Dreams come true&Power of Love
「よし!今日から新生活、頑張るぞ!」
カーテンを思いっきり開くと、両手を勢い良く上に挙げ、大きく伸びをした。
「あ!今日、燃えるゴミの日だったっけ?」
冷蔵庫に貼ってある、大家からもらったゴミの日の予定表を見に行き、準備をして玄関を出た。ゴミステーションに行く途中、ドンドンと地響きするような低い音が背後から聞こえ、ゴミステーションのある本屋の自動販売機の前で、黒いRV車が停まった。
運転席のドアが開くと、物凄い音量の洋楽が流れて来て、かなり明るい髪色の、ゆるめのパーマをかけている男が降りて来た。自動販売機でコーヒーを買うと、その横に隣接している灰皿の前でタバコに火をつけた。
「この喫煙者の肩身の狭い社会で、まだタバコ吸ってる人、いるんだ…。しかもあの若さで」
思わず横目でチラ見してしまう。
グレーの大きめのパーカーに、足先がすぼまった黒のスウェットのパンツと白のスニーカー。スタイルが良いせいか、ものすごくオシャレに見え、耳のいくつもの金色のピアスが、とても映えていた。
元ヤンかな…。どちらにしても、僕とはまるで違う部類の人間だな。そう思いながら男はゴミを出すと、俯いたまま足早にアパートへと戻ったのだった。
「おはよーっす」
森城桔人が元気に挨拶をしながら、事務所へと入室する。
「ウッス」
いつも現場で一緒の、3つ上の先輩である早見が、すかさず挨拶を返した。
「今朝、超ヤバいヤツ見かけたんスけど」
「ヤバいヤツ?」
「えんじ色に白い線が2本入ってるジャージに、昔話に出てくる、爺さんとか婆さんがよく着てる服みたいなの羽織ってて」
「え?袢纏か?」
「はんてん?」
すかさず、検索する。
「そうそう!マジこれ!しかも黒色の丸メガネしてて。髪もボサボサだし、いつの時代から来たんですか的な?」
「そんなヤツ、今時いんの?漫画家とかじゃなくて?」
「いや、俺も今日初めて見て。衝撃っつーか。車ん中で笑い止まんなくて」
ゲタゲタ笑う森城に、配線管理担当の、先輩社員の松原が、
「もしかしたら、ものすごく節約してるのかもよ?」
と、不意に言った。
「あー、今年から大学生ってこと?初めて見かけたなら、その可能性もあるな」
松原と同期の高倉が言う。
「学生っすか?まあ、確かに若くは見えたけど…」
「まさか、趣味で…ってことはないだろ?」
早見が眉をひそめた。
「せめてジャージを黒とかにしたら、まだイケるのに」
森城が笑う。
「高校時代の体操服とか?」
高倉が言うと、
「あり得る!」
と言って、また森城が吹き出す。
「とにかく、強烈で。ゴミを捨てに来てたから、また会うかも。俺、毎朝あの自販機でコーヒー買うんで」
言いながら、森城と早見は、作業着へと着替えるため、更衣室へと向かったのだった。
「柴原慧叶です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。松丸綾花です」
とても笑顔の似合う女性だった。
「とりあえず、今日は1日の流れを覚えてもらうのに、横に付いていてもらっていいですか?」
「はい」
そして柴原は、メモとペンを手に持って、その日に教えてもらったことを一生懸命に書き込んだ。
「柴原さんて、28歳なんだよね?」
「あ、はい」
「じゃあ、私の3歳上だ」
「そうなんですね」
「結婚は?」
「してません」
「そうなんだ。私、2歳と1歳の子がいて。毎日大変で」
「年子ですか?」
「そうなの!あ、教授が来たよ」
一瞬で緊張が走る。
「おはようございます」
「おはよう。柴原君、待ってたよ。今日から勤務だよね。頑張ってね」
「はい!よろしくお願いします」
柴原は憧れの教授を目の前にして、高鳴る鼓動が抑えられなかった。
あれは5年前、仕事帰り、落ち込んでしまっていた柴原が、県立図書館に寄った日のことだった。柴原は、子供の頃から大好きだった恐竜の図鑑をただただ時間を忘れて見ていた。
「君は恐竜が好きなのかい?」
「え?」
突然話しかけられ、驚いて顔を上げると、そこには、日に焼けてはいるものの、とてもイキイキとした瞳を持った、若々しい人が優しい笑顔を見せて立っていた。
「はい。すごく好きです」
「そっか。夢中でこの本を読んでたから」
「今日、会社でイヤな事があって。でも、この本を見てると、いつも夢中になって、イヤな事を忘れられるんです」
「じゃあ、博物館の学芸員になるといい」
「は?」
「そしていつか、僕と一緒に恐竜の化石の発掘作業に行こう」
「え…と?」
「この図鑑の監修をしたのは、僕でね」
「え?」
「良かったら、これをあげるよ」
手渡された、恐竜モチーフのキーホルダー。
「あ、ありがとうございます」
柴原はそれを受け取ると、付き添いらしき人と事務室に入って行くその人の背中をジッと見つめていた。
「変わった人だな…」
それが、最初の印象だった。
その日から、1ヶ月に1度ほど、その人と図書館で顔を合わせるようになった。県立大学の教授だと知ったのは、それから半年ほど過ぎた頃で、ひどく驚きはしたものの、その人柄にどんどん惹かれた柴原は、仕事を辞める決意をし、学芸員になるために大学へと進学したのだった。
「柴原君って、本当に使えないね。今までいろんな人たちと仕事してきたけど、レベル低すぎない?」
「すみません。自分なりに努力はしてるんですけど…」
「あー、出た。他の学芸員さんは、そんなこと、自分では絶対に言わないから。そもそも、努力してるかどうかなんて、他人が見て思うことだし」
「すみません」
「いいな~。独身は。守るものがないから気楽に仕事が出来て」
松丸の、いつもの嫌味攻撃が始まる。
仕事で博物館の改修工事の電気配線の現場にいた森城は、いつものそのやり取りに、内心かなりモヤモヤしていたのだった。
「はあ」
柴原は、お昼のお弁当も手に付かなかった。最初の頃は、いつか教授の助手になるために、負けてなんかいられない!と思って頑張っていたけれど、毎日のように発せられる松丸の『底辺レベルの出来損ない』とも取れる発言に、さすがに仕事に来ることすら億劫になり、気持ちも憂鬱になってきていた。
憧れだった教授も、柴原の勤務する博物館には、月に2回ほど顔を出すくらいで、ほとんどを県立大学で過ごしていて、結局、一緒に仕事が出来る訳ではなかったのだ。
