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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
誕生と虫の羽

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第五章

 モーリガンは馬車を降りた。


 彼女は馬たちの頭上にまとわりつく一団の灰霧はいむを見た――粘稠ねんちゅうで、ゆっくりと渦を巻き、生けるかせのようだ。


 それは、痛みだった。


 全てを忘れてしまった痛み。


 ***


 馬たちはそこに立ち、眼はうつろだった。


 彼らはもう、自分が馬であること、立ち方、呼吸する本能さえも忘れてしまっている。


 やがて、一頭また一頭と、倒れていった。


「お嬢様! これはどうすれば……」


 御者ぎょしゃは眼の虚ろな、次々と倒れていく馬たちを見つめ、声を震わせた。


「先の道……進めません」


「あなたは遠回りして、別の場所へ行きなさい」モーリガンの声は驚くほど平静だった。「誰かを呼んで手伝ってもらい、馬を替えなさい」


 彼女は少し間を置いた。


「そして、これらの馬を……安らかに眠らせてあげなさい」


「は、はい……」


「覚えておきなさい」彼女は振り向き、御者を見た。「こんなけむりに遭ったら、避けるのよ」


「わ、わかりました……」


 ***


 御者は、唯一まだよろめき歩ける一頭の馬の手綱を引き、背を向ける時、恐怖で肩をすくめていた。


 しかし、彼が最初の一歩を踏み出した瞬間、縮こまった背筋が忽然と伸び、歩幅は精確で安定したものへと変わった――何かのスイッチが切り替わったかのように、全ての震えが彼の身からすっかり消え去り、不気味なほど速かった。


 モーリガンはしゃがみ込み、一頭のたおれた馬のたてがみを撫でた。その動作は慣れた様子で……痛ましいほどだ。


「アマラート」彼女は立ち上がった。「私たちだけで向かうしかないわ」


「でも、私たちも入れませんよ?」


 アマラートは首をかしげた。


「降りたところで、何の意味が?」


「中に入らなければ」モーリガンはますます濃くなる灰霧の方を見た。「ここは、父上が明記した、必ず行くべき場所だ」


「どこの場所が『行かなくてもいい』って言えます?」アマラートは笑った。「道は自分で選べると、言いましたよね」


「でも、この町の人たちはどうするの?」


「どうしようもないんじゃないですか?」


 アマラートは霧の縁まで歩み寄り、指を伸ばし、灰霧が指先に絡みつくに任せた。


「死んでいないだけで、要するにぼんやりと生きているだけ。彼らは何も覚えていられない――昨日も、今日も、たった今の一瞬さえも」


「それはどうやって知ったの?」モーリガンは彼女を見つめて尋ねた。「これは呪いなの?」


「そうでもあり、違ってもあり」


 アマラートは手を引っ込め、灰霧は彼女の指先から滑り落ち、何の痕跡も残さなかった。


「生まれる前のことを、あなた様はいくつか覚えていらっしゃいますか?」


 彼女は振り向き、灰色がかった光の中で目を異様に輝かせた。


「あなた様のような特別な力を持つ子供は、たくさんいるでしょう?」


「どうして知っているの?」


「普通の子供で、生まれてすぐに喋る子がいます?」


 アマラートは一歩近づいた。


「この世界には、そんな『奇妙な』子供たちが少なからず現れています。だからこそ、あなた様の父上はこの地図を持ち、これらの注釈を付けているのです」


 彼女は一呼吸置いた。


「ましてや、あなた様は最も特別な方なのですから」


「『痛い』」彼女はあの音節をそっと復唱した。「魂を本当に刺し貫く感覚」


「父上が教えたの?」


「はい」


 アマラートの笑みが深くなった。


「だからこそ、私はこれほどまでにあなた様を信奉しんぽうしているのです、主君」


 ***


 アマラートは再び霧を見つめた。


 彼女のような存在にとっては、そっと撫でるだけでは、一陣のそよ風を撫でるのと変わらない。


「あなた、この霧が怖くないの?」モーリガンが尋ねた。


「あなた様の痛みに比べれば」アマラートは言った。「取るに足らないものです」


「じゃあ、あなたが入りなさい」モーリガンは彼女を見つめた。「その特別な力を持つ子がどこにいるか、探して」


「それはできません」アマラートは首を振った。「私は単独行動を許されていませんから」


 ***


 そう言いながら、彼女は手を上げ、そっと自身の衣襟いきんをはだけた。


 モーリガンの息がわずかに詰まった。


 彼女は今まで気づかなかった――アマラートの胸元に、一輪の花が咲いている。


 そしてその花の上に、一羽のちょうが止まっている。


 本物の刺繍ししゅうのように精緻せいちだが、鼓動こどうごとに微かに起伏し、色を変えている。


「もし心拍のリズムが違えば」アマラートの声はとても軽い。「形まで変わるんですよ」


 言葉が終わらないうちに。


 彼女は突然、指をぴんと張り、予告なく、疾風しっぷうのように自分の喉元へと振りかぶった!


