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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
雨街迷踪

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第四十章

 そうだ、孤独だ。


 孤独を糧とするケーリスが目覚めれば、この盛大な宴を存分に味わい、そして皆をこのクソッタレな場所から連れ出せる。


 ——そのためには、まず彼女を目覚めさせねばならない。


 モーリガンは左肩の断端から断続的に這い上がる灼熱痛をこらえ、残された唯一の右手で感知し、呼びかけようと試みた。


 ケーリスへ。あるいはオネイリでもいい。一片の応答でも。


 だがその手は粗い縄に宙吊りにされ、とっくに麻痺して己のものではない。指先はかろうじて震えるが、あの蜘蛛の糸のような精神連結には到底届かない。


 一度。二度。三度。


 冷や汗が背中を濡らし、目の前がちかちかと暗くなるまで。


 精も根も尽き果てた。


 糸の色は薄暗い光の中でぼんやりとした灰色の霞に溶け、ケーリスの一筋を見分けることさえできない。


 左目の視野では、幽かな青い数字が微弱に明滅している——5411。


 見覚えのないコードだ。既知の存在を示すものではなく、まるで状態診断のように映る。器は砕けんとし、意志は無理やり受動態へ押し込められている、と。


 数字が瞬くたびに、断たれた腕の痛みが量られたかのように鋭さを増し、今この瞬間の「剥奪」を彼女に刻みつける。


 これまでか。


 見知らぬ女に「素材」と見なされ、解体され、分類され、あの永遠に完成しない「完璧な恋人」へと縫い込まれるのか。


 ——いやだ。


 モーリガンは右目を閉じ、数字を埋め込まれた左眼だけで虚空を見据えた。


 意識を、自身のさらに深くへ沈める。あの黒い泡が湧き出でる、痛みの源へ。


 痛み。今まさに、痛い。


 先刻、大規模な黒い泡を使ったばかりだが、断腕の激痛、閉塞の焦燥、そしてさらに深くにある不安が——おそらく、再びあの力を燃え上がらせることができる。


 だが、疲れた。


 拘束が奪うのは体力だけではない。意志そのものだ。


 黒い泡が身の周りに浮かぶが、虚ろに漂うばかりで、やがて「ぷちっ」と音を立てて弾ける。集結することすら敵わない。


 左目の数字の点滅が加速する。5411が激しく瞬く。まるでこの監視の眼も彼女の抵抗可能性を評価し、悲観的な読値を出しているかのようだ。


「試すんじゃないよ、お嬢ちゃん」


 エルフの女の声が下方から、天気の話でもするように平穏に響いた。


 彼女は顔すら上げない。一方の手はなお細針を握り、卓上の何らかの「作品」の継ぎ目を縫うのに没頭している。もう一方の純白の手袋をはめた手は随意に上げられ、虚空を一撫でした。


 生成されかけた一つの黒い泡が、彼女の指先へ漂う。


「ティン」


 磁器の鈴のような、澄んだ軽い音。


 黒い泡は瞬時にその色を奪われ、透明になり、そして光の下で虹のような浮き色をきらめかせた——ただの、極めて普通で、いっそ愛らしいシャボン玉へと成り果てた。


 それは女の側に留められ、ゆっくり揺れ、次に全く同じ大きさの、さらに小さな泡へと分裂した。手懐けられたガラス玉の連なりが、静かに彼女の手元に浮かんでいる。


「綺麗だろう?」


 エルフの女はようやくモーリガンを一瞥した。純白の瞳に嘲笑はない。ただの研究者然とした平静だけが在る。


「私は『美好』の具現だ。君の苦痛なんて、蟻が巨岩をひっくり返そうとするようなものだよ——脅威にすらならない」


 モーリガンの左目で、5411が一瞬歪み、ぼやけた。コードそのものがその「ティン」という音に干渉され、強制的に「美化」されたかのようだった。が、すぐに執拗に元の状態へ戻った。ただ、光は著しく衰えていたが。


