婿入り王子は幸せを叫ぶ
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敵国に嫁ぐ姫の話なんてよくある物語。そこで時間を掛けて互いを知り、最終的にはハッピーエンド、ということも多い中、よもや自分が同じような目に遭うとは思いもしなかった。果たして自分は幸せになれるのだろうか。
確かに、敵国との戦に両国とも疲弊しているなとは感じていた。徐々に市井の方から「もういいよね」みたいな空気になり、まずは商人が裏ルートでやり取りを始め、次にその利権に貴族が首を突っ込んだ。そうなればもう、辛いのは市民だけだ。
やがてどちらからともなく理由が薄れ始めた戦争をやめようとなった。元々は中間にある土地が欲しかったのだが、長く続いた戦争で荒れ果て、もはや誰も欲しがらない。長い時間が経てば回復するだろうがそれにも百年ほどの時間が掛かる。今、求めるのは意味のないことだった。
そういうわけで敵国と融和の施策として婚姻が結ばれることになった。これも良くある話だ。同じ血族が相手方に居れば戦争を起こしにくく、互いに協力をしやすい。王家に生まれし者の定めでもあった。
「そうして、俺に白羽の矢、というね」
王家の紋章が刻まれた馬車で移動する最中、ぽつりと呟く。王家の三男、つまりスペアのスペアとして食事と教育を与えられていたイーサンは今回の婚姻で行ってこいと放り出されるようにして馬車に乗せられた。しっかりと荷造りは済ませてあり、よく着る服に取り急ぎ作られた礼服が三着程度、これは相手に失礼なのではないかと不安にはなった。
婿入りで追い出されるのは別に構わない。隣国との戦時中ながらある程度自由にやらせてもらった。生活の苦しい民の営みと血税で飢えることもなかった。民への恩返しが敵国に婿入りするだけで返せるのなら文句はない。敵国には姫しかおらず、まだ幼い腹違いの妹が差し出されなかったことは幸運だった。女の子なのでいずれどこかの国に嫁ぐか、降嫁するだろう。花嫁衣裳を見られないことだけは少し辛い。けれど、辛い理由はそれだけだ。
「殺されないといいですね」
馬車に同乗していた幼いころからの付き人が淡々と言った。ついてこなくてもいいと言ったが頑なに「あなたには私がいないとだめでしょう」と言い張り、馬車に乗ってくれた奴だ。歯に衣着せぬ物言いに喧嘩になることも多いが、兄弟のような関係性だった。
「シオン、それさ、これから敵国に婿入りする奴の前でわざわざ言う?」
「危機感と緊張感は持っていただかねば、お守りできません。イーサン様は少々楽観的ですので」
「戦う前提やめてー、平和のために行くんだってー」
婿入り、平和のため、と言い含め、従者シオンはハイハイと言いたげに首を揺らした。ガタガタうるさい馬車の中でごつりと頭を壁に預けた。
「婿入り先のお姫様って、鮮血のギネヴィアだっけ?」
「左様です。常勝の女神、先陣を切る不死身の女。我が国へは様々な異名を轟かせておりますね」
「俺、剣も握ったことないんだけど、話、合うかな」
長兄、次兄は跡継ぎの本命とスペアなのでしっかりと騎士団長などから指導を受けていたが、スペアのスペアであるイーサンにそれがつけられたことはない。長兄からはお前の出番はないと言われ、次兄からは大人しく図書室にでも籠っていろとはっきり言われたこともある。やっていいことを制限された三男が、妹を可愛がる方向にシフトするのは当然のことだろう。たった一人の姫ということもあり妹は大層可愛がられていたが、おにいちゃま、と駆け寄ってきてくれる姿は本当に可愛い。あの王城の中で唯一心からの笑顔を向けられる相手だった。
「だからこそイーサン様が選ばれたのではないでしょうか」
「え、何が?」
「ですから、剣を扱えないからこそ、謀反など内部からの反抗ができないと判じられての人選だったのでは、と」
あぁ、とイーサンは目を瞑った。だとするならば正しい人選だ。イーサンはそもそも争いが好きではなく、長い物には巻かれろの主義だ。何かを背負い、決め、首を懸ける王族としては多少、結構頼りない。そんな男を伴侶にせねばならない常勝の女神に憐憫を抱く。
「愛人はつくっていいよって言うのは、優しさって捉えてもらえると思うか?」
「殺されると思います」
