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痛みを喰らうことで、彼女は本当に定められた神になれるのか?  作者: 野間羊
誕生と虫の羽

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第十章

 モーリガンが歩み出そうとしたまさにその刹那――


 アマラートの耳が突然、警戒する夜行獣のようにピンと立った。


「何かが接近してる――速い!」


 言葉が終わらないうちに、彼女はすでにモーリガンの腰を抱えていた。


 背後に隠されていた翼が幽暗な残影を広げ、二人を軽々と近くの巨木の高枝へと運び上げる。


 木の葉がさらさらと音を立て、彼女たちの姿をまだらな木影の中に完全に呑み込んだ。


「実は」モーリガンの声はとても低く、ほとんど息の流れだけだ。「ケーリスも私たちを影に隠せたはずよ」


「歓楽……俺の求めている歓楽は、一体どこにある?どこにあるんだ!ははは――!」


 木の下からの狂笑はしわがれて裂け、一音一音が紙やすりで磨かれたようだ。


 それはたのしみの笑いではなく、何かがのど化膿かのう発酵はっこうして絞り出された音のよう。


 モーリガンが木の葉の隙間から下を覗く。


 よろめき走るその姿は見覚えがある――縮れた顎鬚、大きすぎるボロ革鎧かわよろい。ただ今は全身が泥と何か暗い染みで汚れ、走る姿勢は糸でかろうじて動かされる操り人形のように歪んでいる。


「……ハル?」


「彼は死にかけている」


 指の間からヘマリスの声が、霧を抜ける風のように微かに冷たく響く。


審判庁しんぱんちょうが彼を狩っている……そして彼は、私の残った霧の中へ逃げ込んだ」


 モーリガンが指先でうるおいのある指輪の面を撫でる:「すぐに応じなくてもよかったのに」


「大丈夫。いつかはこの時を迎えなくては」


 ヘマリスは一息置き、指輪の面が彼女の感情に合わせて微かに冷たくなったようだ。


「私はもう怖くて……その怖さそのものを、忘れることを選んでしまったくらいに」


 ***


 木の下、ハルが灰湖のほとりに倒れ込む。


 鉛灰色の湖水に、彼の歪んだ姿は映らない。


 彼は狂ったように水をすくっては顔に浴びせ、見えない何かを洗い流そうとする。続けて――


「ぷはっ――!」


 暗紅色の血の塊が彼の口から噴き出し、湖岸の砂利に飛び散る。邪悪な刻印のようだ。


「いや……まだだ!まだ死ねない!」


 彼は袖で無造作に口元の血の泡をぬぐい、手の甲の血管が蜘蛛の巣のように浮き上がる。


「あいつを見つけなきゃ……絶対に見つけなきゃ……!」


 彼はもがくように立ち上がり、目を見開いて周囲を見回す。最後に一つの方角を選ぶ――北東だ。


 そして彼は再び夜闇やみへとよろめき走り出す。無形の糸に引かれるように、一歩一歩が重く乱れ、何かの重さと格闘しているかのようだ。


「つまり」モーリガンがつぶやく。「彼が避けているのは、彼に唯一残された『歓楽』をもたらすもの?」


「違う、モーリガン」


 ヘマリスの声には複雑な感情が混じっている。


「彼が避けているのは、彼を追う者たち。審判庁だ。灰霧が消えて……彼らの記憶が戻り、任務も戻った。彼の鎖骨の下の刻印は、まるで闇夜の灯台のよう」


 モーリガンは一瞬、沈黙する。


 彼女は酒場で大笑いしていたあの男を思い出し、彼の胸元で鮮やかな「歓楽」の刻印に押さえつけられ歪んだ審判庁の符文ふもんを思い出す。


「誓いを破るちかいをやぶるつも……」彼女は呟く。


「そう」ヘマリスが小声で肯定する。


「彼は自らの誓いに背き、染まるべきでないものに染まった。そして今、そのものが彼に唯一残された慰めであると同時に、審判庁が彼を追う鉄証でもある。彼は二つの炎の間を走っている――一つは彼を浄化しようとし、もう一つは……ゆっくりと彼をむさぼり食おうとしている」


 ***


 アマラートの吐息がモーリガンの耳朶じだを撫でる。


「追いかけますか、主君?審判庁の騎兵きへいも遠くないでしょう、元の道には戻れませんよ」


 モーリガンはすぐには答えない。


 彼女は灰湖町の方角を見る――黒煙はまだ立ち上り、炎はいくらか小さくなったようだ。


 夜が完全に訪れ、空は墨汁ぼくじゅうに浸したビロードの布のようで、ただ幾つかの星がまばらに打ち付けられ、冷たくまたたいている。


 彼女はそのうちの一つの「星」が誰に属するかを知っている。


 アストライオス。


 彼はずっと見ていた。


「御者に伝言を残さなきゃ」モーリガンが言う。「彼はまだ馬車のところで待っているかもしれない」


「主君ったら」アマラートが軽く笑う。その笑いには、モーリガンには解読できない何かが混じっている。「すっかりあの灰霧に殺された馬たちに心を奪われちゃって」


 モーリガンははっとする。


「あの御者は……」


 アマラートがさらに近づき、唇がほとんど彼女の耳の先端に触れるほどだ。


「オーガスタス様の従者ですよ。もちろん、あなたがどこへ行き、何を必要とするか、ご存知です。最初から」


 そうか。


 モーリガンは突然、微かな寒気が背筋を這い上がるのを感じた。


 彼女は御者が去る時の姿を思い出す――最初の恐怖の震え、そして一歩を踏み出した後の突然の背筋の伸び、精確で安定した歩幅、全ての感情がきれいに消え去る様、不気味なほどの速さ。


