イケメンだけどこじらせた義弟、宙を舞う
アンリエット・シーベルト子爵令嬢には、同い年の義弟がいる。
アンリエットの実母は彼女が三歳のときに流行病で亡くなり、貴族令嬢として母がいないことを慮っての再婚であった。そうは言うものの、実父のシーベルト子爵は五年以上も亡き妻に操を立てていたし、アンリエット自身も物事の分別がつくようになり、子爵令嬢として女親からしか学べないことも理解し始め、親子ともに納得の上での再婚である。
アンリエットの継母となるグレイスは、貧しい男爵家の令嬢で、もともと別の男爵と結婚をしていたのだが、夫であった男爵の借金と浮気に耐えかねて離縁し、縁あって義弟も含めて再婚してもよいというシーベルト子爵の寛大な心に惹かれ再婚の運びとなった。
お互いが再婚同士ということもあったし、グレイスはアンリエットの親として望まれていたことも重々理解していたので、継母と継子でありながらもよい関係を築いていた。
「どうしたものかしら……」
一週間後には十六歳の誕生日を迎えるというのに、アンリエットの表情は暗い。彼女は七年前の、継母と義弟との出会いを思い出していた。
「アンリエット・シーベルトです。これからどうぞよろしくお願いします……」
父の背中に隠れるようにあいさつしたアンリエットに、グレイスはにっこり笑みを浮かべしゃがみ込んで目線を合わせる。
「グレイスです。アンリエット、よろしくね。すぐにおかあさまとは呼べなくて構わないわ。ゆっくり仲良くなれるとうれしいの」
グレイスの優しげな声音にアンリエットの緊張も幾分かほぐれ、こくりと頷いて笑みを返す。
「この子は私の息子のライノルドよ。ライノルド、お義姉さまにごあいさつしなさい」
ライノルドと呼ばれた少年は、きれいな翡翠の瞳をまっすぐにアンリエットに向ける。グレイスと同じ赤茶色の髪の毛は少し癖があり、とてもきれいな顔立ちをしていた。自分と年齢の近い男の子と対峙するのは初めてとなるアンリエットは、そのきれいな少年に少しだけ胸が高鳴る。
しかし、ライノルドは唇を真一文字に引き結んだまま、いっこうに口を開くことはなかった。
「ライノルド?」
グレイスが訝り、ライノルドに声をかけると、ふんと鼻を鳴らして彼は尊大に言い放つ。
「何が義姉だ。こんなちんちくりん、見たことない」
アンリエットが、義弟との関係を諦めるには十分な、そして最も効果的な一言であった。
あの最悪な初対面以降、アンリエットはなるべく義弟に関わらないよう注意深く行動していた。グレイスも息子とは言え、一貴族子息としてあり得ないことだとライノルドをかなりきつく叱り、アンリエットとライノルドがなるべく接触しないよう心を砕いてくれた。
にも関わらず、ライノルドはどういうわけか、グレイスや使用人たちの目をすり抜け、アンリエットに近づいては余計な一言を言い放つ。
「お前なんか、将来誰とも結婚できないだろうな」
その言葉そっくりそのままお返しします。
「こんなに平凡で取り柄がないと、縁談にも苦労するだろう」
実父のシーベルト子爵のおかげでよい縁談に恵まれそうです。
「……」
ライノルドに何か言われるたび、アンリエットは心の中で言い返しながら無視を貫くよう徹底している。言い返せば水を得た魚のように勢いが増してしまうし、義母や使用人がすぐに引き離してくれることを理解していたからだ。
とは言え、なぜここまで義弟に嫌われてしまったのか、アンリエットも多少は気に病んでいる。初対面のあのときに何か粗相をしてしまったのだろうか? 義母は「アンリエットは一切悪くない」と言い切り、むしろ自身の息子の教育の失敗を心から悔やんでいるようだ。
ライノルドはアンリエットが絡まなければ、貴族子息として何も問題がない、むしろご令嬢方の噂に上るような青年である。猫を被っているのか、あるいはアンリエットだけがとにかく気に入らないのか、他のご令嬢に対しては常に紳士的で、思慮深いグレイスの息子として、完璧な振る舞いを見せていたのだ。
