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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
暗湧く白

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第五十六章

 アイウェシルが旅立ってから、スタシスは城中を落ち着かずに歩き回っていた。


 彼女は回廊を抜け、また引き返す。靴音が石板を叩く音が、がらんとした空間に焦燥感を刻みつける。


 窓の外は既に暮色が沈み、封鎖線の向こうの陣営は灯りで明々と輝いている——人魚と蒸気兵たちがこのまま引き下がるはずがない。必ず誰かが追跡に向かうだろう。


 しかし彼女はここで待つことしかできない。


「Ú-·, Aewithil. A·, na··, Tinúviel.(アイウェシルは大丈夫よ、小さな星。さあ、座って食事にしましょう)」


 食卓の向こう側で、アイランサーの声は凪いだ水面のように穏やかだ。まるで取るに足らない日常の話でもするかのように。


 封鎖下にあるとはいえ、エルフたちの精緻さは変わらない。


 銀器は磨き上げられ、燭台の火は揺らめき、皿には丹精込めて調理された料理が並んでいる。


 しかしスタシスには一口も喉を通らなかった——それらの食物は今、まるで蝋で作られた供物のように、ただ儀式を済ませるためだけに彼女の前に置かれている。


 アイランサーはそれに気づかない。彼女は美味しそうに食事をし、挙句には侍従に合図して、銀の盆をスタシスの前に押しやらせた。


 盆の中のものを見て、スタシスの指先が微かに強張った。


 ——それは、一つの人魚の頭だった。


 綺麗に処理され、眼窩には二つの漿果が嵌め込まれ、鰓膜は見事に黄金色の唐揚げにされ、整然と両側に並べられている。


「I·, eth·? Le·, eth·.(やっぱり頭が好きなんでしょ?あなた、これが脳に良いって言ってたものね)」


「Ú·, naneth. I·, eth·.(結構です、母さん。もう断ってます)」


「Manen·, eth·?·, eth·? I·, eth·.(何年か外に出ただけで断つようになったの?きっと他所にはこんな美味しいものがないんでしょ?一口食べてごらんなさい。やっぱり好きだって分かるから)」


 スタシスは母の言葉に従って腰を下ろした。


 しかし、その人魚の頭が本当に自分の前に置かれると、彼女はいつまでもナイフとフォークに手を付けようとしなかった。


 あの鰓の唐揚げが、彼女に遠い昔のことを思い出させる——母が初めてこんなものを彼女の前に押し出した時の光景を。


 あの頃、彼女はまだ幼く、皿の上のものがなぜ自分とは違う顔をしているのか理解できなかった。


 その後、彼女は理解した。


 そして後年、彼女は旅立った。


 しかし今、ここに座っていると、すべてが原点に戻ったかのようだ。


 彼女たちにも……どこかに「家族」と呼べる者がいたのだろうか?


 その思いは一瞬走り、彼女が掴む間もなく過ぎ去った。


「Ú·. I·, eth·. I·, eth·, eth·.(いいえ。こんなお肉を食べたら太ってしまいます。私は健康的なものを少しだけいただきます)」


 アイランサーは彼女を見つめた。その目に、何かが沈んでいく。


「I·, eth·, Stassë.(やっぱり私から離れて長くなりすぎたのね、スタシス)」


 その声は依然として優しい。しかしスタシスが嫌というほど知っている、抗いがたい重みを帯びている。


「I·, eth·. I·——ir·, eth·, eth·.(これは命令よ。食べなさい——まだ私を母と思うなら)」


 ---


 スタシスのナイフとフォークが、ゆっくりと下ろされる。


 彼女はこのことを、これまで誰にも話したことがない——恥ずかしいからではない。自分でも説明ができないからだ。


 なぜ、いつもこうなのか。母がこの口調で話すたび、彼女の手は意志に先んじて動いてしまう。


 まるで糸に操られる操り人形のように。


 まるで飼いならされた幼い獣のように。


 彼女はいつも自分の側に問題を探してきた。


 特に父の事件の後、あの夜のことを何度も何度も反芻した——あの時、自分が飛び出していれば、あの時、大声で叫んでいれば、もし自分が……


 しかし、その全ては起こらなかった。


 だから彼女は、より従順になることを覚えた。より完璧に。より非の打ち所がないように。


 そうすれば、母はあの優しい眼差しで彼女を見る。そうすれば、あの悪夢たちは深更に彼女を呑み込むことはない。


 そしてまた、母の言葉に従ったからこそ、スタシスは自らの体内のある異変に次第に気づいていった——それは神の欠片の烙印であり、まだ自覚すらしていない多くの同族よりも早く覚醒したのだ。


