電車で帰って
11月1日木曜日、5限まであった授業をなんとかこなして帰路に着いた。10分ほど最寄駅まで歩いて、30分ほど電車でつり革を握り、市営線に乗り換える。ここからまだ1時間ほど家まで電車に乗らないといけない。
やってきた18時53分発の急行の、前から2両目一番後ろのドアから乗り込んで、2人掛けの席が向かい合ってボックス席になっている優先座席の背にもたれて、左手人差し指につけた携帯端末を親指の付け根を動かして起動させた。そして、左手で喉元を抑えて、「音楽 停止」と声には出さずに言う。
この新型の携帯、エアーフォン、エアホが誕生してまだ、2年もたたないと思うが、すでにスマホのシェアの大部分を奪った。映像、センサーの技術向上による投影システムと人体の神経の解析が進んだことによる神経操作の二本柱がエアホを支えている。モニター部分は必要なく指輪の本体から投影された映像を今までのディスプレイとして扱える。末端の神経に関しては干渉することが可能になったため、左手の動きで操作することができる。同時期に発売された、ストレスフリーイヤホンという、耳の中に入れる必要がなく耳たぶにイヤリングみたいにつけるだけで機能する最新のイヤホンと連動してより機能が充実する。先程の口ぱく機能もインターフェイスとなっていたのはこのイヤホンだ。イヤホンが音を伝えるのは骨振動を利用しているようだが。脳やせき髄の神経についての研究も盛んに進んでいて、フルダイビング型VRゲームが発売される未来も遠くないかもしれない。話がそれた。なんの話をしていたんだ。
鞄の中から、今日講義があった教科書を取り出してペラペラとページをめくる。あの娘がくるまでの暇つぶしだ。あの娘、女性。大学は違うけれど、同じ1回生らしい。男女比が馬鹿な学部学科に勤める僕にとって彼女は、彼女とはここでしか会うことはないが、明らかに最もよく話す女子だ。
彼女との出会いは偶然と呼ばれるものだったが、彼女の状況とこちらの常識から考えれば別にそこまであり得ないということではなかった。10月の中旬、電車に乗ろうと躓いた彼女を僕が助けたというだけのこと。前々から彼女の存在には気づいて少し気がかりのあった僕は無遠慮に色々と聞いてしまった。大変に困惑させてしまったにも関わらず、人とこんなに話せたのは久しぶりだと、週に何度かこの時間この電車に乗るから見かけたら話しかけてほしいと言って、電車を降りて行った。
再び、彼女に会えたのは、その週の木曜日。どうやら月木金曜日にはこの電車に乗るようだと言ってくれた。僕もちょうどその日は大学が遅くまであると大嘘をついて、わざわざこの時間まで大学に残って、市営線のターミナル駅18時53分発の電車に乗って、彼女と話すようにしていた。もちろん会えない日もあったが、それでもそろそろ手の指だけじゃ足りないくらいには会っているんじゃないだろうか。
下心はある。もちろんある。でも、2割くらいは別のことが気がかりになっているからだ。
先に降りる彼女はすぐに帰ることなくホームのベンチで1人座りこむ。彼女と話すようになる前から気になっていたことだ。1人でほんとに寂しそうに座るのだ。そんな彼女をどうにかしたいと思っていた。だから、あの日、助けただけでなく、話しかけた。
19時5分、彼女の乗ってくる駅に電車が着く。ドアが開いて、数人が降りて、同じくらいの人が乗ってくる。そして、ワンテンポ遅れて、コトッという白杖が遠慮がちに床を叩く音が耳に響く。
「こんばんは」
「こんばんは」
僕は、彼女の手を取ってゆっくりと自分の横にもたれかけさせる。
「ありがとう」
白杖の取っ手部分を軽く折り曲げて、胸の前で小さく握る。彼女の耳たぶに挟まれたイヤホンは、横にいるのが僕で、どの電車のどの車両に乗っていて周囲にどれくらい人がいるのかを的確に伝えているのだろう。先程紹介したイヤホンと彼女のイヤホンでは見た目は一緒でも、その性能は違うらしい。彼女の話を正確に理解できているとは思わないけど、ざっくり言うと、体のあちこちにつけたセンサーとカメラからの情報は彼女の携帯する端末に集められ分析され、イヤホンを通して脳に情報を送られているらしい。神経系の発展が著しい中でも、脳内の神経と干渉するこの技術は最先端のもので、彼女はその被験者を兼ねているとのことだ。
