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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
暗湧く白

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第五十三章

 カロンの姿は渦の中心に消え、あの淡い青色の煙の霞もろとも呑み込まれた。


 氷の上には、海獣の肉が整然と切り分けられた跡と、一枚の溶けゆく流氷だけが残されている。


 カリオペは硬くなった顎をそっと動かしてみた。


 彼女の口と鼻を覆っていたあの流動体の薄い膜は、カロンが去った後も頑なに貼り付いていた——彼女の指先が氷の縁に触れるまで、その膜はようやく潮のように静かに滑り落ち、一筋の細い流れとなって、主人の後を追い深海へと消えていった。


「あの人魚、まったく話しづらい奴だったな」


 カリオペは腕を突いて氷の上に這い上がる。鱗の水滴が暮色の中で幽かな碎光を放つ。


「でも、あの様子を見ると……確かに酷い目に遭ってるな」


 ヘマリスは彼女の脇に立つ。浅い灰色の長い髪が海風に煽られては靡く。


 彼女は何も言わなかった。


 なぜなら、あの光景は、彼女が水中で既に見ていたからだ。


 ——あの流動体が凝って銃となり、カリオペのこめかみに当てられた瞬間、彼女の意識はほんの一瞬、あの流れる物質と交錯したのだ。


 ほんの一瞬だった。


 しかし、その一瞬で、あの深い藍色に近い黒い長い髪の下に隠されたすべてが、決壊した堤防のように彼女の眼底に流れ込んだ。


 痛みと憎しみだけではない。


 彼女が死に瀕した時、どこからともなく訪れた電流にどうやって縋りついたか、如何に傷ついた体を引きずって族群の元へ這い戻ったか、同族たちの恐怖と期待に満ちた視線の中で、少しずつ二本の脚で立ち、流動体で戦うことを覚えたか。


 そして、ようやく族長の座に立ち、振り返ってあの汚染された海域を見た時、その眼底にあったのは復讐の歓びではなく、一片の重く沈んだ、ほとんど麻痺に近い責任感だった。


「強さは、好き勝手するためのものじゃない」


 彼女は記憶の中で、死んだある同族にそう言っていた。


 ヘマリスはその言葉も一緒に伝えた。


 オネイリはいつの間にか髪の間に縮こまり、濡れた顔を半分だけ出している。


「そうだよな」


 彼女の声には夢の生き物特有のぼんやりとした響きがある。


「ヘマリスが見れたんなら、俺たちが潜る意味ってなんだったんだ?」


「カロンが約束を守るかどうか、確かめるためだ」


 モーリガンの答えはとても軽い。その視線はまだ海面の、消えゆく波紋に落ちている。


 彼女は誰にも言っていない——


 今、彼女の左目の視野には、あのカロンの数値を示すコードが、まだ浮かんでいる。


 戦力:計り知れず

 弱点:[死][治癒不能]

