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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
暗湧く白

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第六十三章

「御身、さっきは一体何を見ていたんです?」


 サンタリア科学技術総局を飛び出すと、アマラートはモーリガンを抱きかかえ、翼をはためかせて空へ舞い上がった。


 風の音が耳元で唸り、街の喧騒けんそうを遠くへ置き去りにする。


「あの白い女を見ていた」


 モーリガンの声は風に裂かれ、途切とぎれ途切れだ。


「ディスコルディアを」


「彼女を見てどうするんです?来たなら来たで、面倒になるだけじゃないですか」


「いや、もしヴィラニアみたいな存在が来ていたら、それは本当ほんとうに面倒だ」


 モーリガンは一瞬間を置いた。


「ディスコルディアは……少なくとも、私たちは会ったことがある」


 アマラートはそれ以上、言葉をがなかった。


 彼女はただ、さらに強く抱きしめ、翼を必死に羽ばたかせて、一刻も早くあの燃えようとしている戦場から遠ざかろうとした。


「とにかく、まずはここを離れましょう」彼女は言った。「まれる必要はない。私たちに利益りえきはありません」


かっている」


 モーリガンの視線しせんは彼女の肩を越え、遠くの山頂にゆっくりと迫る騎士団に向けられている。


「父さんはそういう懸念けねんを持っていた——私はまだ弱すぎる、資格しかくがない、と。だが私はスタシスが心配だ。彼女からは長く連絡がない」


「ちょっと聞いてもらえるかしら、みんな」


 カリオペの声がネックレスから聞こえる。いつもの軽快さを帯びて。


「俺はディアに気づいた。あの女、確かにでかいたくらみをかかえているな。君の反応を見るに、モーリガン、前に彼女に会ったことがあるんだろ?」


「ヴェンティスで」


 モーリガンはうなずく。


「彼女が混乱こんらんを引き起こし、私たちは審判廷に目をつけられた」


「それで合点がてんがいった」


 カリオペの口調くちょうが珍しく真剣になる。


「彼女の能力はただの放電なんかじゃない——彼女自身はそれを呪いと呼んでいたが、俺の目には便利に使いこなしているように映った。この戦争、あの女と無関係むかんけいじゃ済まないだろうな」


「私も見たわ」


 ヘマリスの声もネックレスから聞こえる。一抹の躊躇ためらいを帯びて。


「ポレモスの記憶よ。ただ……」


「ただ、何だ?」


「あの娘が、あまりにも奇妙きみょうだった」


 ヘマリスは一瞬間を置いた。


「私が見ていたのはあきらかにポレモスの記憶なのに、ずっと彼女自身の声で『本当にそうなの?』って問いかけているのが聞こえるのよ。それが記憶そのものなのか、それとも彼女があたえた影響えいきょうなのか、判断はんだんがつかない」


「話してみてくれ、ヘマリス」


 モーリガンが言う。


「あのポレモスという男が、一体何を考えているのか知りたい」


「実は、『彼』という呼び方は、ただポレモス自身が自分をそう定義ていぎしているだけなの」


 ヘマリスがゆっくりと語り始める。


「蒸気人にとって、二元にげん的な性別はただの束縛そくばくでしかない。彼が『彼』にこだわるのは、騎士に対して深い執着しゅうちゃくを持っているからよ」


「騎士?」


「彼は自分を人馬じんば姿すがたつくえた——下半身を馬に改造したの。まるで……私たちの下半身を無理むりやり成形せいけいするように。痛みを感じるかどうかは分からないけど、彼はそうしたのよ」


