俺のことが大好きすぎるお嫁さんの話
その日俺・霜田貴弘は珍しく同期に飲みに誘われていた。
いつもは定時退社&即刻帰宅を心掛けている俺だが、今日だけは特別だ。なんでも同期のやつ、俺に相談したいことがあるらしい。
相談と言っても、どうせ好きなアイドルのライブに行くべきかどうかみたいな、正直第三者にはどうでも良いものだろう。
この男の相談事は、いつもそんな感じだ。
しかし社会人たるもの付き合いというのが大切なわけで、俺は嫌々ながらも彼について行った。
居酒屋に着いて、取り敢えず生ビールを注文して。話題は早速、同期の相談事に入る。
「俺さ、離婚しようと思うんだよな」
……軽い気持ちで来た飲み会で、とんでもなく重い話を切り出された。
おいおい。相談って、いつもみたいなどうでも良いやつじゃないのかよ。ビール持ってきた店員さんも、めっちゃ入り辛そうにしているって。
「昨日知ったことなんだが……実は嫁が、浮気していたんだ。びっくりしたよ。午後休取って家に帰ったら、知らない若い男が嫁と寝てるんだもの」
「……」
離婚を決意した理由は、どうやら価値観の違いや生活リズムの不一致ではなく、奥さんの浮気らしい。考え得る限り、最悪の理由の一つだ。
社内で最も付き合いのある俺ですら、言葉を失っている。はじめましての店員さんに至っては、話が終わった頃合いを見計らって出直そうとしていた。……その気持ち、よくわかる。
「浮気されたと知ってしまった以上、もう今まで通り嫁を抱くことなんて出来ない。それどころか、嫁に「愛してる」って伝えることにすら抵抗を感じちまう。だから……離婚しようと思ったんだ」
「……奥さんは、何て言ってるんだ?」
「離婚話を切り出すと同時に、離婚届を召喚してきた。しかも記名捺印済みのやつ」
「……」
奥さんの方は、前々から離婚する気満々だったのね。その時の情景を想像し、俺はまたも声を失った。
「そういうわけだから、俺は近いうちにバツイチになるよ。……独身に戻るのって、どんな気持ちかな?」
「知らねえよ。俺は離婚をしたこともないし、独身でもないし」
そういう相談なら、部長にでもしてくれ。あの人は確かバツサンの筈だ。
「そうだよなぁ。お前のところは、夫婦仲良いもんなぁ。……でも、実際のところどうなんだ? 浮気されることはないだろうけど、文句を言われたことくらいあるだろ?」
「文句ねぇ……」
同期に言われて、俺は日常生活を振り返る。
俺の嫁は尽くしてくれるタイプだけど、だからといって聖人君子なわけじゃない。確かに、嫁に文句を言われたことはあった。
でも、その文句というのは――
「俺がカッコ良すぎて直視出来ないとか、最近「いってきます」のキスの時間が0.2秒短くなってるとか」
「えっ、何? 惚気? それは文句とは言わないだろ。お前のこと、大好きすぎじゃね?」
そうなのだ。
自分で言うのは恥ずかしい限りなんだけど、控えめに言ってもウチの嫁は俺のことが大好きすぎるのだ。
結婚して早三年。未だに一緒に風呂に入りたがるんだぞ? ていうか、入らないと拗ねる。そんなの、信じられるか?
