『いつも通りの朝が、いちばん辛い』
朝の柔らかな光が部屋の中を包み込む。
目を覚ますと、隣にはいつも通り優しく微笑むラセルがいた。
「おはよう、アキくん。よく眠れた?」
いつもと変わらない彼の様子に、あれ?全部夢だったっけ?と思わず現実逃避しそうになった。
「……なぁ、ラセル。昨日、俺、ちゃんと好きって言ったよな?それなのに、なんで全然変わってないんだよ!」
彼は少しだけ驚いた顔をした後、ふっと笑った。あ、可愛い。
「えー、だってアキくんが僕の大切な子ってことに変わりはないし」
「変わらなさすぎだろ!」
俺が声を荒げても、彼の目は変わらず優しくて、そんなところも含めて愛しくてたまらなかった。惚れた弱み、とはまさにこの事だ。
「…俺のバカ!!」
彼はそんな俺を見て、不思議そうに首を傾げながらぽんぽんと頭を撫でてくれた。
「そんなことないよ?アキくんは物覚えもいいし、毎日頑張ってる。」
「そういうことじゃなくて…」
「ん?」
彼の指先が、髪を優しく摘んで持ち上げる。思わず俺は顔を伏せた。
じわじわと頬に熱が集まっている事に気付いたからだ。
「……もういい。飯、作る。」
そう言って布団から抜け出し、部屋の隅にある簡易な調理台へ向かう。火は昨夜の灰の中にまだ少し残っていたらしく、炭を突けばじわりと熱を取り戻した。小さくて古びた鍋を火にかけ、彼が昨日の夕方に用意してくれていた干し野菜と、固いパンの端っこを入れてぐつぐつ煮る。
「アキくん、何か手伝えることある?」
「ない。座ってろ。」
「ふふ、そんな言い方しなくても……でも、ありがと。」
ラセルが椅子に腰かけ、膝の上で手を重ねて俺の動きを見つめているのがわかる。気になって仕方がない。昨日振られたばかりなのに、俺ばっかりドキドキしてて、向こうはぜんぜん変わらなくて……!
鍋の中の香りが部屋の中に広がる。
「いい匂い。今日も美味しそうだね。」
「……ラセルが言うと、なんかむかつく。」
「ええっ、なんで?」
「知らん。」
ぐつぐつと音を立てる鍋を見つめながら、胸の中のもやもやはまだ煮えたぎっていた。
彼は少しだけ困ったように笑って、「じゃあ、アキくんの機嫌が直るまで静かにしてるね」と言って、テーブルに肘をついて頬杖をついた。
俺はそれを背中で聞いて、ますます腹が立った。というより、悔しかった。
いつもと変わらず俺のことを大切に思ってくれて、冷たくしても笑ってくれて……それでも、恋人にはなってくれないって、どういうことだよ。
伝えようのない苛立ちのまま、器に朝食をよそうと、無言で彼の前に置く。
わかってる、これはただの八つ当たりだ。
「ありがとう。…わ、アキくんが作ってくれたご飯、美味しそう。」
「褒めても何も出ねぇからな。」
「うん、知ってる。」
俺は黙って自分の分の椀を持ち、彼の向かいに座る。
「いただきます。」
「いただきます。」
彼が手を合わせる動作に、どこか慣れてきた様子が滲むのを見て、また少し胸が熱くなる。
「……ちゃんと、言うようになったな。」
「うん、アキくんに教えてもらったからね。」
「"いただきます"って、食べ物に感謝する言葉なんだよね? 作った人や育ててくれた人、それから食材そのものにも」
おそらく多くの人は、そこまで深く考えてその言葉を使うわけじゃない。少なくとも俺は、朝の習慣として、ただの挨拶として、形式的に口にするだけ。
でも、ラセルは違う。言葉の意味を噛みしめるように、でも堅苦しくなく、自然に笑顔を浮かべながら言う。その仕草の可愛らしさに、思わず目を細めてしまう。
「……ああ。俺が生まれた場所じゃ、誰でもそうやって食べる前に感謝の気持ちを伝えるんだ。」
「……アキくんは、そういうことも大切にしてるんだね」
「いや、俺は母ちゃんがそう教えてくれたから。…言わないと、煩いし」
俺はそっぽを向きながら椀に口をつけた。熱い湯気が鼻をくすぐる。昨日の残りを煮込んだだけのスープが、妙に染みた。
