第九章
灰湖へ向かう道すがら、懐中の結晶が微かに震えた。
「モーリガン、いくつか聞いてもいい?」
ヘマリスの声が直接、彼女の意識に響く。微かに冷たい霧のようだ。「声は出さないで、意識で話しているの」
モーリガンはかすかにうなずいた。
「まさか……あなたの父上が、あなたを神に仕立て上げようとしているなんて」ヘマリスの声には複雑な感情が込められていた。
「許可なく私の記憶を覗くべきじゃないわ、ヘマリス」
「でもあなたが先に私の全てを見たでしょう」ヘマリスは一瞬、言葉を切った。「……ごめんなさい。でも私が聞きたいのは、それじゃないの」
「アマラートのことを聞きたいのね」モーリガンは意識内で応じ、驚きはなかった。
結晶がしばし沈黙した。
「彼女は……とても特別。わざと覗いたわけじゃないけど、彼女の記憶は濃霧に包まれた荒れ野のよう」ヘマリスの声には困惑と、かすかに警戒の色が混じる。「大多数の人の記憶には、少なくとも他の人のかすかな輪郭や、印象的な情景がある……でも彼女の『世界』には、あなただけしかいない」
「私だけ?」
「鮮明で、くっきりと、闇の中の唯一の光源のように。それ以外は、全て虚ろな影で、輪郭さえ見分けがつかない」ヘマリスは言葉を選ぶ。「これは正常じゃない。人ならざる存在だとしても、記憶にはそれ自体の論理と痕跡があるはず。彼女の記憶は……意図的に『洗浄』され、あなたに関する部分だけが残されているみたい」
モーリガンの足取りが一瞬、かすかに止まった。
「彼女は父が『造り上げた』ものよ」彼女は意識の中で静かに答えた。「記憶がそうなっているのも、造形の一部なのかもしれない」
「そうだといいわ」ヘマリスの声は次第に細くなるが、その疑念は完全には消えていない。
「主君、ずっと黙っていらっしゃいますが、あの結晶が何かお話ししているんですか?」
アマラートが突然近づき、笑みは甘いが、瞳の奥に鋭い光が一瞬走った。
「ただの普通の会話よ」モーリガンは彼女を見て、普段と変わらない様子で言った。
「そうですか?」アマラートの視線はその霧灰色の結晶に留まり、声を低めて、親密だが疑いようのない警告を込めて言う。「聞いてて、ヘマリス、あなたが記憶を覗けるのは知ってる。でも主人の耳元で変なこと言うのはやめたほうがいいわ、わかる?」
その瞬間、モーリガンは懐中の結晶から微かな戦慄が伝わってくるのをはっきりと感じた――それはヘマリスの本能的な畏怖だ。何か深層の、言い表しがたい既視感がヘマリスの意識を掠めた。遠い昔、似たような存在から同じように「戒め」られたことがあったかのように。
「アマラート」モーリガンの声は幾分冷たくなった。「行き過ぎよ」
「ただあなたを守りたいだけです、主君」アマラートは半歩下がり、無邪気な表情だが、瞳の光は消えていない。「まさか彼女の方がお好きなんですか? 彼女があなたの記憶を盗み見できるから? 彼女は魂の伴侶なんかじゃない、せいぜいが……記憶の泥棒よ」
「……彼女の言う通り、この能力は私が制御できるものじゃありません」ヘマリスの声がモーリガンの意識に響く。苦々しさを帯びている。
「アマラート、言葉を選びなさい」モーリガンは足を止め、侍女を見る目には明確な制止の意思が込められていた。
アマラートは目を伏せ、笑みは変わらない:「はい、主君」
***
灰湖が視界に入った。
それは見渡す限りの鉛灰色の水域で、湖面は波一つなく、同じ灰色の空を映し、まるで天と地の境がここで失われたかのようだ。