アンリエットが十五歳のとき、彼女は家を出て王宮の侍女として出仕することを決意した。父も義母も大好きだったが、義弟のことを考えると家にいづらく、であれば王宮に出仕して家を出てそのまま結婚してしまえばいいのでは、と思ったからだ。
王宮の元侍女となれば、縁談にも困らない。仮に結婚後の生活に困るようなことがあっても、元侍女として下位貴族のマナー講師として糊口をしのぐこともできるだろう。
アンリエットに少しでもよい縁談を、と考えていた父は苦笑いしながらも娘の判断を尊重した。義母は目に涙を浮かべ、愚息の態度をさらに謝った。
「アンリエット……本当にごめんなさい。あなたにいらぬ苦労をかけているのはすべて私のせいだわ」
「そんな、謝らないでください、お義母さま。それに、侍女ではあるけれどきらびやかな王宮に出仕できるなんて幸せなことよ」
「アンリエット、あなたはすばらしい自慢の娘よ」
グレイスに抱きしめられ、アンリエットは自分の幸福を神に感謝した。むしろ幸せすぎるくらいで、義弟のあの態度があるくらいがちょうどいいとすら思える。
幸せすぎると、かえってとんでもない不幸に襲われることもあるそうだ。今くらいがきっとちょうどいいのかもしれない。アンリエットはそんなことを思いながら、優しい両親に見送られ、王宮の侍女として出仕することとなった。
アンリエットの王宮での役目は、十歳になる王女殿下のお世話係である。とは言え、王女殿下は周囲に迷惑をかけることのないとても穏やかな性格で、気品と愛嬌を兼ね備え、周囲の人間を虜にする不思議な魅力のあるお方であった。
両親だけでなくお仕えする方にも恵まれて本当に幸福だと、アンリエットは日々王女殿下のお世話に精を出し、そんなアンリエットを他の侍女仲間もとても優しく扱ってくれている。
義弟のことなど頭の片隅にも思い浮かべることなく、侍女として充実した日々を送っていた半年後、アンリエットは衝撃を受けた。
「王女殿下の護衛を拝命しました、ライノルド・シーベルトと申します」
まさか義弟が、王女殿下の護衛として王宮に出仕してくるとは。
「ライノルド、よろしくね。そういえばアンリエットとライノルドは姉弟なのよね」
王女殿下がにこにことアンリエットに声をかけてくる。なんと答えてよいかわからず、アンリエットは曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
「ご安心ください、王女殿下。護衛となったからにはアンリエットよりも王女殿下の御身を優先いたします」
護衛の口上としては立派なものだが、アンリエットはそこに数多の棘が含まれていることを感じ取っていた。だが、見目のよいライノルドの優雅な振る舞いに、王女殿下も他の侍女たちもうっとりとした眼差しを向けている。
アンリエットは戦慄した。実家にいた頃は、グレイスや使用人たちが正しい目で判断し、アンリエットを全面的にかばってくれていた。しかし、今は良好な関係を築いてきたとは言え、所詮何も事情を知らない他人ばかりである。ライノルドに何かされても、「姉弟なのだから」と笑って流されてしまうだろう。
「これからよろしく、アンリエット」
ライノルドの目は、一切笑っていなかった。
グレイスから届いた手紙によると、ライノルドは誰にも相談せず、王女殿下の護衛を志願してしまったらしい。ライノルドを止めらなかったことへの謝罪と、我慢できなければすぐにでも暇をもらい、子爵家に下がってきてほしいと書いてあった。
そうは言っても出仕してまだ半年である。せめて一年は働かないと箔はつかないし、何より義弟に負けたようでアンリエットはすぐに実家に舞い戻る勇気が出なかった。それに、いくらあの義弟でも、王女殿下や他の侍女の前で大っぴらに罵倒することはないだろう。要は二人きりにならないよう気をつければいいのだ。
