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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
暗湧く白

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第六十四章

「これは……」


 スタシスは鏡の前に立ち、自分の空っぽの左袖を見つめていた。彼女はただ、あの黒い羽根が無事にモーリガンのもとへ届くことだけを祈っていた。


 鏡の中を、ふと一筋の反射光が走る。


 彼女はあわてて振り返った——窓辺に、あの見慣れた左腕が静かに横たわっている。


 ケーリスが影の中から歩み出る。その体躯たいくは微かに上下に動き、あきらかに長距離を走破した後の疲れが見える。


「モーリガンが……りにもどる……あずかって……」


 彼女は羽根も腕のそばに残し、思念しねん途切とぎれ途切れだ。


 スタシスはその腕をささげるようにかかえ、指先で見慣れた山川の紋様を撫でる。


 それらはまだ微かに熱を帯びている。モーリガンの体温が残っている。


「ケーリス、モーリガンにつたえてほしい」


 彼女は小声で言う。


「本当にありがとうって。少なくとも彼女の言っていたことは……ずっと説得力せっとくりょくがあったから」


「伝える……」


 ケーリスの影がゆっくりと闇に溶け、部屋のすみに消えた。


 スタシスはうつむき、左腕を断口だんこうに当てる。


 血肉が再びつながる瞬間、一陣の刺痛しつうが走る——しかし彼女は眉をひそめなかった。


 この痛みが彼女を覚醒かくせいさせ、確信させる。あの腕は、確かに戻ってきたと。


 彼女は五本の指を動かしてみる。見慣れた完璧な感触が再び戻ってきた。


 もしずっとあやつ人形にんぎょうだったとしたら……


 彼女は鏡の中の自分を見つめ、不意ふいに母が長年にわたって自分におよぼしてきた操作そうさを思い出した——あの目に見えぬ「あやついと」、あの永遠にさからえない命令。


 しかし操り人形だとしても、操り糸は誰の手にある?


 彼女は右手を上げ、ためしに左肩の接合部せつごうぶに触れる。そこは皮膚が最初からなめらかで、まるで一度も断裂だんれつしていなかったかのようだ。


 そして彼女はそっと引っ張った。


 左腕は何の抵抗ていこうもなく、肩から落ちた。


 彼女は一瞬呆ぼうとし、また簡単かんたんけた。


 もとこうだったのか。


 あの年月、彼女は自分を完璧に磨きすぎていた。完璧すぎて、関節かんせつの一つ一つがまるで芸術品のように取りはずし、再構成さいこうせいできるほどに。


 これは彼女が完璧を追求ついきゅうした副産物ふくさんぶつに過ぎなかったが、この力を使って束縛そくばくからのがれることもできるとは、考えたこともなかった。


 これこそが彼女の「美好」の力——操り人形のように自分の身体を解体かいたいすることもできれば、最も完璧な瞬間を目の前で静止させることもできる。


 ただ、この力で束縛から逃れられるとは、考えたこともなかった。


「Muinthel!(姉さん!)」


 アイウェシルの声が窓の外から聞こえる。


 スタシスは慌てて顔を上げ、陽光の下に見慣れたあの姿を見た——アエルダがアイウェシルを乗せて、城門へと驀進ばくしんしている。


 喉まで上がっていた心臓が、ようやく元の場所に戻った。


「Muinthel, alatulya! I·, eth·, eth·——(姉さん、後ろを見て!援軍が来たよ!もし状況じょうきょう本当ほんとうなら、もっと多くの軍隊を送るって!私たちにかえせる材料ざいりょうができたんだ!)」


 スタシスは馬上で手を振る妹を見つめ、何年なんねんも昔にときもどったかのようだった。


「Muinthel, i·, eth·! I·, eth·!(姉さん、ウサギをてたよ!すごいでしょ!)」


「Muinthel, i·, eth·!(姉さん、私がこんなに高く登れたよ!)」


 そのたびに、彼女は遠くないところに立ち、笑顔でこたえていた。


「I·, muinthel!(妹はすごいね!)」


「I·, muinthel!(妹ならできるよ!)」


 そして今回こんかいも、彼女は同じように信じている。


 妹ならできると。


 たとえ当時とうじ結婚から逃げた時、妹が自分の代わりにすべてを背負せおうことになると分かっていたとしても。


 しかし彼女は同じように知っている——どんなことに直面ちょくめんしようとも、妹は必ずえられると。


 心配はまぬがれない。


 しかし信頼は、るいだことがない。


「Latha, Aewithil.Ú·, eth·, eth·.(待ちなさい、アイウェシル。いそいでお姉さんと話さなくてもいい)」


 一つの声が城壁から聞こえた。


 アイランサーがそこに立っている。その視線しせんは小さな連合軍れんごうぐん一瞥いちべつし、唇の端に軽い笑みを浮かべた。


「Si, i·, eth·? Mal i·, eth·——i·, eth·, eth·?(で、空のエルフは軍隊をつかわさなかったの?それとも、あなたが全然ぜんぜん彼らに手紙をとどけに行かなかっただけ?)」


