~序章~
それは、昔の出来事。
雲一つない夜空にぽっかりと浮かぶ真珠のような満月は真っ暗になった僻地の住宅街を、煌々と照らしていた。
豊かな草地からは虫の音色が聞こえ、吹き抜ける風に揺れる木々だけがサワサワと葉を鳴らしている。
誰もが時間の経過を遅く感じるほど見慣れた光景、のはずだった――。
「‥‥‥もうこんな時間か」
人影を見せなくなった不気味な雰囲気が漂う道路で、ただ呟きながら足を進めるのは中学生の少年。
なぜこんな子供が一人でこんな夜間に?と疑問の目を向けたくなるかもしれないがそれは専念すべきことがあるから。
彼は吹奏楽部に所属していて、ドームで行われるコンサートの予行演習に励んでいる真っ只中の帰り道。ピアノ伴奏を担当しており他の楽器とは異なる独自の役割を担うため、吹奏楽でもその存在が重要とされている。
だからこそ遅くまでの自主練は欠かせないもので時間を削ってでもピアノに費やさなければならない、そう胸に抱いていた。
「まあ仕方ない。俺は音楽が好きだからやってるんだ」
誰も聞くことのない独り言は、いつも変わることなく静まり返った夜の中に吸収されていく。
胸の中に強く言い聞かせ自身に満ちた清々しい表情で道を進む。
それは決意の強さを物語っているようにも見えたが、それがこれから先の運命も決定づけていることを彼はまだ知る由もない。
そしてまた帰路へと歩み出そうとしたが、どこからともなくコツコツと地面を踏み鳴らす音が聞こえてきたので少年は背後を振り返った。
「どうも、お疲れ様」
そこには軽薄そうで、冷やかし交じりの声で語り掛けてきた人物の姿が。
それは闇に溶け込むかのような黒のダウンジャケットを装い、顔半分を覆うフードによって目だけを光らせこちらを見つめる姿は不気味な雰囲気を漂わせていたが声色、背格好からして十五・六歳ほどの若者であると判別できた。
故に今の挨拶も至って当たり前。至極真っ当なものではあったのだが。
「羽黒君だよね‥‥‥?天城とはどんな関係?」
「‥‥‥ただの幼なじみですが?」
その場で立ち止まって首をすくめた少年はそう答えた。
一番驚いたのは初対面の相手のはずなのに自分はおろか、なぜ幼なじみの名前まで知っているのだろうか?
うすら寒い夜風に揺らされる木の葉と同じように彼の動揺もざわつかせる。
ただの‥‥‥ねえ‥‥‥まあ、いいや」
「‥‥‥?」
意味ありげに口角を上げたその相手が上着のポケットからすっと取り出したのは――。
「あっ、響夜!ちょうど私も塾から帰るところだったんだ」
ふとした瞬間、一人の女子高生が弾むような声でこちらへと駆けつけて来る。
腰半分まで伸ばされた黒くて艶やかな髪は街燈の僅かな光に当てられなびいている。その華奢な身体を包む服装はセーラー服であり、ごくごくありきたりな普遍性を備えていたが彼女が着る事によってまるで風格でもあるかのごとく、気品と優雅さを演出していた。
彼女こそ、少年とは切っても切れない縁の幼なじみである少女。偶然とはいえ特に心配することもなく笑顔で手を振ってくることには流石の少年も目を丸くした。
けれど、それがいけなかったのだろう。
「一緒に帰ろう‥‥‥って――」
彼女の目前に映った青天の霹靂は、若者がギラリと光を放つナイフを握り、それを少年に向けていたのだから。
そして――。
「うわああああああーっ!!」
「危ないっ、響夜!!」
ザクッ!!
