~第一章~
202X年。柔らかな日差しで大地に降り積もった多くの雪は次第に解け始め、木々の新芽が美しく映えつつある季節が訪れていた。街の彩りは徐々に明るく変わっていき、上昇する気温のおかげでなんとなく人々の心さえも弾む勢いが感じられる。
そんな春の訪れを待ち望んでいた住宅街には白くやや古びた建造物がひっそりと佇んでいた。
それは一見するとごく当たり前と見て取れるアパートであり壁の造りこそよく見れば最近流行りのオシャレなそれだが、少し詳しく観察していくとどうやら何か物々しい雰囲気に満ちあふれているというのが掴めてくる。日当たりはお世辞にも良いとは言えず、ほの暗い通路の奥行きや角の向こう側から謎めいた何かが迫り来るかのような気さえ感じられるのだ。
そんな一風変わった場所、とりわけ人には敢えてお勧めしたくはない要素の詰まったこのアパートに、その男は1人住んでいた。彼の名は羽黒響夜という。
「ふあぁぁ‥‥‥よく寝た‥‥‥」
二階に数存在する室内のその内、カーテンで遮られ僅かな陽の光だけが差し込む窓際のベッドの上で気だるげな大あくびとともに目を覚ました彼は寝癖の付いた黒髪を無造作に掻き上げ上体を起こすと枕元に置かれた目覚まし時計を確かめた。
「昼か‥‥‥ま、いいか日曜日だし‥‥‥」
気づけば一日の半分も寝過ごしていたことを実感するも日頃から夜型人間である響夜は特に気にする素振りを見せずにベッドから降りると、ピンポーンといった来訪者を告げる呼び鈴が耳を打つ。
「‥‥‥なんだ?こんな時間に。そうか‥‥‥!またあの人が‥‥‥!」
またもや、良からぬことが自分の身に降りかかろうとしている。そう直感した彼は身支度もおざなりに玄関へと足を向け、そのままドアをゆっくりと開いた。するとそこには案の定といった具合に見知った顔の中年女性の姿が。
「あ、やっと出てきた!もう、いるなら早く出なさいよ!」
「はは、どうも」
「どうもじゃないでしょ?まったく、家賃の回収が遅れてるわよ?一体いつになったら払ってくれるのかしら?」
「あ、ええ、その‥‥‥えーっと‥‥‥」
気難しい表情の中年女性からの責めるような言葉に響夜はしどろもどろな反応を返す。
「はぁ‥‥‥まったくもう!こんな時間まで寝てんじゃないわよ!こっちはね、アンタみたいなのに構ってる暇なんて無いのよ!ほら、さっさと払いな!今すぐ!」
このようなやり取りは日常茶飯事だろうか。彼女は昼夜兼行で多忙に暮れる響夜の滞納期間に対し、度々家賃の支払いについて苦言を呈してくるのがお決まりだった。
「あ、いや、その‥‥‥今月はですね‥‥‥ちょっと手持ちが厳しいっていうか‥‥‥」
「はぁ!?アンタねぇ、こっちは毎月ちゃんと振り込まれてる家賃を待ってやってんのに!そんな言い草でどうにかなるとでも思ってるの?」
「は、はあ。そうは言われてもですね‥‥‥」
この手に対する響夜は愛想笑いを振りまきながら謝り倒しで粘り続けるのだが、それによって相手を余計苛立たせてしまうのだ。いくら相手を説得しようが根本的な問題が解決しない以上はどうしようもない。そうこうしているうちに——。
ピピピッ♪ピピピッ♪
間が悪いことに、軽快な着信音が二人のいざこざを制止するかのように鳴り響いた。響夜があたふたしながらポケットからスマートフォンを取り出し視線を置くと『七瀬風真』と記名されている。
彼は巷では噂になっている私立探偵。
強盗に誘拐、麻薬取引、そんな数々の難事件を解決に導いたその実力は多くの人々が認め、その絶対的な信頼は留まることを知らないという。その情報を知った響夜はとある目的を果たすために七瀬の下で助手を続けているのだ。