 あれは普通の人間が持つ切り替え速度ではない。


 訓練された、造形された存在だけが持つ特質だ。


 まるで……


 彼女は傍らのアマラートを一瞥いちべつする。


 まるで彼女のように。


「つまりこれらすべては」モーリガンの声はとても平静だ。「父上の注視の中にある。ハルの出現も、私たちの今の苦境も」


「苦境じゃありません、主君」アマラートが訂正する。「課程かていです。オーガスタス様があなたのためにデザインされた……次の課」


 ***


 まるで彼女の言葉を裏付けるように、懐中の巻宗かんそうが突然熱を持った。


 その温度が衣服を通して肌をく。警告ではなく、召喚だ。


 モーリガンはそれを取り出す。


 羊皮紙が彼女の手の中で生き返る――古びた木目が潮のように退き、表面は鏡のように滑らかになる。彼女の顔は映らないが、次第に別の面影おもかげが浮かび上がる。


 オーガスタス・ヴェセラ。


 教皇の虚影きょえいが巻宗の上に凝集し、その目が無形の距離をへだてて彼女をまっすぐ見つめる。平静で、深遠で、相変わらず全てを掌握する余裕をたたえている。


「我が愛しき娘よ」


 彼の声が直接、彼女の意識に響く。平穏だが、無形の重みを帯びている。


「忘却の湖を無事に『れ』たことを喜ばしく思う。しかし……一つの指輪ゆびわだと?」


 彼は一息置き、その疑問を空中に一瞬、漂わせる。


「これは我が予想した結果ではない」


「父上、私は彼女を覚えておくと約束しました」


 モーリガンは巻宗の上の虚影をまっすぐ見つめ、避けなかった。


「だから?」


「だから、私は約束を果たし、彼女があの声の主を見つけるのを助けます」


 鏡の中のオーガスタスは微かに首を傾け、再評価を必要とする作品を審査するかのようだ。


「これは何だと思う、モーリガン?」


「もう一つの統御とうぎょです、父上」彼女の声は落ち着いている。「暴力や恐怖で奪い取るものではなく。……交換です。彼女は私に力を与え、私は彼女に約束をします」


「……そうか?」


 オーガスタスの口元に極めて淡い曲線が浮かぶ。その笑みの中に何かが一瞬、走る――称賛か、あるいはもっと深い何か。


「本当に自分のしていることを理解していることを願おう」


「よく理解しています」


「良かろう」教皇の口調はいつもの深遠さを取り戻す。「では続けよう。計画は常に変化に順応するもの。そして鋭敏な狩人は、傷ついた獲物の足跡を辿たどることを知っている」


 彼の視線はまるで巻宗を貫き、ハルが消えた方角へと向けられているようだ。


「馬車がお前たちをあるべき場所へと運ぼう。あのハルという『誓い破り』を追え――そうすれば探す手間は省ける」


「どの街ですか?」モーリガンが追及する。「地図のあの位置は……ずっと変わっていました」


「ああ、気づいたか」


 オーガスタスの声に一抹いちまつの本物の愉悦ゆえつが混じる。


「そうだ、モーリガン。あの街には固定の座標はない。なぜならそれ自体が『固定』された存在ではないからだ。現実の情緒じょうちょ狭間はざまを漂い、蜃気楼しんきろうのように、特定の人にだけ顕現する」


「どんな人に?」


「極限まで渇望する者に。ハルのように、ある種の『歓楽』の刻印を骨髄こつずいまで刻まれ、すべてを裏切ってまでもそれを追い求める者に」


 教皇の虚影が薄れ始める。


「あの街には多くの名がある――歓楽城かんらくじょう嗤笑ししょうの都、仮面の城。しかしその真名はヴェリディス、『真実の笑い』を意味する。絶妙な皮肉ではないか?」


 モーリガンは酒場でのハルの姿を思い出す。


 大笑いするあの男、目尻に刻まれた深いしわ、その皺には微塵みじんの笑いもなく、ただ苦痛の痙攣けいれんだけがあった。


「彼がそこへ行くのは……いやされるため?」


「より深い沈淪ちんりんのためだ」オーガスタスが訂正する。「誓い破りどもは、そこに彼らの渇望の源を見つけられると信じている。しかし真実は往々にして……渇望のものの巣をようやく見つけた時、お前はすでにその一部になってしまっていることが多いのだ」


