけた。


 動作は必要以上に強かった。


 まるで何かあるべきでないものを押しのけるかのように。


「約束を忘れるな、ステュクス」


 彼女は振り返り、後ろは見なかった。


 振り返れば、何か言うべきでない言葉を口にしてしまいそうで怖かったからだ。


 ——例えば「じゃあ早くしろ」とか。


 彼女はその思いを胸の最も奥の隅に押し込み、あの決して癒えない骨髄と一緒に置いた。


 同じように痛い。同じように手放せない。


「ふふふ」


 ステュクスの笑い声が背後から聞こえる。満ち足りた気だるさを帯びて。


「本当にツンデレなカロン様だね」


 彼女は遠ざかっていく背中を見つめる。それらの触手が再び漂い始める。まるで音のない舞を踊るかのように。


「いつか、あなたは私のものになる」


 彼女の声はとても軽く、海水に呑まれる。


「その時は、この貴重な美食を心ゆくまで味わわせてもらうよ」


 背後で、あの真っ黒な瞳の中の星の点が、一瞬一瞬と輝いている。まるで何か遠くの、近づいてきているものを映しているかのように。

かなりの強者志向のステュクスですね、ははは。唯一にして重要でありながら、なんと“神の欠片”ではないキャラクターが登場です!でも、彼女が一体どんな正体なのか、ぜひ皆さんも考えてみてくださいね?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