「「足臭い」や「酒癖悪い!」みたいな文句は?」
「ないな。それどころか、俺の体臭をアロマ代わりにしている」
「おぉ……そうか」
浮気された同期からしても、俺の嫁の愛は重すぎて、引いてしまうらしい。
嫁から愛されないのは悲しいし、かといって愛が過剰すぎるとそれはそれで悩みの種になる。夫婦とは、なんとも難しいものだ。
「お互い、嫁には苦労するな」
「だな」
最初は乗り気じゃなかった同期との飲み会も、いつのまにか互いの結婚生活の話題で盛り上がっていて。
明日が休みなのを良いことに、その夜おれは
彼と朝まで飲み明かしていた。
◇
「それじゃあ、霜田。また月曜日な」
「おう。帰ったら奥さんと、きちんと話し合えよ」
同期と別れた俺は、そのまま発車直前の始発電車に乗った。
嫁に「帰る」と一報入れようかと思い、スマホを見た俺は、絶句する。
昨夜から今朝までの間にスマホに届いたメッセージが、100件を超えていたのだ。
その100件のメッセージは、言うまでもなく嫁から送られてきたものだ。
「ねぇ。まだ帰って来ないの?」と、しつこいくらいに尋ねてきている。
「……失敗したな。昨日のうちに、連絡しておくべきだった」
同期と飲むことは伝えておいたし、だから先に寝てくれとも言っておいた。昨夜は敢えて電話の一本も入れなかったんだけど……どうやらそれは選択ミスだったらしい。
俺は嫁の寂しがりを甘く見ていた。
ご機嫌取りにちょっとお高めなシュークリームを買って、俺は帰宅する。
「……ただいまー」
罪悪感から自然と声量が小さくなる。しかし、そんな小細工は何の意味もなさなかった。
「おかえり、貴弘」
嫁・綾夏は……玄関で俺の帰りを待っていたのだ。
パジャマにこそ着替えているが、綾夏の両目の下にははっきりとクマが出来ている。つまり彼女は寝ていない。
それどころか、恐らく綾夏は一晩中玄関で俺の帰りを待っていたんだろう。なぜなら綾夏は、俺のことが大好きすぎるのだから。
「えーと……もしかして綾夏さん、怒ってます?」
「ううん、怒ってないよ。ただ貴弘と20時間も会えなかったなーって思っただけで」
にっこりという効果音が聞こえてきそうなくらいの、アルカイックスマイル。……完全に怒ってるじゃないか。
だけど綾夏は、俺が朝帰りしたこと自体を怒っているわけじゃない。20時間も一人にしたことを、拗ねているのだ。
……これはシュークリームくらいじゃ、許してくれそうにないな。
20時間寂しい思いをさせたことがいけないなら、それ以上の時間を費やして埋め合わせをしないと。
「今日と明日はずっとお前と一緒にいるから、それで許してくれないか?」
尋ねると、綾夏がピクッと反応する。
「……「ずっと」って、どこまで?」
「一緒にご飯を食べるし、撮り溜めしてあるドラマも二人で見よう」
「寝る時は? ギュってしてくれる?」
「お前が嫌じゃなかったら」
「お風呂は?」
「それは……わかった。一緒に入ってやる」
食事や睡眠どころか、入浴時さえも綾夏と二人で過ごす。それが手打ちの条件で。
どうやらこの週末、俺に与えられた自由はトイレに入っている時間だけらしい。
しかしまぁ、綾夏も機嫌を直したようだし、それで良しとするか。
いつの日だったか、俺は綾夏に尋ねたことがある。
「お前の俺への愛は、山より高く海より深いのか?」、と。
その時綾夏は真顔で、こう返してきた。
「は? 大気圏とマントルぶち抜くし」
大自然を凌駕する、地球規模の愛情。
困る部分もたまにあるけれど、それでもこうして誰かに想われているという事実は、この上なく嬉しかったりする。
◇
「お宅のお嫁さんは、どんな人ですか?」
そんな質問をされた時、俺は決まって「俺のことが好きすぎるお嫁さんです」と答える。
綾夏は俺を誰よりも愛していて、そのことが一番の誇りで。
それ故に俺は、彼女が浮気をするなんて考えたこともなかった。
だって、そうだろう?
他に好きな男がいたり、俺の愛想を尽かしているのなら、少なくとも俺と一緒にお風呂に入ることなんてない筈だ。
だから俺は今、恐らく人生で一番困惑している。
休憩がてら立ち寄った喫茶店、その店内で――綾夏が見知らぬ男と会っていたのだ。
男と二人でお茶しているからって、浮気と決め付けるのは早計だ。もしかしたら、仕事で会っているだけかもしれない。
……いや、待てよ。考えてみたら、綾夏は専業主婦だよな。なので仕事関係の相手という線は消える。
あと考えられるのは、家族とか?
