欲しがる人
彼、ナガヤマはふと思う。このプラムの箱を大型トラックの内部に積む作業は、誰のためかと。
両の手のひらと肘のあたりに力を込め、こわばる腰の痛みに気づかないふりをし、大切な大切な届け物にかかる衝撃を最小にしようと努める運動。自傷行為のような営みの結果、無事に届いた箱を開ける「橋本弥生様」は、段ボールが傷まずに済んだ過去に思いをはせることなく、「橋本巧様」に電話で礼を言う。
すでにナガヤマは、電車に乗ってバイト先へ行くことに喜びを見出せなくなっていた。
地元中学での成績は上の下。中の上と言う教師もいた、と彼は記憶する。同程度のクラスメイトが進学したのは、電車を使って1時間弱の高校。だが、彼は、中の下へと進むことになった。学割定期を買う余裕がなく、自宅近くの高校を選んだのだ。
稼げない大学生よりも高卒で会社員になるのを望んでいたナガヤマは、妬みながらも、彼にとってベストの選択であると納得しようとした。
16歳になってすぐ、コンビニバイトを始めた彼は、欲しくて欲しくて仕方なかった定期券代以上の金を稼いだ。2年生が終わろうとする頃、大学への進学を夢見る自分に気づく。妬みが、そうさせたのだ。
大学生になるためには金が要る。高校を出たらバイトを増やし、150万円を貯めようと決めた。
登録した派遣バイトの会社では交通費全額が支払われると知り、彼は、紹介されたトラック積み込み作業現場だけでなく、その付近でも交通費が出るバイトを探した。それまでバイトしていたのと同じチェーンのコンビニが求人の紙を貼っていたので、履歴書を持っていくと即採用。かつては通学電車に乗りたくて乗りたくて仕方なかったが、今は電車賃を出してもらって乗っている。それも2カ所からなので、電車に乗っているだけで儲けになる。
ナガヤマは、彼の計算に酔いしれた。
20歳になり、貯金が目標金額に達した彼は、志望大学の過去問集を立ち読みした。意味のわからない記号や言葉らしきものが並ぶページをめくる度、彼は、失ってしまった知識と機会を思い、涙する。
もう遅い、遅すぎた。
ナガヤマは、再び開くことがないと知りながらも、学費の安い公立大学の過去問集を買い、その夜、プラムの箱に入った、大学生の娘を想う父親からの仕送り品を、それと知らずにそっとトラックに積んだのだ。
朝8時、最後の荷物をトラックに積み込んだナガヤマの息の白さに、ドライバーのクドウがため息をつく。
「お前なあ、これから命かけて働くおれらをつまらん気持ちにさせるなよ」
「すいません」
「今日もお願いしますくらい言えんのか」
「すいません」
「ったく、馬鹿の1つ覚えで謝ってればいいって思ってんだろ、そんな頭で大学行くってか」
「大学行きません」
「あれっ、お前じゃなかったか、似たようなやつでよ、浪人生がいるんだぜ、笑っちまうよな」
「……なんで笑うんですか」
「おっ、いいねえ、反抗的な目で、しけた顔よりはずっといいわ」
「いや、別に怒ってないです」
「照れんなよ、いいじゃねえか、仕分けの仲間だろ、仲間のために怒れるのは偉いもんだ」
「いや、だから、怒ってないです」
「お前、そこは仲間のために怒ってるって言っとけよ、そのほうが浪人生も嬉しいだろ、つまんないとこでムキになるからお前はダメなんだよ」
「……すいません」
「さて、今日も安全運転、安全運転っと」
クドウはトラックのドアを開け、少し跳ねる動作をした後、体をするりと運転席に潜り込ませた。動作の機敏さに目が奪われ、しばらくぶりに将来のことを考えない空白が生まれたナガヤマは、どうしても今、聞いておかないといけない気がした。
「待ってください、なんで笑うんですか」
「だってよ、大学行ってもよ、どうせ総理大臣にはなれないんだろ、勉強してどうすんだよ」
朝の冷たい空気を白くして走るトラックの尻を見て、一昨日に記帳した預金の数字を何度も何度も反芻し、ナガヤマは1つ咳払いをした。
「教習所に通って、中古車を買う」
誰にも聞かれないように風の向きを気にしながら、自分の耳にだけ伝えるため、彼はほとんど音にもならない声で呟いた。