「何か、もう頑張れないかも…」
呟きと共に、ため息が漏れた。
「何なんすかね、あの女」
現場から事務所に戻り、作業着から私服に着替えた森城が早見にぼやく。
「まあ、あの男も新人とは言え、かなり頼りなく見えるしな。イライラするんだろ」
「俺、職場って、人間関係が1番大事だと思ってるんで。どんなに仕事が大変でも、人間関係さえ良ければ乗り切れるでしょ」
「まあ、確かに辞める理由は、ほとんど人間関係だもんな…」
「早くあの博物館の現場、終わらねぇかな。あんなの毎日聞かされてたら、マジでストレス」
「あの男の子、参らないといいけど」
早見が言った。
森城は、面白くなさそうに事務所の椅子に座ると、背もたれに体重を預け、両手をズボンのポケットに入れて足を組んだ。
「あ、そうだ。俺、今日の朝、落とし物拾ったんだった」
ポケットの中に入れておいたのを思い出す。
「落とし物?」
「何か、どっかの鍵っぽいんすよね」
「どこで?」
「朝、本屋の駐車場で。落としたままにしとくのも、ちょっとな...と思って」
「落とした人、もしかしたら本屋さんに聞きに行くかもしれないな」
「今日の帰り、本屋の店員に渡して帰った方がいいですかね?」
「ああ。そうだな」
「じゃあ、先帰ります。今日もお疲れっした」
森城は立ち上がると、両手を組んで上に挙げると、全身の凝り固まった筋肉と、そしてストレスをほぐすかのように、思いっきり伸びをしたのだった。
そして、翌日の朝のことだった。森城が缶コーヒーを買おうと本屋の駐車場に車を停めると、袢纏男が何やらウロウロしていた。
「もしかして、何か探してんの?」
車から降りて、ためらいはあったものの、袢纏男に声を掛けた。
「え?あ、はい」
「鍵か何か?」
「はい。家の鍵を落としたみたいで。昨日の朝、ゴミを出しに来た時まではあったので」
「たぶん、それ拾ったの、俺。昨日、本屋の店員に預けといた」
「そうなんですか?ありがとうございます。良かった。鍵と一緒に、物凄く大事な物を付けてたので」
「そんなに大事なモンなら、家に置いとけよ」
「毎日、見たくて。憧れの人からもらった、宝物だから…」
「ふぅん」
「見つけてくれてありがとうございます」
「いや」
森城はいつもの缶コーヒーを買うと、タバコに火をつけ、
「普段、何してんの?」
と、袢纏男に尋ねた。
「普段?」
「学生?」
「いえ。社会人です」
「マ…」
ジで!?と言いそうになり、思わず言葉を飲み込む。
「えと、そっちは?」
「俺も社会人だけど」
「ピアスとかしてっても大丈夫な会社なんですか?」
「まあ、仕事してる時は外してるけど」
「そっか。そうですよね。あの、本当にありがとうございました」
袢纏男は、頭を軽く下げ、そそくさとその場を後にしたのだった。
「てか、会話はまともに出来るんだな」
森城はタバコの火を消すと、缶コーヒーを手に、車に乗り込んだ。
そして、翌朝のことだった。
森城が自動販売機の前に車を停めると、袢纏男が立っていた。
「え?何?めっちゃ怖いんだけど」
小さな声で呟いてから、車を降りる。
「あ...。これ、昨日のお礼です。缶コーヒー」
「は!?いや、別にいいし!」
「本当に助かったので。じゃあ」
そして、袢纏男は、軽く頭を下げると、すぐにその場を去ったのだった。
「変なヤツ」
森城は、少しだけ口の端を上げた。
その後も、たまに袢纏男を見掛けてはいたが、その日以来、森城が車を発進させた時に駐車場ですれ違ったりと、なかなかタイミングも合わず、話すことはなかった。
季節は夏に変わり、袢纏を脱いだ男のTシャツに、今度は、
『決して怪しい者です』
と書いてあった。
「あいつ、マジでヤバすぎるだろ」
車を発進させて、ゴミを捨てたあとの帰り道を歩く袢纏男の背中を見た森城が吹き出す。
「どんなセンスしてんだ?って言うか、ちゃんと仕事行けてんのか?」
よく分からないけれど、ゴミ出しのあとに自動販売機の横に置いてあるベンチにたまに座り、空を眺めてボーッとしている『怪しい者です』を森城は、何となくバックミラーで眺めたりしていたのだった。
ある日の、仕事終わりの時のことだった。森城が工具を片付けている時に、
「柴原さん、明日までにこれやっといてもらえる?さっき館長に頼まれちゃって」
と、松丸が声を掛けていたのが聞こえてきた。
「え?今からですか?」
「私、保育園のお迎えあるから。柴原さん、どうせ予定ないでしょ?」
「あ、今日は、今からアパートのガスコンロの修理に来てもらうことになってて」
「そんなの、明日でもいいでしょ?男の一人暮らしなんだし、ガスコンロが壊れてるくらい、何?」
「…分かりました」
「じゃあ、お願いね」
そして松丸は事務室をあとにし、柴原は、大家と業者に予定変更の電話を掛けていた。
「あー、マジでムカつくわ!」
森城が思わず声を発した。
松丸が、足を止める。
「ずいぶんと自分勝手だよなー。って言うか、分かってて意地悪してるとか?俺ならこんな職場、絶対無理だわ」
森城は俯いたまま、喋り続けた。
「さて、片付けも終わったし、帰りましょうか、先輩。いや、マジで俺の先輩優しくて神だわ」
「おい、森城。聞こえてるぞ」
早見が小声で森城を注意する。
「独り言ですけど?」
森城はそう言うと、早見にも背を向けて、足早に作業車へと向かって歩き出した。
荷物を詰め込み、助手席に座ってシートベルトをすると、足を組んで、腕も胸の前で組んだ。
「あんなの、単なる弱いものイジメでしょ」
森城が強い口調で早見に言った。
「よその職場のことだ。あんまり口を出すな」
そんな森城をたしなめるように、早見が静かに言ったのだった。
「え?今日、柴原さん休みなの?」
「はい。体調が悪いとかで」
「マジで使えない。早く辞めればいいのに」
そんな松丸の暴言に、森城は、かなりイラッとした。
「わざわざ仕事を辞めて大学行ってまで学芸員になったって聞いたけど、何の役にも立ってないし。学芸員、舐めてるよね」
「でも、柴原さん、頑張ってると思いますけど。観光客への説明も分かりやすいですし」
事務担当らしき、先程、柴原の休みを伝えた男性社員が、少し遠慮がちに言ったが、
「は?そんなの誰でも出来るでしょ?マニュアルを暗記すればいいだけなんだから」
松丸は懲りずに悪態を付いた。