「Ú·, naneth. I·, eth·, eth·. I·, eth·, eth·.(流雲城りゅううんじょうもんひらいてくれませんでした、母さん。領主りょうしゅが小さな王子のために墓を守っていて、面会めんかい都合つごうが悪いと言っていました)」


 アイウェシルはアエルダをせいし、城門の外を歩きまわる。


 彼女は顔を上げ、城壁の上の母を見つめた。


「A·, naneth. I·, eth·, eth·?(門をけてください、母さん。敵にすきあたえないでください?)」


 カロンの戦艦は追撃ついげきしてこない——あの流体でできた戦艦は元々(もともと)彼女の皮肉ひにくであり、先程さきほどの矢の雨で迂闊うかつに近づけなくなっていた。


「I·, eth·. Mal i·, eth·, iell nín——i·, eth·.(もちろん分かっている。しかし、あなたが今城主じょうしゅとしては——すこ相応ふさわしくない)」


 アイウェシルはぼう然とした。


「Manen? Naneth? I·, eth·, eth·?(どうして?なぜですか?まさかお姉さんが何か言ったんですか?)」


「Ú·, eth·. I·, eth·, eth·. I·, eth·, eth·——i·, eth·, eth·, eth·.(彼女は関係かんけいない。空のエルフが来なかったのは、あなたがまだおろかだというあかしだ。もう何年経ったと思っている?流雲城がまだ墓を守っているはずがないだろう。これはただの口実だ。あなたはそれにもづかなかった)」


 スタシスは慌てて扉を押し開けた。


 彼女は母が何をしようとしているか分かっていた。


「Si, i·, eth·, Aewithil. I·, eth·, Stassë——i·, eth·, eth·, eth·.(だから、領主りょうしゅくらい一旦いったんゆずりなさい、アイウェシル。スタシスにおそわらせなさい——どうすれば一人前いちにんまえの領主になれるかを)」


「Stassë! I·, eth·, eth·!(スタシス!あなたが帰ってきたら、いことはないと思ってた!)」


「Muinthel,ú·, eth·.(妹よ、あなたが思っているようなことじゃない)」


 スタシスはすでに城壁にのぼっていた。


 彼女はそばの兵士たちを見る。


「Heri nín, i·, eth·.(まずは領主を中に入れてください)」


 誰も動かない。


 兵士たちは聞こえないかのように、視線をひくれている。


「Si, i·, eth·, Stassë.(今、あなたが領主よ、スタシス)」


 アイランサーの声がひびく。


 アイウェシルの頭の上の環冠かんむり突然とつぜん消え、ゆっくりとスタシスの頭にあらわれた。


「A·——(それに——)」


 アイランサーは声をげ、城の上と下のすべての者に聞こえるようにした。


「I·, eth·, eth·! I·, eth·, eth·——i·, eth·, eth·!(私が新しい領主夫人になる!皆さん、わるくないときに来てくれました。戦争が始まる直前ちょくぜんに、私たちは最も豪華ごうか婚宴こんえんもよおします!)」


 城壁の上は静寂せいじゃくつつまれた。


 他のエルフ族の援軍たちはたがいにかお見合みあわせ、ささやう。


 しかし彼らが顔を上げ、スタシスの完璧な顔を見た時、その囁きはうなずきに変わった。


 完璧な存在がすることは、何をしても正しい。


「Stassë! I·, eth·!(スタシス!あなたをにくむ!)」


 アイウェシルは母がスタシスの腕をり、親密しんみつ動作どうさをするのを見て、それがやいばのように彼女の最後の幻想げんそうとおした。


 スタシスはうつむく。


 頭の上の環冠が、少しずつ変化へんかし始めている。


 アイウェシルはなみだかべてけ、敵の陣営じんえいっ込もうとする——こんなところにいるより、戦場で死んだほうがしだ。


 その瞬間、スタシスが動いた。


 彼女は腕をいた。


 長い髪をとした。


 あのひいでた長く精巧せいこうな金髪が、空中にり、風にって城壁の下へとちる。


「Tinúviel! I·, eth·?!(小さな星、あなた何をしているの?!)」


 アイランサーの声が初めて余裕よゆううしなった。


「I·, eth·, eth·! I·, eth·!(これはあなたの最も完璧な髪の毛よ!あなたが神であることのあかしなのに!)」


「I·, eth·, Aear-El.(この長い髪をるなとつづけたのはあなたよ、アイランサー)」


 スタシスの声はとても軽い。しかしはっきりと、誰にでも聞こえる。


「I·, eth·, eth·. Mal i·, eth·——i·, eth·, eth·, eth·.(あなたは私の『ちがい』は髪から始まったと言った。でも私はこの長い髪を——あなたが私を操る操り糸になんかさせたくない)」