初めて自転車に乗って隣町の神社まで行った日、小学生だったナガヤマは、線路を越えただけであるにもかかわらず、これまでとは違う何かの始まりを感じた。後日、その踏切に入って命を絶った人がいたと知り、彼は、あの予感は確かであると信じた。見知らぬ誰かの、その失った幸せが自分の人生に加算されると思ったのである。
だが、実際にはそのようなことはなく、彼は、彼が欲しがるものを持つ他人とは違うという事実を、執拗に数えて過ごしてきた。
高校を卒業して以降、彼が欲した最大のものは運転免許であり、そのための費用を払ってくれる環境であった。進学費用を稼ぐことには前向きになれたが、十分な貯金があったにもかかわらず、教習所代に使おうとしなかったのは、何よりも欲しかったからである。
金を払うだけで望みが叶うという事実の確認を、彼は、彼の自尊心を守るために恐れていた。
人生の一部と引き換えに手にした金を、これまでの自分を捨てるために使うには、まだ勢いが足りない。彼は、いつ以来なのかも思い出せない、コンビニの肉まんに金を払うことをしようと決めた。
まだ冷えが訪れる前から並ぶ肉まんには客の感覚を麻痺させる働きがある。16からコンビニ店員をしているナガヤマにとって、水をかけて蒸し器に入れるだけとはいえ、調理の一端を担うものに金を払うことは、搾取の構造の象徴のようで、どうしてもできないことであった。
しかし、彼は今、カーゴパンツから2枚の硬貨を取り出し、決心を落としてしまわないように強く握りしめ、客として初めて職場に入った。そして、彼自身が4日前に整理したパンフレットスタンドに近づき、空いた左の手で合宿免許の資料を掴んだ。
20万円と少し。金額を厳密にしていた彼は、もういない。
旅行みたいなものだ。せっかくだから観光地にも行って、美味しい魚を食べて温泉にも入りたい。土産を渡すということもしてみたい。国道沿いに、たぶんニコイチの格安中古車があった。だから、贅沢したっていいだろう。そうだ、お洒落な服を買って、都会風を吹かして、ぼっちゃん大学生のように振る舞ってみようか。たまにはこういうのもいい経験だと思って合宿にしたんです。
ナガヤマは、彼を彼にしていたものを失うことに快感を覚え、それが増幅するのを止めることができなかった。
翌日、銀行に寄ってからコンビニに出勤したナガヤマは、大卒初任給とほとんど同額の支払いを自分で処理した。大学出となることを諦めた支払い、これまでの自分自身を捨てる覚悟を込めた営みであるにもかかわらず、レジの音は少しも変わらない。やけに明るく聴こえる、これで終わりという合図の響き。
バックヤードにいる店長夫人に万札を渡したナガヤマは、彼女の手が無造作に金庫へそれを入れる始終を確認した。その途端、人生の岐路は他人にとっては記録さえあればそれで足りる程度の価値しか有さず、わざわざ記憶に残すほどのことではないというリアルを、ナガヤマは明確に認識したのである。
時間労働者にとって、その得た金額は、これと引き換えにした時間の長さを意味する。時の貴重さは、二度と自分のものにならないことを自覚したとき、捨て去ってしまった選択肢のその後の理想化を経て、明確な像となる。
230時間という時はもう戻ることがなく、その対価は今、ナガヤマの手から離れていった。働く営みそのものに価値を見出さず、得られる数字のみを見てきた彼にとって、かつて彼の一部であったものは完全に失われ、彼の過去の一時は無となった。
その恐怖を頭の中から追い出すため、ナガヤマは、いつも以上に、防犯目的の必要を超えるボリュームで「いらっしゃいませ」の音声を発し続けた。
コンビニバイトが終わり、積み込み作業現場へと向かうナガヤマの視界に、かつてのクラスメイトの姿。酒が入っている。
オレンジ色を基調とする派手なシャツに、下はホワイトニングされた歯と同じ、不自然な白らしい白。ハードワックスで短髪を逆立て、手にはモノグラムの長財布のみ。貧相なナガヤマと目が合い、両腕を広げて「おい」と叫ぶ。だが、ナガヤマは、その腕の届かないところへ自転車を進め、そのまま疾走した。
