死の取引
「んっ……。」
頭が痛い。あれ、私眠っちゃったのか。
「私、なんでこんなところに……。」
いつのまにか自分のマンションの前まで帰ってきたようだった。
それにこの違和感。誰かいる?
「目が覚めたみたいだね。君は眠るのが好きだね。」
「ああ、あなたはさっきの……ヴァンパイアの人か。」
「本当に驚かないんだね。君が初めてだよ。僕をヴァンパイアと知っていながら逃げ出さなかった人は…。」
彼はふふふっと不気味に笑った。
「だってどうでもよかったから。私はただ死にたかっただけ。」
「そっか。」
「そんなことより、私が眠る前にあなた何か言ってたよね。私に何をしたの?全部話してくれる?意識が朦朧としてたから、あまり覚えてないの。」
「そのことなんだけどね、僕が話すより君が実行に移すほうが早いと思うんだ。」
「どういうこと?」
「君、死にたいんだよね。だったら君が住んでるこのマンション、最上階から飛び降りたら、まあ普通の人間なら確実に死ぬよね?飛んでみなよ。もし死ねたら……おめでとうって言ってあげるよ。」
そういいながら、彼はまた不敵な笑みを浮かべていた。
「わかったよ。」
軽い足取りで階段を駆け上がる。
ああ……、確実に死ねる。
確信があった。でもなんだろう公園で首を吊った時とは違う感覚だ。
そんなことを考えながら私はマンションの最上階から下を見下ろした。
「どう?いけそう?」
隣から声が聞こえた。
「あなた、いつのまに……。そうか、ヴァンパイアだもんね。」
考えるのもめんどくさかった。
運よく最上階にはいくつか空き部屋がある。人がいたとしても、もう寝てるだろうし気付かれることはないだろう。
そこからはとてもはやかった。
ベランダの手すりに足をかけた私はそのまま宙を歩くかのように一歩踏み出していた。
ふわっとしたこの感覚。嫌いではない。でも、何か忘れているような。
ああ……、なんでだろう。もう最後なのに、私この世に、さよならを言い忘れている。なんでかな。
ぐちゃっ。
汚い音を立てて私の体は地面に叩きつけられていた。
かろうじて目は見えている。目の前に自分の足がある。どうやら大分捻ったらしい。
骨もまあまあ折れているようだ。
痛みはあるけど死ぬほどってわけじゃない。出血も多い。
聞き覚えのある声が今回ははっきりと聞こえる。
「これで分かったでしょ。君はヴァンパイアになったんだよ。僕のせいで。」
人間の君は僕が殺した。
「そう……。」
なんだか変な感じ。絶望するほど、叫びたくなるほど悲しくはない。
きっと私は知ってたんだ。
もう自分が死ねないってこと……。
気付けば出血も止まり、捻った体も元に戻っていた。骨もうまくくっついたようだ。
「僕と取引をしよう。」
彼が言った。
「巷では吸血鬼なんて呼ばれてるが、僕だって鬼じゃない。はじめは面倒だから逃げようって思ったけどね。僕は君を不死身にしてしまった。その責任は取ろう。実は、僕も君と同じ夢をもっているんだ。僕も死にたいんだよ。ヴァンパイアってのは何千年も何万年も生きる運命なんだ。呪いみたいでしょ。だから僕はヴァンパイアが死ねる方法を探し続けているんだよ。まだ手掛かりも掴んでいないけどね。だから君に手伝ってほしい。僕と一緒にヴァンパイアを殺すことができる方法を探すのを手伝ってほしいんだ。」
彼はまた笑っている。不気味だけど、綺麗な顔で。
「なんかおかしくない?だって私不死身にされた上にあなたの手伝いをさせられるわけ?」
「でも、悪い話ではないと思うんだよねー。君の望みと僕の望みは一致してる。もし方法が見つかったら……」
僕がヴァンパイアの君も殺してあげる。
「どうする?」
不死身になってしまった今、普通の方法で死ぬことは不可能だし。私の望みは変わらないわけだから、この体でも死ねる方法を見つけなければいけないわけで……。二人でなら時間も短縮できる。
「分かった。でも私はいつも通り人間としての暮らしを続けさせてもらうよ。大学にもいくしバイトもする。死体がないから。不審に思われてしまうし。」
いつまで続くかな……。
「何か言った?」
「いや、なんでもないよ。」
「そう。それより、さっきから気になってたんだけど。あなたどうして私のマンションがここだって分かったの?」
「匂いだよ。君の匂いを辿ったんだ。ヴァンパイアは嗅覚が優れてるんだ。餌を見つけなければならないからね。」
「人間ってこと?私の血を吸ったんだもんね。」
「そう、まずかったけどね。これからは君もそうしなければいけなくなる。普通の食事もできるけど、定期的に人の血を吸わなければ君は自我を失って生きた人を襲う。まあ、餌は僕が確保してあげるから心配しなくていいよ。」
「まずいとか。失礼なヴァンパイアだね。」
