13.友情と嫉妬の狭間で? その1
風呂の中で、ミチルは彼女のことについて考え込んでいた。いや、今となっては彼というべきだろう。
ミチルが女だと思っていた相手。彼は、男の子だった。女の体になってしまったという特殊な環境にある男の子だったのだ。
(私、今まで男の子と手を繋いだり抱き合ったり抱き上げられたりしてたんだよね……)
それについて考えると、ミチルは頬が熱くなる。その顔が、徐々に湯船に沈んでいく。
だって、仕方がないではないかと思う。相手は女の子の体をしているのだ。誤解も起こるというものだ。
卑怯ではないかとすら思う。
(それどころか、キスまで……)
湯船から出た鼻で息をしながら、ミチルは心の中の口を閉ざした。
あれは女の子同士のキスだから、ノーカウントだと思っていた。けれども、相手が男だとわかれば話が変わってくる。
今の状況をどう処理したものか。それだけで頭がこんがりそうだった。
ミチルは、ある人に恋をしている。名前も知らないあの人。ミチルを救ってくれたあの人。あの人への思いは揺るぎない。
ならば、彼への思いはなんなのだろう。あの人に恋する思いは変わりないが、彼は彼でかけがえのない存在だと思っている。いや、それ以上に思っているかもしれない。
頭の中が混線しているかのようだった。
そんなことを考え込んでいるうちに、ミチルは完全にゆだってしまった。湯船を出て、脱衣所に出て、体を拭いて、用意された寝間着にふらつきながら着替えて、その場を後にする。
ふと思う。彼はどんな容姿の男の子なのだろう、と。
逞しい男の子なのだろうと思う。何せ、ミチルを軽々と持ち上げてしまうのだから。
この世界には、幸い写真というものがあるらしい。ならば、それで確認してみようと思った。
桜に先導されて、沖田家の倉庫に向かう。桜は倉庫の電灯をつけると、中に入ってすぐの場所で周囲を探り始めた。
スイッチを入れただけで部屋が明るくなる。その原理が理解できていないミチルは、未だにその現象を見るだけで心音が高くなる。
桜はしばし周囲を探っていたが、そのうち困ったように頭を掻いた。
「変だなあ。アルバム、ここにあったと思うんだけれど」
「ないんですか?」
「うーん、なくなってるなあ」
「そうですか……」
彼の容姿を見る機会は失われた、ということか。
ミチルがファーストキスを捧げた彼は、アカデミーで共に過ごしてきたかけがえのない存在である彼は、本来は、どんな容姿の男の子なのだろう。
そんな興味が、ミチルの胸にはある。
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「どうしたんじゃ、青。アルバムなんぞ抱えて」
祖父に背後から呼び止められて、青は動きを止めた。
「いや、ちょっとね。ミチルに見られたら困るものがあるんだ」
「ほう、まあ、深入りはせんが」
祖父はそう言うと、庭の縁側に声を上げて座り込んだ。
「少し、話さんかね」
「アルバム、ベッドの下に隠してきてからでもいい?」
「構わんぞ」
青は、アルバムをベッドの下に隠すと、祖父の座っている場所に戻って来た。
今日は綺麗な月夜だ。ダイヤモンドを散りばめたような星が空には広がっている。
青は、祖父の隣に座った。
「いやあ、女の子が増えると華やいでいいの」
「俺ぁ男だけどな」
「細かいことは言わんもんだ」
「まあ、いいけどさ」
風が、吹いた。秋の夜風は、少し肌寒い。青は、小さく震えた。
「良い目になった」
祖父が、呟くように言った。
褒められているらしい。青は、戸惑いながらも返事をする。
「どうも」
「前のお前は、目標もなく死んだ目をしておった。けれども、今は生きた目をしている。異性に好かれるだろう、活き活きとした目だ。いなくなった間、何をしていた」
「何をしていたって、一口には説明できないな。バックグラウンドから説明しなくちゃならない」
「かまわんぞ。時間はたっぷりある」
祖父が、青の顔を横目で見た。
「違うのか?」
元の世界に戻る箱は、青のポケットに入っている。帰るタイミングがいつになるか、青もまだ考えていない。あちらの世界の授業に遅れてしまうことを考えれば、近々帰らねばならないだろう。
しかし、まだ、時間はあった。
「そうだな。雑談する時間ぐらいはある」
「やはり、この場所に留まるつもりはないか」
「この体をどうにかしねーといけないだろ、じいちゃん。沖田青は戸籍上は男なんだ。それをどうにかしないかぎり、俺はこの世界じゃ宙ぶらりんな存在だ」
「男装すればどうかの」
「残念なことに、可愛らしい外見になっちまったからなあ」
