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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

王女殿下は愛する騎士と結婚したくない。

作者:


ヴォルディアという王国に、美しく聡明な王女がいた。


麗しの姫様は、女神のような容姿を持ち、王国一の魔力で治癒魔法を扱い、国王夫妻からも愛され、慈悲深く、民からの信仰も厚かったが―――――とことん男運が悪かった。



1人目の婚約者は、彼女の優秀さに嫉妬した。行き過ぎた劣等感ゆえに彼女を烈火の如く嫌った。婚約破棄である。

2人目の婚約者は、玉座を狙っていた。家族ぐるみで謀反を企て、王家を乗っ取ろうとした。 婚約破棄である。

3人目の婚約者は、隣国の王子だった。彼女を利用してヴォルディアを支配下に置こうとした。婚約破棄である。

4人目の婚約者は、浮気者だった。身分の低い令嬢を見初め、堂々と二股をかけ、彼女を蔑ろにした。婚約破棄である。

5人目の婚約者は、彼女に心酔しすぎていた。奴隷出身の護衛騎士を蔑み嘲り、彼女の怒りを買った。婚約破棄である。


相手の有責による度重なる婚約破棄に周囲は同情したが、当の本人である王女は、とても焦っていた。







王宮の一室で、王女シンシアは護衛騎士を目の前に厳かに口を開いた。



「お前、結婚しなさい」



間髪を入れず、は?と不遜な返しをしたのは、もちろん彼女に長年忠誠を誓っている護衛騎士である。


「どういう意味ですか。シンシア王女殿下」

「言葉の通りです。エルヴァ」


豊かな金髪に湖のような薄い青の瞳を持つシンシアは本日も麗しく、女神のような神聖さがあった。彼女を見た者は思わずその美貌に見惚れ、感嘆を漏らし、ひとたび微笑みかけられでもすれば彼女の信者になってしまうのだ。


短い銀髪に緋色の瞳の端正な顔つきと鍛えられた体躯を持つ護衛騎士エルヴァは、その美貌に見慣れていたため、見惚れることなく「お言葉ですが、殿下」と口を開いた。


ただでさえ身長に差があるのに、執務机に向かって座っているシンシアと背筋を伸ばして立っているエルヴァではシンシアが彼を見上げる形になる。自分の護衛騎士に無表情に見下ろされながら、シンシアは首が痛いわ、と呑気に思った。


「あなたが婚活にかなり行き詰まっていることは、承知しております。俺だけでなく、この国の国民なら、ほぼ全員が」

「ほぼ、全員が……?」


今更だけどそんな王女がどこの国にいるの、とシンシアは眉を下げた。



麗しの王女殿下の5度にわたる婚約破棄は、そのたびに国中の注目を集めていた。5度の婚約破棄の他にも婚約前に破談となった例もあり、最初は姫様お可哀想に……と同情的だった周囲の目がだんだんと変わっていっているのを、シンシアはもちろん気づいていた。


容姿は女神の如く麗しく、勉学は常に学院で首位、政務をやらせれば細やかなところまで抜かりなく、性格も温厚で慈悲深い。

ましてや彼女は、王族特有の治癒魔法を膨大な魔力をもって自在に操る「癒し姫」として、自国だけでなく他国でも有名だった。

そんな王女が婚約者とことごとくうまくいかず、婚約破棄を繰り返す。裏があると思うのは当然だろう。最近ではシンシアの方に欠陥があるのではないか、と邪推する人間もいた。


「なので俺のことなど気にせずどうぞご自分の婚活をおすすめください」

「エルヴァ」


シンシアが椅子から立ち上がると、エルヴァとの目線が近くなる。それでも見上げる形にはなるが、眼前に来た美しい顔にやはりエルヴァは見慣れていた。ろくでもないことを言われる予感すらした。


「私の婚約がうまくいかないのは、お前のせいでもあるのですよ」

「はあ……」


見事な責任転嫁、さすが殿下です、とエルヴァは嫌味を口にした。俺のせいなわけがないだろう。




「……どうせ王太子殿下の差金でしょう」



静かな怒りのこもった口調で図星を突かれたシンシアは、しかし毅然とした態度を崩さず、黙秘を貫いた。




ヴォルディア王国第一王子、ファジル殿下。シンシアと同じく女神の如く美しい、聡明で、明朗で、国民人気の高い、大変優秀な王太子である。

シンシアの7歳上の彼は一年後に即位を控えていた。


ファジルは3人いる弟妹のなかで、とりわけシンシアを可愛がった。その神聖な容姿もその神秘の治癒魔法も、ファジルにとって利用価値があったからである。彼は色気のある美貌の裏に、飄々とした掴めない態度の裏に、欲しいもののためなら手段を選ばない冷酷さを隠していた。

シンシアは自分が利用されているのだということはとっくの昔に理解していたが、そんな兄が嫌いではなかった。兄の求めるものはいつだって、国と民のためだったからだ。




「昨日王太子殿下に執務室へ呼ばれていましたよね?またろくでもないことを言われたんでしょう。あの人があなたをわざわざ呼びつけるときは毎回そうだ」


あなたもそれをわかっているから俺を連れて行かなかったんでしょう、と鋭い眼光に睨まれて、シンシアは穏やかな笑みで追求を誤魔化す。



部屋の扉の前に行儀よく立っていたもう1人の護衛騎士は、顔を真っ青にして王女殿下と自分の上司の言い争いを見ていた。今月からシンシアの護衛に配属された新人である。

第一部隊隊長を務めるエルヴァの部下セオドアは、エルヴァの王太子に向ける敵意や不敬発言にまだ慣れていなかった。


「エルヴァ隊長は数年前の隣国との戦争で敵の軍を1人で壊滅させた」という噂はセオドアも知るところだ。彼はそれからすっかり英雄扱いだが、王女殿下への献身と崇拝もまた、この国では有名な話であった。

けれど訓練での厳格な姿しか見ていなかったセオドアは、無愛想な人だなあ怖いなあとは常々思っていたが、あの王太子にさえ喧嘩を売るなんて信じられない思いだった。


「セオドア、どうしました?顔色が悪いですよ」

「い、いえ!失礼致しました、王女殿下」


こんな新人の名前を覚えてくださって、しかも体調まで気にしてくれるシンシア殿下はお優しい、お優しいが、隊長の不敬発言をどうにかしてくれとセオドアは思った。胃が痛い。


