喫茶
喫茶店に入る前、その日初めての彼は、どこか鬱屈しているような様子だった。表面的な話題をめぐる、少し噛み合いの悪い会話が夏の炎天の下で交わされていた。
彼の案内した喫茶店は住宅街の、信号のある交差点に構えていた。ガラスと白色の壁で組み立てられたような、今どきの雰囲気とは無縁な店だった。私はこの交差点を知っていたが、平易な字体で書かれた店名が目についたのはこの時が初めてだった。
店内は涼しく、時間帯のせいか他の客はいなかった。一人の接客係と、やり残された仕事としての結露した円柱状のコップや紙くずが目に入った。接客係の態度は柔和的で、お好きな席へどうぞとあたりのよい声で言った。彼がカウンターの席が良いと言うので、窓に対面するカウンター席へ向かった。一息つき終わる前に二人分の水と手拭きが用意され、その日出せるのは飲み物と数種類のパスタと、ちょっとしたデザートだけだと告げられた。
「何か食べますか」と彼が低く、静かに尋ね、私は飲み物だけで良いと答えた。
接客係は気の利く人間だったようで、彼の視線ににわかに気づき、ゆったりとこちらへ歩いてきた。彼はホットコーヒーを注文し、私はアイスコーヒーを注文した。氷が解けて薄くなるのがいつもの小さな不満なのだが、窓から見える陽炎があの炎天を思い出させたのだった。接客係がまた戻ってくるまでは長くはなく、その間にこの店は彼の所謂ゆきつけなのだと知った。彼のコーヒーがやすらぐ芳りを広げていた。
二人して一口目のコーヒーを飲んだ。余韻の過ぎた頃、彼の口から発せられたのは、恐怖であった。それも、私に対する恐怖であった。
理解ができなかった。この状況の、いくつもの歪みが姿を現したようだった。彼は言葉を続けた。
「あなたが僕を見るとき、僕はとてもやさしげに微笑んだ顔を見つけます。その笑顔を見ると、とても綺麗だと思います。本当に、いつもそう思います。でも、それと同じくして思うのは、なぜ笑っているんだろうということです。そして、ささやかな恐怖を感じるんです。」
「この前、あなたが見知らぬ男の人と歩いているのを見かけました。その時、僕はあなたの生々しく動く臓器が透けたように見えました。」
私は自分を心底恨み、何もわかっていなかった自分をどこまでも責めていた。自分の楽観が嫌いになった。見え隠れしていた彼の鬱屈も一過性だろうと思ってしまっていた。
随分と前に、彼が止まらない自壊のせいでいなくなってしまいそうなときがあった。見るからに酷い精神状態で、私にできたことと言えばただそこにいるだけであった。いつの間にか彼は元気を取り戻したように見えた。私は内心、自分の行いに意味があったのだと思っていた。
私は嫌悪の洪水の中、必死に言葉を探した。しかし当然見つけられず、訳もわからず私は彼の方を向いた。彼の怯えた目が自分の目と交わったとわかったとき、既に彼を抱きしめていた。彼の拒絶は、彼の言葉や攻撃にこそならなかったものの明らかだった。それは私が甘えていた彼の優しさだった。
少しの間そうしていた。
「私の笑顔は、嬉しいからだよ。」
言葉になったのはそれだけだった。彼の拒絶は勢いを失っていた。
「ここの店のコーヒーはおいしいでしょう。」
「うん、おいしい。」
氷の解けたアイスコーヒーのグラスは結露していて、その足元に水がたまっていた。