表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

語る芽

作者: 旗尾 鉄

新しい発芽食品開発のために赴任した先の辺境惑星で、一人残された研究員。

やがて、研究対象だったはずの芽が語りだす。

 じっとりとした蒸し暑さと軽い息苦しさによって、私は心地よいまどろみの世界から追い出された。


 目覚めたところは、いつものベッドではなかった。すぐ目の前には高耐久ガラス、左右には銀ねず色の強化金属が滑らかなカーブを描いている。寝返りもできない、狭いカプセル状の場所。高耐久ガラス越しに、白い天井が見える。間違いようもない、ここは人工冬眠装置の中だ。どうやら、予定よりも早く目覚めてしまったらしい。


 窮屈な中で右手を動かし、装置の内側を強めに叩いた。アラーム音が響き、ゆっくりと装置の蓋が開く。内側からの衝撃を検知して、安全装置が作動したのだ。もちろん停止スイッチや開閉スイッチはあるが、そんなものを探して操作するより、このアナログな方法がいちばん手っ取り早いのである。


 計器を確かめる。予定より六か月も早く目覚めてしまったのか。白い冬眠用ガスが立ちこめる人工冬眠装置から抜け出した以上、もうこの部屋、何もない殺風景な人工冬眠ルームに用はない。それに、やけに静かなことも気になる。私は部屋の外の様子を知るため、研究室へと通じるドアを開いた。




 メイン研究室に入ると、自動的に照明がついた。機器類もすべて正常に作動しているようだが、誰もいない。部下が二人いるはずなのだが。私はまず、メディカルチェッカーを確認した。左腕皮下に埋め込んだセンサーをリモートで読み取って、あらゆる健康状態をチェックできる最新機器だ。結果は異常なし、私は健康体である。それにしても、なぜ私は人工冬眠していたのだろう。なにか理由があったはずだが思い出せない。


 だがすぐに、ああ、そうかと思い当たった。人工冬眠から目覚めたとき、冬眠者の体調によっては軽い記憶障害を起こすことがあるのだ。これはその症状に違いない。医療機関で適切な治療を受ければ完治する類のものなので心配はないのだが、今の状況下では、記憶がないのは少々不便である。


 とりあえず障害の程度を知るため、記憶をたどってみる。


 名前はオノガワ・セイゴ。四十歳。地球での国籍は日本。地球周回ステーションには妻と、五歳になる息子がいる。職業はロイヤル・スプラウト社の主任研究員だ。人類の宇宙進出にともなってスプラウト市場は急成長し、いちやく花形産業となった。一般的な野菜類よりも栄養分を多く含み、栽培しやすく大量生産が可能な発芽食品は、恒星間宇宙飛行のような長旅に最適の栄養源なのである。充分な栄養素と満腹中枢刺激物質を配合した我が社の錠剤型スプラウトは、『食事要らず』として宇宙パイロットのあいだで高い人気を誇っている。……うん、どうやら、アイデンティティに関わるような基本事項はしっかり記憶しているようだ。


 仕事についてはどうだろうか。記憶を整理すると、この惑星の固有種を使って新型のスプラウト食品を研究開発するという、新プロジェクトのチーフに抜擢されたことを思い出した。二名の部下と共に、この地に降り立ったのだ。さらに、この惑星を含む宙域に政情不安による退避勧告が出され、部下たちを退避させて私だけが責任者として残ったことも覚えていた。


 だが、そこから先が思い出せない。具体的に開発がどこまで進んでいたのか、記憶があいまいだ。成功した気もするし、行き詰って葛藤していた気もする。残って研究を続けていたはずなのに、なぜ人工冬眠したのかも覚えていない。




 これ以上の記憶の掘り起こしは無理と判断した私は、研究記録を調べることにした。それに先立ってまず、ダメ元で緊急用の惑星間通信を試してみる。緊急コールで救助要請できれば、なんの問題もないのだ。