「安心しろ。俺はシンシア殿下に忠誠を誓っているだけで、王太子殿下には一切、なにも、誓っていない。だから問題はない」


この人色んな意味で怖すぎるだろう、とセオドアはますます顔を真っ青にした。ギラついた瞳は故郷にいた狼を連想させる。



「エルヴァ、お前は兄様がほんとうに苦手ですね」

「好き嫌いの話なんてしてませんよ。俺は殿下を大事にしない人間がこの世に存在していることが許せないだけです」

「あら、かっこいいじゃないですか。兄様みたいに手に入れたいもののためなら手段を選ばない方は」

「……冗談であることを願います」



エルヴァの苦々しい表情を見ながら、兄様の命令もすべて冗談だったらよかったのに、とシンシアはため息をつきそうになった。

けれど冗談ではないのだから仕方がない。




「私のかわいいエルヴァ。お前が幸せになってくれない限り、私に幸せはありません」



シンシアは慈悲のこもった瞳を細め、女神の如く美しく、エルヴァに向かって微笑んだ。惚れ惚れする美貌。常人であればうっかり見惚れて思考が停止し、彼女の言葉に意志もなく頷く他ないだろう。

しかしエルヴァは至極冷静に、嫌な予感しかしなかった。我らが姫様は尊き方だけれど、たまにこうして、ろくでもないことを思いつく。


「確認ですが、エルヴァ。想いを寄せている女性や結婚を考えている女性はいますか?」

「……いませんよ。いると思いますか」

「そうですか!ではお前にふさわしい結婚相手を、私が見つけましょう!婚活ですよ、エルヴァ」


この人、婚約破棄しすぎておかしくなっちゃったんだな……とエルヴァは呆れ、そして心の中で元凶だろう王太子に舌打ちをした。










―――――遡ること1日前。


シンシアはファジルの執務室に呼び出されていた。



「失礼致します、ファジル兄様」

「よく来たね、かわいいシンシア……おや、エルヴァはどうした?」


ファジルが愉快そうに片眉をあげる。お前がどこへ行くにもピッタリと後ろに張り付いているわんちゃんは置いてきたのかい、と。

自分もついていくと駄々をこねるエルヴァを必死に宥め、これは命令ですよと最終的に脅しつけて彼を置いてきたシンシアは、それを悟られないように「本日は休暇です」と答えた。この2人を会わせると面倒くさいのよね、というのが本音だった。


ファジルは意外そうにして、それからゆったりと微笑む。魅惑の王太子殿下の、企みの笑みだ。



シンシアが向かいのソファーに腰を下ろし、用意された紅茶に口をつけたのを見て、早速本題に入るが、とファジルは口を開いた。



「シンシア。お前の度重なる婚約破棄を受けて、お前自身に欠陥があるのでは、などとくだらないことを囀る者がいるらしい」


やっぱりこの件なのね、とシンシアは顔には出さないが辟易とする。つい先日、5度目の婚約破棄が受理されたばかりだった。


「お前の宗教じみた求心力が落ちるのは王家としても問題だ。お前には我が国の希望、癒し姫であり続けていてもらわなければ」

「承知しております、兄様」

「それに、兄としてもかわいいお前への侮辱は見過ごせないからな」

「……」


我が兄ながら白々しい、と思う。けれど兄様はそれでこそだとも思う。




なのでもう潮時だろう、とファジルは静かな口調で告げた。



「そろそろお前の結婚相手を決めようと思う。今度は本物の、な」




潮時。王女の度重なる婚約破棄という茶番の、潮時である。それは王太子から王女へ課した役目であった。


ファジルはわざと問題のある相手をシンシアの婚約者として選び、密偵としてその相手の腹を探らせていたのだ。

つまりはそもそもが婚約破棄を前提とした婚約だった。


相手は王家への叛逆を目論んでいる疑いのある高位貴族であったり、仲が良いとは到底言えない隣国の王族であったり、次代の当主ではあるが素質に難ありとされている嫡男であったり、王家にとって邪魔で不都合な存在であったりーーーー目的は様々だったが全員がファジルにとって排除すべき敵であった。だからこそかわいい妹を囮として、餌として、相手に差し向ける方法を取った。

婚約破棄は毎回相手の有責として処理され、その程度の醜聞では信者の多いシンシアの支持は下がらない。さらに王家の宝と言える癒し姫を貰い受けることになった相手は決まって気を大きくし、悪事の証拠や企みの全貌や弱みなど、それらを掴むのは平時より随分容易かった。どこをとってもファジルにとって都合が良い。

この男の「手に入れたいもののためなら手段を選ばない」の極地である。




「国内の情勢も以前よりは安定してきているし、俺の即位も近いからな。今まで大義であった、シンシア」

「ありがたきお言葉です、兄様」

「そこで、お前の本物の婚約相手を真剣に考えてみたんだが……やはりあれしかいないだろう」


シンシアはそんなにちょうどいい相手がいたかしら、とひとつ瞬きをした。

しかし婚約が罠であれ本物であれ、兄が決めた相手と政略結婚するのは決まりきったことだったので、特に驚きもせず、現在の貴族の力関係を頭の中で巡らせていく。


「いつも通り、兄様が決めたことに従いますわ」

「そうか。それは安心した」


血の繋がった兄の一切の隙のない美しい微笑みを正面から見て、シンシアの背中に冷たい汗が流れた。頭の中で警鐘が鳴る。厄介な兄を持って生まれた妹の勘が悪い予感を知らせている。

今のは軽率だった、と内心で自分を責め、そして機嫌を良くした兄の口から次に出てきた言葉に、シンシアは唖然とした。




「お前の結婚相手はエルヴァだ」




―――――エルヴァ。幼い頃の自分が拾った、孤児の少年。しなやかな体躯で戦場を獣のように蹂躙する、あの男。心から信頼を寄せる己の騎士。




「……兄様?」



我ながら間抜けな声だ、とシンシアは思った。




「はは、シンシア。どうした?酷い顔だ」


兄はいまにも腹を抱えて笑い出す寸前のように破顔し、愚かな妹をうっとりと見つめた。性格が悪い、これはあまりにも。



「兄様」

「なにかな?」

「……私は生まれたときから国のため、民のため、陛下のため、兄様のためにこの身を捧げると決めています。政治の道具にも戦争の道具にも喜んでなりましょう。けれど、兄様の玩具になった覚えはありません」