ヘマリスの姿が結晶の中から浮かび上がる。半透明で、霧が凝結したかのよう。彼女は湖岸に跪き、手を伸ばして指先でそっと水面に触れた。
湖面は漣を立てない。
むしろ応答するかのように、柔らかな霧が立ち上る。霧は水面で旋回し、凝集し、次第に一幅の鮮明で遠い光景へと変わる――
二つのぼんやりした影が並んで湖岸に座り、足先を水に浸している。
「ヘマリス、ずっと湖の中にいられる?」軽快で笑いを含んだ女の声が響く。
「どうして?」若き日のヘマリス(あるいは、彼女に似た何者か)が尋ねる。
「だってそうすれば、私がどこへ行っても、水辺に映せばあなたに会えるから」
その女性が首をかしげ、明るい笑みを見せる。
「それに、水の中のあなた、普段より一万倍きれいよ」
「口がうまいのね……じゃあ、来世も水の中で私に会いたい?」
「いいわよ、突然飛び出して私を驚かさないならね」
女性が振り向く。
彼女のこめかみには、はっきりと独特な刻印がある――簡素なハートの輪郭、その内側には激しい川の流れが絶えず奔っているようだ。
光景はこの瞬間で静止し、やがて水紋のように消えていく。
「待って――!」
ヘマリスが湖面へと手を伸ばし、抑えきれぬ震えを込めて叫ぶ。
「あなたは誰?!今どこにいるの?!」
応答はない。ただ霧がゆっくりと降り積もり、湖面へと戻っていく。
「ヘマリス、何を見たの?」
モーリガンが身をかがめ、震える彼女の肩にそっと手を置く。
「私……見たの……」
ヘマリスが顔を上げ、薄灰色の瞳に涙を湛えながら、かつてない明晰な光を宿す。
「彼女の刻印……こめかみに、ハート形、中に川の紋様が……モーリガン、彼女を見つけて……お願い」
「心の川の刻印」モーリガンは繰り返し、まるでこの特徴を意識の深くに刻み込むように。「わかった、私が覚えておくわ」
ヘマリスが目を閉じ、一滴の涙が零れ、湖へと落ちる。
湖心から忽然と、より濃密な霧の一団が湧き上がる。それは回転し、形を成し、ついには霧と水気が織りなす精巧な指輪へと固まる。縁は湖水のように冷たい微光と自然な曲線を帯びている。
モーリガンは懐中の霧灰色の結晶を取り出し、そっと指輪の中央に置く。
結晶と指輪が触れた刹那、柔らかな光暈を放ち、完璧に嵌まる。
「待って! ヘマリス、あなた、出てきなさい!」
アマラートの声が突然鋭くなる。
「私が認めない! そんな形で主人にまとわりついたりさせない!」
「アマラート、落ち着いて」
モーリガンは指輪をはめた手を上げる。その指輪は彼女と一体化したかのようで、潤いがあり安定している。
「これはただ、彼女の力を収める媒体よ、他の意味はない」
「本当に……それだけ?」
アマラートはその指輪を凝視し、複雑な眼差しで、声には何かより深い不満が抑えられている。
「力は『器』によって縛られるべきで、憑きまとう亡霊になるべきじゃありません。オーガスタス様があなたに与えられた道は、統御であって、共生じゃないんです」
彼女の言葉は冷たい棘のようだ。
その時――
「ぎゃあ――!! 助けて!! 火事だ!!」
凄まじい悲鳴が町の方角から突如響き渡り、灰湖のほとりの静寂を引き裂いた。
三人が同時に振り向く。
グレイスミア町の方角に、黒煙がもうもうと立ち上っている。灰霧の蒼茫ではなく、火花と焦げ臭い気配を混じえた――不吉な黒煙だ。
「審判庁だ」
アマラートの声は一瞬で冷え切り、全ての感情が冷徹な実戦判断へと切り替わる。
「灰霧が消え、彼らの記憶と任務が一緒に戻ってきた。標準浄化手順:異常痕跡の除去、目撃者及び『汚染』の可能性ある場所を含む」
