出征
横田庄吉、21歳、東京帝国大学文学部在学中。
だったはずが、なぜかオンボロ輸送船に乗っている。
1943年10月、それまであった大学生への徴兵猶予が廃止され、文系大学生は陸海軍に入隊することになった。
『秋雨が降る神宮外苑競技場。軍靴の音を響かせ行進する男子学生と、それを拍手で見送る女子学生たち、、、』
いわいる、学徒出陣と言うやつだね。
その頃の俺は、取り敢えず何でも器用に要領よくこなすけれど、飽きっぽく、何も熱中出来るものは無い、世の中を斜に構えて見ているようなところがあって、ちょっと捻くれた面倒くさい性格だった。
将来についての具体的な夢も無く、大学を卒業したら安定した会社に入って、唯一の肉親である母親を養いながら、平凡に生きていくんだろうなと漠然と考えていただけだった。
俺は幼い頃に父親を亡くし、その後は幼子を抱えた母親が独りで俺を育ててくれた。
若い頃の無理が祟ったのだろう。ここ数年、母は体調を崩して、寝たり起きたりの生活を繰り返している。そんな母親を引き取って、これまでの恩返しを少しでもしたいと思っていたが、一方で、刺激の無いこれから先の人生に閉塞感を感じていたのも事実だ。
しかし、戦争に駆り出されることになろうとは。
同級生たちの反応は、軍人として出征することに高揚を覚えている者や、悲愴感に苛まれる者など様々だったが、俺は病弱な母親をひとり残して行くことに罪悪感を覚えていた。
伝え聞く戦況によれば、日本軍の敗勢は明らかだった。南方戦線に送られれば、生きて日本に帰ってくることは無いだろう。
俺の人生は詰んでいた。心残りは母親のことだ。
もちろん、戦争になんか行きたくない。
でも、そういう世の中なんだよ。
俺は陸軍に入隊し、三か月の新兵教育を経て、幹部候補生として陸軍経理学校へ入校、履修課程の半分も終わらないうちに繰り上げ卒業し、見習士官として前線に送られることになった。まったくもう、陸軍人事部も無茶なことをする。
俺が見習の主計将校として配属されたのは第47野戦貨物廠。貨物廠とは、前線部隊への軍需物資の補給を行う、方面軍直轄の支援部隊だ。
任地は、蘭印モルッカ諸島のハルマヘラ島。
ハルマヘラ島は、ニューギニアの西、フィリピンの南に位置する戦略上の要衝である。
「アイ・シャル・リターン」と言っちゃったマッカーサーは、ニューギニアを西進しフィリピンを攻略するために、足掛かりとしてハルマヘラ島を狙ってくるに違いない。
そのため陸海軍は、ハルマヘラ島にラバウルのような大規模な航空要塞を建設しようとしていた。飛行機も無いのに。。。
という訳で、軍は大慌てで各種部隊をハルマヘラ島に送り込もうとしていた。
この頃、日本軍は絶対国防圏の防備を固めるため、大規模な兵力移動を行っていた。兵力移動は海上輸送に頼ることになるが、裸の輸送船を送り出しても、敵潜水艦に撃沈されるだけだ。中部太平洋のマリアナ諸島方面への海上輸送は「松輸送」、ハルマヘラ島を含む西部ニューギニア豪北方面への海上輸送は「竹輸送」と作戦名が付けられ、兵員物資を乗せた輸送船は船団を組み、護衛艦艇を配して敵潜水艦からの攻撃に対処していた。まあ、そこまでやっても、目的地まで辿り着ける輸送船は半数に満たなかったのだが。。。
1944年4月10日、俺たちは大量の軍需物資とともに下関から出航した。
俺が乗った輸送船「第一吉田丸」は、輸送船8隻、護衛艦艇8隻から成る「竹一船団」に組み込まれ内地を出港、上海、マニラを経由してハルマヘラ島に向かうことになった。
第一吉田丸は、浅野造船所が建造したB型標準貨物船と呼ばれる船で、第一次世界大戦の船舶特需で大量建造されたタイプだ。石炭焚きのボイラーを持つ老朽船だが、陸軍に徴用され兵員輸送船として使われている。
俺は見習士官として、第47野戦貨物廠に配属になる補充要員を引率していた。俺以外の補充要員は、南洋興発の社員などの軍属で年配の人も多い。学生気分の抜けない見習士官と軍属の集団は、軍人らしからぬノンビリした雰囲気を纏っていた。
途中、第一吉田丸は経由内である上海に入港し、ハルマヘラ島の防衛を担う、第32師団の将兵たちが乗り込んできた。本物の軍人が乗り込んできたことで、船内の空気がピリッと引き締まる。
第32師団は1939年に新編された師団で、それ以降、中国山西省を中心に、蒋介石軍と戦闘を繰り広げてきた実戦経験豊富な部隊だ。
船に乗り込んできた将兵たちは、日に焼け、髭面で、生々しい戦場の雰囲気を漂わせていた。 彼らはまた、船内に迫撃砲やチェコ式機銃、棒付き手榴弾など、員数外の鹵獲兵器を大量に持ち込んできていた。日本軍の制式装備だけでは、米軍火力に撃ち負けてしまうのだ。彼らは現場の判断で、持てるだけの武器を持ち込んで来ていたのだ。彼らの覚悟を見て、俺たちも戦場に向かう緊張感が高まってくるのを感じた。
やがて、船団は無事マニラに入港。
この頃には、南方に向かう輸送船の半分近くが、敵潜水艦の攻撃で撃沈されていたので、一隻も欠くこともなくマニラまで辿り着けたのは奇跡的だった。
俺たちは第一吉田丸を一時下船し、数日間の休暇をマニラで過ごした。
兵たちのなかには、豪華な洋館づくりの慰安所にしけこむ者もいたが、ヘタレ童貞の俺は、異国情緒あふれるマニラの下町で、南国のフルーツや香辛料の効いた料理など、食道楽を満喫した。意外なことに、マニラは戦地とは思えぬほど活気に溢れており、各種物資も内地よりも潤沢に流通していた。俺は未だに戦地というものを実感出来ないままでいた。
もともとこの船団には、第32師団の他に、西部ニューギニアに向かう第35師団も乗船することになっていたのだが、第35師団の派遣が直前で中止されたために、俺たちのような補充要員も含めて、各種雑多な部隊が便乗することになっていた。
マニラでは、大量の追加物資とともに、野戦飛行場設定隊や、飛行場大隊、南方総軍直轄の第2遊撃隊などが乗船してきた。
船団で運ばれる日本軍将兵は、第32師団を基幹とした約15,000名、目的地に到着するまでに撃沈されることを見越して、各部隊は輸送船8隻に分散して乗船していた。
第一吉田丸に乗船したのは、第32師団歩兵210連隊の連隊本部、第1大隊、連隊砲中隊の1,100名の他、第107野戦飛行場設定隊200名、第2遊撃隊200名、それに俺たち第47野戦貨物廠の補充要員20名の約1,500名だった。
1944年5月1日、人員物資を満載した第一吉田丸は、最終目的地であるハルマヘラ島ジャイロロに向けてマニラを出航した。