彼が通いたかった高校に進んだ男の、彼が欲しいと思う生活の中にいる男の姿を目の当たりにし、「あいつとおれ、何が違う、実家が太いかどうか、それだけじゃないか」と頭の中で何度も言葉にし、ペダルを強く踏み続けたのである。
ベルトコンベアーと一体化した体が人間性を取り戻す休憩の知らせ。いつもは事務所の床に身を横たえ、痛む腰と床の間に左拳を入れて目を閉じるだけであったナガヤマは、ここで働くようになって初めて、休憩中に携帯電話を取り出した。電車で1時間と少しの街にある飲食店を調べるためである。
贅沢をしてやる。大学生のあいつが放課後バイトで食えないものを食ってやる。どうせ大した稼ぎはないだろう。いや、待てよ、あの服、あの財布……あいつは20歳過ぎても小遣いをもらってるんじゃないか。あいつの親は、たしか司法書士だったな。時給で人を好きに動かして、正義の味方でございってか。明日の夜だけでも、あいつが食えないものを食ってやる。車代を抜いても、おれには100万ある。すべて使ったっていい。
「高級」に続けて「焼肉」や「ステーキ」といった言葉を検索ボックスに入れてみたが、6番目の「カツ丼」を最後に、何も思いつかなくなった。ナガヤマは、彼の20年間が、食べ物ですら好きなものを多く示してくれないことに愕然とした。
床を這う、少なくとも10は年上の同僚たち。まもなく休憩時間が終わる。
体の動きを機械に合わせ、そのことだけに集中する。心までもがこの巨大な機械に吸収され、この現場建物を外から眺める人は、そこに人がいることを考えもしない。
ベルトコンベアーが動き出した。喫食という根源的な欲望ですら満足に感じることができないナガヤマは、自身が摂食されるものでしかないと理解し、体と心を機械に差し出した。
昼前まで眠り、日が沈むまでコンビニバイト。ロッカーから黒スキニーに合わせた、しかし濃さの違う黒ジャケットを取り出し、ナガヤマは、電車に乗って繁華街へ向かった。
改札を出る。騒音、悪臭、見たこともない人の顔の集まり。窮屈に感じるのは、歩道の3分の1ほどまではみ出した看板のせいでもある。慣れた様子でゆっくりと歩く集団。同年代からの嘲笑を感じたナガヤマは、100万円の入ったリュックを抱えながら小走りし、第一候補の鉄板焼き店へ急いだ。
道向かいから店を観察した後、「1万5千円〜」と書かれたステーキ肉の写真が目立つ看板を見下ろし、また道向かいへ戻る。いざ店内に入ろうとすると、さっきまでの威勢のよさは消え失せた。
今夜の金額の問題ではない。
彼にとっての特別な支払いを、普段から平静な顔をしてカードで済ます人たちの中に身を置く、居心地の悪さ。この夜だけの客でしかない彼は、出された肉を口一杯に詰め込み、最も高価なワインで流し、誰よりも早く席を立ち去るのみ。その姿をスーツ着の酔客が話題にし、常連客と店主の笑い声を背にする。
みすぼらしいと自覚するナガヤマは、この明確なイメージが現実化することを恐れたのである。
不審者を見る目を感じ、次の候補へ向かう。その繰り返しの末、ナガヤマが入ったのは、古びた焼き鳥屋であった。結局、候補に入っていなかった、すなわち、彼が自らの好物として言語化できていなかった店で金を使うことになったのだ。
「ぃらっしゃい」
案内の手のままに動き、7席あるカウンターの真ん中へ。客の不在がナガヤマに発言を許す。
「すいません、初めてで」
「はじめまして、若いお客さんは珍しいから嬉しいよ、瓶でいいですか」
「え……」
「ビールですよ、うち、生はやってないんです」
「あっ、はい、お願いします」
「お客さん、まず何を食べますか」
「あ、えー、焼き鳥で」
「ああ、焼き物ですね、うん、もしよかったら任せてもらえますか」
「あ、お願いします」
静かな店内にトンと小鉢。木造りのカウンターとの接触によって土の音が蘇る。ほのかにシソの匂いがするキャベツ。食べてよいのかを尋ねたかったが、まさか支払えないことはないだろうと思い、ナガヤマは一口で食べた。数枚の重なりが音を発し、頬の内側を潤す。水分量に驚く気持ちを表情に出さないため、ビールで唇を湿らせた。