「今日の授業はどうだったの」
鞄の中に参考書をしまいつつそれに答える
「今日もしんどかったよ。1限から5限まで埋まっているからさあ。息つく暇もない」
「大変なんだね。私は、検診とかででれないのも多いけど、他の人もそんなにたくさん授業あるわけじゃないよ」
「はあ、ほんとに、僕も文系に行けばよかった。工学部なんていいことなんて何もないじゃないか。誰だよ大学に行けば、好きなこと勉強できるって言ったやつ。英語に第二言語、数学……」
「確かに、色々とあるよね。一年のうちは特に。第二言語何やってるの」
「フランス語……」
「あ、私、中国語」
「ちくしょう、俺も中国語にすれば良かったなあ。なんでフラ語なんか選んだんだ」
「なんでだったの」
「……なんかかっこいいって思っちゃったんだよ」
「あはは、なるほど」
どうやら今日は愚痴を言い合う日になりそうだ。もっと、なんかいい感じの会話ができないものだろうか。でも、はじめのころの、緊張して途切れ途切れの会話よりはいいほうか、とあきらめておく。
30分ほど話しているとそろそろ彼女の降りる駅に近づいてきた。そして、何気なく気になっていたことを聞いてみた。
「ねえ、いつもベンチで待ってるけど、誰か迎えに来るの」
「えっと、うん。そんな感じ」
なんだか、歯切れの悪い答えに違和感があった。
「そんな感じって」
「……ごめん、嘘。ほんとは誰も迎えになんてこない」
「え、それって大丈夫なの」
「ああ、うん。大丈夫だよ。見ての通りイヤホンのおかげで全然普通に歩けるし、駅から家までも近いし明るい道ばかりだから」
「えっと、それじゃあなんで」
どうして君はあんなとこで一人悲しそうに座っているんだ
「……ほら、私がこの時間に帰る日って検診があるからさあ。そこでね、まあ色々言われるんだ。それがちょっとね」
「色々って」
「ごめん、それは色々、としか」
僕はまた、余計なことを聞いてしまったみたいだ。
「ごめん、変なこと聞いた」
「いや、ちゃんと言えない私がよくない」
どう考えても悩みのある様子に、僕は何とも言うことができない。病気、障害関連の悩みだろうけど、僕はそれについて、詳しく知らない。聞いてこなかった。そんなこと聞いてなんとかできるわけないし、今みたいな空気になるのも嫌だったから。
溢れてくる疑問が口を動かそうとするが、僕は結局何も聞けず、
「誰にだって言いたくないことくらいあるよ。ましてやよく分からない人相手ならなおさらだよ」
「いや、私は君のことそんなふうに思っていないよ」
思いもよらない高評価に頬が緩みそうになるのをこらえて
「ありがとう、じゃない。でも、そういうことじゃなくて、言いたくないこと無理に言う必要もないだろう。ほらもう着いたよ」
十九時四十五分、彼女の降りる駅だ。
「うん、ありがと。またね」
「うん、また」
彼女は一番最後に降りて、やっぱりベンチに腰かけた。声をかける前の雰囲気とは少し違うけれど、何となく陰が増したように思えてしまう。
何となく想像はしていたけれど、次の日彼女は来なかった。三限までしかなかった授業のあと図書館でポーズだけは勉強して時間を潰して18時53分の電車に乗ったのに……
僕は彼女の連絡先を知らない。というか名前も知らない。聞いたことはある。会って三回目の時のことだった。
「私は、君が話してくれるのは嬉しいし、楽しいよ。けど、君が私のことを知ることも私が君のことを知るのも怖いんだ。だから不自由かもしれないけど、私のことは君って呼んでおいてほしい。君のことも君と呼ばせておいてほしい」
と言われたので、諦めたけれど、こういう時に普通に不便に感じる。
次の週の月曜日、この日も、時間をするための買い物をして18時53分の電車に乗ったけれど、彼女は来てくれるだろうか。
19時5分、彼女の乗ってくる駅に電車が着く。ドアが開いて、数人が降りて、同じくらいの人が乗ってくる。そして、ワンテンポ遅れて、コトッという白杖が遠慮がちに床を叩く音が耳に響く。
「こんばんは」
「こんばんは」
僕は、彼女の手を取ってゆっくりと自分の横にもたれかけさせる。