彼は俺の隣で同じようにスープを啜りながら、ふと口を開いた。
「アキくんが教えてくれたから、僕も言うようになったんだよね。でも、最初はなんだか恥ずかしかったなぁ」
「そりゃそうだろ。初めての習慣だし、なかなか慣れないよな」
「うん。でも…アキくんが自分のことを話してくれたの…始めてだったから、すごく嬉しかったんだ」
彼は、椀を手の平で包み込むように持ちながら、いつも通りの穏やかな顔でこちらを見ていた。俺は、うまく目を合わせられずに俯いたまま、指先を弄っていた。
「……嬉しかった?」
ぽつりと、自分でも驚くほど素直な声が口をついて出た。
「うん。だってアキくん、自分のこと自分から、話さないでしょ?」
スープの表面に揺れる自分の影が、なんとなく情けなく見える。
彼の声は相変わらず優しくて、少しも重たくない。だからこそ、余計にやりきれない気持ちが胸に溜まっていく。
「……話したって、どうせ理解されねぇだろって思ってるし」
苦笑のような吐き捨てだった。
けれど、そんな俺の言葉に、ラセルは首を横に振った。
「それでも僕は、知りたいと思ってるよ。アキくんのこと」
「……俺のこと大好きかよ」
「大好きだよ」
微笑みながら、彼は言った。
ほんの一瞬、心臓が跳ねた。けれど次の瞬間、冷静に思い出す。
ああ、そうだった。
この人の「大好き」は、俺の「好き」とは違うんだった。
「……でも、恋人にはなれないんだよな〜」
なるべく明るい調子でそう返したけれど、自分の声がどこか乾いているのがわかった。
「…ごめんね?アキくんのこと、本当に大切に思ってるけど……」
彼はスープを口元に運びながら、穏やかに微笑んだ。まるで何も起きていないかのように、日常の中の一コマみたいに。
「……恋人になるって、たぶん、僕にはまだちょっと……怖いんだ」
「怖い?」
「うん。誰か一人だけを特別だって、思うのが、まだ……」
その言葉の奥に、彼の過去や、胸の奥に秘めた傷のようなものが透けて見えた気がした。
俺は思わず言葉を詰まらせた。
「……なんで?」
問いかけた声は、さっきまでの茶化すような口調じゃなかった。
彼は暫くスープの表面をじっと見つめていたけれど、やがてふっと小さく息を吐いた。
「うーん……たぶん、僕はどこかで「失うくらいなら最初から持たない方がいい」って思ってるところがあるんだと思う」
「……それ、ずるくないか?」
「うん、ずるいよ。わかってる。だから、ごめんね」
ラセルは、また謝る。
優しくて、ずるくて、でもその全部がラセルなんだって、わかってる。
だからこそ、怒れなかった。
「俺は……ラセルが怖いこと、全部消してやるくらいの気持ちなんだけどな」
言ってしまってから、顔が熱くなる。
視線を上げると、ラセルの赤い瞳が驚いたように瞬いて、すぐに蕩けるような笑顔に変わった。
「ふふっ、それも嬉しい。でもね……」
彼は言葉を選ぶように、少しだけ間を置いてから続けた。
「…それでも僕の中には、まだ「怖い」がたくさんあるんだ。アキくんが嫌いだからじゃなくて、むしろ好きだからこそ……ちゃんと向き合うには、まだ自分の中の準備が足りてないんだ」
「……ほんっと、めんどくせぇな」
「そうかも。でも、アキくんはそんな僕のことも好きって言ってくれるんでしょ?」
「……言わなきゃよかった」
拗ねたように呟いた俺の言葉に、彼は優しく笑った。
「言ってもらえて、嬉しかったよ?アキくんの気持ち、ちゃんと届いたから」
「……ラセルのバカ」
「うん。バカで、ごめんね」
そう言って、彼はそっと手を伸ばして、俺の手の甲を一度だけ撫でた。ほんの一瞬の、触れるか触れないかくらいの優しい仕草。心臓がまた、どうしようもなく跳ね上がる。
彼は恋人になってくれない。
それでも一緒に朝を迎えて、一緒に朝食を食べて、たまにこうして、俺の気持ちにちゃんと応えようとしてくれる。
それだけで、たまらなく幸せで……そして、やっぱり少しだけ、苦しかった。
冒頭で、実はさりげなく一緒に寝てる二人