コイツ、マジでムカつくな...。
森城は心の中で呟いたのだった。
翌朝、自動販売機の横のベンチに腰掛けて、空を眺めている久しぶりに会った『怪しい者です』に、森城は、車を降りて声を掛けた。
「何見てんだ?」
ハッ、とした表情を見せて、森城の目を見た。
「何か、仕事に行きたくなくて」
「へぇ。何?人間関係?」
男が俯いた。
「今、俺の行ってる現場でも、いつも嫌味を言われてるヤツがいてさ。人にイヤな事が言えるヤツらって、どんな心情なんだろな」
いつもの缶コーヒーを購入し、タバコをふかす森城が軽くぼやくと、男の眼鏡の奥の瞳から、一つ、また一つと、涙が零れて来た。
「憧れの職業に、やっと就けたんです。だから、頑張ろうって。嫌なヤツのせいで辞めたくなんかないから、諦めないで続けよう、って。でも、もう気持ちが限界で…」
「無理しなくていいんじゃねぇの?休める間は休んで、そいつと距離取って、ゆっくり自分がどうしたいか考えるのも大事じゃね?それに、辞める覚悟あんなら、1回上に相談してみたら?」
袢纏男が、驚いたように顔を上げた。
「…洋楽さん…」
「は!?」
「あ、いや。名前知らないから、つい」
「つい、って。そっちだって、袢纏男のくせに」
「袢纏男?」
「俺がつけたあだ名」
「ひどい」
「いや、洋楽さん、もなかなかだろ」
言うと、袢纏男が笑った。
「普段、スーツなんで。せめて家ではラフでいたくて。あれが1番落ち着くんです。良かったら、今度、着てみます?クセになりますよ」
「いや、マジでいいわ」
森城が笑う。
「ありがとうございます」
「ん?」
「もう少し、頑張ってみます」
「ああ…。それと」
「はい」
「そのTシャツ、マジで怪しいぞ?職務質問レベルだろ」
「え!?そんなにヤバいですか?」
オロオロする袢纏男に、
「ヤバいと思ってないなら、もっとヤバい」
と、森城が笑って言うと、
「え?どうしよう。頂き物なので、大事に着なきゃと思って」
「それを渡したヤツも、すげぇ感性だな」
「確かに、ちょっと変わってるかも…」
「ま、頑張れよ」
そして森城は車へと乗り込み、職場へと向かったのだった。
その日の現場での仕事中のことだった。森城が配線の図面を脇に挟み、工具箱を持って歩いていると、
「あの、落ちましたよ」
と、背後から声がした。
振り向くと、そこには柴原が立っていた。
「あ。すんません」
「すごいですね。こんなぐちゃぐちゃな図面、見るだけで、どんな工事をしなきゃいけないか分かるんですか?」
「え?まあ。それが仕事なんで」
「この図面、1階から3階までのがあるんですよね」
柴原が興味深そうに、綺麗に整った顔を近付け、大きな瞳をより大きくして、図面を眺める。
そこに、
「柴原君、何してんの?サボってないで早く館長に資料を渡しに行って来てよ。私が注意されるでしょ!」
と、松丸の声がした。
「あ、サボりとかじゃなくて、俺が現場の場所分かんなくなって、行き方を聞いてただけなんで。悪かったな、仕事の邪魔して。助かったよ」
森城が、すかさずフォローに入ると、松丸は分が悪そうに事務室へと戻って行った。
「あの…。ありがとうございます」
「何でいつも言い返さねぇの?」
「…倍になって返って来るので」
「パワハラってさ、絶対なくなんねーよな。やってる本人が気付いてないんだから」
「え?」
「いちいち気にすんな。うまく流せ。俺の知ってるヤツも、人間関係で悩んでるみたいで。あんただけじゃないから」
森城は、そう言うと、柴原から図面を受け取って、次の工事の場所へと歩き出した。
柴原は、唇を噛み締め、涙が出そうになるのを必死で堪えて俯いたのだった。
ある日、森城と早見が配線工事に取り掛かろうと、博物館内に入った時だった。
「そんなの、自分で調べたらどう!?だから、いつまで経っても仕事出来ないんじゃないの!?」
松丸が柴原へと向かって、少し大きな声を出していた。
「すみません。でも僕、今回、初めてなので。何から手を付けていいか分からなくて」
「マジで使えない!こっちも忙しいんだから勘弁してよ!」
松丸の暴言に、柴原が黙り込んで俯いた。
その様子を見るに見かねた事務担当の職員が、事務室を出て来る。
「何かあったんですか?」
森城が思わず聞いた。
「いや。柴原君、初めて館長に今度の来館ツアー用に資料まとめるように頼まれたらしくて。パソコンのデータとか、書式とか、松丸さんが持ってるから、習えばいいって言われたらしいんだけど…」
「へえ。で、聞いたらブチ切れられたんだ」
「まあ、松丸さんが原因で辞めてく子が多くて、こっちも困ってるんですけど。ただ、松丸さん…」
森城は、最後まで話を聞くことなく、事務室の入り口へと立つと、
「仕事を教えるのは、先輩の仕事だろ?あんただって初めて何かをする時、教えてもらわなかったのか?」
松丸が、森城の方へと視線をうつす。
「何なの、あんた。ただの作業員のくせに、偉そうに」
「ただの作業員かもしれないけど、この仕事にも、ちゃんと専門知識はいるし、資格もいるんだよ。別にあんただけが格別なワケじゃねーから。人を見下してばっかいんじゃねーよ」
「は!?」
「そんなのは、ただのイジメだって言ってんだ。毎日毎日、柴原ってヤツに暴言吐いて、何が楽しいんだよ。マジで終わってるだろ」
森城はそこまで言うと、静まり返った事務室をあとにした。
「森城!ちょっと来い!!」
作業を終えて、早見と事務所に戻ると、所長に呼び出された。
「博物館の方から電話があった。お前をもう現場に来させないように、ってな。モラハラされた、と、女性の学芸員が、かなり怒ってるそうだ」
「モラハラ?俺が?」
「その人のことを見下したような言い方をしたんだろ?」
「俺は正論を言っただけですけど」
「いいから。明日にでも、早見と2人で謝罪に行くように。現場には、別の班のヤツらを行かせるから」
「…謝罪ねぇ。俺は悪くないと思いますけどね」
そう呟くと、森城は所長室をあとにしたのだった。
翌日、早見と菓子箱を持って、博物館の事務室を訪れた。柴原がいつも座っている机の上には全く物がなく、綺麗に片付いていた。
「あの、柴原さんは?」
森城が尋ねると、
「あいつも同類だから。上に言って、今日付けで異動させてやったの」
松丸が、勝ち誇ったように言葉を放った。
