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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
長夜将明

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第八十二章

 カロンはもちろん「蜂眼」の中の映像を見ていた。


 エルフだけに向けられたものではない——あの言葉は全ての者に向けられたものだ。


「このクソ鉄屑野郎、一体何をするつもりだ?!」


 彼女はオーケアノス港の岸辺に立ち、深い藍色に近い黒い長い髪が海風に舞っている。


 波が岩礁を打ち、水煙が視界をぼやけさせる。しかし彼女には見る必要などなかった——ポレモスの声がまだ耳の奥に響いているからだ。


「族長」


 副官の声が背後から聞こえる。


「蒸気人共は約束を破るつもりですか?」


「分からん」


 カロンは振り返る。流動体の長い髪が空気中に細かな波紋を広げる。


「だから問いただしに行く。だがその前に——」


 彼女は一瞬間を置いた。


「お前はまず、族人を連れて水の中に隠れていろ」


「承知」


 副官はそれ以上問わなかった。


 彼は振り返って行動に移り、陸に上がっていた人魚たちを次々と海へと跳び込ませていく。


 水しぶきが上がっては落ちる。すぐに、岸にはカロンだけが残された。


 彼女はうつむき、足元の流動体がうねり、形を変え、一枚のサーフボードへと変わる。


 そして彼女はそれに乗り、振り返らなかった。


 ◇◇◇


 サンタリアの海岸線が視界の果てに現れた時、カロンは速度を落とした。


 彼女はサーフボードから飛び降り、流動体は再び脚に凝り、しっかりと岸に立つ。


 数歩も歩かないうちに、一振りの長槍が彼女の前に横たわった。


「申し訳ありません」


 槍を構えた蒸気兵が城門を遮り、機械的な口調で言う。


「現在、一切の他種族の入城は禁じられております」


 カロンの目が細められた。


「何て言った?」


 彼女の声が冷たくなる。


「私をカロン大人と呼ぶべきだ。今までもここからお前たちの主理者に会いに行っていただろう」


「お言葉の意味が理解できません」


 兵士の槍は引かれない。


「とにかく、これ以上前に進まれるなら、我々も実力で止めさせていただきます」


「はいはい」


 カロンは懐から羊皮紙の巻物を一枚取り出し、広げる。白い紙に黒い文字が陽光の下で痛いほどに目立つ。


「お前たちが結んだ条約を見てみろ。覚えているか?私はお前たちの盟友だ」


 兵士の動作が一瞬止まった。


 彼の腕から円筒がせり出し、彼は中を一瞥すると、素早く中の紙片を取り出して破棄した。


「大変申し訳ございません、カロン様」


 兵士は槍を収め、横に退いた。


「どうぞお入りください」


「何の真似だ」


 カロンは条約をしまい、流動体が足元から湧き上がり、彼女をしっかりと浮かせる。


 彼女はその兵士をもう見向きもせず、真っ直ぐにサンタリア科学技術総局へと向かった。


 ◇◇◇


 科学技術総局の扉は彼女の前で自動的に開いた。


 カロンは真っ直ぐに最も奥の巨大な金属の扉へと向かう。


「お前たちの主理者は、戻っているか?」


 扉は彼女の前で一筋の隙間を開けた。


 蒸気が隙間から噴き出し、白く広がり、歯車の回る唸りを伴う。