「ちょっと!何なのよ!?」
「あっ、あーっと‥‥‥ちょっとすみません!」
中年女性からの追求を適当な対応で曖昧にしつつ、響夜は慌てて七瀬からの電話に出る。その騒がしさに我慢ならない様子の女性がやや苛立った様子で詰め寄って来たので、響夜は軽く頭を下げて玄関先から退散し自室へと戻った。
「もしもし?ああ、はい。響夜です」
『お取込み中のところ申し訳ないね。またすっぽかしかい?』
「ええ、まあ‥‥‥」
『はははっ、それは僕が日頃から課題を課し過ぎているせいかもね。気にする必要はないよ』
「あ、いや、そういう訳じゃないんですけど‥‥‥あいにくこちらも切羽詰まった状態でして‥‥‥」
『うん、まあそれは分かっているよ。さあ前置きはこの辺にして・・・・・・実は君の幼なじみである陽子さんを死に追いやった男、『霧島靭太』に関する新たな情報が掴めたんだ。それを突き止める任務に挑むつもりがあるなら、まずは説明を受けに来て欲しい。今夜7時、早速事務所に来てくれ』
「ええ、もちろん。では、失礼します」
響夜は大きくうなずきながらそう告げると通話をOFFにしスマートフォンをポケットの中にそっとしまい込んだ。
霧島靭太。
それは響夜にとって家族同然の関係だった『天城陽子』の命を奪った人物だというものの、彼の行方は長年に渡り不明のまま、といった表現に集約されていた。
つまり一言で表すなら"腸が煮えくり返るほど憎き相手"といったところだ。
「話は終わったかしら?」
「やばっ‥‥‥‥‥‥」
そして忘れてはいけない人間がもう一人。先ほどまで玄関の前に陣取っていた女性が刺々しい声色で響夜に語りかけてくる。
「あーっ申し訳ない!今から口座に向かうんで少々お待ちいただけます?」
「ふん、分かればいいのよ。さっさと行って頂戴な」
彼女はやや無愛想ながらも冷静さを取り戻した様子で一旦その場を後にする。その姿を見て安堵の息を漏らしながら響夜も足早に送金を済ませるのであった。
☽☀☽☀
「やあ、予定より早かったね。説明の前に確認したいことがあるから丁度良かった」
「はい。お願いします」
『私立探偵・七瀬風真』の拠点となる事務所を訪れた響夜は、テーブルを挟んで反対側に腰を下ろす七瀬からの鋭い視線を受け止めながら佇んでいた。その表情には多少の緊張も見受けられるもののその眼差しは真っ直ぐ澄んでいるように見える。
「目撃者である君の証言について思うところがいくつかあるんだが‥‥‥霧島靭太の動機については天城陽子に対する意図的な怨恨はなく君への逆恨みが発展したもので第三者を巻き込んでしまった事件、という見解で合っているかな?」
「え、ええ‥‥‥」
どこか心もとない調子の返事だったが、それでも七瀬からの追及に対し響夜は決して自分の主張を曲げるようなことはしなかった。
「ですが事件当日、俺は現場に止まっていましたが傷を負った彼女が『霧島君』とヤツの名前を呼んだのを耳にしました。その事から二人の中で何らかの因果関係があったに違いないと考えられます」
「なるほど。残念なことにその証言だけでは警察の助力を得るのは不可能に近い。何度か申した通りこの殺人事件は容疑者である霧島が失踪しているという極めて稀なパターンだ。更に霧島は一体何の目的で殺人を犯したのか。殺しに至るまでのその心情についても全容が把握出来ていない状態だからね」
「それは、その‥‥‥」
相手の質問に対し響夜は言い淀み、そして視線を逸らした。その様子から何か事情があることを悟ってはいたものの七瀬はそれ以上深く追及せず、穏やかな口調で言葉を紡ぐ。