「胸は小さかろうて」
「五月蝿いよ。孫の胸のサイズについて感想を述べねーでくんないかな」
「尤もじゃな」
祖父は、滑稽そうに語った。
しばし、沈黙が漂った。再び、肌寒い風が吹いた。月は優しく、二人を照らしている。
「アカデミーって場所があってな」
「学校か?」
「剣術科、魔術・神術科、舞姫科に分かれている。舞姫科は生活費が支給される。卒業後の進路も保証されている。俺は、そこの舞姫科ってとこに入ってた」
「魔術、神術、のう……」
祖父は悩ましげに唸る。
「胡散臭いだろ?」
青は苦笑する。
「お前の外見がそうなっとるんじゃ。納得するしかなかろう」
「理解のあるじいちゃんでありがたいよ。舞姫科では剣術と魔術と舞を習うことになった。剣術はトップクラス、魔術は規格外、舞はそこそこ。俺は目立ちまくってた」
「目立つのは嫌いじゃなかったのか。嫉妬を買う、とかで」
「それを許してくれる、友人達がいたんだ……」
ミサトのことを思い出す。彼女は今、どうしているだろうか。今も、青を友人と思っていてくれるだろうか。
「剣の腕を伸ばせば、遺跡の魔物にも対抗できる。魔術の腕を磨いても一緒だ。俺はがむしゃらに練習した。遺跡に眠っている魔法陣を探せば、俺を男に戻してくれるものがどこかにあるかもしれない」
「わかりやすい目標があった、というわけか」
「そういうこと。剣術科の先生には気に入られてるんだぜ。敵の先を読め、が口癖の先生でさ。毎日のように居残り稽古を受けてる」
「そうかそうか。良い友と、良い師に、ようやく巡り会えたか……」
「……そうなのかもな。俺がくじけなかったのは、その人達のおかげだ」
「一人でいた頃のお前は、本当に死んだ目をしていた。この先、大丈夫かと思うほどな」
祖父の言葉に反論できなくて、青は苦笑する。
確かに、この世界にいた頃、青には目標がなかった。心を許せる友人もいなかった。予習と復習を欠かさなければついていける授業だけを機械的にこなし、ただ惰性的に日々を送っていた。
そんな青にとって、異世界の環境は刺激に満ちていた。
皮肉にも、トラブルと苦難が青に生きているという実感を与えてくれていた。
「……その場所にいるほうが、お前にとっては幸せなのかもしれんな」
祖父が、少し寂しげに言った。
「何言ってんだよ、じいちゃん」
青は苦笑する。
「帰ってくるために、俺は苦労してたんだぜ」
そう、どれだけ離れても、青が帰ってくる場所は家族がいるこの場所なのだ。科学の発展したこの世界なのだ。
異世界での生活は、一時の夢でしかない。
「いや。二度と会えないかもしれないとしても、お前が幸せそうにしていてわしは安心した。師と友人にはよろしく言っておいてくれ」
「……ありがとう、じいちゃん。けど、俺は戻るさ。じいちゃんの道場を継がにゃならん」
「こんな道場なんぞじゃ食えんと言ったろう。まったく、お前はこの世界に戻って来たらまたやる気のない人間に戻るんだろうな。どっちが良いのやら」
「本当、どっちが良いのやら、な」
青が帰ってくるまでに、欲しいものがある。それは、ミチルだ。ミチルを連れて、この場所に帰って来たい。
ならば、ミヤビやミサトとの友情はどうなる?
最後には生き別れになるのが運命なのだろうか。
「……まあ、気軽に行き来できない場所でしがらみなんて作るもんじゃないよ。じーちゃん」
「手紙のやり取りはできるじゃろ。今なら、メールもあるんじゃないか」
「できないんだよな、これが……。そういうのが一切、届かない世界なんだ」
「ふむ。信じてやりたいが、信じ難い話じゃのう」
「あんたの孫はそういう不可思議な出来事にぶつかってるってことさ。そうだ、あっちで覚えた特技もあるぜ」
「ほう」
祖父が、興味深げに目を見開く。
青は、サンダルを履いて庭に出て、精神を集中した。
心の中にある門に風を送り込むような意識を持って、それをそのまま留めるイメージを持つ。
体魔術の発動だ。
青は高々と飛び上がる、つもりだった。
しかし、普段と変わらぬ跳躍しかできなかった。
「……ただのジャンプじゃないかの?」
祖父が、怪訝な表情になる。
「違う、今の失敗。ちょっと違うのをやってみる」
青は両手を前に差し出して、再度心の中の門に風を送り込むような意識を持つ。ウォール型の炎の魔術の発動だ。そのはずだった。
けれども、炎は出てこない。
青は、呆然としていた。
そのまま、衝動に突き動かされたように駆け出す。
「おい、青?」
祖父の戸惑ったような声が背後から飛んで来る。
青は家中を探して、ミチルを見つけ出した。彼女は、倉庫の中で探しものをしているようだった。