出された串を順番に二口ずつで食べ続けるナガヤマを見て、店主は「焼き鳥、お好きなんですね」と言う。
反射的に「はい」と答えたものの、初めて食べる部位についての好き嫌いを言えるはずがないと恥じた。彼にとっての焼き鳥は、夜店でクジを引いて何本食べられるのかが決まるゲーム性の強いもの。さまざまな臓物はもちろん、皮も、ネギと一緒に食べるのも、タレでなく塩で食べるのも今夜が初めてであった。
欲していたわけではない。その存在すらも知らなかった。しかし、ナガヤマは、今、欲しかったものを体内に取り入れていると実感する。
カラリと扉の開く音。両手で静かに、そして丁寧に閉める手の白さ。彼がすぐに目視したのは、この空間と時間が彼のものでなくなると怯えたからである。
光沢のある深緑のワンピースが最奥の席に着くなり「いつもの冷やを」と言い、店主は日本酒と生肉を出した。そのやりとりが場に合うものであると感じられ、ナガヤマは、やはりこの空間と時間は彼のものではなかったと、そして、ここに合う振る舞いをしようと考えた。
「すいません」
「はい、何にしましょうか」
「生の……」
「うち、生ないんですよ、瓶をもう1本でいいですか」
「いや、あの、生の、焼いてない肉を」
「ん、ああ、刺身ね、焼き物の後にですか」
「あと日本酒を」
店主はちらりとワンピースから伸びる白い手を見て「はああ」と言い、「刺身は少しにしましょうか、日本酒は甘いものでいいですね」と告げた。
「あ、お、お願いします」
先の記憶はない。終電のドアが閉まるのをホームのベンチで眺めているのに気づいたとき、ナガヤマは、始発までどのように過ごせばよいのかを考える必要に迫られた。
彼は思う。心臓のタレ焼きをもう2本食べ、セセリと肝をビールで楽しめば、今夜は完璧であったと。代金に必要な労働はそのためにあったと納得できたことだろう。
そのとき、あの、彼の空間と時間は、完全に彼のものであったと言えたはずである。それを廃棄したのは、誰でもない、彼自身であった。
彼は思う。なぜ、欲しくもないものを注文したのか。
あのときに彼が欲しかったのは、見栄である。誰も望んでいない禁欲生活の末、望みを叶えることができなかった彼は、そうでない人間に見えるように振る舞おうとした。言うまでもなく、誰も彼の所作に興味がない。そのことを理解しているにもかかわらず、彼が偽りの姿を見せようとしたのは、誰でもない、彼自身に対してである。
自己実現という悪魔の囁き。自らの生を過ごすその人は、まぎれもなく自己であり、これに疑念を抱く余地はない。とはいえ、満たされぬものは常にある。この支配を許したとき、その人は囁きに惑わされ、結果、自らを失う。
人の精神は、強弱も向きも不規則な風に揺れる綱の上にあり、前進することによって安定を図ろうとするばかり。
彼は歩いた。
朝までに帰宅できるだろうが、できなくても構わない。動き出した電車に乗ればよい。
すでに酔いは醒めていたが、ナガヤマは、ペットボトルの緑茶を買い、頬がふくらむまで含んで飲んだ。
「こんなに美味しかったっけ」
日本酒の残り香と熱が、冷たい緑茶の風味を際立たせる。信号機を2つ過ぎたところでちょうど飲み干し、今度は自販機であったかい缶コーヒーを買った。ミルクと砂糖の優しさが、彼に「おつかれさま」と言ったような気がした。
おれには帰る家がある。雨にも濡れず、安全に眠ることができる。三食に困ったことはないし、電車とバスに乗って、大きな公園に連れてってくれた家族がいる。学校帰りにブラックバスを釣り、修学旅行では飛行機にも乗った。今だって、世間が職を失っているのに、おれのバイトは疫病知らずだ。
彼は欲しがる人であった。すでに受けている恩恵を当然視し、そのことについては意識せずに過ごしてきた。だから、常に手にしていないものにのみ目が向き、満たされない気持ちが僻みとなり、彼は、彼でない誰かの生のことばかりを考え、つまりは、彼自身の生を過ごすことなく時を重ねてきた。
彼、ナガヤマは、公園のブランコで、とっくに冷たくなったミルクコーヒーをそっと握りながら、コンビニに電話をかけた。合宿のために休む話を撤回するために。