 だが、やはりというべきか、この試みは不発に終わった。通信機器はまったく正常に動作したのだが、ノイズが酷くて使い物にならない。


 とはいえ、さほど落胆はなかった。ダメ元と言ったとおり、この結果を予想していたからだ。政情不安というのがクーデターだか内戦だか、あるいはもっと大規模な戦争なのか知らないが、そういう場合、通信妨害兵器を用いて敵の動きを封じるのは常道だからである。我々民間人にはいい迷惑だが、どうすることもできない。


 頭を切り替えて、私は次に研究記録を調べることにした。メインサーバーにアクセスしてみると、こちらもあっさりとログインできた。物理的なトラブルがあったわけでないのは明らかなようだ。


 大量の研究ログを読み進めた結果、おおよそ以下のようなことがわかった。


 まず、新型スプラウトについてだが、これは部下が退避した後、私一人が研究を継続している間に幸運にも開発に成功し、サンプル品を製造する段階まで進展したらしい。冷静かつ論理的であるべきはずの報告書の中に、喜びを隠しきれない表現が含まれた私のレポートがあった。


 問題なのは、そこからである。サンプルを製造し、人体への悪影響がないことまで確認しておきながら、その少し後で私はすべてのサンプルを廃棄して研究を中断している。そうしてその後すぐ、人工冬眠に入ったようだ。研究中断の理由については不明だが、資料の中に一本だけ、読めないファイルがあった。私自身が作成したことになっているが、生体認証と二重パスワードのトリプルロックがかかっている。生体認証は外せたが、パスワードを覚えていないのでファイルが開けない。おそらくここに、なにかが書かれているだろう。もうひとつ、コピー用紙に『芽は必ず三十センチ未満で食用加工すること』と大きな文字で殴り書きされたものが見つかった。私の字だが、これだけでは意味不明だ。


 私は研究室正面を見やった。透明な殺菌防毒ガラスの向こうは、栽培ルームだ。幅五メートル、奥行き八メートルほどの中庭のような作りだが、研究室はコの字型で、奥側は開閉式の隔壁であり、外部と繋がっている。ルームには全部で二十本の数センチ程度の長さの芽が、土から小さく顔を出していた。データにあった芽の成長速度から計算するに、私はこの芽が成長しきって、スプラウトとしては食用にならなくなったところで目覚める予定だったようだ。不可解としか言いようがない。


 過去の自分の行動の不合理さはさておき、私はとりあえずの現状を把握した。なんのことはない、『じたばたしてもどうにもならない』というやつだ。こちらから連絡が取れない以上、会社側がなんとかして通信手段を確保してくれることに期待するしかない。


 さしあたって対処すべき課題は、退屈と孤独であると思われた。幸いにも、ここは研究施設であり、私は研究員だ。研究員という人種は、仕事と趣味が一体化しているのが常であり、私も例外ではない。しかもここには新種の惑星固有植物という、これ以上は望めないほどの心躍る研究対象があるのだ。これまでの仕事を継続するだけで、退屈のほうは簡単に追い払うことができるだろう。孤独のほうは少し厄介だが、仕事の継続という同じ方法によって何割かは軽減できる。足りないぶんは、妻と息子のムービーレターで補うとしよう。もう何度も見て、何分にどんな台詞を言うか覚えてしまったけれど。


 ここまで考えを進めて、私の脳と心は平静を取り戻した。考えようによっては、これはちょっとしたご褒美かもしれない。会社が求める開発業務はほぼメドがついている。ここからは、この最新の研究設備を自由に使って、自分の興味の赴くままに研究ができるのだ。そう思うと、学生時代に持っていた知的好奇心に対する情熱が戻ってきたようで、なにやらワクワクした。