「ありがとう」
いつも通りのやり取りの中でどうにも彼女のぎこちなさのようなものがどこかからにじみ出ているように思う。何かあったのかと勘繰ってしまう。
「……」
「……」
うわあ、どうしよう。何話したらいいのか、妙に身構えてしまっている。普通でいいじゃないか
「えっと、金曜日は何かあったの」
ああ、こんなこと聞いてそうするんだよ
「うん、診察が長引いちゃって」
「そうか……」
なんだか、初めて会った頃のみたいに、でも、確実に違う理由でうまく話せない。
そわそわとどうしようかと、自分にそんなこと聞いていいのかとくよくよとしているうちにやっぱりうまく話せないまま結構な時間が過ぎた。次の停車駅が彼女の降りる駅だ。
もういいや。こんなこと聞かなくてもいいじゃないか。
そんなへたれた考えが頭を支配してきたころ、彼女のほうから言い出された
「私、決めたんだ」
突然のことに、何を言っているのか分からない。どこか吹っ切れた感じでそんなことを言う
「え、何を」
「んー、前から迷っていたこと」
それを言うつもりはないらしい
「急で悪いんだけど、当分この電車に乗れないかな」
「そっかー」
「驚かないの」
「うん、この前からなんかそんな感じだったし」
嘘だ。ほんとはすごく動揺している。けれど、そんな顔で言われれば納得せざるを得ない。
「だから、こんなこと言うのは虫が良いのは分かっているんだけど、いつかまた、会えたら、話しかけてくれないかな」
19時45分、電車は駅に到着していた
季節は巡る。そう廻る。進むのは人間が決めた時間だけ、何も変わらない。一年たっても地球は同じ所を回っている。そんなとこで生きている僕ももちろん何も変わっていない。いやいや、宇宙は膨張しているから地球は同じ所にないよ、僕らは進んでいる。ばかか知らないよ。そんなポジティブなとらえ方できないよ。
だって、僕はまだ、18時53分発の電車に乗っているのだから。金曜日、二年になったいまでは、三限に一つだけ授業がある。やらなきゃいけないことは増えた。とても増えた。言語や数学の授業がなくなって楽になるはずなかった。専門の必修科目が背中を常に攻め立てる。勉強はしないといけない。なのに、僕はまだ二両目の優先座席の後ろにもたれている。
今日も彼女は来ないのだろうか。いつかって、一年もかかるのだろうか。ほんとは、ほんとに僕に愛想を尽かせて、時間を電車をずらしただけじゃないのか。
19時5分、彼女の乗ってきていた駅に電車が着く。ドアが開いて、数人が降りて、同じくらいの人が乗ってくる。そして、ワンテンポ遅れてやってきたのは、「あっ」というわざとらしい悲鳴と、不自然な体勢で倒れこんでくる女性だった。咄嗟にでた左手はあの時と同じ反射だった。見覚えのあるコートとスニーカー、背丈も彼女と同じくらい、というか彼女だった。
「えっと、何しんの」
「あー、躓いちゃって……」
「いや、わざとだってええ」
こちらを見上げた彼女の顔を見てなんか変な声が出てしまった。いや、これは仕方ない。だって、これにもカメラ付いているんだあと言っていた少し曇った眼鏡はどこにもなくて、その代わりに大きく開いた瞳が僕をまっすぐにとらえている。思わず目を逸らしてしまう。
「えっとこれは、どういうこと」
「うーんと、まあざっくりというと治った」
「うん、ほんとにざっくりだな。いや、さすがにそれは治ったのはわかるよ」
「そんなこと言われても私も難しいことはわからないし……。目のところ開いて神経になんかして上手くいったんだよ」
「うわなにそれ、ちょっと怖い。そんなことできるの。ほんとに」
「なんかできたみたいだね」
なんかって……
でも、そう言って笑う彼女はなんだかとても……良いなって思えた。どうやら季節は巡り行くものらしい。
「だからさあ、改めて、よろしく。……えっと」
「どうしたの」
「君の名前教えてよ」
はあ、ほんとに。それはずるい……あっさり聞きやがって
「いいけど、君のも教えてよ」
「もちろん」
「はあ、僕の名前は
最後まで読んでいただきありがとうございます
何か身体障害者の話を書こうと思った小説ですが、うまくまとまらなかったですね。もっと勉強します