 これはアイランサーを格別に喜ばせた。


「I·, eth·, Tinúviel.(あなたはますます完璧になっていくわね、小さな星)」


 彼女はスタシスの頬を撫でた。その指先は、まるで完成間近の芸術品に触れるかのように優しい。


「I·, eth·.(これこそが、私の望んだものよ)」


「I·, eth·, naneth.(すべて母さんのおかげです)」


 スタシスは静かに応えた。


「Mal i·, eth·, Tinúviel.(でも、あと一歩足りないのよ、小さな星)」


 スタシスが顔を上げる。


「I·, eth·.(婚姻)」


 アイランサーは言った。


「I·, eth·——i·, eth·? I·, eth·.(あなたの子孫を遺しなさい——それは神の子を遺すことと同じではないかしら?あなたの父さんも喜ぶわ)」


「Ú·, eth·.(あの人は私の父じゃない)」


 スタシスの声に初めて動揺が走った。


 アイランサーは答えなかった。


 彼女はただ静かに彼女を見つめていた。その目に非難はない。ただスタシスには読み取れない、ほとんど憐れみに近い優しさだけがある。


 ---


 あの頃、母はまだ彼女を無理強いしてはいなかった。


 ただ言った。適任者を見つけてから、その家と話し合いなさい、と。


 そこでスタシスは数え切れないほどの者たちに会った——貴族の公子、遠方の使者、果ては噂を聞きつけた異種族の旅人まで。


 誰一人として、彼女を満足させる者はいなかった。


 ここがあと少し完璧でないか、あそこが少し足りないか。


 そして時は、こうして一日また一日と過ぎていった。


「I·, eth·, heri nín?Ú·, eth·.(彼女はいつまで選り好みを続けるおつもりですか、領主様?私たちはもう待てません)」


 幕僚たちが焦り始めた。


 アイランサーは玉座に端座し、長く沈黙した。


「I·, eth·,(やむを得ないことではあるけれど、)」


 彼女はようやく口を開いた。口調はいつも通り、まるで今日の夕食の献立を話し合うかのように。


「Mal i·, eth·, eth·. I·, eth·? I·, eth·.(しかし、確かに引けば引くほど何も得られなくなるわ。部外者はあの空のエルフたちのことを天使と呼ぶんでしょ?彼らがきっと適任かもしれないわね)」


「Nan, mel nín. Im·, eth·.(そうですね、愛しい人。私もそう思います)」


 傍らのカルロスが言った。


 ——カルロス。


 彼女の父を殺し、そして彼女の母と結婚した男。


 今、その温和な目で彼女を見つめている。まるで本当に彼女の幸せを気遣っているかのように。


 スタシスは反論しなかった。ただうつむき、その全てを腹の奥に呑み込んだ。


 アイランサーは元来、空のエルフだった。


 若い頃、玉座に座るのに便利なように、自らの手で己の翼を斬り落としたのだ。


 だから当然のように、スタシスは空のエルフと婚姻すべきだった——それは血脈の継承であり、伝統の招きだった。


 しかしスタシスは、それを望まなかった。


 そして婚礼前の祝宴の夜、警備の最も緩んだ瞬間に、彼女は逃げ出した。


 ---


 その後のことは、彼女は断片的に聞いただけだ。


 母はやむを得ず、アイウェシルに代わりをさせて婚姻させた。


 婚約は既に調印済みで、一方が違反すれば相手方に宣戦布告される。


 しかし意外なことに、婚姻を担当するはずの小さな王子が突然の重病で倒れた。彼は幼い頃から翼に畸形があり、結婚適齢期まで生き永らえたこと自体が奇跡だった。


 小さな王子の死は、合理的に婚約を終了させた。


 そしてカルロスは、スタシスの無断出国のせいで、日増しに痩せ細っていった。


 親友を殺したその男は、残りの人生をかけて己の過ちを償おうとしながらも、己の決断によって守りたかった娘を追い出してしまったのだ。


「I·, eth·, mel nín. I·, eth·.(彼女は戻ってきますよ、愛しい人。早くお休みなさい)」


 アイランサーは毎晩、そう彼を慰めた。


「Ú·, eth·.Ú·, eth·. Ir i·, eth·? I·, eth·, eth·?(いや、眠れないんだ。彼女がどこへ行ったのか分からない。もし迷子になったらどうする?悪者に騙されて傷つけられたらどうする?)」