 忠誠度:——

 苦痛深度:99.7%


 最後の項目の数値は、一度も下がっていない。


 カロンがあの過去を語った時、その口調はまるで他人の運命を論じるかのようだった。


 しかし、彼女の身に刻まれた「痛み」は、決して癒えていない。


「でもあの女、はっきり言ったぞ。俺たちの行く手を遮るなってな」


 カリオペは服の裾を絞る。


「……なのに、俺が氷の上に足をかけるまで、流動体を引っ込めなかった」


 彼女は一瞬間を置く。


「放っておいても良かったのに」


 モーリガンは何も言わなかった。


 ただ右手を上げ、そっと左腕のあの山川の紋様に触れた。


 応えはない。


 紋様は冷たく、スタシスはいない。


 ——彼女は人魚たちが連れ去った方向に、檻の中で、帰路に、そして、もう故城に着いたかどうかも分からない場所にいる。


 モーリガンは手を引いた。


「そうだ」


 カリオペが突然顔を上げ、周囲を見回す。


「アマラートは? まだ上がってきてないのか?」


 ヘマリスも海面を見る——消えゆく波紋の他には、何もない。


「カロンが行ったら、すぐにでも口の膜を回収されるかと思ってな、俺は上がるだけで精一杯で、彼女のことまで見てられなかった」


 カリオペは一瞬間を置き、声を潜める。


「あいつ……まだ、下にいる」


 モーリガンの指先が宙に止まった。


 沈黙が、海水のように押し寄せる。


 オネイリの角が微かに震えた。


 彼女はモーリガンに一番近く、「ミント畑」と呼ばれる意識の領域に、ある微かな波紋が広がっているのを感じ取っていた。


 恐怖じゃない。


 怒りでもない。


 それは、無理やり押し平らげられた焦燥だ。


 左目の視野に、一連の数字が音もなく飛び込む。


 928——抑圧されている焦燥


 同じコードが、三回、繰り返された。


 監視の眼は、こんなふうに繰り返したりはしない。


 モーリガンは一度目を閉じた。そして再び開いた時には、その数字は消えていた。


「彼女は、下で無事なのか?」


 その声は依然として平穏だ。


「まだ、力はあるのか?」


 一瞬間を置く。


「……まだ、息はしているのか?」


 カリオペは一瞬、呆けた。


 彼女はこんなモーリガンを見たことがなかった。


 いや、見たことがある。あの「作品展示会」で、アマラートが布切れの中から現れ、女神に連れ去られた瞬間、モーリガンの眼底に走ったのも、この光だった。


「心配するな」


 カリオペは声のトーンを和らげた。


「あの娘は……深海なんて、奴にとっちゃ絶境どころか、故郷みたいなもんだ」


「水の中で笑ってるし、喋ってもいる。まるであの海が、元からあいつの一部だったみたいにな」


「なら、なぜまだ上がってこない?」


 オネイリの声が髪の間から聞こえる。ほとんど気づかれないほどの震えを帯びて。


 彼女はもうこの海にうんざりしていた。


 しかし急かすことはできない。


 モーリガンが何を待っているのか、分かっているからだ。


「……何か、探しているのかもしれない」


 モーリガンが言った。


 その声はとても軽い。まるで自分自身に確認するかのように。


「あの娘は、無意味なことなんて、絶対にしない」


 一瞬間を置く。


「私は、彼女を信じている」


 暮色が次第に濃くなる。


 海面には、哨戒隊の照明用ブイだけが一つ二つ、まるで閉じることを拒む眼のように浮かんでいる。


 誰も言葉を発しない。


 彼女たちは皆、待っている。


 ---


 深海。


 アマラートはカリオペの姿が次第に小さく、ぼやけ、ついにはあのぼんやりとした天の光の中に溶けていくのを見ていた。


 彼女は後を追わなかった。


 あるものは、第三の目に見られるべきではない。


 彼女は背を向ける。


 さらに深く潜る。


 海水は蔚藍から藍青色へ褪せ、藍青色から墨色へと沈む。


 光はここでその意味を失う——呑み込まれたのではなく、光の方から諦めたのだ。


 アマラートの翼が闇の中でそっと広がる。翼膜の縁に、極淡い燐光が浮かぶ。


 その光は、三寸先の海水さえ照らし出せない。しかし、彼女自身の指先を見るには十分だった。


 彼女はさらに降りていく。


 舌は口腔内側の黒い膜を押す——痛みはまだある。それが、深まる水圧の中でも、彼女を覚醒させ続ける。


 主人はまだ、待っている。


 ようやく、彼女は止まった。


 足元はもはや海水ではない。一つの裂け目だ。


 それは、まるで古い傷跡のようだった。


 海底に忘れ去られ、決して癒えることのない、刀傷。


 縁の岩層は千年もの間、海水に蝕まれてきたのに、依然として角張っている——切り裂かれたその瞬間があまりに鋭利すぎて、時間さえもその角を丸めることができなかったかのように。