だよなー、とイーサンのぼやきが馬車の車輪で掻き消されていった。
――敵国、訂正、同盟国ファムルーツ。勉強したところによると、やや南に位置するこの国は温暖な気候で作物の育ちがよく、食事に貧することのない豊かな国だ。対してイーサンの故郷ホルトックはやや北に位置し年を通して涼しい気候だ。だが、ホルトックには海がある。そのため、諸外国との貿易が盛んで技術や新しいものが入ってきやすい。
ファムルーツは山々に囲まれた国のため、平野である中間の土地を得て貿易に力を入れたい。
ホルトックは少し暖かい土地を得て作物を得たい。
そうした欲望から始まった戦争だった。結局目的の土地を荒らしてしまっては意味のないこと、何かうまく協定でも結べればよかったのに、と当時を知らないからこそイーサンは思う。実際、そうした対話を通じた結果、どちらも折れず始まったことは学んだ。ホルトックの学者が嘘を書いていなければ、だ。
そうした先入観は捨てていった方がいいだろうな。イーサンはいくつかの街を越え、ついにファムルーツの王都へ足を踏み入れた。
戦争をしていた割りに食事情が潤っていたからか民の顔には笑顔が多い。暖かな色合いのレンガ、伸びた煙突からはもくもくと煙が上がり、馬車の中にまで小麦の焼けるいい匂いが漂う。王城に辿り着くまでに何かあってはいけないからと宿に入るまで護衛され、宿で出された食事だけを取ってきた身としては、いろいろと見て歩きたくなる。シオンになりません、と先んじて釘を刺され、イーサンは馬車の中でだらりと椅子を滑った。みっともないです、と怒られ、ノロノロ体を起こす。
「きっと王城では美味しいものをいただけますから」
「だといいな」
婿入り、その実態は人質だ。笑みを浮かべはするものの、イーサンのそれには諦観が滲んでいた。
国境を越えて移動を優先、二週間程度、ようやく王城に辿り着いた。故郷ホルトックの王城は涼しい気候だからこそ、多くの花や植生に憧れを抱き、王城の構えも中庭も緑に溢れていた。けれど、ここファムルーツは戦の国という面構えだった。分厚く堅い城壁、緑もなく隙間なく手入れされた石積みのそれはズゥンと音を伴って重みをイーサンに示しているようだった。ガラガラとけたたましい音を立てて上がる鎖の太いこと、鉄製の門が開き、イーサンの乗った馬車は小鳥を入れた籠のような体でそこをくぐり抜けた。
馬車が王城の入り口で止まったのがわかる。イーサンは手が震えてしまい、シオンを見遣った。
「大丈夫です、何かあれば、まず私が盾になります」
「そ、そういう言葉が欲しいんじゃ、な、ない」
落ち着いて、とか、深呼吸して、とか、あるだろう。イーサンはひっひっふー、と息をして顔を上げた。
「ホルトック第三王子、イーサン殿下の御到着です」
外から名乗りを上げてもらい、イーサンは一度拳を強く握ったあと、開かれた馬車の扉から外へ出た。
ザッと大きな音を立てて屈強な騎士たちが剣を前に携えて道をつくっていた。城壁だけではなく、王城そのものも灰色で大きく、それもまた無骨な戦士の顔をしていた。それを見上げ、つい騎士たちを眺めながら歩いてしまう。本来、何にも目をくれずにまっすぐ歩くべきだろうが好奇心旺盛なイーサンには我慢ができなかった。兜の奥からじろりと視線を送られ、厳しいものに背筋を伸ばし、歩き直す。小さくくすりと聞こえたのは気のせいだろうか。
騎士の道の先に女騎士がいた。それが婿入り先の姫であるとわかったのは銀鎧以外の全てが鮮血のような赤だったからだ。
「ファムルーツへようこそ、我が婿殿。私がギネヴィアである」
凛々しい声だった。身長も高く、金の髪はたわわだが邪魔にならないように結い上げられ、深い紺碧の瞳は嘘を許さないような鋭さがあった。がっしりとはしているが決して重い筋肉ではなく、健康的な肌艶、切れ長の目にたっぷりとした睫毛、薄い唇は形がよく、姿勢正しく立っている女性をぽかんと見つめてしまい、イーサンは言葉を失っていた。常勝の女神、鮮血のギネヴィアと呼ばれるくらいだ。よほど厳しい顔をしていると思っていたのだが、これは。
「綺麗だ……」
ザッと再び騎士たちの音がして、イーサンは我に返った。こほん、と咳払いをし、優雅に礼を取る。
「失礼しました、姫君を前に礼を失しました。ホルトックから参りましたイーサン……」