「は!?何であいつが?悪いのは俺だろ?こうやってわざわざ謝りに来てんのに。何なんだよ!」
「森城!!」
早見が大声を出して、森城を止める。
「モラハラだとか、セクハラだとか先に言えば、自分は守られるとでも思ってんの?あんたのやってることは、立派なパワハラだっただろ!」
森城はそう言うと、頭を下げて謝る早見を置いて、車へと向かって歩き出したのだった。
「バカだねー。で、現場外されてヘコんでんのか?」
高倉が言った。
「俺は別にいいんすけど。まさか、そいつまで異動させられると思ってなくて」
「まあ、そこまでするとは、誰も思わないしな。しかも、その松丸って女、博物館の館長の娘だったんだろ?そりゃ娘のために異動させるよな」
高倉の言葉に森城がため息を吐いて、机にぶっ潰した。
「マジで悪いことした。わざわざ前の職場辞めてまで大学行って学芸員になったって、言ってたし」
「まあ、言いたいことが言えるのは、お前の長所でもあり、短所でもあるのかもしれないな…」
さすがの高倉も、めずらしく、あまりにも落ち込む森城に、それ以上は言葉を掛けることが出来なかった。
その日から2週間が過ぎた頃だった。久しぶりに袢纏男がベンチに座っていた。
森城は、缶コーヒーを買おうと車を降り、そしてタバコに火をつけたが、声を掛けずにいた。
「どうしたんですか?」
袢纏男が声を掛けて来た。
「何が?」
「元気ないから」
「そうか?」
そして沈黙が訪れた。
「大丈夫ですか?」
袢纏男が、また声を掛けてくる。
「何が?」
「元気ないから」
「何だよ、それ」
森城が少しだけ口の端に笑みを浮かべた。
「何かあったんですか?」
森城は、タバコの灰を灰皿に落とし、煙を口からフーッと出したあと、
「前に話してた、嫌味を言われてたヤツのこと、庇うつもりが、逆に迷惑かけたみたいで」
と、話し出した。
「迷惑?」
「俺も現場出禁になったし、そいつも異動させられた」
「え?出禁ですか?」
「やっぱ、パワハラやってるヤツって、強いよな。ただでは済ませない、って言う意地がさ」
森城が、タバコを灰皿への中へと落とした。
「大丈夫ですよ。その人、きっと異動になって安心してると思います」
「そんなの、分かんねーじゃん」
「分かります。だって、その人、僕だから」
「…は?」
「本人が言ってるんだから、間違いないです」
「え?どういうこと?」
「ありがとう。あの時、森城さんが僕のことを庇ってくれて、すごく嬉しかったです」
森城は、しばらく言葉を失い、そして、ようやく頭の中で考えがまとまった時に、
「柴原なのか?」
と、声を発することが出来た。
「はい」
「ウソだろ…。全然違くね?おまえ、今、どんな格好してると思ってんだ?」
「し、失礼すぎるでしょ!」
真っ赤になる。
「って言うか、いつから?」
「図面を落とした日、帽子は被ってたけど、作業用の眼鏡とマスクをしてなかったでしょ?そこで初めて気が付きました」
「そっか。いや、会えて良かった。すげぇ気になってて。何か、マジで悪かった。まさか異動までさせるなんて思ってなくて」
「ううん。本当に辛かったから、逆に異動できて良かったです」
「異動先では、うまくやれてんの?」
「はい。今は、教授の助手をさせてもらってて。今日は、お休みなんです」
「何か予定あんの?」
「いえ。特には。家でゴロゴロしてると思います。何か、ゆっくりしたくて。そっちこそ、現場出禁になったって本当なんですか?」
「ああ。だから、会社行っても雑用ばっかで、やることなくて。来週から新しい現場に行くけど」
「ごめんなさい。僕のせいで」
「お前のせいじゃない。どう考えたって、あの女が悪いだろ」
「ありがとう」
「俺も今日は会社休むわ」
「え?」
「気晴らしに、どっか遊びに行こうぜ」
柴原は驚いたように目を開き、そしてすぐに、
「着替えてきます!」
と、笑顔になったのだった。
「じゃあ、あのTシャツ、教授からの土産ってこと?」
「はい」
柴原のリクエストで、パンケーキの有名なお店に入り、向かい合いながらコーヒーを飲む。
「変わってるな。それを普通に着てるお前も変わってるけど」
「だから、あれは、本当に家でしか着てないんです」
白いTシャツの上に半袖の紺色のシャツを重ね、カーキ色のパンツを履いた柴原が、必死に弁解する。
「まさか、袢纏男が柴原だったなんてな。スーツ着て、前髪もきちんと分けてセットしてたせいか、マジで全然分かんなかった。しかもカラコンまでしてさ。朝はあんなにモサモサしてんのに」
森城が、口の端を上げて笑う。
「モサモサって…。でも、僕も、森城さんのこと、ただの口の悪い元ヤンかと思ってたけど、親身になって相談に乗ってくれたり、しかもあんな図面と向き合って、仕事に対して誇りも自信も持っててカッコいいな、って。松丸さんに意見してくれた時、正義のヒーローかと思いました」
「それ、イジってるだろ?」
「本気で感謝してるんです。僕、教授の助手になりたくて学芸員になったから。森城さんのおかげで、夢が叶ったので…」
「そっか。それなら良かった」
森城は照れたように下を向くと、嬉しそうに、はにかんだ笑顔を見せたのだった。
「じゃあ、また」
「ああ。またな」
シートベルトを外し、柴原は車から降りようとしたが、何となく森城と離れ難くて、俯いて黙り込んだ。
「どうした?」
森城が、心配そうに声を掛ける。
「いや。また会えるのかな?って思って」
「え?まあ、会えるんじゃね?ゴミの日、月曜と木曜だっけ?」
「そうじゃなくて、またこうやって、ゆっくり会える?」
本屋の電気も消え、自動販売機だけの光だけが灯る駐車場に停まる暗い車内の中、柴原の大きな瞳が森城を見つめ、キラキラと輝きを見せていた。
「何?また一緒に出かけたりしたいってこと?」
「うん。そう」
「まあ、休みが合えば」
「休みって、やっぱり土日?」
「土曜は隔週で仕事だけど、日祝は休み」
「そっか」
柴原がまた黙り込む。森城が、シートベルトを外し、スウエットのポケットからスマホを取り出した。
「スマホ貸して」
「え?あ…、はい」
柴原もまた、ポケットからスマホを取り出し、森城へと手渡した。そこに何やら操作をして、
「これ、俺の連絡先」
と、柴原へと渡す。
柴原はそれを受け取ると、森城桔人と言う名前を見て、つい笑みが零れた。