 それは、開かれていた。


 扉のない扉のように。


 アマラートは裂け目の縁に浮かんだ。


 この場所……彼女にはぼんやりとした見覚えがあった。


 記憶というより、胎動のような本能——血脈の最も深くに沈む何かが、そっと、試すように、叩いている。


 彼女は口を開いた。


「■■■。」


 その音節が彼女の唇の間から流れ出た。既知のいかなる言語にも似ていない。


 抑揚もなく、韻律もなく、記憶できる形さえも持たない。


 しかし、それは名前だ。


 口にすべきではない、聞かれるべきではない、いかなる生きとし生けるものにも記憶されるべきではない名前。


 静寂。


 ややあって。


「……■■■■■。」


 その声は深淵の底から昇ってきた。


「おいでなすったか」


 主語はない。


 敬称もない。


 しかし、その口調自体が、一つの確認だった。


 彼は、彼女が来ることを知っていた。


 彼はずっと待っていた。


 アマラートの口元が、ほんの僅かに弧を描いた。


「ものは?」


 その声はとても軽い。


 再び静寂が訪れた。


 そして、海溝の奥で、何かが動いた。


 海水ではない。静寂そのものだ——それが引き裂かれたのだ。


 一つの、ぼんやりとした、視覚では完全には捉えきれない影が、ゆっくりと浮上してくる。


 それは固定された形を持たない。しかし、うねる混沌の中に、かすかに「頭を垂れる」輪郭を描き出している。


 彼はアマラートの前に留まった。


 裂け目の縁より三寸、低い位置に。


 彼女の視線より一寸、低い位置に。


 そして——


 彼は、己を「開いた」。


 その影の中心に、静かに、折り畳まれた一枚のマントが横たわっている。


 その色は名付けがたい。夜よりも深く、深海よりも静かだ。縁は柔らかく、いつでも周囲の水流に溶け込んでしまいそうでありながら、それでいて流れの一つ一つの中で完全な輪郭を保っている。


 それは、とても軽い。


「無」で織られたかのように軽い。


 アマラートはすぐには手を伸ばさなかった。


 彼女の視線はマントの縁に落ちていた——そこには極小の文字が刺繍されている。


 その文字はいかなる既知の種族のものでもない。しかし、彼女の視線は、その上で、丸三秒、止まった。


 彼女は声に出して読まなかった。


 ただ指先でそっと撫で、そして素早くその布地を内側に折り畳んだ。


「……お分かりになったか」


 その声が再び深淵の底から昇る。疑問ではなく、確認だ。


 アマラートは答えない。


「彼が言われた。誰かが取りに来ると」


 その声はさらに軽くなって続ける。


「だから、俺はここで待っていた」


 誰を待つのかとは、問わなかった。


 誰に渡すのかとは、問わなかった。


 ただ、待った。


 アマラートは手を伸ばした。


 指先がマントの表面に触れた瞬間、深海全体が微かに震えた。


 ——それは恐怖ではない。


「果たすべき務め」の重荷が、ようやく肩から下りた、という証だ。


 同時に、彼女の胸腔の木質の心臓が、一拍、止まった。


 そして、それはより重い鼓動で再び動き始める——そのリズムには、アマラート自身も読み解けない感情が込められていた。確認のようにも、嘆息のようにも、そして、長く閉ざされていた一つの扉が、そっと押し開かれたようにも。


 彼は依然として、あの一寸低い姿勢を保っている。


 もう二度と、言葉を発さなかった。


 アマラートはマントを抱え、身を翻す。


 上へ、浮上する。


 背後で、あの海溝は依然として開かれている。


 しかし、今度は、その開かれた姿は、もはや埋められるべき傷跡のようではなかった。


 むしろ、ようやくそっと閉じることのできる、一つの扉のようだった。


 ---


 海面は、暮色が完全に沈み切っていた。


 モーリガンは依然として流氷の縁に立っている。


 左目の数字は、もはや跳んでいない。


 308——呼吸のたびに疼く痛み


 焦燥でもなく、恐怖でもない。


 それは、待つこと。


 このコードは、いつの間に現れ始めたのか?


 アマラートが消えてから三分後か?五分後か?それとも「彼女は、もう帰ってこないかもしれない」と意識した瞬間か?