「挨拶などよい。来られた意味は把握している。部屋は用意してある、まずは体を休められよ。その後、婚姻の儀の話を進めようではないか」
「あ、はい、承知しました」
思った以上に普通に受け入れてもらうことができてまずは一つ、胸を撫で下ろした。ギネヴィアは顔を揺らして背後に控えていた侍女と従僕を呼び出した。この二人もまた身長が高くキビキビとした動きだ。
「案内をさせよう。話はまた明日」
「ご配慮くださりありがとうございます。ギネヴィア王女殿下」
うむ、と頷き、ギネヴィアは踵を返して王城へ戻っていった。背後の騎士たちの視線を背中に一身に浴びて居心地悪く、イーサンはこちらへと促されるままにシオンとともについていった。
王城の中は質実剛健、余計なものはなく、必要なもののみで整えられていた。廊下の窓にカーテンもない。これは節約などではなく、少しでも間者の隠れる場所を、視界を遮るものを無くすためだろうなと思った。二人が扉を開けてくれて、イーサンは迷わずに足を踏み入れた。こういう時、足を止めて迷うのは、暗殺者への不安を見せ、厚意を踏みにじることに繋がる。そうして部屋に入って振り返れば二人は丁寧に礼を取っていた。
「こちらのお部屋となります。ご入用のものがございましたら、何なりとお申し付けください」
「ありがとう、あなたたちの配慮にも感謝を」
にこり。笑顔を見せて扉を閉められる。イーサンの全財産の鞄一つを持ったシオンだけが残った。足音が遠のくのを待ってから、イーサンはその場でしゃがみ込んだ。
「俺、絶対やらかした」
「突然の口説き文句にその場の全員が凍ってましたよ」
だよなー、とイーサンは青いまま唸った。テーブルに鞄を乗せ、ぱこりと開いてシオンが淡々と言った。
「一先ず、お言葉に甘えて少しお休みになられてはどうですか? 強行軍でお疲れでしょう」
「そうだな、確かに。シオン、荷解きは頼んでいいか?」
「もちろんです、お湯も入れてくださってるようですし、荷を開いたらすぐに伺います。ズボンは脱げますか? 下着は脱げますか?」
「冗談が雑すぎないか……」
イーサンは苦笑を浮かべながら部屋を進み、湯のにおいを辿った。天井の高い部屋は石造りでやや殺風景に感じるが、金の燭台に刺繍の細かいカーテンなど、賓客をもてなそうという配慮が見える。大きな暖炉は暖かい気候ゆえに火は入っていないが、いつでもつけられるように薪は組まれている。足元に敷かれた絨毯は分厚く、足の負担を軽減させようという労わりを感じ、横長のソファは触り心地がよさそうだ。思わずそこに座って撫でてみれば、シルクだった。さらさらすべすべ、ばふりと倒れて頬を寄せる。心地よい。ずっと揺れている馬車に乗っていたのでこれだけで最高だった。
「イーサン様、ソファが汚れます。先にお風呂にご案内しますから」
「ちょっとだけ……」
イーサンはそのままスヤスヤと寝息を立てはじめた。そして、翌日までぐっすりだった。
――ファムルーツの王城はざわめいていた。ホルトックから送られてくる婿は第三王子。第一王子は王太子で跡継ぎであるので送らないのはわかるものの、第二王子でもなく第三王子とはこれ如何に、とそもそも問題視されていた。姫、ギネヴィアはどんな奴が送られてこようとも、手綱を取ってみせるという覚悟があり、そのつもりだった。
だというのに送られてきた第三王子はまるで恐怖心もなく、好奇心だけを前面に出し、きょろきょろと騎士を眺める余裕すらあるではないか。わぁ、と口を開いて王城の造りに感心し、騎士と目が合って我に返るような、なんとも童心に溢れた青年だった。その様子が毒気を抜いて、一部の騎士が微笑んでしまったのも無理はない。敵国に婿入りに来た青年のとる態度ではなかった。
そして何よりもギネヴィアとの初対面だ。ホルトックにもギネヴィアの異名は届いているだろう。脅かすつもりでしっかりと戦場装備で臨んだ初対面、あの青年ときたらぽわんとした顔でぽつりと、綺麗だ、などと抜かした。騎士たちの動揺する音に改めて自分を取り戻し、礼を尽くしてきたがもう駄目だった。ギネヴィアはさっさと会話を切り上げて踵を返した。
――なんだあの可愛い生きものは。
