表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
価値という深淵

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/42

第三十一章

 「逃がすものか」


 ケーリスが広げた影がまさにモーリガンを包み込み、地の穴の縁に触れようとした刹那――


 穴口が音もなく消えた。


 埋め立てられたのではなく、「此処に通路あり」という認知のレベルから直接抹消されたのだ。


 穴の中の小さな地精たちの短い悲鳴もろとも、絶対的な虚寂に呑み込まれ、まるで最初から存在しなかったかのように。


「いや……友たちが……」


 フィトゥーラの声が震える。燧石ひうちいし色の巨大な手が無力にぶら下がる。


 彼女には「見える」――あの小さな生命たちの価値の数字が突然ゼロに帰すのが。灯火が一息で吹き消されるように。


 モーリガンは動きを止めた。


 彼女は悟った。今の自分には、確かにこの「現実を定義する」に等しい権能には抗えない。


 ヴィラニアが残したのは守衛だけではない。彼女の意志の延長たる規則そのものなのだ。


「ヴィラニア」


 フィトゥーラが突然声を張り上げた。岩層が擦れる口調に、珍しい懇願が混じる。


「私は貴方が『見える』ことを知っている。彼女たちを許せ――価値を理解できないのは私だ。答えを求めて彼女たちを訪ねたのも私だ」


 言葉が尽き、彼女は決断を下した。


 無数のパイプに貫かれた巨躯が鈍い轟音ごうおんを爆発させ、がらりとかせを引きずり、山脈が横移動するかのように、モーリガンと傀儡の間に立ち塞がった。


 碎石と金属の破片が、崩れ裂けた岩肌からさらさらと転がり落ちる。


 傀儡の動作が止まった。


 それは頭盔かぶとを垂れ、面頬の奥の漆黒が遥か遠くの指令を受信しているかのようだ。


 数秒の死寂の後、ヴィラニアの冷たく精確な声が鎧の奥深くから響いてくる。


「定義され得ぬ子よ、お前が今はまだ『死ねない』ことは無論知っている。だがフィトゥーラを連れ去るのは妄想だ。お前は独りで去るしかない。そして二度と戻ることは許されぬ」


「彼女を連れ去るつもりなど初めからありません」


 モーリガンの声が影の中から透けてくる。平穏で波立たない。


「彼女は地表を歩むことはできません。私はただ、彼女が自身の『価値』を見つけるのを手助けしたいだけです」


「極めて非理性的だ」


 評決が手術刀のように空気を切り裂く。


「お前は秩序に対面することも、彼女たち自身の重みを背負うこともできぬ」


「私はあなたの評価を求めているのではありません」


 モーリガンの応答は明瞭で確固としている。


「私が求めるのは、あなたの許可です――彼女が、あなたたちに否定された価値を見つけるのを手助けする許可を」


「自由意志?」


 その声には、ごく淡い嘲笑が透ける。


「だがお前自身も、それを真に所有してはいない。お前は自らの価値さえ未決定のまま、どうして他人のために探す資格がある?」


 この言葉は鈍器のように胸郭を直撃した。


 モーリガンは一瞬、沈黙した。


 そうだ、彼女自身も自由ではない――道は預言によって敷かれ、価値は父によって定義される。


 そんな彼女に、どうして資格がある?


 しかし次の瞬間、彼女は顔を上げた。影があごの線を描く。


「苦痛を包容でき、共に戦う仲間がおり、果たすべき約束があるからです」


「感情が天真に重なっただけ」


 ヴィラニアは興味を失ったようだ。


「ともかく。お前が真に彼女の価値を定義できるその日、私は自ら彼女をお前の前に連れて行こう」


「代償は?」


「フィトゥーラ」


 声が巨人へと向く。疑いようのない指令感を帯びて。


「彼女がお前のために『資格』を争っているなら、お前は『担保』を差し出すべきでは?」


 傀儡がそれに応えて前に出る。関節が冷たくきしむ。


 それは手を上げて示す。


 巨人は沈黙してうつむき、目を覆う亜麻布の帯が垂れ下がる。


 傀儡の暗く沈んだ金属に覆われた指が、彼女の顔へと伸びる――


 布帯が外される。


 露わになったのは血肉の眼ではなく、暗色の岩石と液体金属をかし合わせた巨大な瞳だった。


 瞳の奥深くで、無数の青白い数字が滝のように奔流し、閃光せんこうを放ち、再編される。一瞬一瞬が冷酷に視野の中の全てを評価し、定義している。


 材質、構造、感情濃度、潜在的有用性……世界は躍動する価値算式へと解体される。


 今、数字の奔流が突然静止する:


 601


 モーリガンの呼吸が、ほとんど感知できないほど一瞬止まった。


 この数字の列……彼女は知っている。


 聖殿の書斎で無為に過ごした午後、指先がたまたまある『古語隠義手帖』の上を撫でた時、一瞬だけ目に飛び込んできた符号の一つ。


 601――涙、心に逆流す。


 悲しみが堤防を越え、ただ内側へと逆流するしかない。


 そしてフィトゥーラは、太古の岩層のように沈黙し、一声の嗚咽おえつも漏らさない。


 傀儡の指が何のよどみもなく、あの岩石と金属の眼窩がんかへと突き刺さる。


 指先は炎を発しないが、周囲の空気に不気味な青白い波紋を立たせる――まるで現実そのものが一時的に「貫通可能」という規則を修正されたかのようだ。


 それは巨大な眼球を掴み、ゆっくりとえぐり出す。


 フィトゥーラの巨大な体躯は抑えきれずに震え、岩肌は崩れ裂け、碎石が転がり落ちる。それでもなお歯を食いしばり、一声の痛吟つうぎんも上げない。


 眼球が眼窩を離れる刹那、傀儡の掌に微細な、光を呑み込む黒い渦旋が浮かび上がる。


 眼球はその中へ投げ込まれ、無音の圧潰あっかいと再構築の中で急速に縮み、凝縮し、最終的には常人の瞳孔ほどの大きさに、黒曜石のように温潤な質感で、内部にいまだデータの流れを閃かせる宝石の眼球へと変わる。


「これをめよ」


 ヴィラニアの声が再び響く。


「これこそが、お前が支払うべき『入場券』だ」


 モーリガンは改造されたその眼を凝視する。


 傀儡が経由し、ヴィラニアが注視する――これは疑いなく監視の眼、身体に埋め込む標識だ。


 だが彼女はそれでもなお一歩前に出る。


「これを嵌めた後、あなたはもう邪魔しない?」


「規則の内では、言ったことに必ず従う」


 ケーリスが彼女の首に巻きついた影が突然引き締まる。


わな……」


「わかっている」


 モーリガンの指先が、緊張で逆立った副耳をそっとなでる。


「でも今はこれが唯一の『道』だ」


 彼女は傀儡の前に歩み寄る。


 相手は静止して彫刻のようだ。近くで見て初めて、印象よりずっと背が高く、輪郭の線が硬く冷たい。記憶の中のアストライオスの姿と、幾重にも重なる冷厳さがあることに気づく。


 それは掌を広げ、凝縮された眼球が幽かに微光を反射している。


 モーリガンは右手を上げ、指先を左の眼窩に当てた。


 躊躇ちゅうちょはない。


 思念が微かに動き、体内を流れる黒い苦痛のエネルギーが最も従順なしもべのように、微細な触手へと変わり、元の眼球を内側からゆっくりと押し出していく。


 過程は不気味なほど速く、血は流れず、眼窩に空洞の冷たさが広がるだけだ。


 痛いか? おそらく。


 しかしとっくに苦痛に慣れたモーリガンにとって、この剥離はくりは彼女の睫毛まつげを震わせることさえできなかった。


「痛くないの?」


 オネイリの声が意識の奥底で響く。微かな震えを伴って。


「私が見ていても……」


「慣れてるから」


 平静な応答の間、彼女はすでにあの黒曜石のような眼を手に取っていた。


 新しい眼が眼窩に入る。


 接触の瞬間、冷たさが体温に同化し、続いてより深層の接続――無数の極細データストリームが逆向きに流入し、意識に乱暴に接合する。


 世界が二つに分裂する。


 右眼に見えるのは、相変わらず色彩、光と影、形の常世つねよだ。


 左眼の視界は、純粋な黒、白、灰、そして跳躍して閃く青白い数字へと沈降する。


 今、視界の中央に、彼女自身の状態を表す数字がひっそりと浮かび上がる:


 080


 080――風止み、なみしずむ。表象の平静。


 この眼は外部を監視するだけでなく、内なる波瀾はらんを暗に数値化し、彼女が完全には制御できない「感情計器」となりうる。


 ちょうど彼女がこの分裂した視界に慣れようとした時、傀儡の手が再び伸びてきた。


「それが必要だ」


 ヴィラニアの声には起伏がない。


「これこそが真の『代償』だ」


「それで何をするつもり?」


「渡せ。そして去れ」


 モーリガンはそれ以上問わなかった。


 彼女はまだ体温と視覚残像を留める眼球を、傀儡の冷たい掌に載せた。


 指先が離れる刹那、ある種の繋がりが永久に断ち切られた。


 彼女はもう留まらず、ケーリスがとっくに用意していた濃密な影の中へ退く。


 影が水のように包み込み、建物の奥深くの別の退路へと疾駆しっくする。


 しかし姿が完全に闇に呑み込まれる直前の最後の一瞬、モーリガンは横を向き、あの新たな、数字が跳ねる左眼で、フィトゥーラを深く見つめた。


 眼窩の中で、青白いデータストリームが飛ぶように閃き、再編され、最終的には「価値を見る」ことのできるフィトゥーラだけが解読できる秘匿情報へと定着する:


 5398――かせくさりたるる時、我必ず帰らん。


 その後、影は完全に閉じる。


 ただ置き換えられたあの眼の中に、数字がひっそりと消え、再生炉全体を映す、沈黙の漆黒へと戻っていくだけだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