彼女はモーリガンに向き直り、口調は疑いようのない緊迫感に満ちている。
「主君、即座に離脱すべきです。火は始まりに過ぎず、次は網の目のような捜索が始まります。ここで彼らと接触すべきではありません」
「これが忘却を解く代償……」
ヘマリスは立ち上る黒煙を見つめ、声はかすかで、まるで予見していたかのようだ。
「代償?」モーリガンが彼女を見る。
「灰霧が消えつつある。長年抑えられていた『現実』が……帰ってきている」
ヘマリスの瞳に遠方の炎が映る。
「忘れられていた争い、積もった恨み、未解決の矛盾……今、思い出しつつある。そして最初に思い出すのは、往々にして最も激しい部分」
彼女は一息置き、声をさらに低くする:「審判庁が当初なぜ来たのかも、含めて」
「でも、ヘマリス、あなたのお母さんは……」モーリガンはすでに指輪の核となった結晶を見る。
ヘマリスはしばし沈黙し、霧でできたその姿は風に揺らめいているようだ。
「彼女に私のことを覚えさせることはできる。でもそうすれば、審判庁が再び彼女を見つける……あるいは、彼女を完全に自由にすることもできる。たとえ自由が、私が彼女の世界から消えることを意味しても」
彼女の声は次第に落ち着くが、泣くよりずっと胸を締めつける。
「もう彼女に私のことを忘れさせた。彼女の最後の記憶では、彼女はこの町に住んだこともなければ、ヘマリスという娘もいなかった。彼女は別の場所へ行き、新しい生活を始めるだろう」
「でもあなた、さっき……」
「私は彼女を忘れたくない、って言った」
ヘマリスはモーリガンを優しく遮る。彼女の姿は次第に薄れ、湖風に吹き散らされる霧霞のようだ。
「でも彼女に私を忘れさせるのが……彼女を守る唯一の方法だった」
彼女の声はますます細くなり、ほとんど風と湖水のささやきに溶け込んでいく:
「これが……私が受け入れざるをえなかった……」
最後の一筋の霧の輪郭も大気に消え、ただ彼女の言い終えぬ言葉だけが、モーリガンの耳元に残っているかのようだ:
「……最も痛い忘却」
遠方の黒煙はますます明るくなり、かすかにさらなる叫びと騒動が伝わってくる。
灰湖は相変わらず静かで、炎と晴れゆく霧霞を映し、まるで二つの世界がこの瞬間に引き裂かれたかのようだ。
指輪がモーリガンの指の間で微かに熱を帯び、微かで持続的な搏動を伝えてくる――
それは震えではなく、むしろ封じ込められた一顆の心が、音もなく、規則的に縮こまり、疼いているようだ。
アマラートの視線は指輪から離れ、町の方角へと向けられる、ますます明るくなる炎へ。
彼女の顔に常にある笑みは完全に消え、もはや全くの冷厳さだけが残り、まるでより薄く、よりぴんと張った仮面をかぶったかのようだ。
「審判庁の動きは速い」
彼女の声には疑いようのない緊迫感があるが、目が一瞬、モーリガンの指輪を握った手を掠めた。
「主君、すぐに開けた場所から離れるべきです」
彼女の助言は現実の危険に基づいており、その姿勢も即座に護衛モードへと切り替わった。
しかしモーリガンは、一抹の不調和を捉えていた――
――アマラートが道案内のため背を向ける動きがあまりにも流暢で、背筋が異常にまっすぐだった。まるで何か渦巻く感情を無理やり固い石膏に押し固めたかのようだ。
この「専門性」には、疑わしいほどの作為が滲んでいる。
「ええ」モーリガンは応じ、指輪をはめた手を袖の中に隠した。
指先から伝わる搏動と、アマラートの背中から滲み出る無言の緊張とが、奇妙な共鳴を奏でている。