ファムルーツの図体がでかく骨太な男に囲まれて育ったギネヴィアにとって、ホルトックのイーサンは言うなれば小動物のような生きものに見えた。腕相撲なんぞしたら腕の骨が折れるだろう。組手などしたらあばらの骨を折るだろう。全力で走ったら足が折れるのではないかというほど、か弱く見えた。これはやや言い過ぎであり腕相撲と組み手は折れるかもしれないが、イーサンが全力疾走をしたところで足の骨は折れない。
戦場で見たホルトックの第一王子などはもっと体つきがしっかりとしていた。そのイメージでいたので、二十歳のギネヴィアより二つ年下の青年があんなに細いとは思わなかった。ファムルーツの人々が肉体言語を愛するがゆえに屈強なだけではあるのだが、剣も扱わないイーサンのすらりとした体型は、昔憧れた絵本の中の王子様の絵姿そのものだった。
それが、自分を綺麗だと言った。
「くそほど可愛いが!?」
叫びながらギネヴィアは拳を壁に叩きつけた。べこりと凹んだ石造りの壁、姫様! と叱りつけてくる侍女の声にそうっと手を抜く。ぱらりぱらり落ちる破片、もはや慣れっこと言わんばかりに控えていた職人がぺたぺたとそこに石材を塗り込めていく。誰もお怪我は、などと問う者はいない。
「なりませんよ姫様、イーサン殿下が思った以上に絵本の王子様だったことはわかります。だからこそ、その激情に任せて拳を振るう癖は押さえねば、怖がられてしまいます」
「わかっている。あぁ、しかし、どうすればよいのだ? あんなに愛らしい婿が来るとは思わなんだ。抱きしめたら折れそうではないか!」
「力加減なさいませ! 一先ず本日はお休みいただいて、夕食を共にする程度になさって、明日、国王陛下とのご挨拶にお時間をいただけるように打診をなさってください。他国の恋愛小説ではゆっくりと距離を縮めると書かれています」
「ゆっくり距離を詰めて、どのくらいの距離で矢を放てばよいのだ?」
「狩りではありませぬ! 矢を放ってはなりません! 比喩でもやめてくださいませ! 姫様、やりかねませんから!」
そうか、矢はだめか、言っておきますが剣でも槍でも拳でもいけませんよ、と侍女に釘を刺され、ギネヴィアは頭を抱えた。
そもそも、ファムルーツの恋愛は果たし状から始まる。勝っても負けても、相手の気概が気に入ればそこから気持ちを育み、愛を覚え、子を成すに至る。あんな風に真正面から相手へ素直な感想を伝えることはない。その時点でギネヴィアは手にした盾を盛大に砕かれていた。
「部屋に足りないものはないだろうか。北の生まれだ、暑すぎたりなどしないだろうか。風呂の使い方はわかるだろうか?」
「その点はホルトックからの付き人がしっかりとお世話してくださると思います。事前に伺ったところ、イーサン殿下の幼少期より共に育った兄弟のような方だとか。姫様、落ち着いてください」
「しかし、もし婿殿に仕方なく追従してきた者であれば? まさか命の危険など……!?」
「姫様、私の話を聞いていました? 姫様! 衛兵! 姫様を止めて!」
走り出したギネヴィアに対し、わぁぁ、と衛兵が、騎士がスクラムを組んでその行く手を阻んだ。それを千切っては投げ、千切っては投げ、ギネヴィアは猪突猛進に進んだ。
衛兵と騎士の屍を越えて辿り着いたイーサンの部屋は、賓客をもてなすための部屋であり、その実、婿を通すような部屋ではない。何せギネヴィアの部屋とは棟すら違うのだ。ギネヴィアはその施策を後悔していた。もっときちんと、もてなしができるように本棟に部屋を用意すべきであった。明日にでも部屋を移そうと考えながら、そのまま開けそうになった扉を慌てて案内にやった二人が止めた。
「姫様、ノックしますので少々――」
あぁ、と頷き、拳を作り、ドンドンと大きな音を立てて殴った。二人は両手で顔を覆い、くぐもった声で姫様、と嘆いた。中から返事があり、開けようとした扉を二人が必死に止めた。中から開けてもらうのです、と言われ、ギネヴィアは大人しく待った。少しの間を置いてイーサンとともにきた、シオンという青年が扉を開いた。こちらもまたファムルーツの男性に比べると細いものの、イーサンよりも戦いに慣れているだろう。恭しく礼を取り、ギネヴィアへ礼を尽くしてくれた。
「ギネヴィア王女殿下、いかがなさいましたか?」
