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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
雨街迷踪

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第四十四章

 誰が想像できたろう。ようやく怒りを鎮めたカリーが、口を開いて最初に発した言葉が、これだったとは。


 帰る場所。


 その言葉は、ヘマリスの意識の裡に重くのしかかった。


 それが意味するのは、ただの陪伴ではない。誓約であり、委ねであり、ほとんど永遠に近い責任だ。


 彼女はほとんど、心の底から湧き上がる、微かでありながらも明晰な拒絶の声を聞いた。


 ——速すぎる。


 ——軽率すぎる。


 ——私には、もう一つの「帰る場所」など、背負いきれない。


 記憶が、制御できずに押し寄せてくる。


 母の温かい手、黄昏時に寄り添う背中、あの「あなたは永遠に私の帰る場所よ」という囁き……そして、自らの手であの帰る場所を打ち砕いた瞬間を。


 罪悪感が氷の棘となり、今もなお意識の奥深くに突き刺さっている。


 ヘマリスは無意識に視線を落とした——これは彼女が戸惑いを覚えた時の癖だ。


 彼女には答えられない。


 いや、自分が眼前の竜の裔という存在を、一体全体どのように見ているのかさえ、整理できない。


 確かに、カリーは夢の中で呼びかけてきたあの姿だ。あの「心の川」の烙印は、触れられるほどに真実そのものだ。


 だがなぜ、夢が現実となった時、胸に湧き上がるのは歓喜ではなく、このような躊躇いと恐れなのか?