 翌日から早速、私は研究活動にいそしんだ。


 まずは、自身が廃棄処分にしたスプラウト新製品サンプルを作り直すことにした。きちんと成果を上げたことはアピールしないといけない。


 栽培ルームの芽がまだ小さすぎるので、成長促進剤を与えて一週間ほど育てた。指示さえ出してやればロボットワーカーがすべて作業してくれるので、楽なものだ。芽の長さが二十センチを超えたところで収穫し、満腹中枢刺激物質を配合して錠剤化すればいい。すでにデータが取ってあり、ノウハウが確立している作業工程であるから難しいところはない。


 しかし、いざ収穫の指示を出すときになって、私は手を止めた。あの殴り書きのことが、ふと気になったのである。『芽は必ず三十センチ未満で食用加工すること』と書かれていた。私は過去の自分を信頼している。おそらくこのメモに従って処理を進めれば、なんの問題もなくサンプルが完成するだろう。だが、しかしだ。もし、三十センチを超えたとしたら、どうなるのだろうか。好奇の虫が騒ぎ出した。知りたい。少なくとも、命の危険があることではなかろう。それならそう書くはずだし、今の私自身、負傷や体調不良の痕跡はない。


 私はコンソールのキーをいくつか叩いて、ロボットワーカーに指示を出した。十九本は刈り取り、もっとも発育の良い一本だけは残せ、と。


 私が見守る中、ワーカーは忠実に作業を実行する。やがて収穫した芽を運んで、加工室へと消えていった。




 残した芽は、高さ二十八・四センチまで成長していた。成長データによると、あと四、五日で三十センチに達するはずだ。


 改めて、芽を観察してみる。


 緑色と銀色を混ぜたような色だ。形状は地球の植物でいうと、ユリ科植物、特にチューリップの芽に酷似している。外皮が数枚、絡まり合うようにしながら真っすぐに伸びている。むろん、チューリップの芽が三十センチになるはずがないから、あくまでも形状だけの話だ。地球の植物より、かなり巨大な芽である。この芽ひとつに、成人男性に必要とされる栄養素の約二週間分が含まれているのだ。


 三日、四日と日が過ぎていく間、私は毎日この芽を観察した。いつどんな変化が起きるか、楽しみで仕方がない。




 五日目のことだった。


 朝起きた私は、芽の変化にすぐに気づいた。しっかりと絡み合っていた外皮が、芽の頂上部で少し開き気味になっている。上から覗くと、複雑な芽内形態が見てとれた。


 この段階では、さほどの感慨はなかった。芽の成長にともなう自然な変化に思えたからだ。わざわざ感情的になって書き残すほどのことではない。もっと何かあるはずだ。落ち着いて観察しよう。私は給湯室へ行き、コーヒーを淹れた。


 コーヒーを淹れたマグカップを片手に、さてそれでは、と芽の前にしゃがみこんだときである。


「やあ。はじめまして」


 私は突然のことに驚き、マグカップを落としそうになった。芽が喋ったのだ。


「喋れるのか」


 思わず、感嘆とも、質問とも取れる言葉を発していた。それを芽は質問と捉えたらしい。


「話せるよ。成長するまでのしばらくの間だけだけどね」


 これはすばらしい発見だ。この芽はエント種だったのだ。


 広大な宇宙で、人類はさまざまな生命体に遭遇した。その中にごく少数だが、植物あるいは植物から進化した知的生命体がいたのである。古いファンタジー小説から名をとって、俗に彼らを『エント種』と呼んでいる。


「私はドクター・オノガワだ。君の名前は?」


「名前? ああ、君たちは個体区別欲が強いんだったね」


「なんと呼べばいいかな」


「そうだなあ、じゃあ、ギブと呼んでよ」


「なぜ人間の言葉がわかるんだい?」


「集積知だよ。僕たちは、代々すべての個体が得た知識を全体で受け継ぐんだ」


 自分以外の言葉を聞いたのは、何か月ぶりだろう。それ以上に、希少なエント種の新発見だ。トリプルロックで情報を秘匿した過去の自分の気持ちがよくわかる。


 その日以来、私はギブという研究対象にすっかり魅了され、彼との会話に夢中になったのである。




 ギブとの不思議な共同生活は、実に刺激的だった。


 手間はほとんどかからない。水をやる程度だ。


 ギブは我々人間に対して極めて友好的だった。ギブが知っている人間は、我々三人の研究員と、最初に惑星調査に来た調査員数人だけだ。調査員は無用のトラブルを避けるため、初めての惑星では慎重に行動する。それを知って、人間には害意がないと判断したのだろう。