ファジルは、自分の妹であるシンシアを道具のように扱ってきた。

あるときは他国との悲惨な負け戦に、あるときは壮絶な魔物討伐の森に、あるときは問題のある婚約者の元に。

膨大な魔力も治癒魔法も王女という立場もお前自身にも、特別な価値があるのだ、と、シンシアを唆し、教え込んだのは兄だった。

シンシアはそれでもよかった、それでよかったのだ。


けれど、今回は。自分を揶揄う目的以外に、兄が自分とエルヴァを結婚させる理由が見当たらない。

このなんでもお見通しの憎い兄様は、私の淡い初恋までも軽やかな足取りで踏み躙るんだわ、とシンシアは眩暈がした。



「ひどいな、かわいい妹よ。俺はお前の幸せを心から願っているのに。まあ、あの薄汚い野良犬にお前をやるのは俺も心苦しいが……」

「兄様!」


思わず声を荒げた自分に驚き、そして先程の後悔よりも遥かに大きく、明確に、しまった、とシンシアは思った。兄に付け入る隙を与えてしまった。




「シンシア。それだよ。お前はあれを気に入りすぎているね」




シンシアはエルヴァが、エルヴァのことが、ずっと好きだった。それこそ出会った頃からである。




「この前の婚約破棄だって、破棄前提とは言え直接の原因はあれだっただろう。聡明なお前にしては珍しく、1人の護衛騎士を侮辱されただけで怒りを見せるなんてあまりにわかりやすすぎるんじゃないか?」

「それは、」

「ああ、思えばあれを拾ってきたときもそうだった。奴隷の少年を拾って自分の護衛にするなんて皆が反対したのに……あそこまで頑固になったお前は俺ですら従わせられない」

「……」

「あれはお前の唯一の弱点だ」



シンシアは両親とこの兄にすべてを与えられ、すべてを言いつけ通りに享受してきた。そんな彼女の初めての我儘がエルヴァだった。



エルヴァは奴隷出身の可哀想な子供だった。暗殺組織に買われ、殺しを教え込まれ、人形のように感情のない空虚な子供だった。世の中を憎む活力すらない、何も信じていない子供だった。


シンシアが彼に出会ったのは、今から10年前。

派手な動きが目に余る暗殺組織のアジトへと、例の如く兄の命令を受けシンシアは摘発に赴いた。

そこにいたのがエルヴァだった。組織の上層部を皆殺しにし、死体の海に囲まれた、自分とさほど変わらない歳の、空洞な子供。


仄暗い赤い瞳にまっすぐ自分が映ったとき、シンシアは思った。世の中は自分が思うよりも醜悪だ、と。情けなかった。

神秘の治癒魔法だと皆は煽てるけれど、いくら傷が治せたって、心は治せない。シンシアはその尊い力を持って生まれたせいで、だれよりも命の灯火に敏感だった。世の中に見切りをつけ、もう殺してくれ、と望むその男の子が、なによりも悲しく、なによりも守るべきものに思えた。


エルヴァの傷を治し、王宮の医務室へと運び、組織を壊滅させた少年の処遇を自分に一任してほしいと父と兄に掛け合って、そしてシンシアはその少年の進みたい道を力の限り後押ししようと決めていた。思えばそれは、家族の言いなりだった彼女が、初めて王女として自覚を持ち、自ら国をより良くしたいと願った小さな第一歩だった。


そしてそんなシンシアにエルヴァは言った。あなたのそばにいたい、と。

シンシアは、そのときはじめて、王女としての自分ではなく、シンシアというただ1人の人間を望まれていると感じた。


シンシアはエルヴァを自分の護衛騎士にすることにした。周囲の説得には骨が折れたが、自分の望みを叶えるための狡猾さと頑固さは兄という身近なお手本がいたため、結局はシンシアの望む通りになった。


エルヴァは、シンシアが初めて自分の力で手に入れた宝物だったのだ。



いつも自分のそばにいて、あたたかな瞳で見つめられて、自分のことを命懸けで守ってくれる、そんなエルヴァを思う気持ちが恋へと変化するのはすぐだった。

けれど結ばれたいと思ったことは一度もなかった。




「弱点を作るなとは言わない。しかしそれを外側に置くのは許さない。お前のために言っているのはわかるね?」


つまりは弱みとなるものは徹底的に囲え、という命令だった。結婚して身内にしろ、と。なんて色気のない恋の終局なんだろうか。


ファジルには別の狙いもあった。王女殿下の度重なる婚約破棄の裏側には英雄と謳われる護衛騎士とのロマンスがあった、なんてことになれば民も納得し、その美しい物語に傾倒するだろう、と。何にも間違っていないのだから美談として広めてもまったくもって問題がない、と彼はその美談をいっそ劇にでもしてしまおうかという計算までしていた。

シンシアが民にとって偶像であればあるほど、ファジルにとっては都合が良かった。




「……エルヴァと結婚は致しません」



硬い表情で、しかし透き通る滑舌のいい声で妹がそう口にするのをファジルはおかしそうに目を細めて見た。相手があれだというのは癪だが、たった1人の男のために服従が染み付いた兄相手に反抗し思考を巡らす妹を可愛らしいと思う。

愛した男との結婚を命じられ、絶望したように顔を強張らせるお前のいじらしさといったら。



「どうしてかな?」

「エルヴァには結婚を考えている女性がいます」

「ええ?」



そして、シンシアって本当におもしろい生き物だ、とファジルは思うのだ。




「そんな話、俺は聞かされていないけど」

「一護衛騎士の恋愛事情なんて兄様の耳に入れることでもないでしょう」

「……一応聞くが、お前ではなく?」

「まさか!エルヴァの結婚相手として、私は最低最悪、最下位です」

「うーん、そうかな?俺のかわいい妹が?」


ファジルは妹の主張に一応は付き合いながら、十中八九でまかせだろうと思った。

姫様のためなら死んで見せますそのときはお前を道連れにしてな、というような憎しみのこもった目を逐一向けてくるあの妹の犬が、妹以外を愛し、妹の命令以外で結婚するなど、到底考えられなかった。



「エルヴァとその女性の仲を切り裂いて私と結婚しろと命じるなど、私にはできません。兄様」



どうしてそうなったのか、ずれた方向に今にも進もうとしている妹を、ファジルは正そうとはしなかった。おもしろいからだ。

エルヴァのことなど好きではない、と言えばこの話は終わるのに、そんな嘘さえもつけないシンシアに今にも笑い出しそうになりながら、必死に表情を引き締め威厳を保つ。


「ふうん。そう。わかったよ。あれはお前以外と結婚するんだね?」

「はい」

「じゃあそのエルヴァの愛する女性とやらを1ヶ月以内に兄様の前に連れてきなさい。それができたらお前の結婚相手は考え直そう」

「はい。望むところです」

「……シンシア、お前は酷い主だね」



それは兄様では?と驚愕に目を見開く妹を見て、ファジルはさすがにエルヴァに同情してしまったのだった。







―――――という経緯があり、シンシアはとても焦っていた。


エルヴァに結婚を考えている相手がいるなど聞いたことがなかったし、というかそんなことを考えたことすらなかった。エルヴァという男はシンシアを中心に生活が回っていて、女性の影すら感じたことがない。兄の察する通り、口からでまかせ、嘘八百であった。


