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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
雨街迷踪

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第四十七章

 無重力と風の唸りの中、ヘマリスは一片の暖かな深い水の中に堕ちていった。


 衝突の鈍痛も、溺れる窒息感もない——彼女は見えざる手に優しく受け止められ、ゆっくりと、ようやく開かれた記憶の扉の内へと送り込まれていく。


 ---


 目の前の光景が徐々に鮮明になる。


 それはまだ、心の川に完全に蝕まれてはいなかったカリオペだ。


 烙印はこめかみの片側にのみ蟠踞し、幽かな光の流れは抑制が効いて、澄んでいる。


 彼女は、額の辺りが滑らかな純血の竜の裔と交わっていた。


「ああ、ケーレン、愛してる!君ってば、本当に……」


 竜の裔の賛美が途中で止まる。


 カリオペが身を起こす。暗金色の瞳孔が薄暗がりの中で微かに収縮した。


「ケーレン?」


 その声はとても軽い。まるで壊れやすい虚像を確かめるかのようだ。


「違うわ、あなた。私はカリーよ」


「まさか、冗談だろう」


 相手は困惑して眉をひそめ、自然に手をカリオペの頬へ伸ばす。


「カリーなんて奴は、知らないな」


 その手は猛然と振り払われた。


「あなた、私とこんなに長く一緒にいて……」


 カリオペの声が震え始める。


「それなのに、私の名前さえ覚えていないの?」


「からかわないでくれ、ケーレン。君は最初からケーレンだ」


 カリオペは数秒間、彼を見つめ、ゆっくりと手を上げて扉を指した。


「……出て行って」


 扉が激しく閉められた。


 カリオペは冷たい壁に背を預け、ゆっくりとその場に滑り座り、顔を両腕の間に埋めた。


 嗚咽はない。ただ抑えられた呼吸だけが、静寂の中に異様に響く。


 ヘマリスはこの記憶を見ながら、胸の裡に滞った酸っぱい痛みが込み上げるのを感じた。


「族長になったところで、何の意味があるの……」


 しばらくして、カリオペは顔を上げた。顔に涙の跡はなく、ただ一片の荒廃だけがある。


「誰も私がカリオペだって知らない。彼らの目に映る私は、いつだって……彼らが心の裡で最も欲しがる幻影に過ぎないの」


 ---


 記憶の深い水が逆流し始める。


 場面は荘厳な竜の裔の殿堂へと変わる。


 ずっと若いカリオペが、隅の陰に縮こまっている。擦り切れた亜麻の衣服は、ごつごつした肩甲骨を覆いきれない。


 彼女の頭の上のあの異様な角は、会場中に溢れる額の滑らかな純血の竜の裔の中にあって、異様に突き出て、目を刺す。


「角のある雑種が、選挙に出ようなんて?」


「おい、この奇形を見ろ!」


 ある竜の裔が食べ残した骨の欠片を、彼女の足元に蹴った。


 カリオペは顔を上げない。ただゆっくりと手を伸ばし、埃まみれのその骨の欠片を拾い上げ、機械的に口に運ぶ——噛み砕き、飲み込み、喉仏が動く。


 ヘマリスの呼吸が詰まる。


「千年に一度の族長選挙が、間もなく始まる!」


 カリオペは年老いた竜の裔の夫婦の後ろに紛れて会場に滑り込み、人混みの最後方の柱の陰に隠れ、見上げて演壇の上の光り輝く面々を見つめた。


「一生涯、私はこうして生きるしかないのね」彼女は小さく独り言つ。


 ---


 騒乱が起きたのは投票の最中だった。


 カリオペの体臭が嗅ぎ取られたのだ。悲鳴、押し合い、叱責——彼女は驚いた檻の中の獣のように会場中を狂奔した。


「あの角のある雑種を捕まえろ!」


 彼女は地面に組み敷かれ、両手を背後に抑えられ、足首を縛られた。警備員が彼女を引きずって大扉へ向かう。


 つま先がまさに敷居に触れようとしたその瞬間——


「ああ——!!」


 激痛が身の裡の最も深いところから炸裂した。


 カリオペのこめかみの皮膚が灼けるように熱くなり、隆起し、一筋の幽かな藍色と金色が織り交ざった光の痕が、虚空から浮かび上がる。まるで古の封印が無理やり引き裂かれた裂け目のように。


 それは傷ではない。天の選択の烙印だった。


 警備員は驚いて手を放し、後退する。


 カリオペはその隙に束縛を解き、縄を断ち切り、よろめきながら立ち上がる——退路は既に完全に断たれていた。


 彼女は目を閉じ、罰を待った。


 しかし予想していた粗暴は訪れない。衣服の擦れる微かな音、甲冑が床を打つ澄んだ響きが聞こえる。


 目を開ける。


 三人の警備員が片膝をつき、頭を垂れている——その視線は、彼女のこめかみの上で脈動する光の痕に向けられていた。


 カリオペは呆然と振り返る。


 会場全体が——すべての竜の裔が——全てが誇り高き頭を垂れ、前肢を床に着いている。前族長の声が畏敬の震えを帯びて響く:


「天の選択が……顕れた」


 死の静寂。


 カリオペは呆然と手を上げ、熱く灼ける自分のこめかみに触れた。


 指先が触れたのは皮膚ではなく、ある種の温かく、流動する、まるで独立した生命を持つかのような烙印の輪郭だった。


 心の川。それは、この唾棄された躯を選んだのだ。


 彼女は背筋を伸ばし、一歩、また一歩と、かつて遥かに届かぬ場所だったあの高台へ歩いていく。


 全ての視線が集まるその場所に、ついに彼女が立った時——


「今日から」彼女の声は明確に力強く、烙印が声に合わせて瞬く。「私が、あなたたちの新しい族長よ」


 彼女は一瞬間を置き、異なる色の瞳で、一人一人の顔を見渡す。


「私は——カリオペ」


 ---


 族長としての日々は、順調で、ほとんど異様なほどだった。


 制度を変えれば、全会一致で通過する。外の種族を受け入れれば、街は開かれた。宴を開けば、供物を受け取る。


 彼女が何をしても、それは許された。彼女が誰を愛しても、相手は熱狂的に応えた。


 しかし、骨の髄まで蝕む孤独が、影のように付きまとう。


 彼女は異変に気づいていた。赴くところ必ず紅色の雨が降る。烙印は、彼女が「愛したくない」と思う時に灼けるように痛む。


 さらに彼女の心を冷たくさせたのは:誰の目にも映る「彼女」は、いつだって彼らの「最も望む姿」だということだった。


 恋人は彼女を「ケーレン」と呼ぶ。商人は彼女を「富の女神」と奉る。子供たちは彼女を最も優しい母と思っている……


 ただ誰一人として、本当に「あの異なる角を持ち、烙印に選ばれ、心の裡が荒廃したカリオペ」を、見てはいない。


 あの深夜、彼女は一人、双籠塔の頂上の窓辺に立ち、足元に広がる紅色の雨に覆われた無数の灯りを見下ろしていた。


 まさに死の静寂に呑み込まれそうになったその時——


 夜空に、一片の灰色の湖が浮かび上がった。


 ---


 カリオペは消え去った硝子窓を押し開け、裸足で高塔を踏み出し、あるはずのないあの湖面へと歩いていく。


 高みからの風は凛冽だ。彼女は湖面のほとりに立ち止まり、身をかがめて見下ろした。


 湖水は鏡の如く、星も映さず、彼女自身も映さない。


 水の波の下には、微笑む、姿はかすかで、顔の見えない存在がある。


 ただそのぼんやりとした「視線」と合ったその刹那、カリオペは感じた。胸腔の中で長年沈んでいた心臓が——


 重く、生々しく、一つ打つのを。


「ドクン。」


 それは烙印の脈動ではない。彼女自身の心臓の鼓動だ。


 湖の中の姿の「声」が意識に流れ込む。温和で、確かだ:


「あなたは、あなたよ。彼らに……本当のあなたを見せて」


 彼女は手を伸ばし、指先が冷たい湖面に触れる。


 波紋が広がり、強い目眩が襲う。


 カリオペははっと目を覚ました。自分がベッドの上に横たわり、冷や汗が前髪を濡らしていることに気づく。


 窓の外には湖も、雨もない。


 しかし、あの言葉は、第二の烙印のように、心の底深く刻まれていた。


 ---


 その日から、カリオペは烙印が認知を歪める本能に抗い始めた。


 彼女は本名を使い続け、本当の姿で人前に立つことを貫いた。一部の竜の裔は反発したが、彼女はもう気にしなかった。


 彼女は幼い者たちを庇い、微かな声に耳を傾けた。小さなソフィーヤのような子供たちが、彼女に微笑み、粗末な飴玉を差し出すようになった。


 毎晩、灰色の湖面は約束通り現れた。


 湖の中の姿が彼女を「伴い」、「器」と「自己」の間の均衡をどう見つけるかを教えた。


 カリオペは初めて「完全に見られている」という感覚を味わった。


 彼女は夜を待ち望むようになった。


 とある夜明け前の時まで——


 夜空に、一つの「太陽」が昇った。


 それは本物の太陽ではない。


 その光は明るく優しいが、カリオペの心臓をざわつかせる、見覚えのある気配を帯びている。


 それは静かに、あの灰色の湖を照らしていた。


 湖水は縁から、急速に蒸発し、消えていく。湖の中の姿は彼女に向き直り、形のない「声」が最後に響く:


「鼓動の感覚を覚えておいて。それはあなたのもの……奴がくれたものじゃない」


 最後の言葉が落ちると同時に、湖面は完全に虚無と化した。


 あの束の間訪れた、本物の心臓の鼓動も、共に蒸発してしまった。


 ---


 記憶の奔流が次第に収まり、退いていく。


 ヘマリスは深い水の中から浮かび上がり、再び感じる——落下する風を、しっかりと握られた手を、無重力感を——


 そして彼女自身の胸腔の裡で、あまりに明瞭で耳をつんざくような鼓動を。


 彼女はすべてを理解した。


 あの湖面を追い散らし、映り込みを蒸発させた「太陽」こそは……水の領域を離れ、人の世に身を投じ、エリナの娘となることを選んだ、自分自身だったのだ。


 彼女があの決断を下し、永遠の水を離れ、束の間の人の身を抱擁したその瞬間——


 カリオペが見ることのできた「湖面」は、永遠に消えた。


 カリオペが失ったのは、ただの映り込みだけではない。彼女を初めて束縛から解き放ち、初めて「カリオペ」として見られ、初めて本物の鼓動を味わわせてくれた、その繋がりそのものだったのだ。