「ありがとう。何て読むの?下の名前」
「きひと」
「きひと?カッコいい名前だね。何か、森城さんにすごく合ってる」
「柴原は?何て言うの?下の名前」
「けいと。彗星のすいの下に心って書いて、叶うで、けいと」
スマホに、自分の慧叶という漢字を打ち込むと、森城に見せた。
「何か、ぽいな」
「そう?」
「慧叶の連絡先も教えて」
突然下の名前で呼ばれ、柴原の心臓がキュッとなったのが分かった。
「うん」
「そういや、慧叶って、いくつ?社会人辞めて大学行ったんだろ?前に松丸が話してたの聞こえてて」
「えと、今年28歳になる」
「え!?年上!?」
「うん。桔人よりは落ち着きあるでしょ?」
「いや、28歳であのTシャツはないわ。しかも、家の鍵に恐竜のキーホルダーとか付いてたし、すげぇガキっぽい」
森城が笑い出す。
「桔人こそ、いくつ?」
「23」
「え!?そんなに若いの!?ヤバ…」
「いくつぐらいだと思ってたんだよ」
「25歳ぐらい」
「2歳しか変わんねーじゃん」
「2歳の差は大きいよ」
「俺、お前のこと22ぐらいかと思ってた」
「そんなに下だと思ってたの?」
「だって、全然しっかりしてねぇし。危なっかしいっつーかさ」
「桔人が歳のわりにしっかりし過ぎてるんだよ」
「あ、そうだ」
森城が、助手席へ手を掛けると、後部座席へと手を伸ばす。その距離感に、一瞬、ドクンと柴原の心臓が高鳴った。
「これ、やるよ。この前、好きなブランドのパーカー買った時に、限定品でもらったヤツ」
「え?これ、かなり高いブランドだよね?」
「あんな変なTシャツじゃなくて、こっち着とけ」
「服のプレゼントって、その服を脱がせたいって意味があるんだよ、って、教授が言ってた」
「は?」
「ひと昔前の話なんだろうけど」
「じゃあ、なおさら教授からもらった服なんか着るなよ」
「あの人は、たぶん面白がってるだけなんだと思う。それに、僕以外の人にも同じTシャツ渡してたから」
「それなら、いちいちお前にそんな事言う必要ないだろ。一緒に仕事してて大丈夫なのか?」
柴原が考え込むようにして、視線を上へと向けた。
「確かに、距離感も近いし、いろんなところを触っては来るけど、別に気にならないから」
「いろんなところって?」
「手の指とか、顔とか。あと膝をずっと撫でられてた日もあったけど」
「そんなの、ただのセクハラじゃねーか」
「骨格が好きなんだって」
「は?」
「僕の指や膝の骨格とか、顔の輪郭が好きなんだってさ。ほら、恐竜の化石って、ほとんど骨でしょ?そういう研究してる人だから、何となく、理解できるって言うか」
柴原が、自分で自分の指を触ると、その手に森城の手が重なり、指を触った。
「細い指だな」
「そうかな?他の人の手って、あんまり触らないからよく分からないけど」
「気を付けろよ?お前、どうせイヤでも我慢するだろ?」
「うん。気を付ける」
そして、手が離れ、車のドアを開ける。
「おやすみ。Tシャツ、ありがとう」
「ああ」
そして、ドアが閉じた。
柴原は、アパートに向かって歩きながら、大きなため息を吐くと、先ほど森城が握ってくれた方の手をもう一方の自分の手で握った。
「大きくて、暖かかったな。桔人の手」
教授に触られても、何とも思わないのに、桔人に触れられただけで、あんなにも心が揺さぶられるなんて。それに、たった今、別れたばかりなのに、もう会いたい。
柴原は、とても不思議な感覚に、戸惑いを覚えたのだった。
「んー。今日もいい骨だね」
会うなり、手を握ると、指を1本ずつ丁寧に揉まれる。次に両頬を包み込まれ、顎に添って輪郭をなぞって行く。これが、柴原と教授の毎朝のルーティンだった。
「やっぱり君をスカウトした僕の目に狂いはなかったなー」
教授がニコリと笑う。
「教授、いくら柴原君が男とは言え、本人が不快と思えば立派なセクハラですよ?」
教授の秘書をしている橋爪が、呆れたように注意を促す。
「僕にとっては、柴原君の骨も恐竜の骨と同じ感覚なんだけどな。イヤかい?」
「いえ。恐竜と一緒って言われるのは複雑ではありますけど、僕もいろんな恐竜の骨格には興味があるので、理解はしてるつもりです」
「柴原君は大人だね」
橋爪が、ため息を吐く。
「1度でいいから、君を裸にして全ての骨を触ってみたいけど、さすがにそこまでは出来ないからね」
「そんなことしたら、柴原君じゃなくて、僕が教授を訴えますからね」
「分かってるよ。せっかくTシャツもあげたのに、脱がせないなんて、悲しいけど、仕方がない」
「あのセンスの欠片もないTシャツですか?」
橋爪が、すかさず突っ込んだ。
「センスはあるだろ。あんな面白いTシャツ、他にはないぞ?」
「僕も柴原君と同じモノをもらいましたけど、誰も着ませんよ。あんなTシャツ」
「え?橋爪さん、着てないんですか?」
「え!?逆に着てるんですか?」
2人して、黙って目を合わせる。
「憧れの教授からもらったモノなので、一応、家では着てます」
橋爪が目を見開き、柴原を凝視した。
「柴原君、誰にも見られないように気を付けてね。絶対に職務質問されちゃうから」
橋爪が、眼鏡を直しながら目をパソコンへと移したのだった。
「ヤバい。ウケる!」
お互いに仕事の休みが合う日に、頻繁に柴原のアパートに遊びに来るようになった森城が、その出来事を聞くと、大笑いした。
「絶対に橋爪さんも着てると思ってたから」
「いや。着ねぇだろ、普通!」
森城は、ソファに倒れ込んで、腹を抱えて笑っている。
「そんなに笑わなくたって…」
「橋爪ってヤツ、マジ正論!俺と同じこと思ってたんだ」
柴原が耳まで真っ赤にしながら、アイスコーヒーを淹れる。
「俺があげたそのTシャツ、似合ってるじゃん」
不意に森城が言った。
「え?そう?でも、桔人みたいに、うまく着こなせなくて。背も低いし」
「お前、細いもんな。でも、いい感じだけど?」
柴原が、森城の目をじっと見る。
「何?」
「ううん。ありがとう」
「どういたしまして」
そして、出されたアイスコーヒーに口を付けた。
「桔人ってさ、オシャレだよね。夏なんて、Tシャツ1枚に、ハーフパンツ履いてるだけなのに。ピアスしてるからかな」
「俺、スタイルいいから、何着てもサマになるんだよ」
「なるほど」
「バーカ。冗談だよ」
「冗談なの?」