「そうよ、そもそも護衛と侍女が二人きりになることなんてあり得ないし」
アンリエットは自分に言い聞かせ、気持ちを切り替える。義弟が何を考えているのかわからない不気味さは残っているが、実家で七年も耐えてきたのだ。あと半年くらいなんてことないだろうと自分に言い聞かせる。
そして案の定、やはりライノルドと二人きりになるような場面はなく。変わったことと言えば、王女殿下がアンリエットではなく、しきりにライノルドに話しかけるようになったことくらいだろう。
「ライノルド、何かおもしろいお話はないかしら?」
「そうですね。それでは――」
「ねえ、ライノルドは好きなお菓子はある?」
「王女殿下のお好きなものなら、私の口に合わないということはございません」
王女殿下は見目麗しい青年に、一時の恋をしているようだ。もちろん、立場を忘れてということはなかったし、ライノルドもアンリエットが絡まなければ何も問題のない男である。時折視線を感じることはあったが、実家にいた頃と同じように徹底して無視していた。
「ねえねえ、ライノルド様って婚約者はいないの?」
侍女仲間も義弟に熱を上げている者が多く、こういった類いの質問が増えた。
「うーん……たぶんまだいないと思うけど」
「ライノルド様ってほんとすてきよね〜。義弟とはいえ、ときめかないの?」
「やだ、あるわけないでしょ」
そんな恐ろしいこと、という言葉を呑み込む。
「それもそうよね。でもうらやましいわ」
できることなら代わってほしいくらいだけど、と言えるはずもなくアンリエットは苦笑する。侍女仲間は引き続きライノルドのすばらしさを語っていたが、アンリエットはまるで遠い世界の物語のようにしか思えない。適当に相槌を打って、その場を誤魔化すことが、アンリエットにできる唯一のことである。
こういった少し煩わしいやり取りが増えたものの、アンリエットの日々は意外にも、そこから大きな事件もなく過ぎていった。
父のシーベルト子爵から、婚約者をそろそろ決める時期なので実家に戻るよう連絡があったのは、アンリエットが出仕してちょうど一年経った頃である。
この国では十六歳になると、女性は婚約者となる男性を見つけるため家格に合わせた披露パーティーを開催するのが習わしだ。そこで求婚を受け――とは言え、すでに家長の判断で候補を絞り込まれた状態で――婚約者になってもよいと思う男性の返事を受諾する。すでに父から数名の候補の釣書を確認し、とある男爵家の子息の手を取ろうかとアンリエットは考えている。
アンリエットが暇を頂戴したいという話をすると、王女殿下は寂しそうな顔をしながらも祝福してくれた。
「アンリエットがいなくなるのは寂しいけれど、すてきな出会いがあることを祈ってるわ」
「もったいないお言葉でございます。残りわずかではございますが、最後まで誠心誠意お仕えいたします」
「ありがとう。あなたの真心は十分伝わっているわ。必ず幸せになってね」
王女殿下の優しいお言葉に目尻にうっすら涙が浮かんだのは、アンリエットだけの秘密である。
侍女仲間たちもアンリエットがいなくなることを悲しみながらも、その旅立ちを祝福してくれ、「どんなお相手なの?」とからかわれながら、残りの日々をかみしめるようにアンリエットは過ごしていく。
何も言わない義弟が少し引っかかったが、王宮に出仕して何か心境の変化があったのかもしれない。結婚すれば顔を合わせることはほとんどなくなるが、今度こそふつうの家族として接する未来もあるのではないか……アンリエットはいささか呑気に、義弟との関係を考えてしまっていた。
「一体どういうつもりなの……」
アンリエットは自室でため息をつき、机上にある一輪のエーデルワイスを見つめる。誕生日に向けて忙しくも楽しく準備していたというのに、彼女の心はまるで曇天であった。
アンリエットの目の前にあるエーデルワイスの花は、男性が求婚する女性に贈るものである。本来であれば心ときめくその花だが、問題は差出人の名前であった。
