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『眠れない理由』

朝食を終えたあと、俺は使い終わった鍋を手に取り、外にある水瓶の前へ向かった。ここ数ヶ月のことを思い返せば、ずっと彼に世話を焼かれてばかりだ。何か一つでも、彼の役に立ちたい。そう思って、鍋を水瓶の縁に掛けようとしたとき、ふっと手首に柔らかな指が触れた。


「ね、アキくん。せめて、洗いものくらいは僕に任せて?」


振り返れば、ラセルが穏やかに笑っていた。濡れたように艶のある赤い瞳が、ふわりと細められた。その仕草に、喉の奥がひゅっと詰まる。


「…い、いや、いいって!俺だって、洗いものくらいできるし」


「でも、ご飯作ってもらっちゃったし……これは僕にやらせて?」


鍋を持つ俺の手に、もう一度そっと力が込められる。押しつけがましくないのに、不思議と断りづらい。

結局、鍋は彼の手に渡った。水瓶の水で器用にすすぎ、木のへらで残った汚れを落とす動きは無駄がなく、見惚れてしまうほどだ。


……やっぱり俺、まだまだ子供扱いなんだよな。


がく、と肩を落とし、他に何か手伝うことはと探したものの、昼まで特に何もする事がない。落ち込んでいると、そんな空気を察したのか、彼は「少し森を歩こうか」と提案してくれた。


森は朝の陽射しが差し込み、まだ冷たい空気を暖めている。湿った土の匂いが心地よく鼻を擽る。足元には朝露を含んだ落ち葉が柔らかく重なっていて、踏みしめるたびくしゃりと小さな音を立てた。彼は歩きながら、足元に生えている草を摘み取ると、俺の方へ視線を向けた。


「これは傷を癒やす薬草。煎じてもいいし、直接貼っても効くよ」


「へぇ……見た目はただの雑草なのに」


「大事なのは匂いと茎の硬さかな。ほら、触ってごらん」


差し出された草を指でなぞる。しなやかな茎の感触と、ほのかに甘い香りが指先から鼻へと届く。彼は俺の仕草を見て、嬉しそうに目を細めた。その眼差しは、まるで俺の反応一つ一つを愛おしむようで、思わず目を逸らしてしまう。


「この辺には、ちょっとした沢があるんだ。水も冷たいし、綺麗だよ」


彼に連れられて、小さな坂を下っていくと、木々の合間にきらきらと光る水面が見えた。幅の狭い川だった。水は澄んでいて、川底の石の形までくっきり見える。靴を脱いで入ってもいいくらい浅いけど、水の流れは意外と速い。


彼は靴を脱ぐと、ローブの裾をたくし上げて水に足を入れた。


「冷た……!気持ちいいよ、アキくんもどう?」


「…じゃあ、」


靴を脱ぎ、水に足を入れる。ひやりとした冷たさが足首から駆け上がり、足に溜まっていた熱を吹き飛ばしてくれる。彼は流れの中をゆっくりと歩きながら、足で小石を探っては時折しゃがみ込み、何かを拾っては流れに返していた。


「川底は苔が多いから、足元気をつけてね」


その注意を聞いた矢先、踏みしめた石がぐらりと揺れ、苔に滑った足が前に傾いた。


「わっ!」


視界が大きく揺れる。次の瞬間、両肩を強く抱き締められた。けれど勢いは止まらず、そのままその体ごと倒れ込む。


ばしゃりと水が跳ね、飛沫が頬を打つ。気づけば、俺はラセルを川に押し倒すような形で覆いかぶさっていた。濡れた髪が頬に触れ、赤い瞳が至近距離で俺を映す。


「……だ、大丈夫?」


耳元で、彼の声が甘く響く。互いの衣服は水を吸い、ひやりとした感触が肌へと伝わった。


「ご、ごめ……っ!」


慌てて体を起こそうとすると、足が再び小石に取られ、彼の胸元へと倒れ込んでしまう。水を含んだ布が互いの体に貼りつき、境目が曖昧になる。川の音の中で、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。


ようやく距離を取ると、彼は少し笑いながら立ち上がった。


「ほらね、苔は滑るって言ったでしょう?」


何でもないように笑うその顔が優しすぎて、直視できない。頬を伝う冷たい水より、さっきまで腕の中にあった温もりのほうが、ずっと強く残っている。


「……ごめん!俺……っ」


慌てる俺を他所に、彼は濡れた俺の服の裾を両手で握って、水気を搾ってくれる。その仕草は手慣れていて、無駄がない。


「大丈夫。怪我してないなら、それでいいんだよ」


顔を上げれば、濡れた髪から滴る雫が首筋を伝い、鎖骨へと流れ落ちていくのが見えた。なんだか妙な気持ちになってしまいそうで、思わず視線を逸らした。


彼は不思議そうに首を傾げ、じっと俺を見つめている。


「……どうしたの?」


その問いに答えようと口を開く前に、彼の腕がそっと背中に触れた。


「考えごと?」


「……ぁ、そう、そうなんだよ。ちょっとだけ、考えごとを、してて?」


「そっか。濡れたままだと、風邪引いちゃうし、考えごとは家に帰ってからしよう?」


「……うん」


罪悪感に、ほんの少し胸が痛んだ。


家に戻り、火を起こす。乾いた枝を薪代わりに投げ入れると、ぱちぱちと音を立てて炎が立ちのぼった。


「はい、アキくん。着替えて、これに包まって」


差し出されたのは、厚手の布。ありがたく受け取り、背を向けて濡れた服を脱ぐ。火の前で着替えると、冷え切っていた体が少しずつ解けていくようで、ようやく肩の力が抜けた。


「……あったかい」


「良かった。熱を出さないといいけど」


彼は心配そうにこちらを見つめながら、湯を沸かし始める。鍋の中で静かに立ちのぼる蒸気を見ていると、瞼がじんと重くなってきた。


食事を終え、温かな飲み物を口にする。ふと横を見ると、彼の赤い瞳が揺れる炎を映しながら、心配そうに俺を見つめていた。



夜。並んで横になっても、目を閉じられなかった。


隣から聞こえる静かな寝息が、余計に眠りを遠ざける。昼間のことが、何度も繰り返し蘇ってくるのだ。


思い出すたび、胸の奥がざわめき立つ。頬に火がついたように熱くて、枕に顔を埋めても冷めてはくれなかった。


「……眠れない…」


隣で安らかに眠るラセルの姿を横目で見つめながら、俺はひっそりと溜息を吐いた。

定番のラッキースケベ。

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