「……婿殿の部屋に、足りないものがないかと心配になった。こちらは、王城の入り口に近いゆえ、体を休める本日だけで、明日には、本棟に移っていただく予定だ」
「左様でございましたか、そうとは知らず、失礼いたしました。ご高配を賜り感謝いたします」
「して、婿殿は?」
シオンは薄っすらと苦笑を浮かべ、そっと身を退けて部屋の中を見せた。
「お恥ずかしながら、馬車での長距離移動にお疲れの御様子、ソファをお借りしてそのまま眠ってしまい……。御用でございましたら、わたくしがお受けいたします」
横長のソファの上でぐっすりと眠る青年の姿にギネヴィアは目を瞬かせた。いびきがうるさくない、だと。足を投げ出して大股を開いて眠っていないだと。ソファの上で器用に眠るイーサンの姿が塀の上で伸びて眠る猫と被る。ふらりと近づくギネヴィアにシオンが王女殿下? と声を掛けるもそれは届いていなかった。そうっとしゃがみ込み、イーサンの寝顔を覗き込み、ギネヴィアは人差し指でその頬をつついた。むにゃ、と寝返りを打つイーサンの動作にむふ、と顔がにやけた。シオンは咳払いをして改めて言った。
「……王女殿下、御用でございましたら、わたくしが、お受けいたします」
「あ、あぁ、そうだな、夕食をともにと思ったのだが、この様子では難しそうだな」
ギネヴィアはすっくと立ち上がり、んん、と喉を鳴らして腰の後ろで手を組んだ。
「明日の朝食をともにできればと思う。婿殿が目を覚ましたらそのように伝えてくれ」
「承知いたしました」
会話が途切れ、ギネヴィアはイーサンを眺め続け、シオンは見送りの姿勢だが相手が動かず、扉の外で待っているファムルーツの従僕たちへそっと視線を向け、助けを求めた。それに深々と謝罪の礼をしてから侍女が中に入り、姫様、とイーサンを食い入るように眺め続けるその背を押し、強制的に退出、扉を閉めた。少々何かを言い合いながら立ち去っていく足音が聞こえなくなってから、シオンは主を振り返った。
「案外、気に入られているようですよ、イーサン」
シオンはホッと息を吐き、明日の移動に備えて必要な荷物だけを出したまま、再び荷造りをした。
――翌朝、昨日ギネヴィアが訪ってくれたことを聞いて申し訳ないことをしたな、とイーサンは思った。用意してくれていた湯も使わずにすっかり寝てしまい情けないところを見せたとぼやけば、シオンからは大丈夫そうでしたよ、と日頃からは考えられない程肯定的な発言が返ってきてこいつは本当にシオンかと疑ってしまった。ここは仮の休憩部屋だったということも聞き、いい部屋なんだけどな、と少しだけ惜しい気持ちだった。周りの部屋を主にしている者もおらず、かなり静かでよかった。改めて身を清めそれなりの礼服に身を包み、よし、と気合を一つ入れた。
侍女と従僕に案内された先は日当たりのよい柔らかな朝の陽光差し込む明るい部屋だった。窓が大きく、そのままテラスに出られる造りだ。少し開いている窓から涼しい風が吹き込んでいて、北生まれのイーサンには嬉しい風だった。
部屋の中にはドレスではなくシャツにパンツの凛々しい姿でギネヴィアが先に待っていた。長い金髪は今朝は三つ編みで後ろに流してあった。
「おはよう、婿殿」
「おはようございます、ギネヴィア王女殿下。昨日は申し訳ございません、お声を掛けに来てくださったとか」
「いや、こちらこそ、強行軍であっただろうに配慮が足らなかった。……足は折れていないか?」
「足? いえ、折れていませんが」
ならばよい、とギネヴィアに促されて席につく。あっという間に朝食が並べられるのは見事だった。きびきびとした動きはこういう時に見ていて気持ちのいいものがある。
「ファムルーツの食事だ、口に合うといいが」
「ありがとうございます」
それでは、とイーサンははやる気持ちを押さえ、目の前に置かれた皿にナイフとフォークを向けた。
ファムルーツは農耕の国だ。小麦料理が主体で野菜に、野鹿、猪など、豊かな森も有している。ここ数年戦に疲れて畜産に力も入れているというのでこのベーコンはお手製だろう。
平べったいパンケーキと分厚いベーコン。新鮮な葉野菜とドレッシング。よく焼かれた腸詰、スクランブルエッグが乗ったワンプレート。戦士の国らしいぎゅっとした収まり方だ。イーサンの故郷ホルトックでは、これらが全て別の皿で出される。