彼女の肩に両手を置いて、言う。彼女は、大きな瞬きを一つした。
「ミチル、神術を使ってくれ」
「神術って言っても、怪我してる人がいないと……」
「魔術でもいい」
「ボール型でいい?」
「ああ」
青は頷く。
ミチルは意を決して、両手を前に差し出して、意識を集中し始めた。そして、戸惑うような表情で、青を見た。
「魔術が、発動しないよ?」
「俺だけじゃなかったか……」
「……あの箱は、どうだろう」
ミチルが、顔面蒼白になりながら言う。青も思っていたことは同じだった。
青はポケットから鉄の小箱を取り出す。異世界を繋ぐことができる不可思議なアイテムだ。
その箱を、ミチルに手渡す。
ミチルは頷いて、箱を開けた。
何も起こらなかった。悲しいほどに、その場には異変がなかった。静寂が、場を包んでいる。
「戻れない……?」
ミチルの声に現実を突き付けられて、青の心は砕けた。
あの世界に戻れないことが、これほどショックだとは思わなかった。
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二人は、青の部屋にやって来ていた。祖父には、そっとしておいて欲しいと伝えてある。
「ミサトちゃんも、ミヤビちゃんも、サクヤとも、もう会えないのかな……」
青は放心状態でベッドに寝転がっている。その傍に座り込んで、ミチルは呟くようにそう言った。
「手はあるはずだ。何か、手はあるはずだ」
青は、祈るように言う。けれども、ミチルは何処までも冷静だ。
「魔術のないこの世界で、どんな手段があるっていうの? あの世界には魔法陣があった。けれども、この世界には魔術のまの字すらない」
「けど、俺はあっちの世界に呼び出された。また、呼び出される可能性はある」
「なら、その呼び出しがなんでかからないの? 敵はこうなることを知っていたんだよ、きっと」
「……罠にまんまとかかったか」
青は、顔を手で隠した。情けなかった。安易な行動で、取り返しの付かない状況に陥ってしまうとは。
「巻き込んじまったな、ミチル」
「ううん。行こうって言ったのは私だよ。だから、自業自得だよ」
青を励まそうとするミチルの言葉も、トーンが流石に沈んでいる。
青は、発想を切り替えることにした。
この状況は、あの時と一緒だ。あの世界に呼び出された当初。金もなく呼びだされた目的もわからず、目の前のことに体当りしてぶつかっていたあの状況。
「……この世界で、暮らすか?」
「……アオちゃん?」
「あの世界に飛んだ時よりも、状況はマシだ。家がある。金も戸籍もないけれど、それは政府に相談すればどうにかしてくれるかもしれない。記憶喪失とかそういうことにして誤魔化してさ」
ミチルは、黙りこんでしまった。
「俺は、ミチルがいてくれれば、十分だ。いや、心の何処かで、いつかミチルと、この世界に戻って来たいと思っていた」
それは、口説き文句だった。青がとっさに思いついた、口説き文句だった。
そうだ、ミチルがいればそれで十分じゃないか。青は女の体になってしまった。けれども、ミチルさえ傍にいてくれれば、なんだって乗り越えられる気がする。
ミチルは、しばらく考え込んでいた。
「この世界は、嫌いか?」
「慣れないな、とは思うけれど、凄いな、とは思う」
その声には、少しばかりの憧れが混ざっていた。
「平和だぞ。剣を持ってうろついてる奴もいないからな」
「車はあるけれどね」
冗談めかしてミチルは言う。
その声のトーンが、不意に再び沈んだ。
「駄目なんだよ、アオちゃん」
呟くような、そんな声だった。
「私はあの世界の血肉を食べて、あの世界の空気を吸って、あの世界の人々に育てられてここまで大きくなった。この体は、あの世界に返さなきゃいけない。私の最後の目的地は、あそこなんだ」
青の最後の目的地がこの場所であるように、ミチルの最後の目的地はあの世界なのだ。
それは、決別の言葉だった。
二人は悲しいほどに、最終目的地が違っていた。世界の壁を隔ててしまうほどに。
ミチルが、不意に立ち上がった。ベッドが、小さく揺れる。青は顔を隠したまま、そのまま仰向けに寝転がっていた。
「……そうなんじゃないかって、この家に来てから、心の何処かで思っていた」
部屋に響いたのは、苦笑するような、ミチルの声。
「アオちゃんだったんだね、私の想っていた彼は」
青は、慌てて上半身を跳ね起こした。
ミチルの手にあるのは、青の制服。そのポケットに入れてあった、学生手帳。その視線は、手帳に貼り付けられた写真に向けられている。