「なんてこった、聞いただけでこわい」


 オネイリの声が、少しねばりつくように聞こえる。


「ダメだ、もう聞けない。また悪夢の素材そざいが増えた」


 その言葉と共に、モーリガンは頭の上の角が微かに震えるのを感じた。まるで彼女の「ミント地」にさらに深くもぐり込もうとするかのように。


 一陣のするどい痛みが走り、彼女は眉をひそめた。


要点ようてんを話してくれ、ヘマリス」


 彼女はその不快感ふかいかんった。


「それが要点よ」


 ヘマリスの口調が落ち着く。


「彼は自分をこんな姿にした。ただ『騎士』になるために。彼の目には、めぐる戦場、血飛沫ちしぶきること——それが騎士の名誉めいよなの」


「戦争……」


 モーリガンの瞳孔どうこうが微かに収縮しゅうしゅくする。


「私が最も会いたくなかった神の欠片だ」


「御身、なぜそうおっしゃるんです?」アマラートが横を向く。


「他の神の欠片はまだはかれないが、戦争……この存在はあまりにも有名だ」


 モーリガンの声が沈む。


無数むすう典籍てんせきに彼の記述きじゅつがある。そして私は『苦痛』として、彼の前では形無かたなしだ。私は戦争に対して、何もできない」


「つまり、ポレモスが戦争そのものってことか?」


 カリオペが言葉をぐ。


「そうだ」


「なら、ディアが何か分かったぞ」


 カリオペは合点がいったように言う。


「なるほど、あの時俺がわけもなくあの炎の少女を敵となしたのもうなずける。ディア——彼女こそ戦争の前触まえぶれであり、誤解ごかい体現たいげんする存在だ」


「もし本当にそうなら、なおさら私たちはかかわるべきじゃない」


 アマラートが再び強調きょうちょうする。


 彼女は遠くの山頂にすで布陣ふじんした騎士団を見やり、一刻も早く立ち去りたい一心だ。


「もちろん」モーリガンが言う。「だがまず——」


「モーリガン……見て……羽根が……」


 ケーリスが突然口を開く。その思念しねんは途切れ途切れだ。


 彼女は影でできたつめを伸ばし、半空はんくうから一本の羽根を受け止めた。


 その羽根は漆黒しっこくで、一本一本の羽枝が整然と並んでいる——スタシスのものだ。モーリガンは一目で見分けた。


「見せてくれ」


 モーリガンは手を伸ばして受け取る。


 羽根が彼女のてのひらに触れた瞬間、一通の手紙に変わった。


 便箋は淡い銀色に輝き、そこにはほんの数行の文字だけが記されている。


「ここを離れなさい、モーリガン。私のことは心配しないで。私にはまだ自分のやるべきことがある。元々は君に助けを頼もうと思っていたが、君は所詮まだ子供だし、人間だ。こんな破事つまらないことは君には理解できないし、助けにもなれない。だから、離れなさい——それが君にとって最善さいぜんの選択だ」


 文字は几帳面きちょうめんすぎるほど整っており、まさにスタシスの筆跡だ。


 しかし最後の句点だけが、普段より幾分いくぶんか強く、紙にぐっと押し付けたかのように濃く残っている。


「スタシスはどうしてこんなことを?」


 オネイリの声が髪の間から聞こえる。不安を帯びて。


不吉ふきつ予感よかんがする」


 モーリガンはその手紙を見つめ、数秒間沈黙した。


「彼女の決断けつだん尊重そんちょうする」


 彼女はようやく口を開いた。その声はとても軽い。


「だが、このまま去るわけにはいかない」


 彼女は右手を上げ、左肩の断口だんこうに当てた。


「御身、何を?」


 アマラートが目を見開く。


 モーリガンは答えない。


 彼女は目を閉じ、体内の黒い泡を呼び寄せる——それらは従順じゅうじゅんに左腕へと流れ込み、山川の紋様の隙間に沿って浸透しんとうし、切断せつだんする。


 一陣のけるような痛みの後、彼女のものではないその腕が、ゆっくりと彼女の体から分離ぶんりした。


 血が断口からき出し、肩を伝って流れ落ち、衣襟いきんを染める。


「御身!」


 アマラートが驚愕きょうがくの声を上げる。


「ケーリス」


 モーリガンの顔色かおいろ蒼白そうはくいが、声は依然いぜんとしておだやかだ。


たのむ。この羽根とこの腕をスタシスのもとへ届けてくれ。彼女に伝えてほしい——私はこのまま去ったりしない。この腕は、彼女がまだ私に返すべきものだと」


承知しょうち……」


 ケーリスは躊躇ためらわない。


 影で構成こうせいされた体躯たいくが微かに膨張ぼうちょうし、鮫尾サメのおがそのたれた腕を巻き上げ、口にはあの手紙に変わった羽根をくわえ、疾走しっそうする暗い影となって、アイセロンの方向へとかすめていった。