まずは真ん中で主役を主張している薄いパンケーキから。生地は少し固いかと思ったが、それが実はモチモチした弾力のせいであるとわかった。しっかりと切ったはずだったが引っ張ってみればモチィと生地が離れることを嫌がり、フォークも強く刺さねばならなかった。小麦の焼けるいい匂いにぱくりと一口、モッチモッチと歯に弾力を返され、小麦の香ばしさと練り込んだハチミツの甘さに思わず息を吐く。これは美味しい。次いで1センチはあるベーコンをちょうど良い大きさに切る。油を引かずに焼いたのだろう、脂身の部分が透明で焦げているように思えた。余分な脂を落とすついで、ベーコン自身の脂でその身を焼かれたのだろう。カリ、ザク、とした歯ごたえで旨味のある焦げを咀嚼、身の部分からは燻製の良い香りとじわりと脂が溢れてくる。これだけだとしょっぱいのでパンケーキが必要なのだと理解した。パンケーキもベーコンもちょうど良い大きさに切って重ね、ばくりといただく。モチモチのパンケーキがベーコンの脂を受け止めて甘みとしょっぱみの塩梅が素晴らしい。ザクザクとした脂身の部分がパンケーキと混ざり合うと焦げの苦みが消えて全てが調和の中にある。
そこに新鮮な葉野菜だ。緑の葉野菜を折り畳んでフォークで刺す。ぽたりと垂れるドレッシングを乗り越えて口に入れれば、青さと鮮烈な香りがした。シャキ、シャキ、と歯ごたえがよく、掛かっている柑橘系のドレッシングがよいアクセントで口の中がさっぱりする。スクランブルエッグを掬って食べてみればこれは塩味で口直しにいい。もう一つの主役、腸詰をフォークで押さえてナイフを入れれば、プツンッと皮が弾けて肉汁が溢れた。肉を前にすると唾液が溢れるのはなぜだろう。ナイフを持つ手に力を入れ、ぎゅっと前後に動かせばぷりっぷりの肉が身を乗り出し、肉汁が溢れ切る前にフォークを刺して一口頬張る。ぷつん、ぎゅむ、とした腸詰の食感。噛めば噛むほどじゅわりと広がっていく肉の旨味、時々コリコリとした軟骨のようなものがあって、それが食感に変化を与えて楽しい。しょっぱさに唾液腺がぎゅっと震え、どばりとあふれ出る。置いてくれていた紅茶を一口いただけば、それらすべてが洗い流されてリセットされる。美味しい。
パンケーキとベーコン、パンケーキと腸詰、パンケーキとスクランブルエッグ。口直しにサラダと紅茶、イーサンはがっつかないように気をつけながら、夢中で食べた。
ホルトックの食事は海鮮スープにパン、海鮮の焼き物など海のものが多いのだが、小麦は少ない。白い小麦は王侯貴族の食事ではあったものの、イーサンはあまり口にしたことがなかった。どちらかというと貿易で得られる穀物、米などを与えられていたのもあって、今朝のワンプレートもまたご馳走だった。もちろん、米だって美味しいが、父王や兄たちを見ていると羨ましくはなるのだ。
綺麗にワンプレートを平らげて口元を拭い、食後の紅茶のおかわりをいただきながらイーサンはギネヴィアを見遣った。ギネヴィアはナイフとフォークを持ったまま、じぃっとイーサンを見つめ、微動だにしていなかった。ええと、と困惑しながら、イーサンはにこりと微笑んだ。
「貴国の食事はとても美味しいですね、ご馳走様でした」
「あ、あぁ、口に合ったようでよかった。……特に好きなものはどれだ?」
「特にですか? ううん、どれも美味しくて決められないですね」
「そうか」
これは素直な感想だった。このワンプレートのバランスがよくてどれも美味しかったが、比率が変わってしまえばそれはそれで。そうか、と呟くギネヴィアを改めて見れば、優しく細められた紺碧の目がとにかく慈愛に溢れていて、イーサンは目の下が熱くなるのを感じた。
もしかして、悪いようには想われてないのかな、と思うのは、自惚れ過ぎだろうか。
その後、髭面の無骨な国王陛下と謁見、ギネヴィアが主だって話をしてくれて助かったが、あまりにも出番がなくイーサンは少々自信を喪失した。想像していた以上に気さくな国王陛下は玉座を離れイーサンを抱きしめるなどの交流までしてくれたが、その後ギネヴィアに顔面を掴んで引き離されていた。父王にすら武力を行使する王女殿下とはいったいなんなのか。