 カルロスは窓の外を見つめた。


 この心配は次第に執念へと増幅されていった。彼は大陸中をひっくり返してでも、あの消えた影を見つけ出そうとした。


 しかし彼の部下たちは、彼ほど優しくはなかった。彼らは隣国の城に押し入り、民家に闖入し、まるで盗賊のように捜索した。


 隣人たちの不満は積もって怨みとなり、怨みは憎しみとなった。


 しかしカルロスは知らなかった——あるいは、知る由もなかった——己がこの想いを、すでに病へと変えてしまっていたことを。


 そう長く経たずして、彼は病没した。


 アイウェシルが領主の座を継いだ。


 アイランサーは表舞台から退き、静かに娘の背後に立っている。まるで沈黙の像のように。


 ---


 今、スタシスは戻ってきた。


 あの人魚の頭はまだ彼女の前に置かれ、海の香りを漂わせている。


 彼女の手の中のナイフとフォークが微かに震える。


 食べたくなくても、彼女の筋肉の記憶は従うよう命じている。


 これは数十年にわたる飼いならしの結果であり、いかなる鎖よりも強固だ。


 彼女は一片の鰓の肉を切り分け、口に運んだ。


 やはり、美味しい。海の味がする。かつては最も慣れ親しんだ、しかし今は胃の裡が逆流するような生臭い甘さが。


 アイランサーは微笑んだ。


「Nan, Tinúviel. I·, eth·.(そう、それでこそ私の言いなりになる小さな星よ)」


 彼女はナイフとフォークを置き、その目をスタシスの顔に留める。その優しさは、背筋を凍らせるほどだ。


「Ir i·, eth·, Tinúviel——(もしあなたの妹が戻って来なかったら、小さな星——)」


 彼女は一瞬間を置いた。


「I·, eth·i·, eth·.(私はあなたに、本来あなたが座るべき席に座ってもらわなければならない)」


 スタシスが顔を上げる。


「A·,(それに、)」


 アイランサーの声は依然として柔らかい。しかしスタシスは身の裡に徹すような冷たさを感じた。


「I·, eth·im.(あなたは私を妻にしなければならない)」


 スタシスの手からナイフとフォークが滑り落ち、磁器の皿にぶつかって耳障りな鋭い音を立てた。


「Manen?!(何て?!」


「Ú·, eth·, Tinúviel.(知らないと思ったの?小さな星)」


 アイランサーは立ち上がり、食卓を回り込んで、彼女の背後に歩み寄った。


 かつて翼を斬り落としたその手が、そっとスタシスの肩に置かれる。


「Ir i·, eth·,(完璧を追求するあなたのことよ、)」


 彼女の声が耳元で響く。温かな吐息が髪を撫でる。


「I·, eth·i·, eth·?(あなたが本当に……一つの性別にだけ囚われると思うの?)」


 スタシスの背筋が凍りついた。


「I·, eth·, eth·,(器官なんかはもちろん無理だけど、)」


 アイランサーの指が徐々に強まる。


「Mal i·, eth·——i·, eth·, eth·?(でも子孫を遺すことなら——きっとあなたなら何とかする方法を考えつくのでしょ?)」


 彼女は身をかがめ、唇がほとんど娘の耳に触れんばかりに。


「A i·, eth·i·, eth·.(そしてあなたには、あなたを支える妻が必要よ)」


「Naneth.(母さん)」


 スタシスの声は掠れて、ほとんど聞こえない。


「I·, eth·i·, eth·?(自分が何を馬鹿なことを言っているか分かってるの?)」


「I·, eth·?(馬鹿なこと?)」


 アイランサーはそっと笑った。


 その笑い声に温もりはない。ただスタシスが一度も聞いたことのない、ほとんど哀切に近い静けさだけがある。


「Ir i·, eth·i·, eth·.(玉座に座れるなら、相手が誰でも構わないのよ)」


 彼女は背筋を伸ばし、うつむいて己の強張った娘を見つめた。


「——Ir i·, eth·i·, eth·.(——もう私の言うことを聞かないというのなら別だけど)」


 スタシスは猛然と顔を上げた。


 彼女は母を見つめた——その永遠に優しく、永遠に完璧な顔を。


 その目に今映っているのは、娘ではない。もう一つの目だ。


 その目を、彼女は父が倒れたあの夜に見た。


 あのエルフたちの狂気の目の中に見た。


 あの白光が走った後、全ての者の顔に浮かんだ、寸分違わぬ虚ろの中に見た。


「……Naneth.(……母さん。)」


 彼女の声はとても軽い。まるで何かを壊してしまわないかと怖がるように。