「Tシャツのデザインとか、パンツの形とかには、こだわってる。自分の身体の線に合うように選んではいるかな」
「初めて見掛けた時も思ったけど、桔人、カッコいいもんね。その上、言いたい事はハッキリ言えて男らしいくせに、めちゃくちゃ優しいし。僕が女だったら、彼女にしてほしいくらい」
「は?」
「あ、いや。ごめん。何でもない」
「お前の私服姿、なかなか良いのに、なんせ朝の姿が強烈すぎて…」
プッと吹き出した森城のスマホに、着信音が鳴り出した。
画面には『野々果』と、女性らしき人の名前が出ていた。柴原の心がざわつく。
森城が、画面をスライドして、電話に出た。
「何だよ?」
『桔人?今、何してんの?』
「ダチの家にいる」
『気晴らしに、どこか遊びに連れてってよ』
「またかよ。慰めろって?」
『そう。慰めて』
「今、どこにいんの?」
『家にいる』
「分かった」
そして、電話が切れた。
「もしかして、彼女?」
「いや、幼なじみ。彼氏に振られると、必ず連絡して来て、気晴らしに遊びに連れてけって」
「行くの?」
「ん?ああ」
「そっか。気を付けてね」
そして柴原は、飲みかけのアイスコーヒーを片付け始めた。
「ほんと、面倒くせぇヤツ」
森城が、ソファから立ち上がる。柴原は口を閉ざしたままキッチンに立つと、森城に背を向けたまま声を出さずにいた。そしてアイスコーヒーをシンクへと流し、コップを洗い始めた。
「あのさ、良かったら一緒に行かね?そんなに気を遣うヤツでもないし」
「え?」
「たぶんあいつとは、カラオケに行くぐらいだから」
「いや、僕はいい」
電話の会話だけでもこんなにツラいのに、2人の仲の良い姿を見たら、きっと立ち直れないくらい落ち込むに違いない。
「そっか」
「うん。早く行ってあげたら?」
柴原は、森城の顔が見られなかった。
玄関の扉が閉じると同時に、唇を噛み締めていたはいたものの、目から零れる涙だけは止めることが出来なかったのだった。
その日から、柴原は森城と会わないように、ゴミを出しに行く時間をずらすようにし、たまに来る休みの確認のLINEにも「まだ予定が分からなくて」としか、返事をしないようにした。
会うと辛くなる。そう自分に言い聞かせて、日々を過ごしていた。
そして、平日の休みに、県立図書館へと出掛け、いつもの恐竜の図鑑を見ていた時だった。
「柴原君?」
名前を呼ばれ、顔を上げると、そこにはスーツ姿の橋爪が立っていた。
「橋爪さん。今日は教授と一緒じゃないんですか?」
「教授、実家に帰ったから」
「実家?」
「そう。その間に明日教授が講演で使う資料を用意しておことうと思って。それより、何か落ち込んでるの?図鑑読んでるし」
「あ…。あの時、もうすでに教授の秘書だったから、横にいたんですよね」
「そう思うと、教授とは長い付き合いになるなぁ」
「教授、橋爪さんの言うことだけは聞きますもんね。注意されると、犬みたいにシュンってなりますし。変わり者の教授のこと扱えるの、橋爪さんだけですよ」
柴原は、思わず笑いながら言ってしまった。すると、橋爪が黙り込みながらも、顔がみるみる赤くなって行くのが分かった。
「え?あの…」
「あ、ごめん。何でもない」
ああ、そうか。
その瞬間、いくら鈍感な柴原でも分かってしまったのだ。2人が、そういう関係なのだと言うことが。そして、その安心感からか、柴原はつい話し始めていた。
「実は、最近、気になる人が出来たんです。でも、その人と会うのが辛くなってきて、今はわざと避けてて…」
柴原が話し始めると、橋爪が、
「良かったら、隣接してるカフェでコーヒーでも飲む?」
と、優しく声を掛けてくれたのだった。
「嫉妬かぁ…。僕も経験あるけど、しんどいよね」
「はい。橋爪さんは、どうやって嫉妬を紛らわしてるんですか?教授、学生からも人気あるし」
「やっぱりバレたよね…。僕、すぐ顔に出ちゃうみたいで。仕事中は大丈夫なんだけど。僕の場合は、一緒に住んでるし、その…」
また顔が赤くなる。きっと、家の中では、すごく仲が良いんだろうなぁ。瞬時に、そう思った。
「あの人、人にベタベタ触るでしょ?最初の方は、かなり嫉妬してた。でも、さすがに、3年前に異動してきた60歳近い事務長の指や顔を触り出した時に、本当に骨が好きなんだな、って分かって。それからは、特に気にならなくなったって言うか」
「事務長の?」
「今も毎日のように触ってる。柴原君よりも、激しく」
橋爪の言い方に、柴原は思わず吹き出してしまった。
「どうやって付き合い始めたんですか?」
「秘書を辞めたい、って言ったんだ。教授のことが好き過ぎて辛いから、忘れるために、離れたいって。そしたら『じゃあ、恋人になろう』って。かなりアッサリしてたから、物凄くビックリしたけど。でも、今でもめちゃくちゃ大事にしてくれてる」
そう教授のことを話す橋爪は、とても幸せそうな表情を浮かべていた。
「柴原君は、気持ち伝えないの?」
「怖くて」
「会わないように避けてるなら、いっそ告白してから避ければいいのに。来月から発掘作業で僕たちと一緒に中国に行くんだし、もし振られたとしても、環境も変わるし、かなり忙しいと思うから、忘れるには、ちょうどいいのかも」
「そうですね」
「あのさ」
「はい」
「指、触らせてもらってもいい?」
「指、ですか?」
「どんな感じなのかな、と思って。さすがに、事務長のは触れないから」
「あ、僕ので良ければ、いくらでもどうぞ」
そして柴原は、橋爪へと手を差し出したのだった。
「あれ?あの子、前に博物館にいた子じゃないか?」
早見が、森城に声を掛けた。
男と手を重ね合いながら、楽しそうに話している柴原の姿が見えた。
「どう見たって男同士だよな?」
早見が森城に問い掛ける。
「そうっすね」
「まあ、そういうのもアリなのか。結構、かわいい系だったし。元気そうで良かったな。お前、心配してたから」
「本当っすね。あいつのあんな笑顔、初めて見ましたよ」
森城が、低い声で呟くと、
「確かに。毎日ツラそうだったもんな」
と、早見も同調したのだった。
その日の夕方、柴原は勇気を出して森城にLINEをした。
『話したいことがあるから、もし時間あったら、今日、仕事終わってから会えない?』
と。森城はすぐに返事をせず、少し悩んでいたものの『後でアパートに行く』と返信した。
「ごめんね。急に」
「いや。明日の土曜は休みだし、別に」