青は、ミチルには自分の過去の姿を隠すつもりだった。男の時の青に彼女が一目惚れした事実を黙っていたことは、悪印象になるかと思ってしまったのだ。
「あ、いや、ミチル、それは、その……」
「アオちゃんで良かったよ」
ミチルは、微笑んで言う。
「あの人、良く考えればアオちゃんに雰囲気や口調が似てた。だからきっと、惹かれたんだね」
青はしばし、俯いていた。しかし、そのうち立ち上がって、ミチルを抱きしめていた。
「駄目だよ、アオちゃん。アオちゃんはこの世界に、私はあの世界に、それぞれ帰るのが最後の目標なんだ。きっとこれ以上想いを重ねたら、きっと悲しくなるよ」
「最後の目標がなんなんだよ」
青は、強い口調で言っていた。
「今、やっと、二人の思いが通じあったんだ。この瞬間以上に大事なものがあるかよ」
「アオちゃん……」
青はミチルの体を抱きしめたまま、ベッドの上に移動した。そして、彼女の体を横たわらせる。
そして、彼女の唇を吸った。軽く、しかし、何度も。
「アオちゃん、ちょっとそれは早急っていうか、私も、心の準備が……」
ミチルが、顔を真赤にして言う。
「今は、何がどうなってもいいじゃないか」
「適当なこと言ってるでしょ、もう」
ミチルは困ったような表情になる。
その時のことだった。
部屋の中央に、光が走った。
そこには、赤い髪と赤い目のあの少女が、青を異世界に呼び出したあの少女が立っていた。
「適応者は契約を果たしていない。そのまま、元の世界に戻られたら困る」
青とミチルは、慌てて離れて居住まいを正す。
「そう言っても仕方ないだろ。戻れなくなっちまったんだから。あんたの力でどうにか戻してくれよ」
「私の権限で一度に契約を結べるのは一人だけ。それも様々な条件がある。貴方が女の体になったのも、その条件の一つ」
「つまり……?」
「貴方が生きている時代から、新たな適応者を招くことはできない。私の管轄外」
青は、深々と溜息を吐いた。
「つまりあんたは、愚痴をこぼしにこの世界に来たってわけか?」
「やって来たわけではない。思念を飛ばしただけ」
「ほー」
青はそう言ってベッドから下りると、彼女の腕に触れようとする。その手は、空を切った。
「本当だ。本体がいやしねえ。ついでだから、あんたが何処にいたかも教えてくれないものかね」
「それは不可能。私が制作された際の禁止事項に含まれている」
「制作された、ねえ……」
つまり、彼女はホムンクルスの一種だということで間違いないということだろうか。
「この世界にも、貴方達が暮らしていた時代に使っていたマナと同種のものが溢れている地帯がある」
「マナ……?」
「どれだけガスがあろうと、火花が生まれなければライターの火はつかない。その火花を起こすきっかけとでも言うべきものがマナ。魔術のきっかけとなるもの」
「なるほど、わかりやすいね」
「私にはちんぷんかんぷんだけど……」
「この時代の人間に合わせて理屈を組み立てたつもり」
赤い髪の少女は、無感情な表情で淡々と言葉を続ける。
「じゃあ、その場所でこの鉄の箱を開けば……?」
「貴方の中にはゲートが作られたままになっている。貴方は、私達の世界に戻れる」
ミチルが抱きついてきた。嬉しさのあまりだろう。
けれども、青は複雑な気持ちになる。
(戻れるってことは、いつか別れなきゃいけないってことなんだぜ、ミチル。わかってるのかよ……)
そんな思いを飲み込んで、青は訊ねる。
「その場所は、何処だ?」
「貴方達が最初に訪れた森。その中に、マナの発生地がある。けれども、そのマナはまだ弱い。中心地に行かなければ、鉄の箱は発動しないと思う」
「わかった」
「けれども、注意するべき。この世界にはこの世界のマナを使いこなす人々がいる。彼らは……」
その時、少女の体が揺れた。かと思うと、次の瞬間には消えてしまっていた。
「目的は決まったね、アオちゃん」
ミチルが、決意の篭った表情で言う。
「……ああ、残念ながら、決まっちまったな」
青は苦笑する。
「アオちゃんは嬉しくない? ミサトちゃんやミヤビちゃんやジンさんとまた会えるんだよ」
「嬉しいよ。嬉しいけーどーさー」
「今日はもう遅いし、こっちの世界の人達にお別れもしなくちゃいけないし、明日の朝に出ようか」
「そうだな。この世界のマナを使いこなす人々って言葉も気になる。夜に森に向かうのは、どうも心配だ」
「……一晩あるってことだよ」
ミチルが、小声で言った。
耳まで真っ赤になっている。
「……ああ、そういや。一晩、あるな」
青も、そっけなく答えた。
暗闇の中で、二人の間を沈黙が包む。
そのうち青は、そっと手を伸ばしてミチルの手をとった。