「‥‥‥えっ?」
不快な音と共に、赤黒い液体が周囲に飛び散った。
床の色は不気味に染められ、鼻を突く鉄錆のような臭いが辺りを漂い始める。
うつ伏せで倒れ込んだ少年は九死に一生を得たが、何が起こったか理解できずに放心状態になる。彼が立ち上がると――。
「よ‥‥‥陽子っ!!」
自分の身代わりとなり腹部を深く刺され、鮮血をドクドクと流す少女の姿。そのあまりにも現実離れした光景に少年は戸惑いを隠しきれず声を荒げた。
周りの人間を大切にする彼女だからこそとった行動だが、凶器を手にしたものに対する術など持ち合わせてないことを知れば無謀と言わざるを得ない。
それでも、彼女にとって少年の存在はこの身を犠牲にしたとしても危機的状況から守りたいといった強い意志が宿っていた。
「駄目だ‥‥‥血が出てる!血がいっぱい出てる‥‥‥!」
「だ‥‥‥大丈夫‥‥‥!ぐっ」
彼女は心配しなくていいと言う素振りで笑顔を作ろうとするが、激痛のあまりそれどころではなさそうで喘いでいるのが精一杯。
そんな血塗れの姿で跪くだけの彼女に対し、襲撃者は唖然としたかのようにこう言い放った。
「なんで‥‥‥なんでそんなガキを庇うんだ‥‥‥。そいつは君に迷惑をかけてるんだよ?」
「そ、それは‥‥‥うぅ‥‥‥!」
「俺は‥‥‥俺は悪くねぇ!!こいつが人に迷惑をかけてばかりいるからこんな目に遭うんだ!!」
彼の発言は支離滅裂で理解しがたいものだった。
それは犯した罪を認めるどころか事の発端は自分が原因ではないと言わんばかりの逆恨み。
ただし、少年自身にも心当たりは幾つかある。
献身的な性格の彼は、日頃から「足手纏いは嫌だ」と願う一方で背負い込んではトラブルのたびに一人では解決できず、結局は彼女を困らせることが多かったのも事実。
しかし、この男のとった行動は許されるべきではない。
だからこそ若者の発言を受け止める事なんてできず、彼に咎めるかのように叫び続けた。
「そんなこと言ってる場合じゃねぇ!!死ぬ‥‥‥陽子が死んでしまう‥‥‥!!」
「お前が‥‥‥」
「もういい‥‥‥!俺が救急車を呼ぶから、お前は陽子を――」
「お前が‥‥‥お前が天城を殺したんだああああああああーッ!!」
路上の隅に公衆電話が設置されている場所へと向かおうと立ち上がった少年を標的に、再びナイフを拾い上げ突っ走る。今度は自身の両手が赤く染まることなど構わずに少女のことなど露知らずと言わんばかりに少年が二人目の犠牲者となるのを目論む。
しかし――。
「や、やめて‥‥‥!!」
突如、どこか儚げで、それでいて力強く聞こえる声が響き渡った。
それに応じるかのように、足をピタリと止めた若者の目と鼻の先にはぶるぶると身体を震わせ痛みに耐えながらも行く手を阻む少女が立ち上がっていた。
「きょ‥‥‥響夜は私の大切な幼なじみなの……お願いだから響夜だけには手を出さないで灰島君……ぐっ!」
顔は歪んでいて出血は酷く今にも倒れそうだというのに、なおも他人をかばう強い意志。それほどまでに親友を大事に想っているのだろうと察するには十分過ぎる光景だろう。
「きょ‥‥‥今日のところは見逃してやる!次会ったら、その時は承知しないぞ!!」
呆然とした表情で立ち尽くす少年に対し、負け惜しみのような台詞を吐き捨てた若者はその場から猛ダッシュで走り去っていった。
あの男の口から発せられた言葉を聞いた少女は、安堵からなのか緊張が解けたのかその場でばたりと倒れ込んでしまった。
「ふぅ‥‥‥」
「し‥‥‥しっかりしろ、陽子!!」