 以前にも調べたが、この植物には脳もなければ、視覚や聴覚を司るような器官もない。発音に関しては、芽の頂上部を擦り合わせて音を出す仕組みだとわかった。スズムシやコオロギの鳴き声に似た仕組みである。だから、発声できるのは芽の後期にあたる数か月間だけだという(芽の期間が非常に長いのだ)。だが、どうやって考えているのか、見ているのか、聴いているのか。彼は集積知という言葉を用いて説明した。各個体の見聞きしたことがどこかに蓄積されていて、一種のテレパシー的な能力でアクセスしているようだが、認知科学の専門家ではない私にはよく理解できず、詳細はわからずじまいだった。


 私たちは毎日、いろいろなことを話した。この惑星のこと、地球のこと。宇宙というものの存在を知らなかったギブは、私の語る宇宙の話を喜んだ。小さい子供は、興味あるものに対して興奮して目を輝かせる。輝かせる目はないが、あの雰囲気と同じものを、ギブから感じ取れた。私とギブは気心の知れた関係になったと言っていいだろう。ただ、私は自分たちがこの惑星に来た目的だけは話さず、『調査』というあいまいな表現にとどめた。君たちを食料にするために来た、とは言えなかったのだ。後ろめたさを抱えながら、私はギブとの交流を続けた。


 ある日のことだった。その日も私たちは会話を楽しんでいたが、たまたま話題が私の家族のことに及んだ。私はギブに息子のムービーを見せた。


「あなたとは、大きさがずいぶん違うんだね」


 ギブはそう感想を述べた。彼は人間の子供を見たことがない。


「この子はヒロトという名前なんだ。そうだな、あえて言うなら、ヒロトはまだ芽なんだよ。君も成長後は大きくなって、葉や茎や花になるだろう。それと同じさ」


「なるほど、そういうものなんだね。あなたに向かってパパと呼びかけているけど、名前を間違えているのかな」


「いや。人間の子供は父親のことをパパと呼ぶ習慣があるんだ」


「そうなんだね」


 私はふと、思いついた。それは軽いイタズラ心だったかもしれないし、何か月も会っていない家族への恋しさの表れだったかもしれない。


「どうだろう、ギブ。君もやってみないか。私をパパと呼んでみては」


「僕はあなたの子供じゃないけど、いいのかい」


「ああ、もちろん。ちょっとした遊びだよ」


「わかった。……パパ」


 その一言を聞いた途端、私は思わず泣きそうになった。自分がこれほどまでに家族に会いたいのだと、つくづく思い知らされた。


 慌てて取り繕う私の様子を見て、ギブがどう思ったのかはわからない。彼は何も言わなかった。ただこの後ずっと、ギブは私のことをパパと呼ぶようになった。








 私は運搬用の手押しカートを改造して、荷物置きの部分に大型の金属ボックスを取りつけた。そこに土をたっぷりと詰め、ギブを植え替えた。ギブ専用の移動カートである。


 カートを押して、研究所内のあちこちを見せて回る。そうしていると、ヒロトをベビーカーに乗せて散歩していた頃のことを懐かしく思い出す。そして、自分がいつの間にか笑顔になっていることに気づく。


 ときどき、ギブはぴくりと小さく体を揺らす。知的刺激を受けているとき、つまり面白いと感じたときの反応だ。昼は太陽光の降り注ぐ栽培ルームで光合成をしながら、宇宙や自然や歴史を語りあった。夜はベッドルームで、私はベッドに寝転び、かたわらにギブのカートを寄せて、古くから伝わる神話やおとぎ話を話して聞かせた。こうして私たちは、より長い時間を共に過ごすことになった。家族のように。親子のように。


