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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
雨街迷踪

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第三十七章

 また雨が降り始めた。


 雨粒が宿屋の窓ガラスを叩き、時間を現実の次元へと引き戻す。


「いつからこんな小さなものに気を取られるようになったんだろう」


 薄暗い部屋で、カリーは指の間の霧の指輪をくるりと回す。


 窓の水痕すいこんが街灯を映し、薄紅色の光量が湿ったガラスに溶け広がる。


「あなたは一体何?」


 彼女は指輪に向かってつぶやき、指先が戒面かいめんを撫でる時、イヤリングが雨音のリズムに合わせて軽く揺れる。


「どうして私、あなたに……変な感じがするんだろう」


 言葉が終わらないうちに、指輪が突然彼女の指の間から抜け出し、空中に浮かぶ。


 霧が湧き出し、急速に形を凝結させる。


窃盗せっとうが違法だって知ってる?」


 ヘマリスが姿を現した。淡灰色の長髪が風もないのにゆらめき、目には警戒の色が帯びている。


「あなた、人間なの?」


 カリーの目が輝く。驚くどころか、むしろ「やっぱりそうか」という笑みを浮かべる。


「それなら納得がいくわ」


「何が納得できるって?」


 ヘマリスの声が冷える。


「白状しなさい、カリー――あなたがモーリガンに近づいたのは、一体何が目的なの?」


「彼女に近づいた? ちがうちがう」


 カリーは首をかしげ、イヤリングが軽く揺れる。その仕草は相変わらず、少し軽薄けいはくなガイドだ。


「私が感じたのはあなたよ、ダーリン。教えてくれる? あなたの名前は?」


 あの「ダーリン」は甘ったるく馴れ馴れしい。まるで彼女の常用する、何の意味もない親密な呼びかけに過ぎないかのようだ。


「どうして私が教えなきゃいけないの?」


 ヘマリスが周囲を見回す。


「ここはどこ?」


「ただの普通の宿屋よ」カリーは手を広げ、口調は軽快だ。「だって家には帰れないんだから、仕方なくここに仮住まいしてるの」


「どうして? まさか追手おってをかけられた常習犯じょうしゅうはんなの?」


 ヘマリスが眉をひそめる。


「モーリガンはやっぱり人に優しすぎる」


「ははは、まず彼女のことばかり言わないで」


 カリーが突然近づく。目には好奇心の光がきらめく。その好奇心は軽薄には見えず、むしろ一種の集中した探究感がある。


「もっとあなたのことを話してよ、ダーリン。どうしてもっと早く姿を現さなかったの? 私、自分の頭がおかしくなったかと思っちゃった」


「ただ知りたかったの。あなたが私をどこへ連れて行こうとしてるのか、何の目的で」


 ヘマリスが半歩後退する。


「これはモーリガンが知るべきことだ」


「モーリガン様はあなたに何かいいことしたの?」


 カリーは笑う。笑みには相変わらずの含みがあるが、目元には何の笑いもない。


「ダーリン、どうしていつも彼女のために動くの? あなたの一歩一歩の行動は、いつも他人のことしか考えないの?」


「私にもわがままな時はある……」


 ヘマリスの言葉が半分で、突然止まる。


「わがまま? この方のこと?」


 カリーの姿が彼女の言葉が落ちた瞬間に変わる。


 そこに立っているのはもはや軽薄なガイドではなく、顔立ちが優しく、目に心配が満ちた婦人――ヘマリスの母だ。


「お母さん……どうして……」


「あなたが見ている人はあなたのお母さんなの?」


 カリーの声が婦人の姿の中から響く。かすかに感知できないため息を伴って。


「どうやらイヤリングの能力は確かに少し失效してるようね……でも、具体的な人の肖像が見えるってことは、今あなたが考えているのは彼女ってこと、そうでしょう?」


 幻像げんしょうが散る。カリーが再び姿を現す。


「話題をそらさないで!」ヘマリスの声が張り詰める。「あなたは一体誰? どうしてお母さんの姿を知ってるの?」


「ここはテミステラ城よ」


 カリーが窓の外の薄紅色の雨を指さし、また少し湿った衣服のすそを引っ張る。


「雨は幻覚をもたらすし、私の身にも雨がまだ乾いてない――あなた、お母さんが見えちゃったんじゃない? 私が誰かって……言ったでしょ、私はカリーよ」


「本当にそうなの?」ヘマリスが彼女をじっと見つめる。「さっきはどうして見えなかったの?」


「だってあの時のあなたは、むしろ別の人に会いたかったんじゃない?」


 カリーの笑みが深まる。その笑みの中には何かが隠されているようで、しかし完璧に軽薄の下に覆い隠されている。


 ヘマリスはわかった。これ以上引き延ばしても意味がない。


「……ヘマリス」


「ヘマリス」カリーが小声で繰り返す。まるでこの名の韻律いんりつを味わっているかのように。「気に入ったわ」


 実は、この道中ずっと、ヘマリスは密かにカリーの記憶に潜入しようと試みていた。


 しかし彼女が見たのは、見渡す限りの果てしない長廊下だった。


 両側にはびっしりと扉が並び、それぞれの扉には名前、日付、注記が書かれている――「逝去せいきょ」、「沉睡ちんすい」、「暫存ざんそん」。


 これは誰の記憶庫? ヘマリスにはわからない。


 彼女が欲しかったのはカリー自身の記憶だが、カリーに属するあの扉は、彼女には開けられない――力が足りないのではなく、この扉は内部からしか開かないように設計されているのだ。