しかしエルヴァの結婚相手を一刻も早く見つけなければ、エルヴァは自分と結婚させられてしまうのだ。

シンシアはどうしてもそれが許せなかった。


誰よりも彼の幸せを願っているのに、自分と結婚なんてしてしまえば彼は幸せになれないだろう、という確信があったのだ。





シンシアにとっては幸いなことに、エルヴァにとっては不幸なことに、エルヴァの相手探しは引く手数多だった。

彼は育ちこそ悪かったが、数年前の隣国との戦争で武功を挙げた英雄、として国では有名人である。いまでは戦の褒賞で爵位も授かり、騎士団第一部隊の隊長も務め、あの癒し姫には護衛として長年信頼され、しかも見目も良い、となれば、結婚相手としては十分な優良物件であった。



王女自らリストアップした結婚相手の候補書類を見せられながら、エルヴァは今にも頭を抱えそうだった。多忙なくせにこんなものを作る時間があるならゆっくりと寝て身体を休めてほしい、と切に思う。


「俺なんかと結婚したいなんて物好きな令嬢がよくもこんなにいましたね」

「何を言ってるのです、エルヴァ。お前はこの国を救った英雄でしょう」

「あのね、シンシア殿下。あのときはあなたがすでに魔力もほとんど使い果たして死にかけてるのに、戦場へ突っ込んでいくから、俺がさっさと終わらせるしかなかっただけで……」

「あのときのエルヴァはかっこよかったですよ。いつも守ってくれて感謝しています」

「……あー、はい、そうですか、ありがとうございます。身に余る光栄です」


この姫様はほんとに、と顔を顰めながら、厚意を無碍にもできずリストをぺらぺらと捲っていく。


エルヴァは今までも自分に縁談が舞い込んでいることは知っていたが、エルヴァの意思を尊重しますとシンシアは言い、無理強いすることはなかった。それが急にこれだ。なんなんだ一体、とエルヴァは怒りを通り越して困惑し始めていた。




それから、婚活という、エルヴァにとっての地獄が始まった。


シンシアに仕えるために騎士になったのに、シンシアのそばを離れてシンシアがリストアップした貴族の令嬢や金持ち商会の娘と見合いをする日々。地獄と言わずしてなんと言うのだ。


つまらない話に耳を傾け、適当な相槌を打ち、顔も名前も覚えられない令嬢たちに曖昧に微笑んで見せる。一応はシンシアの名のもとに見合いが開かれているせいで、普段の無愛想な態度で素っ気なくすることもできない。

ストレスが常に最大値まで溜まっていた。



「エルヴァ隊長、ここ数日殺気がやばくないか……?」

「王女殿下に見合いを勧められたらしいからな……」

「見合い!?隊長が!?殿下に!?」

「可哀想なエルヴァ隊長……っ」

「シッ!隊長に聞こえたらどうするんだ!」


隊員にもコソコソ噂される始末だ。心底嫌気がさしていた。





政務で多忙なシンシアにしては珍しく、昼間から王宮の庭園でお茶をすると言い出したのは、それから半月以上が過ぎた頃だった。


護衛としてエルヴァが後ろに控えていると「久しぶりに2人きりで話したいからお前も座りなさい」とシンシアが言う。実際には離れたところに他の護衛やメイドが控えていたが、エルヴァは仰せのままにと大人しく従った。遠慮をしても命令ですよとどうせ押し切られるのだから無駄な問答である。



「エルヴァ、先日のお見合いはどうでしたか?」


しかし問われたのはやはり見合いのことだったため、エルヴァはわかりやすく顔を歪めた。


「……」

「先方は随分と乗り気でしたよ」

「あなたの面目もありますから俺も一応は礼儀を尽くしますが」

「が?」

「今回もお断りしてください」

「あら、そうですか……」


頑ななエルヴァにシンシアは眉を下げて困った顔をした。


先日のエルヴァのお見合い相手は伯爵家の三女で、育ちも良く見た目も良く非の打ち所がない理想的な令嬢だったはずだ。先方もなかなかにエルヴァのことを気に入っていたため、今回こそはとシンシアは手応えを感じていたのだが。


「今回は何が気に入りませんでしたか?」

「……相手のどこが気に入らないなどと俺が言える立場ではないでしょう」

「エルヴァ、いつも言っていますが、お前が自分を卑下するのを私は悲しく思います」


シンシアはエルヴァが自虐めいたことを言うと必ず彼を叱った。お前が自分を低く見積もると私が傷つくのだと、長い年月をかけて教えた。それがたしかな愛情だというのをエルヴァはよく知っていて、知っているからこそ、たまに叱られたくなってしまう。



しかしそんなことを聞かれても、気に入らないところなどないが、気に入るところもひとつもない、というのが本音だった。だって何もかも違うのだ。一緒のものなどこの世にあるわけがない。

エルヴァはひとつを除いてすべてがどうでもよく、均等に無感情だったので、結婚相手を決めろと言われても誰でもいいし、誰でもよくなかった。



エルヴァは黙り込んで、じっと目の前の王女を見つめた。シンシアの青い瞳が自分のことをうつしている。

その凪いた瞳に映し出されると、エルヴァはいつもすこしだけ自分にも価値があるのだと思うことができた。




「……瞳が、」

「瞳が?」

「……瞳が、湖のように青く澄んでいる女性が、好みです」



シンシアはぽかん、とした。エルヴァにそんなこだわりがあるとは知らなかった。はあ、そうですか、と驚きながらぼんやりとした返事をする。


そういえば伯爵家の三女は新緑のような瞳を持つ令嬢だった。青色ではない。今まで何人かの令嬢とのお見合いを用意したが、思えば青い瞳の令嬢はいなかった気がする。

相手がどんなに素晴らしい令嬢だと噂でもエルヴァはすべて素気無く断るから、一体なにが問題なんだろうと思っていたけれど、そうなのね、瞳の色なのね、とシンシアは納得のいく気持ちだった。