 モーリガンには分からない。


 彼女にはただ、今この瞬間、ここで待つことを厭わない自分がいる、ということだけが分かる。


 オネイリは彼女の髪の間に縮こまり、夢の領域をとても静かに収めている。ただモーリガンの後頭部に、極淡い光の輪を残すだけだ。


 彼女は何も言わない。


 しかし、ずっと起きている。


 ケーリスがモーリガンの肩から影でできた小半面の顔を覗かせ、胸の星の渦がゆっくりと回転し、尾びれで時折、主人の鎖骨を軽く叩いている。


 カリオペは流氷の向こう側に足を組んで座り、竜の瞳でじっと海面を見つめている。


 彼女たちは皆、待っている。


 そして——


 海面が動いた。


 波ではない。裂けたのだ。


 無数の細かな水飛沫が、中央から左右に退き、天の光へと通じる一条の道を開いた。


 アマラートが、その道から浮かび上がった。


 翼は背後に畳まれ、翼膜の縁には細かな燐光が点々と輝き、一滴一滴、海へと落ちていく。


 彼女の腕には、折り畳まれた一枚のマントが抱かれている。


 とても軽く、とても静かに、彼女の胸の前に、大切に護られている。


 彼女は半空で足を止め、モーリガンの目と視線を合わせた。


 そして、彼女は微笑んだ。


「主人」


 その声は、少し掠れている。


「お待たせしました」


 モーリガンは彼女を見つめた。


 三秒。


 左目の数字が308から5406へ跳び、また戻る。


 そして、5406で止まった。


 私は、あなたのもの


 彼女はアマラートがどこへ行ったのか、尋ねなかった。


 彼女が傷ついていないか、尋ねなかった。


 彼女はただ手を伸ばし——この瞬間、唯一動かせる右腕で——そのマントを受け取った。


 手にした瞬間は、微かに冷たい。


 しかし、掌に触れた瞬間、極淡い暖かみが広がった。


 その暖かみはあまりに陌生まなじだ——しかし、一瞬、彼女に、とっくにぼやけてしまった、この旅路に属さない記憶の断片を思い出させた。


 これは……何だ?


「戻ったなら、それでいい」


 彼女は言った。


 アマラートは流氷の縁に降り立つ。海水が翼膜の縁から滑り落ちる。


 そして、彼女は気づいた。モーリガンがマントをしまわず、うつむいてそれをじっと見つめていることに。


「……アマラート」


「はい?」


「このマント」


 モーリガンの声が一瞬間、止まる。


「私のものじゃない」


 アマラートは何も言わない。


「私のマントはまだ車の中だ」


「はい」


 アマラートは静かに言った。


「これは、別のものです」


「それは、どこから?」


 沈黙。


 海風が、二人の間を吹き抜ける。


「……これは秘密です、主人」


 アマラートは言った。


 その声はとても軽いが、逃げはしない。


「今はまだ、お話しできません」


 一瞬間を置く。


「いつか、きっとお分かりになります」


 モーリガンは彼女を見つめた。


 アマラートは視線をそらさない。


 ややあって。


 モーリガンはうつむいた。


 指先が再びマントの縁を撫でる。


 その触り心地は……忘れかけていた体温のようだ。


 彼女は遠い昔——まだ父の書斎にいた頃——見た夢を思い出していた。


 夢の中で誰かが彼女にマントを掛け、「寒いときはこれを使え」と言った。


 目覚めた時、そばには何もなかった。


 しかし今、指先に伝わる温もりが、あの夢と重なったのだ。


 彼女は追及しなかった。


 ただそのマントを折り畳み、腕の窪みに抱えた。


「いいだろう」


 彼女は言った。


 夜風が海面を撫でる。


 遠く、オーケアノス港の灯りが、一つ一つ、灯り始めている。


 アマラートは、モーリガンが黙って、あの来歴不明のマントを護る姿を見ていた。


 彼女はモーリガンに言わなかった——


 このマントが、海溝の奥でどれだけ待っていたかを。


 彼女はモーリガンに言わなかった——


 マントを手にした瞬間、ルドスの鼓動が一拍止まり、そして新たなリズムで目覚めたことを。


 彼女はただ、静かにモーリガンの脇に立っている。


 海風はまだ吹いている。


 しかし、モーリガンは、あの遠い記憶の奥から掬い上げたようなマントを抱え、初めて思った——


 海風も、それほど寒くはない、と。

このマントなんですけど、実は最初から伏線として張ってあったものなんです。ただ、ちょっと細かすぎただけで。


そこで、ここで改めて触れておきますね。アマラートは第四十九章で、こんな考えを持っていました。彼女は、必要な時にモーリガンが他の“神の欠片”たちを黙らせることができるようになってほしい、と。というわけで、このマントは、そのための新しいアイテムとして登場したんですよ。

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