「まあ今はいいさ。陽子さんが死んでしまったことも、犯人の行方を逃してしまったのも君だけの原因じゃない。これだけは断言できる」
響夜にとって七瀬という男は、頼もしいサポート役であると同時に命を救ってくれた恩人でもあるのだ。
この地に訪れて間もない頃『白銀の騎士団』と名乗る組織から何とか逃げ切ったものの、疲労困憊だった響夜を救急搬送し医者を呼び寄せるなどの周到な処置を施してくれた。
その後、一連の騒動の真実を聞かされ呆然とする響夜に対して七瀬は探偵助手にならないかと誘ったのである。
あの時は拍子抜けしていたが、あの少女以外にも尊敬の念を抱ける人間がここにもいたとは。そんな思いをずっと忘れずにいたいと強く望んだ響夜だった。
「さて‥‥‥そろそろ本題に移るとしよう。数ヶ月前、都内で指折りの進学校である『私立帝場学園高等学校』を訪問した時、そこの校長である『景山由伸』から『灰島靭太と思わしき男性を見かけた』という発言を耳にしたんだ」
「ほ、本当ですか!?」
そこで初めて響夜が面食らったような声をあげた。しかしそんな彼の戸惑いを知ってか知らずか七瀬はそのまま説明を続けていく。
証拠もなしに突っ走ることに若干不安を感じつつあったのだが、それをも払拭できる情報が恩師である相手の口から明かされることになる。
「まずはこれを見てくれ」
彼はそう告げると、一枚の写真を鞄の中から取り出した。そこに写っていたのは薄暗い森の中で一人その場で立ち尽くす姿。だがその人影は小さくはっきりと示されておらず、響夜は疑心の感情に囚われるのであった。
「これが霧島‥‥‥?」
「どうやら不服なようだね。その真偽を確かめたいからこそ今回の任務に臨んでもらうんだけれど、やはり君自身が確かめてみないことには始まらないからね」
——情報を突き止めたいなら、まずは人を疑ってかかれ——。
羽黒響夜の胸の中には、このような格言がじんわりと染みついている。その意味は、何も探偵や刑事などの事件の当事者ばかりに当てはまる訳ではない。例えばこの状況において疑問を残すことで生まれる不利益を見過ごすぐらいならまず最初に疑ってかかることを推奨しているに他ならないのだ。
「そういうことだから羽黒響夜、改めて君に命ずる。今年の新入生として『帝場高校』に入学し、何としてでも景山校長からこの写真の真実を突き止めろ」
「承知しました。ですが‥‥‥」
七瀬風真の堂々たる一声は響夜の内である程度想定していたものであったが、彼にとってはどこか腑に落ちない点があり、そのまま疑問を投げ掛けた。
「俺の提案としては今まで通りの事情聴取で済ませれば効率的だと思いますが、わざわざ入学までする必要ってあるんですかね?」
「ああ‥‥‥つい先日、僕自身も対話を試みたんだが彼は相当口の堅いタイプでね。保身を考えての素振りなのか、とにかく『霧島』というワードを出そうにも、のらりくらりと躱されて話にならない。そこで僕は校長自身が信頼できる生徒であればその真偽を語ってくれるだろうと推測したから、まずはそこから始めることにしたんだ」
「なるほど、そういうことでしたか‥‥‥それでは四月の入学式へ向けて動くことにしましょう」
彼の決心は、案外あっさりとしたものだった。羽黒響夜という少年は"揺るぎない鋼の精神力"といったものを持ち合わせているわけではないが『受けた屈辱は10倍にして返す』が彼の人生モットーであり、自身の境遇を憐れむぐらいなら相手を潰す気で挑むという再起力にも長けている。
だからこそ、今回の任務は憎き相手との接触できる最大の好機であると捉えていた。