「用事か?」


 ポレモスの声が蒸気の奥から聞こえる。


 カロンは敷居を跨ぐ。扉は彼女の背後で閉じられた。


「ポレモス」


 彼女は蒸気の中から現れるその影を睨む——人馬の姿、両腕は体の側面に浮いている。


「いったいどういうつもりだ?そんなに早く手のひらを返すのか?てめぇに頼んでも、てめぇはただ傍観するだけだ」


「私の意思は明確だ」


 ポレモスの声は低く響く。


「カロンよ」


「全ての者を敵に回す、だ?」


 カロンの声が一段と高くなる。


「戦神の欠片だってだけで、何でもできると思うなよ」


「無論」


 ポレモスは頭を下げ、あの歯車の嵌った目が彼女をまっすぐ見つめる。


「お前もいることは分かっている」


 カロンはまた懐からあの契約書を抜き出し、広げ、白い紙に黒い文字を彼の顔の前に突きつける。


「じゃあ、この契約書をよく見ろ。お前は約束を破ったらどんな代償があるか言ってたな」


「この契約を持ち出したのは私だ」


 ポレモスはその紙を見ない。


「どんな代償があるかは、もちろん分かっている」


鷸蚌いつぼうの争いが漁夫の利になるだけだぞ、ポレモス」


 カロンは契約書をしまい、声を潜める。


「今の我々の最優先目標はアイセロンだ」


「最優先目標が何か分かっているのなら——」


 ポレモスの口元が微かに上がる。


「なぜあんな案を出した?」


 カロンは沈黙した。


「ただあのエルフどもに相応の罰を受けさせたいだけだ」


 彼女の声が低くなる。


「殺すのは賢明じゃない。どれだけ奴らを憎もうと、俺は自分の族人に後遺症を残したくない」


「またそんな決まり文句か」


 ポレモスの声が突然、とても軽くなる。


「カロンよ、お前は強大な化身であっても、人魚としての弱さを変えられはしない。ひたすら逃げるだけでは、悪を助長するだけだ」


 彼は浮かせた片腕を上げる。歯車が関節で噛み合う。


「だから、私は契約を破棄する」


 カロンの瞳孔が収縮した。


「俺が承知しなかったらどうする?」


「お前が我々を憎んでいないとは思わない」


 ポレモスは彼女の質問には答えなかった。


「工業化がもたらした汚染は、お前たちにかなりの迷惑をかけている。そうだろう?ならばお前はその怒りを私に向けるべきだ。沈黙するのではなく」


 カロンは口を開きかけたが、何と言えばいいのか分からなかった。


「それに」


 ポレモスは手を伸ばし、彼女の手からその契約書を抜き取った。


「私はお前に制限をかけたくない。お前が『強大』としての実力を発揮するのを見たい」


 歯車が回る。


 契約書は彼の掌の中で粉々になった。


 彼の声が沈む。


「何故なら私は、お前だけを唯一私と対等に戦う資格のある存在だと思っているからだ」


 カロンはそれらの破片が指の間から舞い落ちるのを見つめた。


「だから、戻って準備しろ、カロン」


 ポレモスは手を引っ込めた。


「奇襲もできる私が、お前たちに与えたこの時間を無駄にするな」


「てめぇがくれたクソみたいな時間なんて必要ねぇ!」


 カロンの声が突然高くなり、流動体が彼女の足元から逆巻き上がり、彼女の身の側で数本の刃を形作る。


「聞け、ポレモス。てめぇとてめぇの連中にも、俺は積年の恨みがある。だがそれでも俺は、同じ敵を前にしているという理由で、俺と俺の族人にとって非常に不利な契約を守ってきたんだ」