 彼女は視線を落とした。


 この女の言う通りだ。


 自分はただ、苦痛を「内包」でき、常人を超える傷に耐えられるだけで、本当の力など何ひとつ持っていない。


 これまで出会った「欠片」たちの多くが、内包されることへの渇望を抱き、少なくとも対話を厭わなかったからこそ、今の自分があるに過ぎない。


 眼前のこの女は……話が通じないし、内包も望まない。その能力は強大で、モーリガンの抵抗など滑稽にすら映る。


 そんな存在が、欠けた「器」など、何故気にかける必要があろうか。


 その時、視野の端で何かが動いた。


 モーリガンは透明な箱を見た——中のアマラートの口元が、ゆっくりと歪み、彼女が最もよく知る、熱狂すれすれの弧を描いている。


 箱の壁と距離を隔てていても、その笑みに滲む、ある種の醒めた、灼けるような意味が感じ取れる。


 アマラートは目覚めようとしている。


 そうだ、ルドス。


 あの木質の、いつも騒々しい心臓。それはアマラートとは別の、もう一つの意識。


 たとえ宿主が甘美な幻境に溺れても、ルドスは必ず耳をつんざく鼓動で彼女を叩き起こすだろう。


 左目の数字が音もなく変化する。5411が潮のように引き、代わりに現れるのは、骨の髄まで刻み込まれた——5406。


 《私は、あなたのもの》


 このコードは今、異様に明瞭で、安定しており、まるで領有権を宣言するかのような灼熱を帯びている。


 箱の中のアマラートは、数字が跳び変わると同時に、片方の目を開いた。


 彼女はまず、のんびりと周囲を見渡した——列をなして吊るされた死体、動きのぎこちない傀儡、部屋の中央であまりに完璧すぎて目に痛いエルフの女——そして視線を上げ、吊るされたモーリガンを捉えた。


 瞳孔が、猛然と収縮する。


「ちょっと疲れたから、休んでただけなのに」


 箱の中からアマラートの声が、こもって、しかし危険な甘さを帯びて響く。


「なんで空気読めないやつが、こんな甘ったるい幻境で私を閉じ込めようとするのかしら。てっきり主人がようやく目覚めて、ご褒美をくれるのかと思っちゃったわ」


 言い終わらぬうち。


「ガ——シャッ!」


 彼女を閉じ込めていた透明な箱が、突如炸裂した!破片が飛び散る間際、より幅広く、骨質で物々しい紫黒の翼に薙ぎ払われ、跡形もなく吹き飛ばされた。


 アマラートの姿は幽鬼のごとく空中を掠め、その身長は以前よりもさらにしなやかに伸びている。翼を一振りし、モーリガンを縛る縄を断ち切り、彼女が地に落ちる前に確と抱きとめた。