元々そのつもりではあったものの、あれよあれよという間にまずは婚約が結ばれ、両国は条約を結び同盟国となった。イーサンが新しい部屋に慣れるまでにもすったもんだあったものの、ホルトックの父王と長兄が立ち合いにやってきて、婿入りに来て半年も経たずに婚姻の儀が執り行われた。鎧、装飾、マントとずっしりと重いファムルーツの儀礼服ではイーサンが動けず、まさかのギネヴィアに横抱きにされて入場という恥ずかしい目に遭ったものの、なぜか人々の温かい拍手を受けることができた。父王と長兄の心底呆れた顔は見ることができなかった。
ファムルーツでは指輪の交換などもなく、お互いに両手を合わせて誓いの言葉を言うだけらしい。それもまた、誓う、とだけ短く、長々と語ることはない。イーサンは自分よりも手の大きな、けれど緊張しているらしいギネヴィアに自然と笑顔が浮かんだ。自分よりも緊張している誰かがいると冷静になるというやつだ。少し手のひらを押して視線を呼べば、紺碧の瞳がどうしたのかとこちらを見てくれる。
イーサンはここに来た覚悟を改めて伝えるつもりで、小声で囁いた。
「ギネヴィア王女殿下、政略結婚ですけれど、私はあなたに生涯を捧げます。お互い、尊重し、話し合える夫婦であれるように、努力します」
じわ、とギネヴィアの耳が赤く染まっていく。あ、可愛い、とイーサンが思った瞬間、ギネヴィアの肩に担がれた。横抱きも問題ではあったが、肩に担ぐのも問題である。まるで人さらいのようだ。しかも大変に情けない声を上げてしまい、大聖堂が静まり返る。その沈黙の中をギネヴィアは迷わずに進み外を目指す。経典を読んでいた司教が目を瞬き、眼鏡を直した。
「王女殿下!? 何をされておられるのですか、イーサン殿下を下ろして、祭壇前にお戻りを……!」
「式は終わりだ」
えっ、やだ、結婚式で捨てられるパターン? 物理的にポイ? なんで余計なこと言っちゃうかな俺。
イーサンがヒュッと息を吸って口元を押さえた瞬間、ギネヴィアが叫んだ。
「いいか、婿殿に危害を加えようとする者がいるならばよく覚えておけ、私ギネヴィアが必ず肉片に変えてやる!」
結婚式で言うような台詞ではないが、その声と自分を担ぐ女性の体が熱いのを感じ、イーサンはそこに真実を感じた。ギネヴィアの背を撫でて宥めようとした瞬間、続いた言葉には盛大に顔を覆い、変な声を出した。
「可愛くて辛抱たまらん、初夜を行う! 準備せよ!」
「アィイヤアアアァァァ! 人前! 父上と兄上の前!」
待って、王女殿下ほんと待って、まだ出会って半年ですよ、もっとこうお互いにいろいろ知ってからにしましょう、いえ、王族ですから務めはわかっていますが、というかここでそういうの言っちゃダメです、来賓の方々の前なので! 国王陛下も止めてください!
イーサンの裏返った声が大聖堂に響く。ジタバタと暴れ出した婿を肩から下ろし、身長の高いギネヴィアがイーサンの両肩を掴み、少しだけ屈む。
「知っているとも、婿殿が甘いパンケーキが好きであることも、ベーコンやハムがお気に入りで厨房に強請りに行っていることも、王家所管の森の中でベリーを採って食べていることも。貴殿の好みをもっと知りたい」
「ひぇ……バレ……、すみません、美味しくて……!」
「婿殿、必ず幸せにする。よいな?」
真っ直ぐに言われ、次はイーサンが真っ赤になって、乙女のように両手を握り締めた。
「ふぁい……っ」
「では参ろう」
「だからって初夜は心の準備がー! シオン! シオン! 助けてぇー!」
ひょいと担がれ、逃げるにも衣装が重くてままならないイーサンは次こそそのまま連行されていった。シオンとギネヴィアの侍女がなりふり構わずその後を全力で追いかけていった。
大聖堂に残されたファムルーツの国王陛下とホルトックの国王陛下とその長男、他来賓の方々は呆気にとられ、誰かが拍手とともに笑い、どっと賑やかな声が弾けた。
「若人どもめ、何やら争っているのが馬鹿らしくなるほど相思相愛ではないか」
「イーサン……情けない……」
お互い、娘息子に思うところはあった。今日この日の祝福の間だけは国王という王冠を外し、同じ父として話してもいいかもしれないと思わせられた。互いに肩を叩き、今の出来事を労い、苦笑いを浮かべた。