 ***


 指は彼女自身に触れることはなかった。


 モーリガンがケーリスを操ったからだ――あの影の塊が彼女の腕の中から忽然と射出し、真っ黒な障壁と化し、この突飛な自傷行為をがっちりと阻んだ。


 アマラートは止まった。


 彼女はうつむき、自分の胸元を見下ろした。


 あの蝶が……変わっていた。


 少し大きくなり、羽の縁に、波状の紋様もんようが加わっている――その紋様の曲線は、なんとモーリガンが今、驚きでわずかに見開いた目の形と、微妙に似ていた。


「ほらね」


 アマラートは顔を上げ、笑みにはある種の満足感が宿っていた――だが、その満足の奥底に、かすかで、ほとんど察知できない、悲哀ひあいに近い諦観ていかんが混じっている。


「変わりました。だから、おわかりですよね、主君?」


 彼女は衣襟を直し、指先を刻印こくいんの上に一瞬留めた。


「この蝶は……あなた様によって、変わるのです」


 ***


 短い沈黙。


 モーリガンの視線はアマラートの胸元に留まる――大きくなったあの蝶が、衣襟の下で微かに羽ばたいている、まるで本当に呼吸しているようだ。


 彼女は忽然、聖殿せいでんで水晶に封じられていた標本を思い出した。父は、あれを「永遠えいえんの美」と呼んだ。


 では、この生きている、変化する蝶は?


 何なのだろう?


「もう二度と、そんなことをするんじゃない」モーリガンの声は冷たくなった。「言ったはずよ、そんな姿は好きじゃないって」


「でも、これがあれば、あなた様がどこにいらっしゃるかまで教えてくれますよ」アマラートは聞こえていないかのように、独り言を続けた。「ですから、あの変な符号ふごうはもう描かないでくださいね。前に、あなた様が奥の間にいらして突然『消えた』時……」


 彼女は自分の耳を指差した。


「ここが、左右の脳が喧嘩してるみたいに、うるさくてね」


「……わかったわ」


 モーリガンは視線をそらした。心の奥底では、ある声が問いかけている:この刻印は、私を監視しているだけなのか、それとも……私たちをつないでいるのか?


「じゃあ、どうやって入るか、考えましょう」


 ***


 ケーリスは、モーリガンが腕を下ろした時、アマラートの胸元から滑り出ていた。


 それは生ける影のように、音もなくモーリガンの首に絡みつき、彼女のあごに親しげに擦り寄った。


「もう、こんなに従順じゅうじゅんにさせられたんですか?」アマラートは眉を上げた。


「さすがに」モーリガンは手を伸ばし、そっとケーリスの冷たい「身体」を撫でた。「あれだけ泡を食べさせたんだから。私が一番安定した食料源だって、わかってきたんだろう」


 彼女は一呼吸置き、視線がついアマラートの胸元の位置を盗み見る。


「何か別のもので繋がれている、ある存在とは違って」


 この言葉はとても軽く言われた。


 アマラートは聞き逃さなかった。彼女の顔の笑みは深くなったが、瞳の中に一瞬、極めて短い、痛みに似た微光が走った。


「で、」彼女は近づき、灰霧を見つめ、口調は再び軽やかになった。「どうやって入るおつもりですか?」


「わからないわ」


 モーリガンは正直に言った。


「私はあなたとは違う。でも、この霧にむやみに触れるのも怖い」


 ***


 アマラートはしばし沈黙した。


 灰霧が彼女の前でゆっくりとたぎり、何かを待っているようだ。


「では、私がヒントを差し上げましょうか?」彼女はついに口を開いた。


「どんな助言?」


 アマラートの視線が悠遠ゆうえんになり、眼前の灰霧を貫き、何か別のものを見ているようだった――おそらくは忘れ去られた過去を、あるいは彼女自身も説明できない何らかの記憶を。


「『今』を溺れ死にさせる霧は」彼女の声は軽く、自分以外の誰かの詩句を吟誦ぎんしょうするようだ。「『過去』のいかりを沈めはしない」


 モーリガンははっとした。


「……それ、どういう意味?」


「これ以上は言えません」


 アマラートは背を向け、灰霧に背を向けた。彼女の顔に常にある笑みがいくらか薄れ、珍しくも戸惑いに似た表情をのぞかせた。


「だって……」


 彼女は言葉を切り、指が無意識に胸元の刻印を撫でる――蝶の羽が彼女の掌の下で微かに熱を持っている。


「私もただ、一句の……刻印の奥から伝わってくる言葉を繰り返しているだけです。それが結局何を指しているのか……」


 彼女の声は次第に細くなっていく。


「正直なところ、私にもよくわからないんです」


 モーリガンの視線はアマラートの背中から、眼前に滾る灰霧へと移った。


 最後に、自分自身の腕の、ケーリスに属する冷たく確かな影の上に落ちた。


「過去の錨……」


 彼女は小声で復唱する。


 ケーリスは彼女の思索を感じ取ったようで、微かな喉鳴のどなりを立てた。


 一つの考えが電光のように走る。


 ――もしこの霧の真髄しんずいが「今」の知覚を溺れ死にさせることにあるなら、そもそも「古き過去」に由来し、その存在自体が「孤寂」の化身である命は、まさにこの霧の天敵では? その「存在」こそが、最も重厚な「錨」かもしれない。

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