「そう来なくちゃね。僕としても数年に及ぶ調査の一途がこうして実を結ぶことができたとすれば感慨深いものがあるよ。任務が達成したら、すぐにこちらへ連絡を頼む。君が普通の人間じゃないことなんて百も承知の上だ。その上で挑んでほしい」
その微笑とともに送られた激励に対して大きく頷いた響夜は「では失礼します」と一礼して部屋を後にする。その背中を見送ろうとした七瀬だったが、彼へ忠告するように引き留めた。
「あ、言い忘れたことだけど『蒼い瞳の女子生徒』には十分注意を払ってくれよ?彼女と接触したら、この計画が根底から瓦解しかねない」
「‥‥‥?ええ。ですがどういう意味でしょう?」
そのメッセージの内容は、曖昧な表現と言わざるを得ないものだった。気が揉めて浮かない表情になりながらも響夜は探偵事務所の扉を閉める。そうしてこの一件が物語として本格的に動き出すこととなったのであった。
「‥‥‥僕の推測通りなら、おそらく霧島靭太が犯人である可能性は高い‥‥‥だが‥‥‥」
そんな風に呟いた七瀬はおもむろに立ち上がり、大きな窓の方へと歩み寄る。眼前には静まり帰った深い夜の中で太陽の光を優しく受けつつある色彩豊かなオーロラが到来した氷河期の象徴だと言わんばかりに浮かび上がる光景が広がり、それは彼を惹き付けてやまない不可解な魅力に溢れていた。
彼の陰鬱そうな眼差しの奥深くから光り輝く暖色のカーテン越しに窺える期待・・・・・・とでも言ったところだろうか?どちらにせよ七瀬自身もまた灰島の背後に潜む影に興味関心を有している事実に変わりはないようだ。
「僕の警戒しなければならない存在はあの企業だけじゃなかったとはね‥‥‥。ふふっ、本当に僕でなんとかなるのか心配だ。ここは‥‥‥そう、彼にも協力してもらうとしよう」
私立探偵、七瀬風真が胸に湧き上がる不安な気持ちと自信のない本音を漏らすと共に浮かべた自虐的な笑顔は高層ビルの室内からの強烈な逆光によりキラキラと星屑の如く光り輝いて見えるのであった。
☽☀☽☀
「‥‥‥一体何を伝えたかったんだろうなぁ、あの人‥‥‥。『蒼い瞳の女子生徒』って誰なんだよ」
事務所での対話から過ぎること1時間後、天を衝くようにそびえ立つビルの屋上から繁華街を見下ろす響夜は七瀬の最後に残した言葉を反芻するかのような態度を示していた。
「まあいい、それよりも今の俺にはすることがある。そろそろ狩りの時間といこうか‥‥‥!」
その場から立ち上った彼は、勢いをつけて屋上から地上へ躊躇なく飛び降りた。冷たい夜風の吹きすさぶ都会の中でそれは余りにも危険な自殺行為としか見て取れないのに自身はそれについて微塵も恐怖など感じていないのだろう。
それもそのはず。
羽黒響夜の正体は——正真正銘の『吸血鬼』。
夜の帳が下りる頃に目覚め、人々の生き血を啜る者として古くから語られてきた怪物。
いかにも馬鹿げた話だと捉えらる者も居るかもしれないが紛れもない事実であり、彼らは僅かながらこの世に存在している。
しかしオカルトや都市伝説といった類を信じるという風習が薄れつつあるこのご時世では、彼らの存在はあまり馴染み深いものではなくなってしまった。
だらこそ吸血鬼の響夜は、相反した生活を送りながら今まで普通の日常を送っていくことができたのだろう。
「はははっ、普通の人間じゃないねぇ‥‥‥。別に構わないさ‥‥‥!」
宙を舞い、落下する彼の身体はそのまま傷一つなくコンクリートの地面に着地する。そして自身の脳裏に焼き付いた決まり文句であるかのような発言に対して、己を嘲るように自嘲の笑みを浮かべそのま意ま夜の闇へと溶け込んでいったのであった——。