少年は意識が朦朧となっていく彼女を抱き上げて声をかけるが反応が薄れていく。
そして、いつもは暖かいはずの身体がみるみると冷たくなっていくのを感じ、自分ですら悪寒が走ってしまうほどに。
「‥‥‥響夜、ごめんね‥‥‥。思っていたより刃物が深く入り込んでこの有様だよ‥‥‥どの道私は助からない」
「そんなことは今決めることじゃないだろ!今は早く救急車を呼ばないと‥‥‥!」
「あーあ、響夜が出る合奏コンクール‥‥‥観に行けないなぁ‥‥‥本っ当、何やってんだろう私‥‥‥」
「ぐすっ‥‥‥ううっ‥‥‥」
弱々しくも相手をおもんばかる声の響きで語り掛けるが、完全に彼はなりふり構っていられない状況だった。
全てを失ってしまうかもしれないという恐怖。口から漏れるのはしゃくり上げる嗚咽だけで、目から溢れ出す涙を抑えきれない。
「でもね‥‥‥私の願い事は終わったわけじゃない。だから響夜‥‥‥聞いて?」
それでも、愛する幼なじみは天使のような優しい微笑みを浮かべて、最後の力を振り絞るかの如くこう告げた。
――陰で私が応援してるから、どうか希望を捨てないで――と。
やがて心臓の鼓動は止まり、満足そうにも見える表情で静かに瞼じたのだった。尊い命の灯が、今ここに燃え尽きる。
それはもうこの世には二度と戻らなかった。
どうしてこんな目に遭っててしまったのか。もっと早く手を打っていれば助かったかもしれないのに。
悲しくて、現状から抜け出したくて、胸が締め付けられそうで、どうしようもなくて。
それくらい共に過ごした時間は短いようで長く、かけがえのない宝物だったからこそ彼女の死は非現実的で受け入れがたいものだった。
「う、嘘だ‥‥‥うああああああああああああああーッ!!」
その亡骸をぎゅっと抱きしめた彼の慟哭さえも、ただ虚しく闇夜に残響するだけである。
少年にとっての希望の太陽は沈み逝き光の届かない深海に沈み逝くような絶望のどん底に打ちひしがれたのだった――。
「‥‥‥‥‥‥はっ!?」
あの事件から遡ること、数年後。
そんな昔の記憶の渦から現実へと意識を引き戻され彼は自宅の寝室で目を覚まし、バサッと布団から飛び起きてしまった。
時計がある方へ視線を配ると、早朝の時間だということを確認する。
酷いうなされ様だった。身体は流した汗でべたつき、黒髪は乱れて不格好となっている。
騒いだ心臓を整えるため、胸に手を当ててゆっくりと深呼吸を繰り返し始めた。
「はぁ‥‥‥‥‥‥はぁ‥‥‥‥‥‥」
呆然とした眼差しで自身の手のひらを眺める彼。
今は亡き幼なじみから感じた温もりなどもう取り戻せない。
心の中で強く誓った果てしない夢もとっくに閉ざされたはずだ。
誰かを恨んだとしても人生が良い方向に変わるわけでもなく、ぽっかりと胸に穴が開いたような虚しさだけが募っていくだろう。
だが、それでも。
「陽子を殺したあいつは今でも、のうのとこの国のどこかに生き延びているに違いない‥‥‥!いつか必ず正体を暴き出して八つ裂きにしてやる!」
そう、他人の命を簡単に踏みにじり、挙句の果てには自分の犯した罪を認める素振りなど一向に見せなかったあの男の存在を決して許しはしなかった。
その感情は、こんな自分へ残してくれた最後の願いを裏切るものだという覚悟など疾うにできている。
ふつふつとした闘争心が身体中を巡り、心の奥底まで燃やし尽くしている。あの日受けた屈辱は忘れない。
自ら危機に晒したとしても、誰も望まなかったとしても、必ず無念を晴らさなくてはならない。否、晴らしてやるのだ――。