 彼女の呼吸が荒くなる。


「今、てめぇが本当にやる気なら、ここでやろう!付き合ってやる!」


 彼女は一歩前に踏み出す。


「だがもし俺の族人に手を出したら——てめぇの部品を全部引きちぎって、ぶっ壊してやる!」


 ポレモスは彼女を見つめる。


 あの歯車の嵌った目に、何かが一瞬走った。


「その姿を見られて嬉しいよ、カロン」


 彼の声は落ち着いている。


「だが私は約束を守る者だ。げきを飛ばしても私には無用だと知れ」


 彼は背を向ける。


「送り届けろ」


 金属の扉が彼の背後で閉じられた。


 ◇◇◇


 カロンは科学技術総局の門の外に立っていた。流動体が彼女の体からゆっくりと退き、足元に落ちて、一筋の沈黙した水たまりと化した。


 彼女は自分が門の前にどれだけ立っていたのか分からなかった。我に返った時には、足がもう痺れていた。


 彼女は振り返り、海岸へと歩き出した。


 ◇◇◇


 オーケアノス港。


 人魚たちが彼女の周りに集まった。カロンには彼らの顔から答えが読み取れた——彼らは彼女の表情を見て、全てを理解したのだ。


「族長」


 誰かが口を開く。


「我々は……」


「心配するな」


 カロンは遮った。


「我々は戦う準備はできている」


 しかし彼女自身の声は、彼女自身さえ信じていなかった。


 彼女は振り返り、それらの族人を見た。


 あの汚染された海域で生き延びるために藻掻いてきた子供たちを、あの本来なら若くて力強いはずなのに、もう病に蝕まれた兵士たちを見た。


「今の我々で?」


 彼女の声はとても軽い。


「いや、到底戦えやしない」


 彼女は一瞬間を置いた。


「一番大事なのは、もう二度とお前たちの誰も失いたくないってことだ」


 沈黙。


 波が岩礁を打つ。一度、また一度。


 カロンはまだ戦える兵士たちを見た——彼らの士気は高く、その目に恐怖はなく、ただ怒りと決意だけがある。


 しかし、まさにこの者たちこそ、彼女が最も連れて行くのを恐れる者たちだった。


 なぜなら、一人失えば、それが減るだけだから。


 そして彼らはもう、多くはない。


「まさか、奴のところに行くしかないのか?」


 彼女は小声で呟く。その声は海風に散らされた。


「くそったれ」


 ◇◇◇


 カロンは海面に泳ぎ戻った。


 サーフボードが彼女の足元に再び凝り、波に乗せて彼女を揺らす。


 彼女は自分がどれだけ海を漂っていたのか分からなかった。ただ空の色が鉛灰色から暗い藍色に変わり、暗い藍色から墨色へと沈むのを見つめていた。


 なぜ、自分の強大さは、自分が欲しいものを何一つもたらしてはくれないのか?


 彼女は疑い始めていた——自分は本当にこれらの責任を負うべきなのか。


 ポレモスのように、あの理想主義的な考えを全て捨て去るべきなのか。


「ふっ」


 彼女は笑った。その笑い声に笑みはない。


「本当に、いったい何に悩んでるんだか……」


 一つの波が押し寄せ、彼女をトンネルのような大波の中へと押し込んだ。


 水の壁が両側にそびえ立ち、頭上には一本の空だけが残る。


 彼女はトンネルを抜けた。


 飛び出したその瞬間、彼女は足元の流動体を引っ込めた。


「とりあえず、彼女に会いに行くか」


 彼女は独り言ちる。その声は海の上に散っていく。


「自分の敵が味方を見つけたのに、自分だけがここで孤軍奮闘しているなんて、そんなの嫌だろ」


 彼女は手を伸ばし、指先を水に浸し、そっと一摘まみした。


 一つの渦が彼女の唇の脇から立ち上り、淡い青色の煙を纏う。


 彼女はその水でできた煙を含み、深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


 渦が急に広がり、彼女を呑み込んだ。


 海水が四方八方から押し寄せる。ますます深く、ますます暗く。


 光は頭上から遠ざかり、温度は指先から失われていく。


 彼女は下へ、下へと泳ぐ。あの裂け目を通り抜け、それらの沈黙した岩礁を越えて。


 そこには、彼女を待つ者がいる。

初めてカロン視点で書いてみました。このキャラクター、皆さんにも気に入ってもらえると嬉しいです。私はこういうキャラクターが本当に好きなんです。ちょうど、私がスパイダーマンを大好きなように。そして、彼の叔父さんの言葉「大きな力には、大きな責任が伴う」というのは、本当に私にとって大きな影響を受けた言葉なんです。だからこそ、カロンはまさに、その言葉を体現するようなキャラクターなんですよね。どう思いますか?

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