03
まずは左足から始まり、一日空けて次は右腕の治療をした。
犬の両の手のひらは皮膚が硬い。ペンだこかなにだこか分からないけど、右の手のひらの方がたこが固くて大きかったので、きっと右が利き腕だろうと予想して、先に右を治してやる事にした。足が悪いのもつらいけれど、手が使えない事の方がもどかしかろうと思ったからだ。
次にまた一日空けて左腕、さらにまた一日空けて左足。身体のあちこちに残る傷跡は、毎日犬の身体を拭いてやる時に少しずつ唇を寄せた。身体がすっかり綺麗になる頃には、犬はがりがりの骸骨から痩せすぎの男性になっていた。
身体が治ったならば、躾をしなければいけない。人間を買ったのは犬よりも手間がかからないだろうと思ったからで、自分の事を自分でやってくれないのなら犬畜生と大差ないのだ。とは言っても、犬はいまだに日がな一日ベッドの上でぼんやりしている。生きる意欲とかそういうものは、私が手を出してどうこうできることでもないだろう。うむ、まあ、それは追々。
「犬、水浴びしよ」
そう言って連れ出したのが、家からほど近い小川である。森の奥の泉から流れてくる水はいつも綺麗で冷たい。私はよくここで洗濯したり、果物を冷やしたり、時々魚を捕ったりしている。
犬の腕を引きベッドから引っぱり出すと、予想外に犬はすんなりと立ち上がった。ついておいで、と言えば素直についてくる。犬っぽくていい感じだ。拷問じみた治療のせいで今後怯えられてしまうかな?と思っていたが、熱で意識が朦朧としていたからかあまり恐怖は根付かなかったようだ。よしよし。
籠にまとめてあった荷物を抱えて小川に向かう。そこで初めて犬が裸足のままだった事に気付いた。まあでもすぐそこだし、背の低い下草も生えているから怪我はしないだろう。
川に着くと、ミオは平らな岩の上に向かって籠の中身を豪快にぶちまけた。
「あなたの着替えと、タオル、あと石鹸があるから、川で身体を洗ってちょうだい。川は真ん中辺りが少し深くなっているから気をつけてね。私はその辺で木の実を摘んでるから」
犬は何を考えているかよくわからない目で、そそくさと立ち去るミオを追っていたが、近からず遠からずの距離でミオがしゃがみ込んだのを見留めたのち、自分の服に手をかけた。
ミオは木の実を摘み取りながら、じゃぶじゃぶと水の音がするのを聞いていた。ちゃんと自分で水浴びを始めたようでよかった。体力は戻り切っていないけれど、いい歳した男なのだからあとは放っておいても問題ないだろう。ミオは木の実摘みに専念する事にした。
そもそもの話だが、こんな川で水浴びしなくともミオの住む小屋にはちゃんと風呂場がある。だからミオは川で水浴びなんてした事がない。それなのに犬をわざわざここに連れて来たのは、ただこの木の実が摘みたかったからで、ついでに犬も連れてくかと急に思い立った、ただそれだけの理由である。それに普通の犬は風呂には入らないだろうから別に今後も川で……いや、最近風が冷たいし次からは風呂に入れてやろう。
ミオが次々と籠に放り込んで行く木の実は、小さく赤い実で、群生した低木自体が赤く見えるほど沢山実っていた。子供も野生の動物もあまり食べない実だが、乾燥させた後発酵させると解熱剤になる。これから作り始めれば、冬の頭にはいい値段で売れるし、魔術で効能を増幅すればさらに高く値が付く。元手はゼロだしぼろい商売だ。
こういう金勘定をする時、ミオは自分に魔術の才能があってよかったなあとしみじみ思うのであった。
籠が木の実でいっぱいになるころ、犬は無事水浴びを終えてミオの所までやって来た。体はちゃんと拭いた様だが、髪からは水が滴り肩に模様を作っている。なんだか水浴び前よりもしょんぼりした感じがして、ミオは思わず笑った。
「髪がびしょびしょだよ、ちゃんと拭きなさい」
犬はぼんやりミオを見ている。
「ほら、かがんで」
ミオよりも頭2つ分も背の高い犬の頭には手が届かないので、その場でかがませる。犬の持っていた服の中からタオルを抜き取り、ぐしゃぐしゃと頭を拭き乱した。犬はちょっと眉をしかめている。さらにおもしろくなって笑えてくる。
「そうだ、犬。これ食べてごらんよ。滋養にいいんだよ、口開けて」
籠の中の赤い山の中から一粒つまみ上げると、犬の口に放り込んだ。
「……ッぐ」
ひと噛みした途端、犬はうめき声を上げて口を抑える。ミオはついに声を上げて笑った。この木の実は確かに滋養にはいいけれど、そのまま食べると非常に酸っぱい。それはもう酸っぱい。
犬はうらめしそうにミオを見ていた。
小屋に連れ帰った犬は、日当りのいい窓辺に座らせて日向ぼっこをさせることにした。やはりまだ体力が戻りきらないのか、しばらくしたらうとうとと居眠りを始めたので、その間に夕飯の支度をする。今日までずっと離乳食のようなどろどろに煮込んだスープだったが、いい加減普通の食事でかまわないだろう。何より私がもう味付け控えめどろどろスープに飽きてしまった。
食器棚の一画を仕切って作った食糧庫から鶏肉を取り出す。この棚は魔術で保冷の効果を持たせているので、わざわざ毎日時間をかけて町の中央まで生鮮食品を買いに行く必要がない。魔術師の家ならではの便利棚だ。魔石を使えば一般家庭でもこのような保管庫を作れるだろうが、貴重で高価な魔石をそんなことに使うバカは居ない。魔石の採取量が増えればもっと生活が便利になるのにと、ミオは魔石の人口生成の研究をしているが、片手間にやっていることなので現状全く成果は上がっていなかった。閑話休題。
ミオは取り出した鶏肉と野菜を手早く調理していく。もともと料理が得意ではないので、ミオの料理は基本的に煮るか焼くかだ。下味をつけた肉と野菜、そして先ほど摘んだ木の実も一緒にかまどで焼き上げた。あとは麦粥と酢漬けの野菜。犬は酢漬けは苦手だろうか。でも自分が食べたいので出しておく。
すっかり日が落ちてしまったが、犬はまだ寝ていた。肩をつかんでゆすり起こそうとした、その時。
ガッ!
肩をゆすったはずの腕が、犬に掴まれていた。加減を知らない力が込められ、骨がきしみ爪が食い込む。
「……痛いよ、離して」
寝ぼけていたのだろうか。犬はすぐに手を放すと、気まずそうに視線をさまよわせた。その仕草はなんだか、いたずらが飼い主にばれたときの犬みたいだった。気にしてないよと、肩をたたいてやる。
「犬、ごはんできたよ。食べよ」
いつもはベッドで食べさせていたが、今日初めてテーブルにつかせた。配膳はもうできている。どうぞと一声かけて、ミオは犬が手を付けるのを待たず食事を始めた。
犬は鶏肉に添えられている……というか、まぶしてある赤い木の実を見て眉をひそめた。昼間の味を思い出しているのだろう。ミオは赤い実をフォークですくって自分の口に放り込んだ。甘みとかすかな酸味があっておいしい。この実は加熱調理すると酸味がぐっと減り、香り高くなるので、淡白な鶏肉によく合うのだ。
犬は意を決し、鶏肉と木の実を口に入れた。
「……う、まい」
犬が初めてまともに発した声だった。よく見るとちょっと泣いていた。