そんな父たちの姿に長男も息を吐いた。何を背負わせることもなく自由にやらせてきた可愛い弟が突然政略結婚などという渦中に巻き込まれてしまったことを悔いていたが、大事にされているのならばよかった。次男は国王陛下と王太子である長男の守護という名目で国境付近に軍を置いているが、それも出番がなさそうで安心した。なにより、いざという時は使って、と妹姫から預けられた暗殺部隊はそのまま帰らせていいだろう。
「幸せになれよ、イーサン。ホルトックでお前に居場所を与えてやれなかったことは口惜しいが、ただお前の幸せを願っている」
晴天を仰ぎ、長男は柔らかく口元を微笑ませてから盛り上がり始めた父たちの下へ足を向けた。
屈強な民のいるファムルーツではホルトックの男女が流行り始めた。
比較的細身であるホルトックでは自身を包み込むようなファムルーツの男女が流行り始めた。
お互いに求め合えば争うことなどできなくなった。奪い合っていた土地は結ばれた者たちが住み始め、やがて交易都市として盛り上がる。どちらの国が所有するのかという問題にもなったが、長い話し合いの末、面倒になって、こちらもまた長い時間を掛けて一つの国になった。その先駆けであったホルトックの第三王子とファムルーツの王女殿下の話は、今や絵本となって広く知られた恋愛物語だ。
「――食われるかと思ったね、あれは」
ファムルーツで友人となった者たちとちょっとした試飲会をしながら、イーサンは酔い始めるとあの時のことを語りはじめる。大聖堂から連れ去られ真っ昼間に襲われた初夜。もはや伝説となりつつあるあの出来事は酔いの席では定番の盛り上がる話だった。シオンがグラスを取り上げて水を渡しながら、友たちはニヤニヤと笑い、イーサンのほろ酔いを眺める。
「イーサン様は本当にギネヴィア殿下がお好きですねぇ」
「そりゃぁ、かっこいいしね、可愛いしね」
「それをご本人に言って差し上げてくださいよ」
「言ってるよぉ」
わはは、さすが、と友たちが笑う。
「さぁ、そろそろお時間ですよ、お仕事に戻られてください」
「シオンも厳しいねぇ、そいじゃ、また集まりましょうや。酒の出来具合は報告書作りますんで」
「はぁいお疲れ様! よろしくね。俺たちは少し水飲んでから戻ろう、シオン」
「そうなさってください」
最近、温暖な気候で育つ果物を使っての酒の製作が進められており、イーサンが手伝っている事業なのだ。あまり酒に強くないため休憩を入れながらだが、案外と楽しい。
「イーサン、どこだ?」
「ギネヴィア、ここ、ここ」
廊下から聞こえた張りのある声にイーサンは叫び返し、立ち上がる。ひょこりと顔を出した妻はにこりと目を細め、その両肩に乗って笑う子供たちにも表情が緩む。
「足は折れてないか? 指は折られていないか?」
「大丈夫だって、歩くだけで足は折れないよ。握手も断ってるし肩を叩かないっていうのも、みんな知ってるでしょ」
握手でパキリと指が折れ、肩を叩かれて外れるとは思わなかった。ファムルーツの騎士たちは手加減を知らず、仲間内でのコミュニケーションがイーサンを砕くと知って斬首まで行きかけた人もいた。必死に止めた。かなり悔しかったので体を鍛え始めた。剣を持とうとしたらお前の手は綺麗なままでいてほしい、と懇願されたのでもっぱら木剣だ。
ギネヴィアの肩からイーサンの腕に移った子供の力が強いこと、母の良いところを継いでくれたらしい。
「ギネヴィア、このあと時間ある?」
「あぁ、そろそろイーサンを補給しないと城を壊しそうだと言ってきた」
「壊さないでね? お昼を持って中庭でピクニックしない? いい天気だからさ」
「素敵だ」
ふふ、と笑い合う。政略結婚だといっても、こうして笑い合うことができて、お互いを思いやることができればそれでいいではないか。
それに、本当に有難いことに愛情を向けて、愛情を返して貰えて、これほど幸せなことがあるだろうか。
ファムルーツに来るまでに、殺されるかもしれない、なんて思ってごめんなさい。
「ねぇ、ギネヴィア」
「なんだ?」
「俺も、ギネヴィアを幸せにできるように頑張るからね」
「滾る」
「何が? ねぇ? ギネヴィア? お昼だからね、ピクニックだからね、子供いるからね? シオンもいるからね?」
今日もファムルーツの王城では婿殿の悲鳴が響き渡るのだが、皆がそれを幸せのラッパのような気持ちで聞いていることを本人だけが知らない。




