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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
誕生と虫の羽

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第三章

 あの日から、おくはモーリガンの日課となった。


 布張りの壁に包まれた静寂の中、時は流れ、彼女の背は知らぬ間に伸び、子供らしい丸みが頬から消え、少女としての輪郭りんかくを現し始めた。


 彼女は漂う「霧」を、より精確な言葉で表現することを覚えた――恐怖の灰、絶望の暗紅あんこう、怒りの灼黄しゃくおう。また、それらに触れる時、熱い水面を探るように素早く意識を引き上げることも覚えた。


 しかし、彼女が待ち望んだあの眼は、二度と現れることはなかった。


 ***


 十六歳になった年、モーリガンは正式に聖徒せいと候補となった。


 アストライオスが常に付き従うことはなくなり、彼女はついに自分の時間を持つことができた。


 そして最初に行ったことは、アマラートの、ますます過激かげきになる「演技」を止めさせることだった。


 いつからか、彼女はアマラートが頻繁ひんぱんに父の元へ行くことに抵抗を覚えるようになっていた。はっきりとした理由はない、ただぼんやりとした不安――この唯一「同年代」と呼べる存在が、長く自分のもとを離れることを望まなかった。


 ある午後のことだった。


 彼女が自分の部屋の衣装箪笥いしょうだんすの扉を開けた。


 アマラートが隙間すきまなく縛られ、目隠しをされ、口には猿ぐつわがはめられて中にいた。


 モーリガンは目隠しと猿ぐつわを外した。


「主君!私、今日はとってもお利口だったでしょう?」アマラートの声は興奮のかすかな震えを帯びていた。「主君がお戻りになるまで、ずっと締め付けられる感覚を味わっていましたもの」


「こんなことしなくていいって言ったはず」モーリガンの声は冷たくなった。「出なさい」


「でも、これって主君がなさったことじゃないんですか?」


 アマラートの言葉に、モーリガンの動きが止まった。


 彼女は今さら気づいた――アマラートの体に巻きついているのは、普通のなわではない。


 それは、糸だった。


 深く暗い、り固まった血のような色をした糸。


 その質感、その色……


 モーリガンの指が宙に浮いた。


「私は縄は全部捨てたはずよ」彼女は低い声で尋ねた。「それはどこで手に入れたの?」


「これは主君の御能力ごのうりょくでは?」アマラートは首をかしげ、笑みの中に無邪気な残酷さがあった。「ほら、息をしていますよ」


 確かに糸は微かに起伏きふくしており、生き物のようだった。


 モーリガンは一歩後ろに下がった。


「これは触るべきものじゃない」彼女の声はとても軽かった。「アマラート、あなた、奥の間に……行ったの?」


「奥の間?」アマラートはまたたいた。「何ですか、それ?」


 モーリガンは理解した。


 アマラートではない。


 あれだ。


 あの眼の主が、戻ってきたのだ。


 そして今度は、彼女の部屋を見つけた。


 ***


 奥の間の布張りの壁は相変わらず音を吸い込んだ。


 だが、空気中の「重さ」が変わっていた――明確な、指向性のある存在感が加わっている。


 モーリガンは石台の前に立ち、目を閉じた。


 知覚が触手しょくしゅのように広がる。


 そこだ。


 石台の下。


 ぼんやりとした残響ざんきょうではなく、鮮明で、リズミカルな鼓動こどう、心音のように、扉を叩く音のように。


 彼女は身をかがめ、指で石台の台座の縁を撫でた。冷たい石材の上に、ほとんど見えない亀裂きれつが彼女の指先の下で微かに熱を持っていた。


 彼女は力を込めて押した。


 石台の内部から機械が回転する鈍い音が響いた。


 一本の柱がゆっくりと立ち上がる。


 だが、それは石柱というより――表面に木目のような紋様もんようが走り、薄暗い光の中で奇妙な光沢を放っていた。それが完全に立ち上がると、その紋様が裂け、左右に開き、奥深い樹洞きどうを露わ(あらわ)にした。


 樹洞が彼女を誘っている。


 モーリガンはすぐには入らなかった。


 一歩後退し、指先で床面に複雑な符号ふごうを描いた。これは彼女が古書から見つけた連絡の印――もし彼女に何かあれば、アマラートが彼女の気配の変化を感知できるものだ。


 そして、彼女は樹洞へと足を踏み入れた。


 ***


 窒息感ちっそくかんが瞬時に襲った。


 狭苦せまくるしく、押しつぶされそうで、空気は抜き取られたように希薄きはくだ。モーリガンは四方八方からの圧迫を感じ、何か巨大なけものの食道に飲み込まれたようだった。


 彼女は前へ手探りし、掌が前方の「樹皮」に触れた。


 押し開く。


 光が流れ込んだ。


 真実の、温かい、まぶしい陽光ようこう


 モーリガンは目を細め、光に慣れてから、目の前の光景をはっきりと見た。


 ここは奥の間ではない。


 荒れ果てた遺跡いせきだった。


 巨大で、見分けのつかない骨格こっかくが散らばり、完全なものはむしろ不気味なほどで、風化して砕けたものもある。暗赤色の砂が地面を覆い、空は色あせた蒼藍そうらん色。


 そして、まさに彼女の前の光を遮っているのは、開いた巨大な頭蓋骨ずがいこつだった。


 おおかみでもひょうでもない、細長い輪郭。歯は死後もなお鋭く、一列に並び、今でも何かを噛み砕けそうだ。


 しかし、この頭蓋骨が彼女の探しものではない。


 鼓動は、もっと奥から来ていた。


 モーリガンは骨と砂を踏みしめながら前へ歩いた。足音が死寂しじまの中に、異様に鮮明に響く。


 そして、彼女は見た。


 少しだけ形の整った死骸しがいの陰に、小さな影が丸まっている。


 黒藍くろあい色の体は液体のように流動し、一見平静そうだが、「孤独」の痛楚つうしょうを次々と放っている――その痛楚を彼女はよく知っている、八年前、糸が切れた刹那に感じたものと全く同じだ。