 気にかかっているのは、本当だ。


 彼女から遠く離れたくないと思うのも、本当だ。


 彼女の振る舞いに感情が昂り、叫んでしまったのも本当だ——たとえヘマリス自身、それよりもはるかに耐え難い記憶を覗き見たことがあるとしても。


 そして、あの鼓動。重く、慌ただしく、しかし確かに真実であるあの鼓動もまた、本当だ。


「疑っているんだろう?」


 カリーの声が、彼女を現実に引き戻した。


 その異なる色の瞳が、彼女を見つめている。その目に嘲笑はなく、ただ、透き通るような理解だけがあった。


「このすべて——気にかけること、鼓動、そしてこの躊躇いさえも——が、ただの俺の能力による錯覚なんじゃないかって、心配しているんだろう?」


 ヘマリスは微かに震えた。


「構わない」


 カリーの声が低くなる。雨はいつしか優しいものに変わり、二人の間に細やかに降り注いでいた。


「脅威は去った。ゆっくりでいい」


 ゆっくりでいい。


 その言葉が、ヘマリスの張り詰めた意識を、僅かに緩めた。


 彼女は再び、その感知をカリーの記憶の回廊へと差し向けた——侵入ではなく、どちらかと言えば、抗えない接近のように。


 そして、彼女は息を呑んだ。


 かつては名前と日付で記されていたすべての扉。その表札は今、ただ三つの繰り返し刻まれた文字だけを残していた。


「重要ではない」。


 そして、唯一つ、カリー自身のものとして常に固く閉ざされていたあの扉が、今、微かに隙間を開けている。


 依然として押し開くことはできない。しかし、声が扉の内から流れ出ていた——


 それはとても軽く、酷く疲れた独り言のような声で、今まさに目の前のカリーの声と重なった。


「私は雨を、長く止ませすぎたことはない……陽の光が、あなたを追い払ってしまったのかと、疑い始めてもいる。なのに、なぜあなたは……ずっと、帰ってこなかったの」


 ヘマリスは慌てて感知を引き戻した。


「また、意識を飛ばしていた」


 カリーは彼女を見つめ、指先で無意識に霧の指輪の残骸を弄る。


「今度は……何が見えた?」


 ヘマリスは顔を上げ、初めて本当にあの瞳の奥を見つめ返した。


「あなたは、一体誰を待っているの?」


 空気が一瞬、静まり返った。


「私の記憶を覗いているんだな」


 カリーの言葉に怒りはない。むしろ、諦念の混じったため息を帯びている。


「そうだろうと思った……前に俺のこと『素敵』だって言ったのも、半分は能力を隠すためだったんだろ?」


「半分は本当よ」ヘマリスは静かに認めた。「あなたの能力なら……私があなたを素敵だと思わないはずがないもの」


「じゃあ、なぜ戒律を破って出てきた?」


 カリーは手を上げる。掌の上で、霧の指輪が真っ二つに割れていた。


「面倒を引き起こすぞ……見ろ、完全に壊れた。お前が一時的に戻る場所は、もうない」


「この指輪の存在意義は、モーリガンが審判廷に発見されないように守ること」


 ヘマリスの視線が、遠くからこちらを見つめるモーリガンを掠めた。


「媒介は、また探せばいい」


「また媒介を?」


 カリーの声が突然低くなった。左目の「心の川」の烙印が感情の波に乗って加速しながら流転し、その光の裡に、脆さを思わせる執拗さが滲む。


「なぜ……俺じゃ、だめなんだ?」


 ヘマリスは沈黙した。


「わからない」という言葉が意識の裡で詰まり、結局、口に出ることはなかった。


 ---


「帰る場所? 二人は一体何を言ってるんだ?」


 アマラートが眉をひそめる。翼はまだ無意識にモーリガンの脇に半ば覆いかぶさるように広げられている。


「いつ、そんなに親しくなったんだ? 俺は何も知らなかったぞ」


「私にもよくわからない」


 モーリガンは、雨の中の二つの影を見つめていた。


 距離と雨の幕が彼女たちの会話をぼやけさせているが、その雰囲気だけははっきりと伝わってくる——衝突でも、拉致でもない。もっと複雑な、ほとんど対峙に近い引力だ。


 運命とは、時にこれほど捉えがたいものだ。


 かつて神明の欠片でありながら、過去を忘れて長い漂流を経た二人が、一つの烙印によって再会し、引き合い、もがき合う……それも、あながち筋が通らない話かもしれない。


「あの独特な雰囲気の霧の淑女は、どうやら『女神』の寵愛を深く受けているようだ」


 スタシスの声が腕の中から聞こえる。学者然とした慎重さを帯びて。


「どなたです?」


「ヘマリス」モーリガンは答えた。「グレイスミル町で出会った、最初の欠片だ」


「そう……」


 スタシスが軽く応じる。言い終えぬ言葉の裡に、何か思案する様子が潜んでいる。


 その時、カリーが振り返った。


 雨の糸が彼女の周囲で自ら分流する。まるで目に見えぬ領域に服従するかのようだ。


 彼女はモーリガンを見て、微かに首を垂れた——それは「女神」のものとしての態でありながら、塔の上の贋物より、幾千万倍もの重みと真実を帯びている。


「モーリガン」


 彼女の声が雨の幕を貫き、一人一人の耳に明確に届く。


「改めて名乗るわ——私の名はカリオペ。この街の『女神』よ。残念だけど、こちらのヘマリスは……しばらく、あなたに返せない」


 その言葉が落ちた瞬間、雨の勢いが急に増した。


 攻撃でも、脅しでもない。どちらかと言えば、優しい隔離のように。


 紅色の雨の簾が、カリオペとヘマリスの周囲に垂直に降り注ぎ、流動する障壁を形作る。


 ヘマリスは抵抗しない。モーリガンに視線すら向けない——彼女はただ静かにカリオペの脇に立ち、霧化したその姿は雨の光の中でぼんやりと、現実味を欠いている。


「ヘマリス!」


 モーリガンが一歩前に出る。


 だが、もう遅かった。


 雨の簾が二人の影を包み込み、潮のように後方へと退いていく。


 霧と雨が交じり合い、薄れ、幾度かの呼吸の間に完全に通りの彼方へと消えた。後に残されたのは、一面の透き通る水溜まりと、次第に静まる雨音だけだ。


 通りは再び静寂を取り戻した。


 雹は止み、暴雨も収まった。街を覆い続けていた暗雲さえも裂け、いく筋かの蒼白い陽光が漏れている。


 アマラートが翼を収める。焦げた傷跡が光の下で痛々しい。


「主人、追いますか?」


 モーリガンは空っぽの街角を見つめ、しばし沈黙した。


 ヘマリスの糸が……依然として見えない。


 覆い隠されたのではない。どちらかと言えば、彼女が自ら外界との繋がりを断ったようだ。


 そして、あの最後の目つき——それは救いを求めるものではなく、強いられたものでもなく、複雑な、自らの選択であることを示していた。


 約束は、予想外の形で果たされた。


 モーリガンは、ヘマリスが以前語っていた夢を思い出していた——夢の中で呼びかけ、こめかみに心臓の形をした烙印がある、あの姿を。


 幻の夢が現実となった。この再会の光景が、静かな旧交を温めるものとはかけ離れていようとも。


「追わなくていい」


 モーリガンはようやく口を開いた。その声は平静だ。


「彼女は、自分が探していた人を見つけた」


 しかし直感が告げている——これはまだ、終わりではない、と。


 心の川の烙印。カリオペの待ち続けた年月。ヘマリスの葛藤。そして、あの「誤解」によって引き起こされた戦いの背後にいる、真の仕掛け人……


 手がかりは、雨の糸のように絡み合っている。


 彼女の為すべきは、そのすべてを解きほぐすことのできる、一本の糸を見つけ出すことだ。


 陽光が、濡れた通りの上に降り注ぎ、ぼんやりとした霧を立ち上らせる。


 遠く、双籠塔の黒い尖塔は依然として高くそびえ、沈黙してこの、つい先ほど天災を経験しながらも、なお「愛」の幻夢に浸る街を俯瞰している。


 モーリガンは右手を上げ、指先で左腕の、山川と青空の紋様にそっと触れた。


「スタシス」彼女は静かに尋ねた。「塔の頂上へ戻る、一番近い道を知っているか?」


 腕の紋様が、微かに熱を帯びる。


「もちろん」


 スタシスの声に、初めて、期待に似た微妙な感情が混じる。


「女神のいない塔の頂上は……今は、静かだろうね」


「ちょうどいい」


 モーリガンは向き直り、双籠塔の方へと歩き出した。


「行ってみよう。あの『女神』がいない時に……彼女の殿堂に、一体何が隠されているのか」


 陽光が雲を裂き、彼女の影を濡れた石畳の上に長く投げかける。


 影の果てに、双籠塔の輪郭が、静かに待ち構えている。

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