当のエルヴァはその様子を見つめながら、まったく伝わっていないことに遠い目をしていた。けれど伝わらなくてよかったと安堵もした。


「……シンシア殿下」

「なんでしょう、エルヴァ」


エルヴァは思わず口にしてしまったことを後悔して、こんな茶番はもう続けないほうがいいと確信した。このままでは今以上のろくでもないことを言いかねない、と不安になったのだ。



「お見合いなんていくら続けても、俺に愛する女性などできません。あなたの心遣いには感謝しますが、結婚相手を自分で選ぶつもりもありません」

「……エルヴァ」


シンシアはその青い瞳を揺らした。幸せになってほしい、その願いが本物である分、エルヴァの諦めたような言葉が妙に悲しかった。



「俺はね、殿下、あなたの命令ならなんだって従いますよ。あなたが望むなら、玉座だって手に入れてみせましょう」

「……私はそんなもの望んでいませんよ、エルヴァ」


シンシアは背筋をすっと伸ばし、まっすぐに答えた。

ヴォルディア王国では王女にも王位継承権があるが、あの兄を差し置いてシンシアが玉座を望んだことなど、一度もなかった。どれほど癒し姫として民の信仰を集めても、シンシアにとっての次代の王は、あの兄なのだ。


あなたはそうだろうな、とシンシアをずっとそばで見てきたエルヴァは自嘲を浮かべる。



「……俺が誰かと結婚することで本当にあなたに益があるのなら、喜んで従います。王太子殿下ではなくあなたの意思ならなんだって」

「……エルヴァ?」

「だからこんな方法じゃなく、きちんと命令してください。俺が邪魔になったのならそう言えばいい。俺の結婚相手なんてあなたが決めればいい。俺はあなたのものなんだから」

「……」



残酷だ、と思った。みんな残酷なことばかり言う。


シンシアは己の恋心の始末をつけられないほどに、その分野に関して未熟だった。だってエルヴァと結ばれる可能性など考えたことすらなかったのだ。

自分の中に芽生えた淡い恋心と、王女としての結婚は、全く乖離した、別の話だった。


エルヴァが好き、大事、幸せになってほしいーーーー私ではない誰かと。

幼く、低い解像度で、シンシアはずっとそう願ってきた。


なのに突然エルヴァとの結婚を命じられ、シンシアはそれはもう、信じられないくらい動揺していた。今まで偽物の婚約者しかいなかったせいで、結婚へ感じる現実味が極端に薄かったのだ。

互いの利益になる政略結婚ならまだしも、エルヴァとの結婚は何の利益など生まない、兄から妹へのただの大きなお世話と言えた。そんなのってないわ、とシンシアはやはり思う。


けれど、だからといって、エルヴァの意思を無視して結婚相手を勝手に探して、自分は一体何をしているんだろう。エルヴァにこんなことまで言わせた。自分が間違っていることには薄々気づいていたのだ。



「俺の意思を聞かずに結婚しろなんてあなたらしくないことを言うくらいだから、何か事情があるんでしょう」



労わるようなエルヴァの口調に、シンシアは自分のことが、とても愚かでみっともなく思えてきた。



エルヴァのことを邪魔に思ったことなど一度だってない、結婚相手なんて決めたくない、だって本当は、




「私は、エルヴァと、ずっと一緒にいたくて……」




思わず溢れた自分の本音に、そうだったんだ、と自分で驚く。



王女としての自分なら、エルヴァの前で恥じることのない姿でずっといられるだろう。けれど、エルヴァのことを愛したただのシンシアを、エルヴァはどう思うだろうか。呆れられるだろうか。



「……はい?」


エルヴァは、何が起こっているのかわからず、迷子の子どものような表情のシンシアを信じられない気持ちで見つめた。この姫様は、どんな戦場でもそんな表情を見せなかったのに。



「エルヴァに幸せになってほしいんです、それが私の望みです。でも私にはお前を幸せにはできないでしょう」

「待ってください話が見えない」

「私だって……私だって、エルヴァと結婚したいですよ!」

「はっ?なん、ちょっと、結婚?俺?……シンシア様、あなた結婚するんでしょう、兄殿下に決められた相手と、今度こそ本当の婚約を……だから兄殿下は俺の存在が邪魔で」



シンシアが兄から自分との結婚を命じられていることを知らないエルヴァは、どうせ自分の存在を邪魔に思っている王太子の企みだろうと予想していた。

シンシアの度重なる婚約破棄の裏事情は言われずとも察していたし、王太子から疎まれている自覚もあった。自分の気持ちもきっと知られているのだろう。この気持ちがこの王女の今後に邪魔になると判断され、だから俺に結婚相手をあてがい遠くにやることにしたのだ、と。そして例の如く、そんな兄の命令にシンシアは従っているのだろう、と。

シンシアは幼い頃から兄の言いなりではあったが、自分が正しいと思えないことには絶対に従わない矜持があった。だからこれはシンシアも納得していることで、それはエルヴァにとってはシンシアに捨てられたも同然だったが、けれど姫様が心からそう望むのなら仕方のないことだと思えた。だから本当の心を知りたかった。



「そうじゃなくて、だから、つまり、その相手がエルヴァなんです……!」

「……は!?」

「兄様は、私とお前を結婚させる気で、」

「あり得ないだろ!あの王太子が俺なんかにあなたを渡すわけがないでしょ」

「〜〜っそれは、私がエルヴァをずっと好きだから、」

「……すみませんあり得なすぎて一周回って冷静になりました。いや、でもそんなことを言う意味がわかりません、なんの冗談、」



残酷だ、とシンシアはまたしても思った。


言わないと決めていたことを勢いで白状してしまった自分にも、まったく信じてくれないエルヴァにも、そしてあの兄にも、嫌気がさした。



思わず立ち上がったシンシアを珍しく気の抜けた顔で見つめるエルヴァを見て、彼女はなにがなんだかわからなくなってきた。虚しかった。視界がぼやけて、シンシアの涙にギョッと目を見開くエルヴァの顔は見えなかった。



「お前が私の気持ちに応えられないのはわかりました!けれど、さすがに、冗談にするのは酷いでしょう!」

「は!?なんでそうなる!?」


エルヴァも同じく立ち上がり、独自の思考回路で話が飛びまくるシンシアの薄い肩を思わず掴んで、そして我に返り、バッと手を離した。いつになく動揺していた。この尊くて美しい姫様に、自分なんかが許可なく触れるなんてあり得ない。