「ぼーっとしてるの、ヘマリス?」カリーの声が彼女を現実に引き戻す。「私があまりに綺麗すぎて?」


「……そうよ」ヘマリスはあっさり認める。「だからあなたが私をここに連れてきたのは、一体何がしたかったの?」


「何が?」


 カリーは笑う。その笑みは突然どこか遠くを見ているようで、まるで彼女を通して別の何かを見ているかのようだ。


「宿屋で何ができるって? ただ……一つのことを確認したかっただけ」


 言葉が終わらないうちに、彼女はもう身を寄せてきた。


 ヘマリスは反応する暇さえなく、そっと古びたビロードのソファに押し倒された。カリーの動作は乱暴ではなく、むしろ意図的な、ほとんど儀式的な緩慢さを帯びている。


 霧が瞬間に湧き出し、カリーの首に絡みつく。


「動くな」ヘマリスの声は氷河のように冷たい。「さもないと、すべてを忘れさせるから」


「本当に?」


 カリーは恐れるどころか、むしろ顔をもっと近づけ、息がほとんどヘマリスの頬に触れんばかりだ。あの異色の瞳が深く彼女の眼の中を見つめる。


「じゃあ試してみてよ。私が……まだあなたを覚えているかどうか」


 忘却の力、発動。


 霧がカリーの意識に染み込み、あの記憶の長廊下へと掃き寄せる。


 扉の上の名前、日付、注記――それらがぼやけ、消え始める。鉛筆の字を消しゴムで消したかのように。


 しかしそれだけだ。それらの扉は依然として閉ざされたまま。カリー自身に属するあの扉は、微動だにしない。


 さらに不気味なことに、消された字跡は肉眼で見える速さで再び浮かび上がり始める。まるで見えぬ手が筆をって書き直しているかのようだ。


「能力を発動したの、ヘマリス?」


 カリーが瞬きする。声はとても小さい。


「どうして……私はあなたを忘れていないの?」


「どういうこと……」


 ヘマリスが初めてこんな状況に出くわした。


 彼女の能力が、失效した。


 そしてまさに彼女が放心したこの一瞬――


 カリーが彼女に口づけした。


 とても軽い口づけで、唇に落ちる。触感は微かに冷たく、雨の匂いを帯びているが、それでいて不思議に温かい。


 その瞬間、ヘマリスの脳裏に無数の砕けた映像がよぎる:


 灰色の湖面、水の中の逆影さかかげ、夢の中で彼女を呼ぶある声……そして、あまりに長く眠り、ほとんど忘れ去られていた、心臓がよみがえるような悸動きどう


「離れて!」


 彼女は猛然もうぜんとカリーを押しのけ、頬が真っ赤に染まり、心臓は胸の中で狂ったように打ち鳴らす。その鼓動の音はあまりに大きく、彼女自身も怖くなるほどだ。


 カリーは押しのけられたが、ただ静かに彼女を見つめるだけだ。目元にはある種の複雑で判別し難い感情が渦巻いている――期待、失意、釈然しゃくぜん、そして一片の深く隠された、ほとんど痛みのような優しさ。


「反応が大きいね?」


 彼女は小声で言う。声はもはや軽薄ではなく、むしろ一片の本物の疲労を帯びている。


「この街では、これより過激な『愛の示し方』はいくらでもあるんだよ」


 ヘマリスはもう留まりたくなかった。


 体が瞬間に霧化し、もう窓の隙間から漂い去ろうとする――


 ドン。


 無形の障壁が彼女を弾き返す。


 霧は強制的に凝結させられ、彼女は床に転がり落ち、再び姿を現す。


 カリーがしゃがみ込み、背後からそっと彼女を抱きしめる。その抱擁は力強くなく、むしろ小心翼翼とした抑制を帯びている。


「でもあなたが怒る様子も……なかなか可愛いよ」


 彼女は低く言う。声がヘマリスの耳元に寄る。


「少なくともいつも礼儀正しい様子より、ずっと本物らしい」


「離しなさい! この変態――!」


「シー」


 カリーの指が彼女の唇に軽く当たる。動作は相変わらず親密だが、視線はもう窓の外へと向いている。


「聞いて、外で面白いものを見られるよ」


 ゴロロ――!


 窓の外、一道の電光が雨幕を引き裂く。


 それに続いて、一つの灼熱しゃくねつの炎が、しつこく追いかけ、雨の中でまばゆい光量を炸裂させる。


「彼女、またこんなに早く誰かに目をつけられたの?」


 カリーが眉をひそめ、口調に本物の面倒くささが染み込む。その面倒くささの下には、ある種のさらに深い、ほとんど本能的な心配が潜んでいる。


「本当に興醒きょうざめだ」


 彼女はヘマリスを離し、立ち上がり、床に転がった霧の指輪を拾う。


「モーリガンはあなたにこの手を使ったことある?」


 カリーは指輪をもてあそびながら、視線をヘマリスに向ける。再びあの軽快だが疎遠な笑みを浮かべて。


「それとも……あなたさえ知らないの? この指輪には実はこんな機能があるって」


「あなたって変質者……」


「外で何が起こってるか見に行きましょう、ダーリン」


 カリーは微笑み、指先で戒環かいはんの両端を強くつまむ。


 霧の指輪が突然光る。


 ヘマリスは何かを言う暇さえなく、体が制御できないまま光の流れへと変わり、強制的に指輪の中へ吸い込まれる。


「やっとの思いで……」


 カリーは指輪を自分の指の間にはめ、しばらくうつむいて見つめ、小声で呟く。


「……心臓の鼓動を感じる感覚を取り戻したのに」


「こんなに簡単にあなたを離がすわけにはいかないわ」


 窓の外、雷と炎が絡み合う。


 雨はまだ降っている。

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