06
体を揺すられる振動で目を覚ます。自分が気を失っていたのか、呆然自失になって居たのかは分からないが、少し状態が回復したようだ。思考がはっきりしている。
「ミオ!ミオッ!おい、大丈夫か!?どうしたんだ!?」
「い、ぬ……ゲホッ!だいじょぶ、だいじょぶだから」
「大丈夫なものか!」
犬が顔を拭う。その手のひらには血がべったり付いていた。ああ出血していたのか、額の傷は小さくてもよく血が出るから、見た目以上に酷く見えているんだろう。もう視界は明滅していないが、左目がかすんで良く見えない。血が目に入ってしまったのだろうか。
「鹿に、蹴られた」
「シカぁ!?」
「なんか、興奮した牡鹿に、出くわしちゃって」
「蹴られたのは頭か?目はどうだ、見えるか?」
「かすんでるけど、見えるよ」
犬が大きく息を吐いた。脳震盪と切り傷だけだからおそらく大した事無いだろうが、無駄に心配をかけてしまったな。申し訳ない。
犬の手を借りて立ち上がると、頭がくらりとゆれ、思わずたたらを踏んだ。多少回復したと言っても、脳みそが強い衝撃で揺らされたのだ、無理も無い。歩けないわけではないし、犬の手を借りてゆっくり歩いて帰ればいいだろう。
「ミオ、抱えるぞ」
「ん?」
犬が不意に腰を折ったと思えば、膝裏と腰に腕をまわして勢いよく抱き上げられた。いわゆる姫抱きだ。
犬はいまだ筋肉が戻らず病人と大差ないと思っていたのに、いつの間にか危なげなく人一人を抱えられるほどになっていたとは。だがそれもそうか、毎日モリモリご飯を食べて、日中は森歩きに狩猟の真似事までしているのだ。しかも早く元通りになるようにと、時々魔術で肉体を活性化し、回復を促してやっている。そりゃあ普通よりも短期間で回復するはずだ。
「犬、お前すっかり良くなったねえ」
「今はお前が良くないがな」
「大した怪我じゃない」
「失神しておいてどの口が言う」
「……犬のくせに」
「ハッ」
飼い犬に手をかまれたような気分だ。
犬はミオを抱えてさっさと家に帰ると、やけに丁寧にベッドに下し、甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。
濡らした布巾をアッという間に用意し、窓辺で乾燥中だった薬草を鷲掴みし、腰に下げた鉈を下ろす事すらせずに凶悪な顔でミオに迫る。
「さあ、傷を見せろ」
「いいよ、自分で出来る」
「駄目だ、自分では見えないだろ。それに、頭の傷は後々何があるか分からん」
「あのねえ、わたしを誰だと思っているの。これでも魔術師だよ、魔術師」
「それがどうした」
「自分で治せる」
そう言うやいなや、額の傷口にパッと手をかざす。体の中に存在する魔力が額に集まる熱い感覚。切れた血管が繋がり、分かれた細胞が再び結合するイメージを強く想像する。
ほんの一瞬の後。かざした手を下げればそこにはもう傷はなく、ただ血の跡を残すばかりだった。
「ほら、見て」
「ほお……一瞬で傷を消す魔術師は、初めて見た」
「そうなの」
「大概は、小さな傷でももう少し時間がかかるな」
「よく知ってるね」
「魔術師が治癒をする所を、幾度か見た事がある」
「ふうん」
怪我が治ったのならもう大丈夫とばかりに、濡れた布巾で顔をごしごしと擦られる。未だ乾いていない血が布を染め上げていった。犬はそれを見て再び顔をしかめる。
「ミオ。鹿肉は好きか」
「食べた事無いからわからない」
「鹿ほど大きい物は今まで狩った事が無いが、雪が降り出す頃までには食わせてやろう」
「ええ……お前それ……」
「冬を前にした動物は肥え太っている。精がつくぞ」
どう考えても復讐です。忠犬ぶりが少々苛烈な気がしないでも無い。
「それと、奴隷の身で過ぎた願いなのだが……」
「ん?なに?」
「鉈と、解体用のナイフが欲しい」
「今のやつは?」
「鉈は手入れしてみたが、もう錆びていて駄目だな。ナイフは元々解体用の物ではない」
兎やら鳥やらを捌いていたナイフは、そういう用途のやつじゃなかったのか……。いや、確かに魔術師の家に獣の解体道具が有る方がおかしいか。犬が特に文句もいわずに使っていたから、用途に会った刃物を用意するという事にそもそも思い至らなかった。
「鉈の錆はわたしが落とすよ。ナイフは、わかった、買いに行こう。ちょうどお前の服とか、雑貨類を揃えなきゃいけないと思ってたんだ。他に何か欲しい物はある?」
「……俺が望めば与えてくれると?」
「そうだね、お前はわたしの犬だもの」
「ならば」
剣を。
お前の為に生きる奴隷として、主人を護る手段を与えてくれ。
床に膝をつき、主人を見上げる姿。それはまさに、忠実な犬。血に濡れたその手で、主人を護ると言う。
ミオは、己の背筋にぞくぞくとしびれが走るのを感じた。これだ、これこそが、自分が求めていた物だ。主人に忠実で、裏切らず、自分で考え行動し、けれど主の意のままに。どこへやっても自分の足で帰って来る、躾の行き届いた犬。
あの時金で買った奴隷は、ミオの理想の犬へと育った。
見上げる犬の襟元から覗く赤い花に指を這わせ、額に愛玩の口付けを落とす。犬は喜びに破顔した。