エルヴァはいまだに何が起こっているのかまったく理解ができなかった。ただ心臓がバクバクとうるさくて、シンシアに泣き止んでほしくて、いつものようにかわいく微笑んでほしかった。



「あなたってほんと、たまにわけがわからないな……」



シンシアは頭上から降ってくる絞り出すような声を聞いて、背の高いエルヴァを見上げた。

紅い瞳がシンシアを映していた。こんなときまでその視線はあたたかく、やわらかい。出会った頃の空っぽな瞳とは違う。


どんなときにでもそばにいた、私のかわいいエルヴァ。エルヴァの瞳を見ると、いつも勇気が湧いてきた。絶対に守ってくれると知っていたから、どこへ行くにもなにをするにも、なんにも怖くはなかった。


シンシアが何も恐れず自分を信じてただ邁進できたのは、エルヴァのおかげだった。



そんな彼の前で、怯えて立ち止まっているなど自分らしくない。不安で足が竦むなど許されない。

シンシアはやっと覚悟を決めた。



いつもは凪いたように静かな瞳が、甘くゆらめいて、シンシアが必死に心を吐露しようとしているのが、エルヴァにはわかった。





「エルヴァ、お前が好きですよ。なによりもエルヴァのことを愛しています」




開き直って口にすれば、なんだか胸がじわりとあたたかかった。




「……は、」



エルヴァは、やっと事態を理解して、そして何も言うことができずに、ただ顔を赤く染めた。顔も耳も首もどこもかしこも燃えるように熱くて仕方がない。息が苦しくて、心臓の音がありえないほどにうるさい。


信じられない。けれどエルヴァはシンシアのまっすぐな言葉を疑えない。疑えるわけがない。それがどんなに自分に都合が良すぎても。

エルヴァは嬉しすぎて、大好きな青い瞳が目の前でうっとりと細まるのを直視できなかった。情けなかった。頭が真っ白で、言葉が出なかった。



でもね、エルヴァ、と、そっと両手を握られて、エルヴァはもう逃げ出したくなった。

お姫様の美しい手が俺に触れている。白くて、やわらかくて、あたたかくて、ちいさい。頭がどうにかなりそうだった。



「私はきっとそのときが来たら、戦場で愛するお前に言うでしょう。腕がもげても足がもげても、それでも戦え、と。死ぬ一歩手前までお前を戦わせるでしょう。そんな命令をする女が、どうしてお前を幸せにできるのです」

「……シンシア様」


シンシア様、それは彼らが幼かった頃の呼び方だ。出会った頃のエルヴァは王族に対する礼儀もなにも知らない子どもで、正式に護衛騎士となるまでは殿下なんて呼ばなかったし、簡単な敬語しか使えなかった。

シンシアは懐かしい思いで微笑んだ。



「シンシア様、あなたは……人々を救う力を持って生まれて、その責任から逃げずに、その務めをただまっとうしているだけだ。あなたは共に戦ってくれる、誰よりも戦っている。自分を責める必要なんかない」

「ええ、そうですね、エルヴァ。けれどやはり私は傲慢です」



自分には人々を救う力があるかもしれないが、傷を綺麗さっぱり治せたところで、痛みや苦しみの記憶は消せないのだと、心は治せないのだと、シンシアはよく知っていた。それこそエルヴァに出会ったあの日から。


シンシアは戦場の真ん中で、怪我人に治癒魔法をかけ続け、そしてまた戦えと命じ続けた。何度も治して、何度も命じた。傷つけば治して、そしてまた戦わせて――――幾度となくそれを繰り返した。シンシアは誰よりも命の灯火に敏感だった。誰よりも惨く酷い行いを自分がしていることを理解していた、それでもそうすることが自分にできる精一杯の正しいことだった。

自分は万能ではない、ましてや女神なんかでもない。自分は悪魔なのではないかと思う。きっと幸せなんて手にしてはいけない。


エルヴァは自分のそばに居続ける限りずっと危険な目に遭うだろう。けれど王女として、多くの人を守るためには大事なひとりを守ることはできない。大事なのに、大事だからこそ、エルヴァには一番に無茶な命令をするだろう。自分が命じればエルヴァはどんなことでも絶対に従うだろう。


シンシアは怖かった。エルヴァを失うことが、それを自覚してしまうことが。

だってきっと、エルヴァを失えば、自分の足は竦んで、どこにもいけなくなってしまう。


あの兄の命令に反抗したのは、エルヴァとだけは結婚したくなかったのは、なんとも情けない理由からだった。

自分のような人間が人並みの幸せを手に入れること、大事な人間を作ること、守れないとわかっているのに気持ちに応えてもらうこと、それらに強い罪悪感があった。贅沢だと思った。





「それでも、俺はあなたに救われましたよ、シンシア様」



自分はこの男に、自由を、喜びを、幸せを、生きる意味を、世の中の素晴らしさを、教えることができただろうか。傲慢なシンシアは願った。


けれどその存在に救われてきたのは、どう考えても自分だった。




「俺もあなたを愛しています。出会ったあの日から、俺はシンシア様のものです。あなたのそばにいられることが、俺の幸せのすべてです」




エルヴァはシンシアの前で、片膝をついて跪いた。





「俺にあなたと添い遂げる名誉をください。シンシア王女殿下」




シンシアは、跪くエルヴァの前にしゃがみ込み、目線を合わせた。綺麗なドレスの裾が汚れることなど気にしなかった。

エルヴァの大きくて傷だらけの手を取って、優雅な仕草で手の甲に口付ける。燃えるような赤い瞳が喜びに染まったのを見て、シンシアは大変満足した。



王女ではなく、ただのシンシアとして、いつもの穏やかな笑みではなく幸せいっぱいの大きな笑顔で、愛する騎士に笑って見せた。




「ねえエルヴァ、顔が真っ赤よ」

「……ほっといてください」









ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー





噎せ返るような血の匂いが充満する、死体が積み重なった掃き溜めで、俺はシンシア様と出会った。


俺は見窄らしい奴隷のガキだった。ろくでもない親に捨てられ、奴隷として買われ、暗殺組織で殺しを教え込まれ、そして組織を裏切った。

組織を壊滅させたことに理由などない。その頃の、というかシンシア様に出会う以前の記憶は曖昧だが、自分を取り巻くすべてが気持ち悪くて、気持ちが悪いから、ただ壊してやろうと思ったのだ。