 ギブの発する『パパ』という言葉は、私の心に予想以上に強く響くものだった。それは私にとって、この特殊な環境で日々を送る上で、このうえない心の支えとなった。


 同時にその言葉は、会えない家族への思いを掻き立てる言葉でもあった。最愛の妻と息子に会いたい。私は無駄と知りつつ、緊急コールの発信を再開した。人工冬眠から目覚めて最初の数日間は一日に何度も試し、通信妨害ノイズに絶望して諦めたそれを、午前と午後、辛抱強くコールすることが日課になった。


 こうして私は、ある面ではギブとの生活に充実感を感じながら、またある面では望郷の念や救助の遅さへの焦りを感じながら、それでもどうにか精神的バランスを保って毎日をやり過ごしていた。しかし、そんな精神面の葛藤とはまったく別の、より現実的で深刻な問題も抱えていて、それは日を追うごとに顕在化してきていた。


 ありていに言おう。食料不足である。








 人工冬眠から目覚めたとき、私は食料をチェックしていた。そのとき、食料は四か月分ほど備蓄されていた。会社から常々、不測の事態に備えて二か月分はストックしておくように指示されており、私たちは指示を忠実に守っていた。三人で二か月分、私一人で消費するなら六か月分、冬眠するまでに二か月分を消費して、まだ四か月分の備蓄があったのである。二か月分を備蓄せよとは、何かあったら二か月以内に対処するからそれまでは頑張ってくれ、という意味に他ならない。私たちはそう理解していたし、過去に類似の事件が起きた際にも、会社は二か月以内に必ず対応策を打ち出してきた。


 だが、事態は二か月では好転しなかったのである。三か月が過ぎたあたりから、私は食事を切り詰めた。一日三食を二食に減らし、そのうち一食になった。鏡に映る自分の顔は頬がこけ、身体は明らかに痩せて服がだぶだぶだ。メディカルチェッカーは低血糖や低栄養のアラートを毎回出した。ギブとの会話で気を紛らわせている時間以外は、ほとんど食べ物のことばかりが頭に浮かぶ。




 やがて、食料が尽きた。私はギブの見ていないところで、禁じ手として戒めていた、スプラウトのサンプルを口にした。ギブの仲間を食べている、そう思うと罪悪感で胸が詰まり、吐きそうになる。身体は栄養源を求めていても、心が受け付けないのだ。生きるために仕方がないのだと自分に言い聞かせ、むりやり飲みこんだ。


 今にして、私はあの殴り書きと人工冬眠の真意を悟った。冬眠前の私も、今と同じこの気持ちを味わったに違いない。だから会話不可能な時期に加工するようメモを残し、そして、彼らを食用とすることに耐えられず、人工冬眠へと逃げたのだ。


 そのサンプルも尽きた。空腹で足元がふらつき、何も考えられない。私はベッドに横たわる日が続いた。


 ギブが静かに言った。


「ねえ、パパ。最近あなたの体はとても細くなった。それに、活動性が大幅に損なわれている」


「疲れているんだよ」


「そうではないと思う。原因は、ショクジをしなくなったからだよ。あなたは以前、僕に教えてくれた。人間には根がなく光合成もできないから、ショクジでエネルギーを補給しなければならないのだと」


「よく覚えていたなあ。確かにそうだ」


 私は嬉しくなった。息子が学校のテストで満点を取ったら、きっとこんな気持ちになるだろう。だがギブの次の言葉は、私に強烈なショックを与えた。


「食べる物がないなら、僕を食べるといいよ。あなたの体力は、もう限界に近い。僕たちは群生体だからね、個別株の存続はさほど大きな意味をなさないし、生存に固執したりはしないんだ。僕たちには痛覚や恐怖の感情はないから、大丈夫だよ。そうするべきだ」