 だからこそ、彼女はあれほど「陽光」を憎んだのだ。


 だからこそ、この街の雨は、決して本当に止むことがなかったのだ。


「私よ」


 ヘマリスは急降下の中で目を見開いた。浅い灰色の瞳孔が、間近にあるカリオペをまっすぐに見つめる。


 竜の裔の顔に恐怖はない。ただ、犠牲を捧げるかのような平静——そして極限まで抑制された保護欲が、その裡にある。


 左頬の烙印が烈風の中で激しく脈動し、光の暈が流れる。


 彼女はもはや、受動的に落下に身を任せてはいない。


 すべてを理解したその瞬間、ヘマリスは選択をした。


 彼女は両腕を上げた——もはや拒絶ではなく、抱擁のために——自ら進んでカリオペの首に腕を回し、顔を相手の温かい、鱗の感触のある項の窪みに埋めた。


 この動作は微細だが、確固たるものだった。まるで長い待機と逃避を経て、ようやく下ろされた、最初の錨のように。


 落下の最後の一瞬、カリオペは猛然と身を捻り、竜の裔の力強い腕でヘマリスの腰と背を抱きしめ、彼女ごと自分の胸の裡に庇い込み、自らは下になって身を翻した。


 羽毛の柔らかな感触が伝わる。ごく軽い、カリオペの肩と背が着地した時の鈍い音を伴って。


 彼女は、衝撃のすべてを、一身に受け止めたのだ。


 紅色の雨の糸はなおも降り注ぎ、優しく、重なり合う二人を包み込む。


 ヘマリスは身を起こしたが、すぐには離れなかった。


 竜の裔はまだ下の羽毛の上に横たわり、金色と青色の瞳が、彼女の目の奥深くを見つめている——カリオペは完全に力を抜いた態勢を保ち、信任と脆さを同時に差し出している。


「……全部、見えたのか?」


 カリオペの声はとても軽い。長く待った後の、確認することさえ躊躇うような、小心さを帯びている。


「あの……消えた湖も?」


「うん」


 ヘマリスは、あの「湖」に関する問いには、言葉で答えなかった。


 彼女はただ、そっと膝をつき、微かに震える指先で、しかし確固として、あの灼熱の烙印に触れた。


 脈動する輪郭に沿って、優しく撫でる。まるで時空を越えた傷跡を修復するかのように。


「あの水の中で、あなたを待っていた映り込みは……消えてなんかいない」


 彼女は一瞬間を置く。その声は優しく、しかし一言一言がはっきりと、それぞれの言葉が長い旅路を経て、ようやくここに辿り着いたかのように響く:


「彼女はただ、歩くことを覚えただけ。今……彼女はここにいる」


 カリオペは完全に言葉を失った。


 その異なる色の瞳の裡に、ヘマリスがかつて見たことのない、ほとんど壊れそうな光が渦巻く。


 そして、彼女はゆっくりと手を上げ、ヘマリスの烙印に触れたままの手の甲に重ねた。


 竜の裔の長く伸びた指が微かに震え、掌の熱は驚くほどに熱い。


 ヘマリスは、温かな液体が自分の手の甲を伝うのを感じた——それは冷たい雨水ではない。


 彼女は手を引かず、かえってもう一方の手も重ね、あの震える竜の鉤爪をそっと包み込んだ。


 カリオペは目を閉じ、長い頭を微かに垂れ、大きな体躯が抑えきれずに震え始める。


 それは微かな震えではない。何かあまりに長く抑圧され、ようやく出口を見つけた、ほとんど嗚咽に近い震動だ。


 彼女は額をヘマリスの肩に押し当て、熱い吐息が衣服を貫き、烙印の光の暈が雨の幕の中で明滅を繰り返す。まるで、ようやく再び鼓動を覚えた心臓のように。


 雨はまだ降り続く。決して止まぬかのように。


 しかし、このテミステラの街を無数の年月にわたって覆い続けてきた紅色の雨の幕の中で、あまりに長く待ち続けてきたある影が、ついに、失われた湖面の映り込みを取り戻したのだ。


 そして今度は——


 映り込みは、水を離れることを覚え、自らの手を差し伸べ、このあまりに長く待たされた真実を受け止め、そして告げるのだ:私は去ってなどいない、ただ、歩き方を変えて、あなたのもとへ向かっていただけだと。

皆さんは「縁」というものを信じますか?私はこの「運命の人」という感じが本当に大好きです。魂のレベルでも、生理的なレベルでも、「ああ、この人こそが待っていた人だ」と感じられる。そんな恋人同士には、永遠に一緒にいられますようにと願わずにはいられません。本当に甘すぎますよね!

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