「母さん」というびかけはない。


 あの完璧な長い髪もない。


 みだれた短い髪が風の中で彼女の頬を打つ。しかし彼女はまえにもまして覚醒していた。


 頭の上の環冠は、その瞬間に消えた。


 次の瞬間、それはアイウェシルの頭に現れた。


 アイウェシルはアエルダの背にまたがり、城壁の上の姉を見上げる。涙はまだ顔にのこっている。


「Círa! I·, eth·, eth·!(見て!空のエルフにしかない翼だ!)」


 遠くの援軍が驚愕きょうがくの声を上げる。


「Mal i·, eth·?!(で、でもなぜ黒いんだ?!)」


 スタシスの背中に、ゆっくりと一対の翼がひろがる。


 純黒じゅんこくの羽根が、陽光の下でかすかな光沢こうたくを放つ。それらは必死ひっしばたき、彼女を城壁からはこび、半空はんくう浮遊ふゆうさせる。


 彼女のひたいからはまだ血がにじんでいる——荊棘いばらの環冠がした傷口だ。血のしずく眉骨まゆぼねを伝って滑り落ち、黒い翼の上にち、また音もなくすべり落ちる。


「Aear-El, i·, eth·?(アイランサー、この環冠をおぼえている?)」


 彼女の声が高みから聞こえる。


 アイランサーの表情ひょうじょう一変いっぺんした。


「I·……i·, eth·……(それは……あなたが……あなたの父親が当時……)」


「Si i·, eth·. Mal i·, eth·——i·, eth·, eth·, eth·.(これこそが木のエルフの族長にふさわしい環冠よ。でも領主の位は、私が欲しいと思ったことは一度もない。それはもう、もっと相応しい人選じんせんがいる)」


 彼女は城門の外で、自分を見上みあげる妹を見る。


「A i·, Aear-El, i·, eth·. I·, eth·——i·, eth·, eth·, eth·.(そしてアイランサー、あなたは私と一緒に行かなければならない。あなたと流雲城の因縁いんねん——ちゃくをつけるときが来た)」


「Ú-renich!Ú-renich!(嫌!嫌よ!)」


 アイランサーが初めて取乱とりみだす。


「Stassë! I·, eth·, eth·? I·, eth·——i·, eth·, eth·!(スタシス!自分で翼を断った空のエルフが帰ったらどうなるか分かっているの?!嫌よ!母には会いたくない!)」


 スタシスは手を上げる。


「ティン——」


 一声の軽い音。


 アイランサーの声が途切とぎれた。


 彼女の目はゆっくりと閉じ、身体はやわらかく城壁にりかかる——口を開けて叫んだ瞬間に静止せいしされた。


 遠くの援軍のさけび声はまだ続き、城壁の上の兵士たちはまだ囁き合い、風はまだ旗をすっている。


 しかしアイランサーには、もう聞こえない。


 スタシスはちかづき、彼女をささえる。


 黒い翼が背後で広がり、二人を一緒に空へと運びげる。


 彼女は振り返らなかった。


 しかし彼女は知っている。妹はまだあそこにいると。


 風の音が耳元をかすめ、流雲城の方向が視野しやてにかすかにかくれする。


 アイウェシルは遠ざかる黒いかげを見つめ、涙がようやく目尻からこぼちた。


 背後で、アイセロンの城門がゆっくりと開かれる。


 成功せいこう援軍えんぐんた城主を、凱旋がいせんむかえるために。

茨の王冠が何を意味するか——それは、西洋ファンタジーが好きな読者の皆さんなら、おそらくおわかりですよね。


そして、髪を切るという行為は、最初から張ってあった小さな伏線なんです。


スタシスが母アイランサーと再会した時、彼女はまず髪に注目していました。深夜に二人がベッドで横たわっていた時も、アイランサーはスタシスの髪をそっと撫でていたんです。


だからこそ、完璧を追い求める彼女が、自らの最も大切にしていた“髪”を断ち切るという行為は——ある種の“成長”なんです。それは、自分自身の不完全さを受け入れ、他者や自分が課していた自由への枷を振り切ることを意味しているんですよ。

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