けれど組織の上層部の人間を皆殺しにしても気分は晴れず、何も感じず、いっそ俺が死ねばよかったと思った。



そこに現れたのがシンシア様だった。



元々彼女の兄である王太子が組織に目をつけており、シンシア様はその始末を任されてアジトに赴いたらしい。ふざけた話だ。


俺よりも幼くか弱いシンシア様は、その惨状に一切怯んでいなかった。

治癒魔法の天才だった彼女は当時から戦場に幾度となく駆り出されていたため、そんな状況に慣れてしまっていたのだろう。やはりふざけた話である。



「……これはあなたが?」


死体の海に埋もれる俺をシンシア様はその目に映し、そして透き通った声でそう尋ねた。俺はもう死にかけで、彼女の問いに答えられる余力も近づく彼女を払いのける余力もなかった。

数十人を相手にしてさすがに負傷の酷かった俺はとうとう力尽きてシンシア様のほうへと倒れ込んだ。護衛の怒声や騒ぎが煩わしかったが、ぴたりと静寂が訪れたことで彼女が周囲を静止したことがわかった。


殺してくれ、と言った。死んでしまいたかった。

俺の人生には価値がない。生きる意味などない。何も感じない。世の中は酷く退屈で、気持ちが悪く、醜悪である。俺は知っていたのだ。



シンシア様は血で汚れた俺を抱きしめて、何も言わず、その尊い魔術を発動した。王族の中でも限られた者だけが扱える、神秘の治癒魔法だ。

複雑な魔法陣にシンシア様の魔力が巡り、身体があたたかな光の粒に包まれ、瞬く間に痛みや吐き気などが引き、血が消え、傷が塞がり、視界も晴れ、動かなくなっていた腕が動くようになった。奇跡が起こったのかと思った。



驚きに目を見張り、そして見たのは、女神様だった。



光を集めたような豊かな金髪に湖のように青く澄んだ瞳。慈悲深い微笑みが俺を覗き込んでいる。

嘲りも憐みもない、まっすぐな瞳だった。こんなに綺麗なものがこの世にあったのかと驚くほどに。俺はその目に見つめられて、はじめて自分の輪郭を知ったのだった。



俺は女神様に傷を治してもらっておきながら、やっと死ねるのだと安心した。迎えがきたのだと思ったからだ。

けれど俺なんて地獄行きに決まっているので、あんなに美しいひとが俺を迎えに来るわけがなかった。




その美しい少女は、女神様ではなく、王女様だった。誇り高き王家の、尊い姫様。雲の上の存在だった。





「あなたは一度死んで、生まれ変わったのですよ」



目が覚めると王宮の医務室に寝かされていた。見舞いに来たお姫様がそう言った。


「生まれ変わって、あなたは自由になった。行きたいところに行って、したいことをしていいの。私は力の限りその手助けをします」


行きたいところなど、したいことなど、何も思いつかない。けれどあなたのそばにいたい。俺なんかにこんなに優しく微笑む、このお姫様のそばに。

生まれて初めての気持ちだった。本当に生まれ変わったのだと思った。


もはや本能といえる必死さでそう訴えた俺に、シンシア様は眉を下げて困った顔をして、最終的に頷いた。



「それなら、今日からあなたは私のものですね。エルヴァ」



言葉もなかった。



俺の人生はこの人のものだ。全部全部この人にくれてやるのだ。

心の空洞が埋まり、生まれて初めて涙が出た。









こうして俺がシンシア様に拾われた頃に、シンシア様の1度目の婚約破棄は起こった。

侯爵家の嫡男だった婚約者は、完璧な王女様だったシンシア様に強い劣等感を抱いており、行き過ぎたそれがついに問題となった――――それが表向きの理由とされている。

当時の俺は名誉を自ら手放した男を哀れみ、憤り、シンシア様が誰かのものになるのが先延ばしになったことに身の程知らずにも安堵した。


2度、3度の婚約破棄が重なると、その全貌はある程度予想ができた。あの王太子の考えそうなことだった。


シンシア様との婚約が破棄になった途端、反王家の貴族家が没落したり当主の悪事が発覚したり間抜けな長男が廃嫡されたり隣国の一部が自国の支配地となったり、あまりに毎回王家に利益がありすぎるだろう。

王太子が持ってくるシンシア様の縁談はそもそもが破棄前提、問題のある相手ばかりが選ばれ、つまりシンシア様は囮で、餌だった。

気付いている者も中にはいただろう。美しく聡明な姫様の度重なる婚約破棄、その裏側。しかしシンシア様の婿になることはやはり誰にとっても名誉だった。裏があると薄々勘づいていても、彼女を前にすれば断る者などいなかった。それこそ王太子の思うツボだ。



シンシア様はいつだって王太子に逆らわない。戦場に、魔物の森に、問題のある婚約者のもとに、どんな命令にも文句を言わず従って、勢いよく危険に飛び込んでいく。見ていられなかった。

ほかの弟妹は社交だ楽器だ刺繍だ装飾品だとのんきに日々を過ごしているのに、同じ王族なのに、どうしてシンシア様ばかりが傷つくのだろうと思った。


けれどそれがシンシア様の行きたいところで、したいことで、矜持だった。

気高く誇り高く、美しい、この国の姫様は、国と民のためならば喜んでその身を削った。彼女はあまりに多くのものを細い腕に大事に抱えて、残酷なことに、自分のことは一切勘定に入れないのだった。




あの王太子にとって最も利用価値があったのは、その尊い魔術だった。


無尽蔵な魔力をもって広範囲の治癒魔法を使う「癒し姫」。魔力を持たない俺はわからないが、魔力量はもちろん、その治癒の範囲も速度も異次元らしい。


その癒し姫を、王太子は何度も何度も戦場に送り込んだ。どんな悲惨な負け戦にも、いや、負け戦にこそ、だ。

癒し姫を送り込むことこそが王太子からの宣明だった。王女を送り込んだ時点でこの戦いで我が国は負ける気などない、王女の存在自体がその証明である、と。それだけで軍の士気は脅威的に上がり、実際にシンシア様がいれば負けることは少なかった。

死にさえしなければどんな怪我でも治癒できる、つまりは不死身の部隊だ、と他国は我が国を、そしてシンシア様を恐れた。


本来なら王女が戦場の真ん中にいるなんてあり得ないが、負傷者をわざわざ運ぶ時間がもったいないとシンシア様はその場で片っ端から負傷した騎士たちに治癒魔法をかけていった。

