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猫であること  作者: 藍沢義也
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わたくしは猫である。

名前はまだない。

嘘。名前はちゃんとある。

思索にふけることもなく、食べることと寝ることと交尾することしか頭にないような名もなき輩と一緒にされては困る。隠しても匂い立つような高貴な雰囲気を持つ私ではあるけれど、キャサリンだとかエリザベスだとか赤面ものの名前ではなく、「鈴」と呼ばれている。

これは、私がこの街にやって来た時に鈴のついた首輪をしていたからだ。「鈴をつけている女」から「鈴の女」になり、やがて「鈴」になった。

私は今、埼玉県のとある街にある、築40年は経とうかという古びた一軒家で暮らしている。少し前まではノラでやっていたのだが、この家の主人がどうにも私の世話を焼きたがるので、仕方なく居てやっている。

主人と言ったって家族は他に誰もおらず、もう四十になろうかというのに独身を謳歌している。したくてしているのかどうかは分からないけど、嫁が来ないのだから謳歌しないよりはしたほうがよいといった寸法である。

私が主人と出会ったのは、およそ半年前のことだ。



左足に痛手を負った私は、足を引きずりながらヨタヨタと道路を歩いていた。

この礼は必ずしなくてはならない。やられたらやり返す。利子をつけて。それが私の流儀だ。

しかしながら、まずは安全な場所に身を隠さなくてはならない。

私たちノラが、最も注意しなくてはならないのが車である。あの鉄の怪物に、一体どれだけのノラ達があの世行きにされるか。では道の端を歩いていれば安全かと言えば、テケテケとスクーターは走ってくるし、自転車は来るし、人間の子供達ときたら意味もなく私達を追いかけ回すし。なので一刻の猶予もない。

そこでたどり着いたのが主人の家だったわけだ。

道からやや奥まった所にあり、庭はまるで手入れが行き届いておらず、隠れるには絶好の場所に思えた。

ここならよしと引き込み道を歩いている所に、運悪く主人が帰って来た。サンダル履きで、ビニールの買い物袋を手に提げている。

「おお?猫だ」と主人が言った。

これはまずいと、力をふりしぼり走ろうとするも左足が言うことを聞かない。痛みに顔が歪み、こてんと転がってしまった。

「怪我してるのか?」

主人はしゃがみこんで、「血が出ているな」と言って私を抱き上げた。

緊張で体が強張る。

何かしようものならいつでも切りつけてやるぞ、と私は爪を光らせた。閃光のごとき爪技と称される私の腕ならば、人間が相手とはいえ刺し違えるまでもない。

主人は私を両手でくるむように抱きながら、玄関の引き戸を足で開け(主人には鍵をかけるといった基本的防犯の観念がない)、家の中へと私を運んだ。

汚い家だ。

埃っぽいし、どこからか生ゴミの臭いが漂ってくる。

床を歩いたら、なんだかベタベタしそうだ。おそらく、床を拭き掃除するなどという画期的なアイディアは思い付きもしないのだろう。

主人は私をちゃぶ台の上に降ろすと、まるで腕のいい外科医のような顔で私の足を診察した。

「ただの切り傷みたいだな。折れてもいないみたいだし、病院に行くほどでもないだろう。……しかし、どう手当てすればいいのかね」

独り言を言いながら、布を水で濡らし、私の血を拭う。

これが傷口にしみて、"痛っ!"と私は反射的に主人の手に爪を立てた。

「どうどう」と主人は馬をあやすみたいに言って、私の肉球についた血まで丁寧に拭いた。痛くないのだろうか?

それから救急箱を棚から持ってくると、包帯を細く切って私の傷口に巻いた。

「まぁ、これで様子を見よう。包帯巻いとけばなんとかなるだろう。包帯は万能薬みたいなもんだからな」

ははーん、と私は思った。多分、こいつ阿呆だ。

究明措置を終えた主人は二階に上がり、古い毛布を持って降りてきた。それを八折にして私のベットを作り、私をそこに寝かせた。

なんともいい肌触りだ。少しカビ臭かったけれど。

顔をすりつけていたら、多少気分が落ち着いてきた。人間などというものを簡単に信用はできないけれど、悪い男ではなさそうだという気がしてきた。少なくとも、敵ではないと思う。

おとなしく丸まっている私を見て、

「しかし綺麗な猫だなぁ…」と主人が感心したように言った。

当たり前である。

私から美しさを取り除いてしまったら、後は明晰な頭脳と類いまれなる運動能力くらいしか残らない。どうにも愚鈍な雰囲気を持つ彼だが、美を愛でる感覚くらいは持ち合わせているようだ。

「私の推理によれば……」

唐突に主人が言った。「この子は飼い猫だよ。野良猫にしては毛並みが綺麗だし、何しろ首輪をつけているからね。なに、初歩的な推理だよ、ワトスン」

何を言っているのかさっぱり分からない。



私がうつらうつらしている間に、主人はキャットフードとトイレの砂を買ってきた。

茶碗にドライフードをざーっと入れ、お椀に水を注ぎ、私のそばに置いた。それから、「トイレをどうするか……」とぶつぶつ呟いていたが、物置からベコベコにへこんだ銅鍋を発掘してくると、そこに溺れるくらいたっぷりと砂を注ぎ入れた。

食料と水とトイレ。三種の神器が揃った。なかなかやる。もしかしたら前にもこういう事があったのかもしれない。確かに、道端で段ボールに入った子猫を見つけてしまったら、簡単には立ち去れないといった気の弱そうな顔をしている。

「いいか、にゃんこ。これがトイレだ」と主人は鍋を指差して言った。「ここでおしっこやウンチをするんだぞ?……分かるかなぁ」

馬鹿にするな、と私は思う。これでもノラになる前は飼い猫だった経歴も持つ私である。この手のシステムも、人間のライフスタイルも先刻承知である。壁紙をガリガリやったり、網戸に穴を開ければ怒られる事も分かっている。

主人が家に箒をかけるのはせいぜい二週間に一度くらいだったが、こと私のトイレに関してはマメな男だ。一日に二回は砂をきれいにする。お茶碗のキャットフードは一度として切らさなかったし、水も毎日新鮮なものと取り替えた。下僕としては及第点だ。

足の傷はすぐに癒えた。

本来なら、いつものようにペロペロと舐めておけばもっと治りも早かったような気はするけど、まじないの様に包帯を巻き付ける主人が哀れで、されるがままになってやった。気まぐれな猫にも、私のように義理を重んじる者もいるのだ。

「うん、化膿もしていない。傷口もすっかり乾いたし、もう大丈夫だろう」と主人が言った。やっとうっとおしい包帯から解放される。

主人が私の背中をやさしく撫でる。不覚にも気持ちがいい。喉が鳴ってしまう。

いつの間にか、主人の家のサンルームが私の自室のようになっていた。

主人は私がどこぞの飼い猫だと思っているので、飼い主のもとにいつでも帰れるようにとサンルームのドア窓は開けっ放しである。おかげで、私はいつでも自由に外に出ることができたし、雨に濡れる心配はなかったし、いつも食べる物はあった。ノラと飼い猫のいいとこ取りで、私はすっかりこの生活に馴染んでしまった。もちろん、主人が私をお風呂に入れて洗ったりだとか、薄気味悪い服を着せてくるといった変質者であれば脱兎のごとく逃げ出しただろうけど、ただ「可愛いなぁ」というばかりで何の害もなかったため、私は停留していた。

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