 アマラートは遠くへ消えゆくあの影を見つめ、またモーリガンの肩の、なお血のにじむ断口を見て、口を開きかけたが、何も言えなかった。


 ---


 そのころ、サンタリア科学技術総局の外。


 ディスコルディアはポレモスのわきに立ち、白い髪が蒸気の中で微かに揺れている。


 ポレモスの両腕は絶え間なく蒸気を噴き出し、手のひらの上の歯車が凸凹でこぼこと動き、規則正しいカチカチという音を立てている——それは彼が戦争の準備じゅんびをしている証だ。


「見えたか?彼女は去ろうとしている」


 ディスコルディアが小声で言う。


「分かっている」


 ポレモスは振り返らない。


「彼女が去るのは、むしろ良い選択だ」


「ほう?」


「誰かが彼女を予定より早くここに来させた。予言を変えようとしてな」


 彼の声は歯車がてつ軌条レールくように響く。


「しかし彼女が去ることを選んだ。それはまさに予言が変えられぬことの証明しょうめいだ。彼女が予定より早くフィトゥーラの目を手に入れたとしても——それでも、何も変えられぬ」


「つまり……私はもう、これ以上何かする必要はないと?」


「いや」


 ポレモスが振り返る。あの歯車のまった隻眼せきがんが彼女を凝視ぎょうしする。


「ディスコルディア、お前はまだ、お前の電撃でんげきをこの大陸中にめぐらせる必要がある。ここだけでは全く足りぬ。私が望むのは征服だ。小競こぜいではない」


 ディスコルディアはすぐには答えなかった。


「お前が誰も信じていないことは分かっている」


 ポレモスは続ける。


「自分自身さえも信じていない。お前の『誤解』は呪いのように、お前を全世界から——そして自分自身からさえも——いている。しかし私は約束した。お前の呪いを消し去り、審判廷の追跡者ついせきしゃどものおかしからお前を守ると。今、奴らが来た。まさに私がそれを証明する時だ」


 彼は一瞬間を置く。


「そして、お前も分かっているはずだ——騎士として、何が必要かを」


 ディスコルディアが顔を上げる。


忠誠ちゅうせいちかうにふさわしい、世界で最も美しい娘だ」


 数秒の沈黙。


 そして、ディスコルディアは微笑んだ。


 その笑みはとても軽く、一瞬いっしゅんで消え、錯覚さっかくのようだ。


「では、見せてもらおうかしら、ポレモス」


まさこころのまま」


 彼女の名がどれだけ長くとも、肩書かたがきなど一切付けずに姓名せいめいを呼ぶこと——それはポレモスにとって、彼女への最大の敬意だった。


 ---


 遠く、審判廷の旗がはっきりと見え始めている。


 戦争が始まろうとしている。


 しかしモーリガンは遠ざかっている。


 そして、あの断たれた腕が残した血の痕は、ケーリスの疾走と共に、空の中に見えざる軌跡きせきを描いていた。

ディスコルディアとポレモス、なんだかんだで気になる組み合わせですよね?でも、このペアをちょっと応援したいな…って思っている方(そして私も)に、軽く言い訳をしておきたいんです。

これはポレモスの一方的な…なんでしょうね、執着?憧れ?でも、ディスコルディアにとっては、もしかしたらまたしても「誤解」の範疇を出ない出来事なのかもしれません。だって彼女、本質的に誰も信じてないですからね…。

これ以上は…ここまでにします!(笑)

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