そしてリビングの床に座ると、ソファに寄りかかった。
「で、話って何?」
「あ、うん」
柴原が、向かい合って座る。
「彼氏が出来たって報告?」
「え?彼氏?」
「今、現場が県立図書館なんだよ。今日、そこのカフェで、男と手ぇ繋いでるとこ見たから」
「手を?誰と?」
「知らねぇよ」
柴原はしばらく考え込むようにし、
「ああ。教授の秘書の橋爪さん?あれは違うよ。教授があまりにも僕の骨格が良いって言うから、触ってみたいって言われて」
「触りたいって言われたら、誰にでも触らせんだ?結構、軽いんだな」
森城のトゲのある言い方に、いつもは温厚な柴原でも、さすがにカチンと来た。
「そっちこそ、ただの幼なじみとか言って、女の人と2人きりで会うとか、何かあるんじゃないの?慰めてとか言われてたし」
「アイツとはそーゆーんじゃねぇよ」
「橋爪さんとも、そういうんじゃないから」
「何?いつもはおとなしいくせに、俺にだけは強気なんだ」
「別に。そっちが喧嘩腰だからじゃない?」
森城が黙る。柴原も黙った。
「もういい。桔人には、もう話すことないから」
「は?急に呼び出したのそっちだろ?久しぶりに会ってそれかよ」
森城の苛立った口調から逃げ出すかのように、柴原が立ち上がる。
「僕、今度、仕事で中国に行くことになったから。もう会わなくて済むと思ったら、気持ちが楽になるでしょ?」
「は!?」
そして、森城へと背を向け、キッチンへと向かう。そんな柴原の背中に向かって、森城が、
「それマジで言ってんの?」
と、声を掛けた。
しかし、柴原からの返事はなかった。
「それが話したいことだったってこと?分かったよ。元気でな」
森城が立ち上がり、玄関に向かって歩き出す。柴原の手の甲に、1つ、また1つと雫が落ちる。
しばらくして、背後から優しく頭に手を置かれ、柴原が硬直した。
「悪かった」
「…っ…」
瞳を固く閉じると、より多くの涙が溢れ出てきた。
「泣くなよ。謝ってるだろ?」
「何なんだよ。来るなり変につっかかって来て」
「だから、悪かったって」
森城が、柴原の髪をガシガシと撫でる。
「僕も、ごめん。嫌な言い方してしまって。今日は、どうしても桔人に、話したいことがあって…」
「何だよ?改まって」
「その…。僕…」
そこまで言って、黙り込む。
「何?」
「やっぱり、また今度にする」
「話せよ。気になるだろ」
森城が、柴原の頭に手を置いたまま、横から覗き込んだ。
「桔人はさ、もし、同性の人を好きになったって会社の人に相談されたらどうする?」
「誰かに告白されたのか?」
「いや。僕の話じゃなくて」
「そっか」
そして、柴原から離れ、そのままソファへと腰掛けた。
「まあ、同性を好きになるのって、今は結構みんなオープンでそんなめずらしいことじゃないし。相談ぐらいには乗るかな。もしかして、今日会ってたヤツの話?」
「うん。まあ…」
柴原は、自分の気持ちを知られないようにするために、思わず嘘を付いてしまった。
「桔人は?あの幼なじみの子は、恋愛対象じゃないの?かなり仲良さそうだったけど」
「あの日、もう呼び出さないように頼んで来たから、連絡来ないだろ」
「え?何で?」
「面倒くせぇじゃん。自分の都合ばっかで呼び出されても困るし」
森城の話を聞いて、柴原の口元が、あきらかに緩んだ。
「何かさ、好きな人がいるってだけで、ツラくて悲しいことがあっても、頑張ろうって思えるよね。だから、きっと好きな人に振られた時の、その幼なじみの子のショックってかなり大きいんだろうな、って思うよ」
「いんの?そういうヤツ」
「うん、いるよ。僕はその人のおかげで、夢を諦めずに頑張ろうって思えて。愛は力なり、ってすごい昔の言葉で聞いたことあるけど、本当にその通りだなって思って」
「あ~、前に言ってたヤツのこと?鍵に付いてるキーホルダー、憧れの人にもらった宝物って言ってたもんな」
森城が、何も気にすることなくサラッと言い放った言葉に、柴原は少しだけ胸が痛み、つい黙り込んだ。
その時、ちょうど森城のスマホから着信音が鳴り、森城は、画面を確認すると、そのまま放置した。
「出なくていいの?」
柴原が、2人分のコーヒーを持って、ソファの前のテーブルに置く。
「ん?ああ」
「もしかして、幼なじみの子?」
森城は答えなかった。
「出たら?」
「でも…」
「いいよ、別に。心配なんでしょ?」
「悪い…」
そして森城は電話に出ると、
『今、どこにいるの?』
と、女性の声がした。
「何で?」
『明日、休みでしょ?どこか遊びに連れてってよ』
「だから、無理だって。今、出先だから切るぞ」
『あ、もしかして、前に話してた人と一緒?』
「そうだよ。だから、無理」
『そっか。それじゃ仕方ないね。ごめんね、邪魔して。今日こそうまく行くといいね』
そして、電話が切れた。
「行かなくて大丈夫だったの?」
柴原は、床へと座ってソファにもたれかかると、森城の方へと顔を向けて、声を掛けた。
「え?ああ。大丈夫」
「無理しなくても良かったのに」
「別にしてねーし。それより、お前こそ俺と2人で会ったりしてて大丈夫なのか?好きなヤツに誤解されたりしたら…」
「桔人だから、大丈夫」
「は?何が?俺とは安全ってこと?」
「そういう意味とはちょっと違うけど」
「何だよ、それ。回りくど」
「僕の好きな人が、桔人だから、大丈夫ってこと。電話の内容が聞こえてきてたけど、うまくいくといいね、って何?」
「うわっ。急に強気」
言いながら、柴原の頬に森城の手が触れ、包み込む。
「ちゃんと言って」
「好きなヤツが出来た、って伝えたからな」
どちらともなく、顔が近付く。そして軽く触れるだけのキスをして、ゆっくりと抱き締め合った。
「僕、桔人のおかげで、仕事が辛くても毎日頑張れてた。あの時、桔人に会えてなかったら、夢だって諦めてたかも」
「今日、お前が男と手を握ってるところ見て、すげぇイラついた」
そして、再び唇が重なる。そして、そのまま抱き合いながら、床へと倒れ込む。
「桔人、待って!ちょっと気が早すぎ…」
「無理。いろんなヤツに指触らせてんだから、それ以外のところ、今すぐ全部俺に見せて触らせろ」
スルリとTシャツの中に、森城の手が滑り込み、素肌に触れる。
「ちょっと!まだ、心の準備が…」