 ギブは知っていたのだ。私たちの目的を。そして彼と私では、命の重さに対する感覚が明らかに違う。厳然たる事実を突きつけられた私は呻き、涙を流すことしかできなかった。


「ああ、ギブ、お願いだから、そんなことは言わないでくれ。そんなこと、私は絶対に嫌なんだ」


 偽善的だとはわかっていた。肉や魚や、他の野菜類は食べるのに、ギブは食べられない。意思疎通ができないからといって、みな、生きていることには変わりない。人間の生命が他の生命の犠牲の上に成り立っているのは自明だ。責められるべきことではない。けれど、そんな理屈ではなかった。私は、この数か月にわたって孤独を癒してくれた友人を、自分をパパと呼んでくれる存在を、自分の命を繋ぐための犠牲にしたくなかった。捕食者と獲物の関係になるのは、絶対に嫌だった。


 その夜、メディカルチェッカーがけたたましく鳴り響いた。重大な生命の危険を知らせるエマージェンシー・アラートだ。皮肉なことに、メディカルチェッカーは非常に信頼性の高い機器である。私は死期が近いことを悟った。恒星間宇宙飛行が当たり前になり、人間の平均寿命が百二十歳を超えようとするこの時代に、自分の死因が『餓死』になるなど思ってもみなかった。それでも、ギブを裏切らずに死ねることに、私は一抹の安心と、人としての誇りを感じていた。




 ギブに見守られながら、私は半昏睡状態に陥ったらしい。意識は虚空をさまよった。


 どれくらいたっただろう。時間の感覚がなくなってよくわからなかったが、私はふたたび覚醒した。ギブではない、聞き覚えのある誰かの声が聞こえる。


「オノガワ主任、聞こえますか。応答してください」


 スピーカーから聞こえる大声は、部下のミズムラのものだった。


「あ……ミズムラか」


 私の返答に、スピーカーの向こうでわっと歓声が上がる。主任、生きてるぞ、という興奮した声が聞こえてくる。


「内戦が長引いて、いっさいアクセスできなかったんです。交渉して三分間だけ通信時間を買い取りました。よく聞いてください。十日後に停戦協定が正式に結ばれます。そしたらすぐに救助に向かいます。あと十日、がんばってください」


「無理だよ。もう食料がないんだ」


「弱気にならないでください。そうだ、芽を食べればいいじゃないですか。奥さんも息子さんも待ってい……」


 通信は遮断された。




 私の心に、黒い靄がかかった気がした。あと十日、命を長引かせることができれば、私は助かる。妻に会える。息子に会える。靄の正体は、生への執着だった。十日という具体的な数字が、諦めていた生への渇望を思い出させたのだ。その数字は目標となり、私の心を煽り立てた。ミズムラは言ったじゃないか、芽を食べればいいと。芽は一本で、成人男性二週間分の栄養素を含んでいるんだ。いや、そうじゃない。これはギブだ、友達を栄養素に換算することなど、してはいけない。


 朦朧とする頭で、私は答えの出せない思考を繰り返す。答えを出してくれたのは、ギブだった。


「ドクター・オノガワ。決断のときだよ。あなたは僕を食べてあと十日間を乗り切るんだ」


「やめてくれ、ギブ。頼む、ドクターではなく、パパと呼んでくれ。でないと私は君を……」


「だめだよ。僕はあなたの子供じゃないんだ。ヒロト君が、本当の息子さんが地球で待っているよ」


 飢餓と生存本能に敗れた私の理性は、もう自分の行動を律することができなかった。


「ギブ、すまない」


 私は泣きながら、カートに覆いかぶさった。ギブを口に含み、噛み切った。口の中に、青臭く、みずみずしいギブを感じる。彼との友情と思い出を噛み砕き、飲み込みながら、私はいつしか意識を失っていた。









評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