「私に会いたかった?」


 アマラートはうつむき、吐息がモーリガンの汗ばんだ前髪を撫でる。声に笑みを乗せて。


「ずっと私がいなくて、退屈だったでしょう?」


「退屈とは言わない」


 モーリガンは彼女の腕の中に身を預けた。断たれた腕の痛みが、この慣れ親しんだ体温に不思議と和らいでいく。


「新しい友達もできたしね」


「見ればわかるよ」


 アマラートは軽く笑い、その視線はモーリガンの瞼を透かして、光る数字を直接見通しているかのようだった。


「主人の目……もう秘密は隠せないね。《5406》……それが教えてくれてる。ずっと私を待ってたんだって」


 彼女の動作がふと止まった。


 指が下へ、空っぽの左袖に触れる。


「……腕だ」アマラートの声が沈む。すべての笑みが瞬時に消え失せた。「あの女に、取られたの?」


「そうだ」


 アマラートは沈黙した。


 その沈黙は、ほんの二秒しか続かなかった。だが、その二秒で部屋中の温度が根こそぎ奪われたかのようだった。


 彼女が再び顔を上げた時、その表情はすべて消えていた。ただ一片の、底の見えない黒だけが在る。


 あのいつも激しく燃え滾っていた瞳さえも、今や暗く、枯れ井戸の如く虚ろだ。


「じゃあ、返してもらわないとね」


 アマラートはそっとモーリガンを壁際の安全な場所に下ろした。壊れ物を扱うような、優しい手つきで。


 そして向き直り、エルフの女に向かい合う。その声は囁くように、あまりに軽い。


「主人、聞いてあげるよ——あの女、自分の完璧な腕で返すつもりなのか、それとも命で返すつもりなのか」


 声が落ちるのと同時に、変容が始まった。


 アマラートの身体が僅かに高く伸び、肩背の線がより鋭利さを増す。


 彼女の胸に刻まれた暗金色の烙印が、生ける蔦のように這い広がり、絡み合う「花茎」と「棘刺」の模様を伸ばす。左胸のほとんどを覆い尽くし、その下の鼓動は重槌が振り下ろされるかのように重い。


 対の紫黒の翼が完全に開帳され、翼膜には暗金色の粘液が流れ、縁の骨棘はさらに物々しい。


 彼女の舌尖が伸び、二又に分かれ——その分岐した先端で、眼玉が猛然と見開かれた。濁り、血走った瞳孔が灼熱の縦長に収縮し、エルフの女を射抜く。


 そしてアマラートの元の眼窩では、眼玉が融けて再形成された二枚の硝子の奥で、二つの鋭い歯を並べた口が狂ったように開閉している。硝子面には蜘蛛の巣状のひびが入り、粘り気のある金綠色の物質が滲み出ていた。


 緻密な骨節に覆われ、先端が複数のうごめく触手へと分岐した尾が、彼女の尾骶骨から猛然と生え出で、落ち着かない蛇のごとく空中をうねる。


 両手の十指は、より長く、関節が反転した鉤爪へと異形化し、爪は冷たい光沢を帯びた深紫色だ。


 彼女は僅かに身をかがめ、その姿はもはや人間ではない。まさに獲物に飛びかからんとする捕食者。


 一歩、踏み出す。


 足元の地は咆哮しない。しかし、彼女の身の周りに漂う、金綠色の星屑を散りばめた暗い霧に触れたもの——木屑、血痕、塵埃——のすべてが激しく「活性化」し、蠢き、凝集する。見えざる手に捏ねられ、ぼんやりとした苦痛に歪むミニチュアの顔と化し、彼女の方へ必死に「這い寄り」、その霧の一部になろうとしている。


 モーリガンの左目で、数字が狂ったように跳ぶ。5406と5411が交替で閃く。まるで監視の眼が「深き絆」と「剥奪の受動態」という二つの極端な状態の狭間で、判定できずにいるかのようだ。


「この……吐き気を催すな」


 エルフの女はようやく手にしていた針を置き、右手の手袋を脱ぎ捨てた。


「『美化』してやろう」


 彼女の露わになった手は、案の定、言葉にしがたい「完璧」だった。


 肌は青白い磁器の輝きを帯び、指節の線は最良の木彫りのように流麗で、爪は磨き抜かれた金属の薄片のごとし。


 彼女の能力が発動する時、その手全体が真珠色の微光を放つ。


「ティン」


 澄んだ音が空気の中に蕩けた。


 アマラートの周囲の暗金色の霧が、微かに停滞した。しかし消えはしない。まるで挑発されて、さらに激しく滾るように。


 彼女の舌尖の主眼は、冷たくエルフの女を一瞥し、硝子の奥の歯牙はより速く開閉し、微細で、歯の浮くような摩擦音を発する。


「お前の『美好』など……」


 その声は胸腔と喉の奥から同時に響く。アマラートの低音と、ルドスの鋭い反響が混ざり合って。


「……我が求むるものにあらず。無駄な力を休めるがいい」


「ティン」が鳴り響き、アマラートが抵抗を発動させたその瞬間——モーリガンの左目の数字は、一連の激しく瞬く文字化けに完全に固定された。まるでこの監視の眼が、「能力の無効化」という異常事態に直面し、定義の基準を一時的に喪失したかのようだった。