……それもあり得ない。綾夏に男兄弟はいなかった筈だ。
男と二人で会っている。それだけの事実なのに、俺の脳裏に「密会」の二文字が過ぎる。
浮気なんてあり得ないと考えていた分、実は綾夏に他に好きな人がいるんじゃないかという不安が大きくなっていった。
手を握ったりキスをしたりするわけじゃないから、はっきり浮気だと言い切ることは出来ない。
しかしその一方で、これが浮気でないという証拠もない。
こうして遠くの席から眺めているだけでは、何時間経っても判別するのなんて無理だろう。
……見ていてわからないのなら、聞くしかないな。
そう考えた俺は、帰宅するなり昼間の喫茶店でのことを綾夏に尋ねてみた。
「なあ、綾夏。昼間、どこにいたんだ?」
「どこって……家にいたけど? 何で?」
質問の意図がわからないと言わんばかりに、小首を傾げる綾夏。
自然かつ可愛らしい動作で、一切の躊躇もなく嘘をつく彼女に、俺は戦慄した。
「……喫茶店とか、行ってないよな?」
「……どうして、そんなことを聞くの?」
綾夏は質問を質問で返す。
その際、否定はしなかった。つまり暗に「昼間喫茶店に行っていた」と認めたのだ。
綾夏が喫茶店で男と会っていた事実は、変えようがない。だから心のどこかで、その相手が恋愛対象じゃないと、彼女の口から証明して欲しいと思っていた。
だけど、綾夏はそれをしない。
自らの潔白を晴らすのではなく、俺の問い掛けをはぐらかした。ならば、それこそが答えだ。
「……俺、見たんだよ。お前が喫茶店で、知らない男と会っているところを。随分と楽しそうにお喋りしていたよな? お前のあんな顔、俺は見たことないぞ?」
「それは……」
「言い訳なんてしなくて良い! 認めろよ! 浮気してたんだろ!?」
一生愛そうと誓った人に裏切られるというのが、こんなにも辛いことだなんて。俺の場合、「綾夏は俺のことが大好きすぎる」と思い込んでいたわけだから、一層ショックも大きかった。
俺は離婚話を相談してきた時の同期の顔を思い出す。あいつもきっと、こんな気持ちだったんだろうなぁ。
俺に浮気を指摘された綾夏はというと――目尻に涙を溜めていた。
いや、泣きたいのはこっちの方だよ。そう思っていると、いきなり平手打ちが飛んでくる。
「浮気なんて、するわけないじゃん! 私がどれだけ貴弘を好きなのか、3年も夫婦やっていてまだ伝わってないの!?」
「……え?」
逆ギレかと思いきや、予想外の一言が綾夏の口から飛び出す。
まるで浮気なんてしていないと言っているようだった。
俺は間違っていない。そう思うから、こちらも負けじと言い返す。
「男と密会していて、まだ浮気を認めないのかよ!? だったら言ってみろ、あの男は誰なんだ!?」
「お姉ちゃんの婚約者だよ!」
……何だって?
まさかの登場人物に、俺は言葉を失う。
「サプライズでプロポーズしようとしているみたいなんだけど、どんな風にしたらお姉ちゃんが喜ぶのか教えて欲しいって相談されていたの。プロポーズのことはまだ内密にして欲しいって頼まれてたから、貴弘にも言えなくて……」
「……ハハハ。何だよ、それ」
俺はその場で崩れ落ちる。
浮気じゃないとわかったことで、蓄積されていた疲労感がどっと押し寄せてきた。
「私のあんな顔を見たことがないって言ったよね? 当たり前じゃん。貴弘の前での私は、本当に幸せだっていう顔しかしていないんだから」
その答えに、俺は納得する。
綾夏があの男に見せていたのは、謂わゆる外面で。だから夫である俺には、一度たりとも見せたことがないのだ。
綾夏が俺の顔を、両手で挟む。
「良い? 私はね、貴弘のことが大好きなの。大好きで大好きで、それこそ浮気をするなんて考えすら思い浮かばないくらいなの。でもね、もしまた浮気を疑ったら、私の貴弘への愛が嘘だと少しでも思ったら――その時こそ、本当に大嫌いになるからね」
それから俺は数十年彼女と夫婦でい続けるわけだが、その間ただの一度も「大嫌い」と言われたことはなかった。
代わりに「大好き」という言葉を、何千回と伝えあったのだった。
今年は大変お世話になりました。来年も一層精進していきますので、応援お願いします!