そんな姫様の前で、俺たちが無様な姿など見せられるわけがなかった。


シンシア様は治癒魔法の他に防御魔法も得意だったが、それにしてはよく怪我をした。不死身の部隊の源である彼女は当然真っ先に狙われたし、それを逆手にとって自らをよく囮に使った。どうせ治せるからと怪我に頓着せず、魔力を使い果たしては死にかけて、けれど死にさえしなければなんでもいいと思っているところがあった。

あなたはそんな立場じゃないでしょう、と俺が何度咎めても、シンシア様はきょとんとして言うのだ。「これが私の立場ですよ、エルヴァ」と。つまり最悪だった。ふざけた話だ。



「いい加減にしてください。わざわざあなたが危険な場所へ行く必要なんてないでしょう」

「ええ。でも行きます」

「シンシア殿下!」

「エルヴァ」

「ッ、」


俺はシンシア様の、決意のこもった透き通る声に弱かった。シンシア様は基本的に俺の人権と意思を尊重したが、その声で名前を呼ばれるだけで俺はどうしても逆らえなかった。

いつもは穏やかに笑みをたたえている王女殿下が、実は頑固で絶対に意思を曲げないこともよく知っていることだった。彼女のなかで決定事項になってしまったら、俺が何を言っても無駄なのだ。


「お前がいるのにどんな危険があると言うのです」

「……あのね、殿下、」

「これは命令ですよ。エルヴァ」

「……はあ、承知いたしました。我らが王女殿下」


だから俺が折れるしかない。わざとらしく恭しい仕草で頭を下げると、シンシア様はいつもにこりと機嫌良く微笑んだ。



儚い容姿に反して、シンシア様は覚悟が決まりきっていて、度胸が度を過ぎていて、滅茶苦茶だったのだ。




なので、どれだけ武勲を上げようと英雄と讃えられようと、まったく嬉しくはなかった。俺は国を守りたいわけじゃなかった。命をかけるに値する唯一の存在が、この国のお姫様だっただけだ。

シンシア様が必死の思いで日々を過ごして、寝る間も惜しんで国中を駆け回って、危険に飛び込んで、怪我をして、死にかけて、そうしなければ手に入れられない平和などいらなかった。


けれど我らが王女殿下は立ち止まらない人だった。

輝く太陽で、晴れ渡る青空で、広大な海で、皆が祈る流れ星だ。眩しくて美しい人だ。



俺はひたすら強くならなればいけなかった。シンシア様が大事に守ろうとしている国にも民にも俺はちっとも興味がなかったが、シンシア様が傷つかないために、シンシア様の綺麗な手が汚れないように、俺はすべてを捧げようと決めた。

いつも人に与えてばかりの姫様のそばで、俺だけはいつも味方でいたかった。












「それで?シンシア。今日で1ヶ月、つまり期限の日なわけだが……」



王太子の執務室で、シンシア様と王太子が向かい合って座っている。俺はシンシア様の後ろに大人しく控えていた。

ここに来る前に「大人しくしていなさい、兄様と喧嘩をしてはいけませんよ」と厳しく言い付けられたので、命令通りに口を閉ざして事の成り行きを見守る。



「俺の目にはお前とエルヴァしか見えないが、エルヴァの愛する女性とやらはどこにいるのかな?」


にこりと胡散臭い笑みを浮かべる王太子に、相変わらずむかつく男だなと嫌気がさす。

シンシア様から事の全貌を聞いた限り、すべてわかっていてシンシア様の好きにさせたのだろう。この男はいつも愉快愉快!とふざけた態度で物事を厄介にするところがある。



「はい、ここにいますわ」



そんな兄に長年振り回されてきたシンシア様は毅然とした態度で居直った。堂々たる開き直りに惚れ惚れする。



「エルヴァと結婚は致しません、と言い切ったのはお前だったはずだが?」

「エルヴァが愛する女性は私だったわけですから、なにも間違ったことは言っていませんよ。兄様」


そうでしょうエルヴァ、と振り返られて、俺はシンシア様を見習って開き直り、頷いてみせた。




そんな俺たちの様子を見た王太子は、もう辛抱たまらないといった様子で腹を抱えて笑い始めた。この男。その容姿だけはシンシア様と似ているはずなのに、性格が違うとどうしてこうも憎たらしいんだろう。


「いやあ、かわいいね、お前たち。最高だ!さすが俺のシンシア!」


笑いすぎて涙を浮かべ、腹を抱え、ふるふると震える王太子に威厳などない。シンシア様はそんな兄を「始まったわ……」と呆れた表情で見ている。

というかシンシア様はこの男のものではない。


「お前はこの俺の妹なのだから、欲しいものはなにがなんでも手に入れる人間でなければな!愛する人間を諦めるなどなんて馬鹿らしい」

「……私は結局、いつも兄様の手のひらの上ですね」

「これからも俺のために尽くしてくれるんだろう、シンシア」


この男はずっとシンシア様を道具のように使ってきた。シンシア様がそれでいいと言うなら、俺に言えることなどなかった。


挑発するように俺を見る王太子を見つめ返す。俺にはひとつだけ言えることがある。




「これからも、王太子殿下のために尽くすシンシア様を、俺が命をかけてお守りします」




王太子はまた声を上げて笑い、そして祝福の言葉を穏やかな声で紡いだ。







―――――その後、俺たちに何の許可なく大脚色された王女と騎士のロマンス劇が国内で大流行したことで、のちに語り継がれる兄妹喧嘩が繰り広げられたのだった。





王女 シンシア(18)

治癒魔法を使える「癒し姫」

儚い容姿に反して度胸があり小さなことは気にしない


騎士 エルヴァ(21)

歴代最年少の騎士団第一部隊隊長

姫様のためならなんでもする 他に興味がない


王太子 ファジル(25)

妹のことは愛しているし幸せを願っているがそれはそれとして使えるものはなんでも使う


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― 新着の感想 ―
ものすごく面白かったです! 文体もお話そのものも、エルヴァのキャラクターもシンシア姫様の凛々しさも全てが好みです。 ほんとにとても素敵。中編とかでも読みたいお話でした。手厳しい王太子殿下をそれでも敬愛…
騎士×姫の身分差モノが大好きなんですが、このお話がどストライクすきて何度も何度も読んでいます!! 短編なのが惜しいです!ぜひ続編か番外編をお願いします!!!
作風が好きってもうお伝えしましたっけ? キャラクターの性格の曲がり具合が最高です! 全員好き。絶妙に中央値から外れてるこのアカン奴感がたまりません。 非常にベーシックなテンプレキャラを王道に配置して、…
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