「I·, eth·——i·, eth·, eth·?(あの政変は……まさか私が考えていたようなものではなかったの?)」


 燭台の火が揺れる。


 アイランサーは答えない。


 彼女の表情は依然として恬淡としている。ただ静かに彼女を見つめているだけだ。


 その目に渦巻くものは、スタシスには読み取れない——警告のようにも、憐れみのようにも、あるいはあまりに長く抑圧され、ついに溢れ出さんとしている真実のようにも。


 窓の外、夜は墨のように濃い。


 遠く、封鎖線の灯りはなお燃えている。


 そしてこの、牢獄のように精緻な城の中で、何かが、静かに砕け始めている。


 スタシスはうつむき、皿の中の骨だけになった人魚の頭を見つめる。


 その眼窩は虚ろだ。


 まるで何かを振り返っているかのように。


 また、何かを待っているかのように。


 彼女はふと、母が先ほど軽く口にした言葉を思い出した——


「相手が誰でも構わないのよ」


 誰でも構わない。


 構わないのだ。


 その言葉が静寂の中に繰り返し反響する。まるで一本の針のように、彼女の痺れきった神経を一つ一つ刺す。


 左腕の断端が、突然、微かな震えを伝えた。


 とても軽い。


 まるで遠く離れた場所から、何かが彼女をそっと叩いたかのように。


 モーリガン……


 あなたなの?


 その震えはすぐに消えた。


 しかしその一瞬、彼女は何かを感知した——


 映像でもなく、音でもない。


 ただ極淡い感情だけが。


 誰かもまた、待っているかのような。


 また、誰かも、口に出せない問いを心の裡で問うているかのような。


 スタシスは顔を上げた。


 アイランサーは依然としてそこに立ち、うつむいて彼女を見つめている。


 燭台の火がその目の奥深くに映る。まるで決して消えることのない、奇怪な二つの灯火のように。


 スタシスはふと気づいた——


 母は彼女の問いに答えなかった。


 答えを知らないからではない。


 なぜなら……


 その答えを、彼女は初めから話すつもりなどなかったのだ。


 静寂が潮のように、殿堂全体を覆い尽くす。


 遠く、封鎖線の方角からまた鈍い音が響き、炎の光が夜空に一瞬輝き、また暗くなった。


 アイランサーがようやく動いた。


 彼女は背を向け、扉の方へ歩いていく。


「おやすみなさい、ティヌーヴィエル」


 その声が背中から聞こえる。依然として優しい。


「明日はまだ、やるべきことがたくさんあるのだから」


 扉が背後でそっと閉じられた。


 スタシスは独り、その場に座り続ける。


 燭台の火が彼女の影を壁に投げかける。長く、とても孤独だ。


 彼女はあの人魚の頭の虚ろな眼窩を見つめ、窓の外の明滅する火の光を見つめ、自分自身の空っぽの左袖を見つめる。


 そして、彼女はうつむき、顔を掌の中に埋めた。


 何かが、彼女の心の底で、静かにひび割れている。


 悲しみではない。


 悲しみよりも深い、彼女がまだ触れるのを怖がっている何か——


 あの政変。


 あの白光。


 母の目。


 そしてあの言葉——


「相手が誰でも構わないのよ」


 夜風が窓の隙間から忍び込み、燭台の火を揺らめかせる。


 明滅する光の中で、スタシスはふと遠い昔、母に抱かれて歌ってもらったあの古い子守唄を思い出した。


 歌詞はもう思い出せない。


 ただ、その調べがとても優しかったことだけを覚えている。


 まるで決して醒めることのない夢のように優しく。


 しかし今、その調べが彼女の脳裡に反響する時、彼女の背筋は凍りつく。


 なぜなら、その優しさの底に、何かが潜んでいるように思えるから。


 ずっと潜んでいる。


 ずっとずっと昔から。


 彼女がまだ「真実」というものを知らなかった頃から。


 窓の外の火の光がまた一瞬、輝いた。


 スタシスは顔を上げ、あの火の光に染まった夜空を見つめる。


 左腕の断端の、あのあったようななかったような暖かみは、とっくに消え去っている。


 しかし彼女には分かる——


 あれは彼女の錯覚ではない。


 ずっと遠くの場所で、誰かが彼女と同じように、起きている。

元々、アイランサーをここまでの人物にするつもりはなかったんですけど…でも、権力を追い求める人って、本当に何でもやりかねないですよね?

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