「待て、アマラート」


 壁際から、モーリガンの声が静かに、しかし明確に響く。


 まさに前傾、飛びかからんとしていた影が、驟然と停止した。翼が空中に急停止の弧を描く。


 アマラートが猛然と振り返る——舌尖の主眼と、かすかに苦痛と熱狂の浮かぶ女性の貌が、同時にモーリガンへ向けられた。


 縦長の瞳孔に渦巻く暴虐が未だ褪せやらぬ内に、モーリガンの視線に触れた瞬間、凍りついた。


 左目の文字化けが激しく変動し、もがくように数度点滅する。そして執拗に、少しずつ再凝集し、あの安定した、灼熱の、まるで重さすら感じさせる——5406へと戻った。


「お前がそんな姿になってまで、誰かを傷つける必要はない」


 モーリガンは彼女を見つめた。声はとても軽い。


「戻れ」


 対峙の緊張が空気中で数秒、引き合う。


 やがて、アマラートの全身に漲っていた異形の特徴が収縮し、褪せていく。


 異形の翼、尾、鉤爪は緩やかに体内へ収まり、舌尖の主眼は無念そうに閉じ、硝子の奥の口も次第に静まる。


 彼女は普段の痩せた姿に戻った。ただ顔色は異様に青白く、呼吸は少し荒い。身長は確かに以前よりわずかに高くなっており、それは完全には戻りきらない変化だった。


 目尻の血痕は乾いている。しかし瞳孔の奥深くに残る、ルドスの金色は完全には消えていない。


「……主人」


 彼女はモーリガンのもとへ戻り、声はくぐもっていた。


「本当に、怒ってないの?あの女、主人の腕を盗ったのに」


「もし彼女が本当に私を殺したければ、直接手を下せばいい。わざわざこんな手間をかけはしない」


 モーリガンはエルフの女を見据えた。


「これはおそらく……歪んだ形での、承認だ」


 エルフの女は即座に応えなかった。


 彼女の純白の瞳は、じっとモーリガンの左目の中に、再び安定して表示された、深い絆を表象するコード《5406》を見つめている。


 彼女はあまりに熱中していた——あの安定、恒常、まるで存在の本質に根を下ろしたかのような連結。それは彼女がこれまで手がけた如何なる「作品」にも、決して見たことのないものだった。


 彼女は数多の完璧な「部品」を収集してきた。最も澄んだ眼、最も柔らかな唇、最も長くしなやかな指……しかし、それらを寄せ集めたものには、決して備わらない「何か」があった。


 そして今、彼女はそれを——欠けた「器」に、見出した。


 彼女は手元の、あらゆる外在的「完璧」を集約した躯を見やり、再びモーリガンとアマラートを見た。


 一人は腕を失い、一人は形を歪めた。完璧とは無縁だ。


 だが、彼女たちの間にある、寄せ集めを必要とせず、内側から育まれた繋がりは、安定し、殆ど横暴とすら言える絆の在り方を示していた。


 あの常に評価を瞬かせる監視の眼さえ、今はただ、変わることのないあのコードを映し出すのみ。揺るがすことなど叶わない。


 彼女はふと手を上げ、そっとその「完璧な躯」の頬を撫でた。


「ティン」


 一音の軽い響きの後、躯は継ぎ目から細やかな産毛を生やし、皮膚は褪せ、骨格は軟化し、「作品」全体が数秒の内に融解し、再構成された。そして十数羽の、本物の白い鳥となり、ばさばさと羽ばたき、雨幕の彼方へ消えた。


 彼女は鳥の消えた方角を見つめ、純白の瞳に初めて、明確なひび割れを浮かべた。


「……私も、愚かだったのか」


 彼女は、自分自身に問いかけるように、静かに言った。


「これは、根本的に間違っていた」


 モーリガンは壁に寄りかかり、声は失血のためかぼんやりと漂うが、なお平静だ。


「話してみないか、淑女。君は一体、なぜそこまでして『完璧な恋人』を創り出そうとする?」


 エルフの女は背を向けたまま、長く答えなかった。


 雨音が、沈黙の隙間を埋め尽くす。


 モーリガンがもう返答はないかと思い始めた頃、彼女はようやく、雨音に呑み込まれそうなほど低く、口を開いた。


「なぜなら……」


 彼女は振り返った。純白の瞳に、迷いに似たひび割れを宿して。


「……私は、愛を渇望しているから」

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