――ライノルド・シーベルト。
あの義弟が、会えば嫌味しか言わない義弟が、アンリエットに求婚してきたのである。
「嫌がらせでここまでするかしら、ふつう」
何度目かわからないため息をついたとき、部屋のドアが控えめにノックされた。
「アンリエット?入ってもいいかしら?」
「お義母さま。もちろんですわ」
グレイスも娘の披露パーティーを楽しみにしていたというのに、その表情はアンリエット以上に暗い。あまり眠れていないのだろうか、目の下にうっすら隈ができている。ライノルドからエーデルワイスの花が贈られてきたのは三日前のことだった。
「アンリエット……今回のこと、なんてお詫びをしたらいいのか」
「やめてくださいお義母さま。お義母さまのせいではございません」
一回り小さくなったように見える義母を抱きしめ、アンリエットは背中をさする。親子として一時の時間を過ごしていると、かなり慌てた様子で使用人が声をかけてきた。
「奥様、アンリエットお嬢様!ライノルド様が、今お戻りに……」
その瞬間、義母はきりりとした表情になり、足早に部屋を出て行く。怒髪天を衝く勢いの義母をアンリエットも慌てて追いかけた。
「ライノルド!あなたどういうつもり!?」
「母上、何ですか。藪から棒に」
グレイスは玄関先でライノルドに詰め寄っている。アンリエットもなんとか追いついたが、グレイスの怒りは止まらない。
「アンリエットに贈ったあの花です!意味がわかってやっているのですか?」
「当たり前でしょう」
飄々と答えるライノルドに、アンリエットはぞっとした。その瞬間、義弟が何か別の生き物に見え、アンリエットは生理的な嫌悪を覚える。もうそれは、ふつうの家族としても過ごすことはできないという、アンリエットの心が完全に拒絶した瞬間だった。
「どういうつもりなのですか!?こんなふざけた真似をして!」
「もちろん、アンリエットに求婚するためですよ」
「……は?」
ライノルド意外の全員が、目を点にしてライノルドを見ている。
「アンリエットは平凡で器量もぱっとしません。だから俺がもらってあげようというわけです」
「何を……言っているのです?」
グレイスは怒りを忘れ、震える声でライノルドに尋ねた。
「だから、もらい手のないアンリエットを妻にして、シーベルト子爵家を盛り立てていくんですよ。義理でも姉弟なので、アンリエットには一度他家の養女になってもらいますが。候補の貴族も見繕っています」
もう、訳がわからなかった。
「……もしかして、あなたは、アンリエットが……好きだったのですか?」
恐る恐る発されたグレイスの言葉に、ライノルドの頬がカッと赤くなる。
まさか、この義弟は、愛情の裏返しとしてあんな態度を取っていたのだろうか?そんな恐るべき思考を、アンリエットの心が拒む。
「なっ……そういうのでは……ただ、アンリエットが不幸になるのはかわいそうでしょう?いくらぱっとしないとは言え」
ライノルドの言葉に、全員が絶句していた。まさか初対面から義姉に懸想し、今の今まで恋するがゆえに行動していたとは、実の母のグレイスでさえ予想だにしていなかったのである。
「この……この……」
グレイスとアンリエットが動き出したのは、ほぼ同時だった。
「大馬鹿息子!」
「あなたなんか生理的に受け付けません!」
そうして二人はほぼ同時に言葉を発すると、ライノルドを突き飛ばした。
そこそこ鍛えた成人男性とは言え、怒りで我を忘れた女性二人に突き飛ばされ、義弟は宙を舞う。情けなくひっくり返った義弟を助け起こす者は誰もいなかった。
一週間後、アンリエットは予定通り男爵家子息の求婚を受け、両親の心からの祝福を浴びながらすぐさまその男爵家に花嫁修業として引っ越していった。
宙を舞った義弟が心から後悔してせめて家族として関わりを持ちたいと願ったところで、後の祭りだったのである。