「お前の心の準備待ってたら、いつになるか分かんねーだろ。いつも言いたいこと、言えないんだから」
「や、ダメ…」
Tシャツを一気に脱がされる。森城が容赦なく、柴原の素肌に吸い付いた。
柴原が顔を横に向け、キツく瞳を閉じる。
「ヤバ…」
「え…何が…」
「その顔、めっちゃかわいい」
「え?」
「もっと恥ずかしがれよ」
そこから、森城の愛撫が一気に激しくなったのだった。
「ずっとうつ伏せで、ツラくないのか?」
「顔、見たくない」
「何で?」
「だって、あんな恥ずかしい格好、いっぱいさせられて…。しかも、こんな明るい部屋で…」
「まあ、確かに全部丸見えだったな。ってか、わざとだし」
森城が楽しそうに笑う。
「服、取って」
「自分で取れよ」
「無理」
「今さらだろ?」
柴原が、渋々身体を起こすと、先ほどひどく舐め回して吸い上げた胸の突起に、森城がすかさず吸い付いた。
「わあっ!」
その場に、また倒れ込む。
「感度良すぎだろ。早く服着ろよ」
森城がわざと柴原の衣服を遠ざける。
結局、柴原が服を着るのにかかった時間は、翌朝の出勤に間に合うギリギリの時間になったのだった。
そしてそれからしばらくして、松丸が、新しく異動してきた女性の学芸員にパワハラで訴えられたと、柴原の耳に入って来た。
「やっぱさ、人に対してひどいことするとさ、巡り巡って自分に返って来るんだな」
森城が言うと、
「そうだね。さすがに松丸さんに同情する気は起きないかな…」
と、柴原も返した。
「いつから中国に化石の発掘行くんだっけ?」
「えと、来週の日曜日に出発する」
2人分のコーヒーを準備して、柴原がテーブルに置く。そして森城の座るソファへと腰掛けた。
その肩に手を回すと、森城は自分の方へと引き寄せ、その胸に、柴原は顔を埋めた。
「気を付けて行って来いよ?」
「うん」
「帰って来たら、連絡して」
「うん」
「さすがにその袢纏は置いてくんだろ?」
「リラックスするのに持って行こうかな」
「ダメだ。そういうモサくるしい姿は俺だけに見せとけ」
「モサくるしいって…」
柴原が顔を赤くする。
そんな柴原に、森城はゆっくりと顔を近付けると唇を重ねた。
「今さらだけど、マジで良かった。お前が柴原で」
「うん。僕も。あの時、洋楽さんのことも、桔人のことも、どっちのことも気になり始めてたから、2人が同一人物で良かった。何となく、雰囲気が似てるな、とは思ってたけど」
そして、唇が深く重なり合い、ソファへと倒れ込む。
「俺も、どっちのことも何となく心配で、目が離せなかった」
「きっと、お互いに『雰囲気が似てるな』と思ってたんだろうね」
「感覚的に?」
「うん」
「そうかもな」
「あの!今日こそは、あんまり恥ずかしいのは…」
「分かってるよ。いつも通りな」
「そのいつも通りが、ダメなんだってば!」
「はいはい」
森城が、軽くあしらう。
そして、2人は指を絡めると、そのまま身体を重ね合ったのだった。
そして、中国へと出発する日の朝、森城が柴原を車で空港まで送って来ると、
「柴原君!」
と、駐車場で大きな声がした。
「教授」
「いやー。今日もいい骨格してるね」
顔を合わせるや否や、指に触れ、1本1本を丁寧に揉み出した。
「教授!人前では、やめた方が」
すかさず橋爪が止めに入った。そして、柴原の横に立つ森城に気付く。
「ああ。もしかして、君が柴原君を庇ってくれた青年?柴原君が、その時の君の話を嬉しそうに橋爪君にしてたのが聞こえてね」
「え?」
「いやぁ、ありがとう。君のおかげで、柴原君が僕の助手になるように引き抜くことが出来たんだよ。館長から異動させたいって相談があってね」
と、森城の手をガッチリ握る。
「こ、これは…。何と素晴らしい」
そして、指を1本ずつ丁寧に触り始めた。
「もしかして、技術的なお仕事してる?」
「はい。電気の配線工事してます」
「そうか。それで、こんなにも、しなやかな骨格と肉付きなのか」
森城の腕を揉みながら、どんどんと上の方へと移動し、そのうちに肩や胸板を触り始めた。
「教授!初対面の方に失礼ですよ!すみません」
橋爪が謝る。
「いえ」
「橋爪君以外の素晴らしい身体には、今だに出会ったことはないが、君も負けていないくらい、なかなか良い肉付きだよ、うん!」
「きょ、教授!!」
「橋爪君の身体はね、本当に見事に僕とフイットするんだよ。だから、なかなか離れられなくて、ずっとくっついていたいんだけど…。指もね、触るだけじゃなくて、絡めてる時が1番最高で…。だけど、体だけじゃなく、何よりも、心が綺麗なんだ。僕のことをずっと長く純粋に想ってくれて…」
「バカみたいなこと言ってないで、早く行きますよ!さっ、柴原君も急いで」
教授の言葉を真っ赤になった橋爪が遮る。そしてそのまま教授の腕を勢い良く引き、急ぎ足で空港の入口へと向かった。
「ってか、教授って、いつもあんな感じ?」
呆気にとられた様子の森城が、柴原に尋ねた。
「たぶん、桔人の指と身体が、よっぽど気に入って、かなりテンション上がったんだと思う。橋爪さんのこと、あんな風に話す教授、初めて見たから」
「大変そうだな、あの人」
「でも、幸せそう。最近、さすがにお互いに違う指だけど、お揃いの指輪し始めたし」
この前、教授が実家に帰っていたのは、きっと2人のことを話しに行ったのだろうと、指輪を見た時に、柴原は思った。
「だな」
「桔人の指と身体、教授のお墨付きだね」
柴原が、森城の手をそっと握る。
「帰って来たら、いっぱい触らせてやるよ」
その手を森城が強く握り返した。
「うん。じゃあ、行って来るね」
「慧叶」
「ん?」
「俺、今、めっちゃ幸せ」
「うん。僕も。まだ行ってもないのに、もう会いたいって思ってるし。ほんと、重症だね」
森城が、嬉しそうに笑みを浮かべ、照れたように俯いた。
そして、柴原はゆっくりと手を離し、何度も森城の方を振り返りながら、空港の入口へと姿を消したのだった。
翌日の月曜日の朝、森城はいつものように自動販売機でコーヒーを買うと、タバコに火をつけた。そして、空を見上げる。フーッと最後の煙を吐きタバコの火を消すと、コーヒーを持って車へと乗り込み、職場へと向かった。
ただただ平穏でいられることこそが幸せなことなんだと、改めて気付かされる。その幸せを噛み締めながら、この先も、当たり前の日常を2人は楽しみながら過ごして行くのだった。〈完〉