真っ白で冷たくなった自分の顔を触る。
「私、本当にヴァンパイアになってしまったのね。」
「悲しい?」
「分からない。でも、人間じゃなくなったからか、少しだけ気持ちが軽くなった気がする。」
「ヴァンパイアってのも嫌なもんだよ」
「そうかもね。死ねないんだもんね。」
なだか不思議。なんなんだろうこの感じ。わからないな。
「あなたは、これからどうするの?」
「僕?いつも通りその辺で寝るよ。」
「は?何言ってんのさ。風邪引くよ?」
「風邪なんてどうってことないさ。」
「うち、来る?布団ぐらいなら敷いてあげるよ。」
「優しいんだね。でもいいんだ、外のほうが慣れてるし。」
「そう。それじゃあまたね。」
「そういえば君、名前は?」
「希、小沢 希。あなたは?」
「僕は……まあ、適当に呼んでくれたらいいよ。」
「そう……、考えとく。」
「それじゃあ、おやすみ。希。」
「はい、またね。」
生まれて初めてだ、こんなにも長い夜は。空は漆黒から深いブルーに変わっていた。もう夜が明ける。
いろいろありすぎた。もう寝たい。さすがに疲れたよ。
「よかった。今日は大学休みの日だっけ。バイトもないし。」
重い足を引きずりながらマンションの階段を上り、自分の部屋の前につく。
「ただいま。また戻ってきちゃった。ははっ。」
鍵を開けて部屋に入ると、そのままベッドまで足を運んで、死んだように眠りについた。
死ねないんだけどね……。
「んっ。よく寝た。」
時計を見る。もう夕方の4時だ。
ふと夜のことを思い出した。
「夢じゃないんだね。」
彼は、寂しくないのかな。ずっと、一人で生きてきたのかな。彼、何歳なのかな。聞いとくの忘れた。
彼は違う気がした。周りの人と。
もちろんそれは、ヴァンパイアだからってのもあるんだけど。本当の孤独ってものを知ってるような。
そんな気がした。少しだけ、ほんの少しだけ。興味があった。
なんだろう、この気持ち。やっぱり、分からない。
突然、窓ガラスを叩くような音が聞こえた。
目をやると、そこには見覚えのある姿が……。
「噂をすればってやつなのかな。」
窓を開けるなり彼は、あの笑顔を私に見せる。
「こんばんわ、希。暇だから遊びに来たよ。」
「暇って。そんなこと言われてもな……。今からご飯食べるけど、一緒に食べる?」
「いいの?それじゃあ、お言葉に甘えて。」
私は電気をつける。
彼は眩しそうに眼を閉じる。
「明るいところには慣れてなくてね。」
「じゃあ切ろうか?」
「いや、いいよ。」
電気をつけてはじめに目に飛び込んできたのは彼の髪。公園やマンションの外では暗くてよく見えなかった。ただ、腰くらいまで伸びているということがかろうじて分かったくらいだ。
それは想像以上に綺麗で、目を奪われた。金髪だった。目は公園で見た、あの引き込まれそうな赤だ。
「すごく綺麗な髪だね。」
「そう?そんなふうに言われたのはじめてだなー。ありがとう。」
「そうなの?こんなに綺麗で目立つのに。」
「人間には見られないように生きてきたからね。」
「そうなんだ。ねえ、あなたは寂しいの?」
「それは分からないな、寂しいってのが何か分からないんだよね。どうしてそんなことを?」
「気になったの。ヴァンパイアってゆうのはひそひそ生きてるイメージがあるから。友達とかいるのかなって。」
「それはこれからきっとわかることだよ。君はもうヴァンパイアなんだし。」
「それもそうだね。」
「それより、これを持ってきたよ。」
彼がポンと机に置いたそれは真っ赤な液体が入ったペットボトル。嫌な予感がする……。
「こ、これは……?」
「血だよ。取り立てだから。取り合えず冷蔵庫にでも入れておいてよ。君は元々人間で、ヴァンパイアになったばかりだから体がとても不安定なんだ。そのうち慣れるから、この一か月間は毎日これを飲んで。」
「え?今なんて?毎日?むり、むりむり。」
「人を殺したくなければ飲まないとだめだよ。」
自分なら喜んで殺すってのに……。
「わかった、それは困るから。頑張ってみる。というか、この血って……」
「さっき自殺した人間から採ってきたものだから。新鮮だよ。」
「そう……。」
これ以上聞きたくなかったから、それに関しての質問はしなかった。
「あ、あの、聞いてもいい?……」
「希は質問が多いね。これから少しずつ教えてあげるから、早くご飯食べようよ。」
「あ、うん。そうだね。」
こうして私は本格的にヴァンパイアとして生きていくことになった。
恐怖とか悲しみとか怒りなんてものは驚くほど無かった。それよりも、人間じゃなくなったことで変な解放感があった。
また一日が終わる。彼を見送ったあと、私はすぐに眠りについた。
時刻は午前二時を回っていた。