 それは大きな耳を持ち、ピンと立っている。


 そして耳の後ろに、翼に似た副耳ふくじが生えていた。


 それは物音を聞きつけた。


 陰の中でもっと強く身を丸め、隠れようとする。


 だが、胸の上の刻印こくいんを隠し忘れていた――白金色はっきんしょく星渦ほしうずが、闇の中に幽かに光っている。


「心配しないで」


 モーリガンはそっと口を開き、近づかなかった。


「傷つけないから」


 彼女への答えは、攻撃だった。


 彼女自身の影――陽光の下で静かに地面に横たわるはずのその輪郭が、突然「生き」返った。


 影が地面から立ち上がり、一端が剣を抜くように鋭く伸び、彼女の後頸うしろくびへと直撃した!


 モーリガンは振り向きもせず。


 ただ軽く首をかわした。


 影のやいばが髪をかすめ、砂地に突き刺さる。


 そしてその瞬間――


 彼女の身体の表面に、黒いあわが現れた。


 小さく、密集した、沸騰する黒い液体から生じる泡のよう。それらは皮膚からにじみ出し、空中に浮かび、ゆっくりと上昇する。


 モーリガンは呆然ぼうぜんとした。


 これらの泡が何か、彼女にはわからなかった。


 しかし、その小さな生き物の反応はもっと速かった。


 それは影の中から飛び出し、流れる闇のように速かった。跳び上がり、爪で黒い泡を一つ正確につかむと、そして――


 丸呑みにした。


 飲み込んだ後、それは地面に戻り、彼女を見上げた。


 目であろう位置(顔の詳細は見えないが)、どうやら……期待している?


「……この体についた『黒いもの』は、永遠に落とせないと思ってたわ」


 モーリガンは泡を出し続ける自分の体を見つめ、独り言のように言った。


「これが、あなたの食べ物?」


 小さな生き物は答えなかった。


 というより、答えた――モーリガンは幾つかのささやきを聞いた。空気を通じてではなく、直接彼女の意識に響いた。


 お腹空いた……もっと……


「つまり、呼んでいたのはあなた?」


 ……うん……私……ずっと……待ってた……


「そういうことにしておくわ」


 モーリガンは手を差し伸べた。


 掌を上に向け、威嚇いかくはしない。


 小さな生き物は躊躇ちゅうちょした。


 彼女を見、泡を見、そして最後に――泡でいっぱいの口をふくらませながら、そっと近づいてきた。


 冷たい、液体のような体で、彼女の指先をこすりつけた。


 触れた瞬間――


 小さな生き物の首に、赤い液体の痕跡が浮かび上がった。


 その痕跡は生き物のように、ゆっくりと流れ、時には伸び、時には縮む。流れる合間に、それは一瞬だけ固まり、一つの名の形を成した:


 モーリガン。


 そしてまた流れ続ける。


 繰り返される。


 ***


 樹洞を抜けるのは入る時よりスムーズだった。


 奥の間に戻った時、アマラートはもう入り口で待っていた。


「お帰りなさいませ、主君」


 彼女の視線は小さな生き物の上に留まり、笑みの中にはモーリガンには読み取れない複雑さがあった。


「さすがは主君、あっという間に『馴染ませた』のですね」


「ただ、とても孤独だっただけよ」モーリガンの指が無意識に小さな生き物の冷たい背中を撫でた。「この種族……たぶん、これ一匹だけなんだろう」


「そうでしょうか?」


 アマラートは首をかしげた。


「私はそうは思いませんが」


 彼女の口調に、モーリガンは不快感を覚えた。


「アマラート、その仮面はおしまい」


 なぜだか、この小さな生き物がいることで、アマラートの身にまとうあの「猫のようで虎のよう」な痛みの波動が、以前のように虚ろではなくなった。


 むしろ、鮮明になっている。


 鮮明すぎて、モーリガンに悪寒おかんが走るほどだ。


「どんな仮面です?」


 アマラートの笑みは変わらなかったが、瞳の中で何かが渦巻いている。


「私はずっと、こうでしたよ、主君。ただ……」


 彼女は一呼吸置き、視線を小さな生き物に釘付けにした。


「どうしてこいつだけが『ご褒美ほうび』をもらえるんですか?」


 声はとても軽く、一語一語が針のようだった。


「私も、欲しいんです」


 モーリガンは今さら気づいた――


 彼女の周囲の黒い泡は、遺跡を離れたからといって消えていなかった。


 まだ湧き出ている。


 ゆっくりと、しかし確実に。


 まるで、彼女が制御できない、体内から滲み出る「分泌物」のように。


 そしてアマラートは、それらの泡を凝視している。


 その眼差しに渦巻く渇望かつぼうが、今にも溢れんばかりだった。

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