 ***


 言葉が落ちると同時に、巻宗の光は完全に消えた。


 羊皮紙は再び冷たく粗い手触りに戻り、まるで今までの全てが幻覚だったかのようだ。


 しかしほとんど同時に、夜が切り裂かれた。


 新しい馬車が闇の奥深くから現れる。車輪は地面をきしませるが、当然あるべき音を立てず、まるで別の現実の層を走っているかのようだ。


 引く四頭の馬の毛並みはつややかで、歩調は不気味なほど揃っている。そして御者ぎょしゃは――


 紛れもなく、先ほどのあの御者だ。


 彼の顔には非の打ちどころのない恭順きょうじゅんの笑みが浮かび、軽く会釈する。


「ごきげんよう、お嬢様。霧に冒された馬たちは、ご指示通り適切に安らかに眠らせていただきました」


 モーリガンは彼を見つめる。


 今、彼女は意識的に知覚を働かせ、ついに捉えた――あの完璧な人間の外見の下にある、人ならざる、精密に動作する冷たい本質を。


 痛みもなく、感情の動きもなく、ただ純粋な実行意志だけ。


 まるでアストライオスの、ある種の簡略化されたバージョンのようだ。


「……うん」彼女は巻宗を懐に戻す。「父上の意に従い、出発するわ」


「かしこまりました」


 ***


 アマラートが軽やかにモーリガンを抱えて地面に降ろす。


 彼女の視線は新しい車輪を一掃し、また北東――ハルが消えた方角を見つめ、口元に解読し難い曲線を描く。


「どうやら私たち、一場の狂乱きょうらんに参加するようですね、主君」


 彼女は小声で言う。口調には警戒、好奇心、そしてある種深層の、ほとんど本能に近い拒絶が混じっている。


「固定の位置を持たない街……それはまるで、永遠に出口を見つけられない夢のよう」


 馬車の扉が自動で開く。


 内部は外見よりはるかに広く、座席は濃色の絨毯じゅうたんで覆われ、小さな机の上には温かい茶と菓子まで用意されている。全てが何度も繰り返し予行演習された舞台装置のように完璧だ。


 モーリガンが車内に座る。


 ケーリスが彼女の首のくぼみの影から少し顔を出し、困惑した喉鳴のどなりを立てる――この馬車にも、御者にも、これから向かう場所にも、本能的で微かな不安を示している。


 アマラートは最後に灰湖町の方角を見つめる。


 遠くの黒煙はほとんど夜に溶け込み、ただ散在する炎がまだかろうじてまたたいている。死にゆく者の最後の鼓動こどうのようだ。


 そして彼女は車内に潜り込み、そっと扉を閉めた。


 ***


 馬車がゆっくりと動き出す。


 初めは全てが正常だ――木々が後退し、道が延び、星々が窓の外を流れる。


 しかしすぐに、変化が始まる。


 窓の外の景色が歪み始める。


 色彩は過剰に鮮やかになり、輪郭はぼやけ、遠くの山々は水中の影のように微かに揺らめく。


 光も変わった。もはや特定の方向から差す自然光ではなく、四方八方から均等に注ぐ、影のない舞台照明のようだ。


 道そのものも変わり始める。


 堅固な土道が次第に細かく砕かれた、微光を放つ物質で覆われる。砕いた色ガラスのようでもあり、祭りの後に残った紙吹雪のようでもある。


「私たちはもとの次元にはいない」アマラートが低声で言う。


 彼女の手は無造作に窓辺に置かれているが、モーリガンは彼女の指先が無意識に窓枠を撫でているのに気づく。彼女が緊張する時の仕草だ。


「馬車が何か……情緒の境界を越えつつある」


「情緒の境界?」


「ある場所では、強い集団感情が現実の法則を歪めることがある」


 アマラートが窓の外のますます奇怪な光景を見つめる。


「悲しみは霧にぎょう結し、恐怖は怪物に変わり、そして歓楽は……」


 彼女は一息置く。


「歓楽は、永遠に幕を下ろさない舞台を築く」


 ***


 馬車が突然加速する。


 窓の外の色彩が狂ったように流れ始める。ひっくり返されたパレットが乱暴にかき混ぜられるようだ。


 かすかな楽音が遠方から漂ってくる。


 空気を通してではなく、直接意識に染み込むように。軽快で、反復的で、ある種強制的な愉悦のリズムを帯びている。


 モーリガンがうつむき、懐中の巻宗を見る。


 羊皮紙の上の地図が変化している。


「グレイスミア町」を示す印は完全に色褪せ、新たな印が北東の方角で明るくなりつつある――


 それは一点ではなく、絶えず微かに脈打ち、位置を持続的に微小に揺らめく円形の領域だ。


 領域の中央に、草書体で書かれた名が浮かび上がる:


 ヴェリディス城(Veridis)


 そして名の下に、一行の細い、彼女の父の筆跡による注記がある:


「真の試練は、お前が歓楽を疑うことを学ぶ時に始まる」


 馬車は前方の、色彩が狂乱し、楽音が漂う闇の深部へと進み続ける。


 夜は正に深く。


 そして狂宴きょうえんは、どうやら今、幕を開けようとしているところのようだ。

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