ただ、知りたかった。
リクが神社に行くと、いつものようにユイが境内を掃除していた。
その周りを猫や、小さな見えないモノたちが付きまとっている。
「はいはい、ちょっと待ってねー」
そんなモノたちを軽くいなしながら、ユイは庭を掃き、床を磨き、古い供物を捨てて、神社を綺麗に保っている。
「何か手伝おうか?」
リクがそう訊くと、ユイは少し考える素振りをした。
「うーん・・・手伝ってもらうのは、まだいいかな」
まだ、とはどういう意味だろうか。
リクが逡巡している間に、思い出したように今度はユイが声をかけてきた。
「そうだ、リク、日曜日に一緒に行きたいところがあるんだけど、良いかな?」
「え、ああ」
「トヨちゃん、日曜日はちょっと出かけるから来れないね。あと、リクも借りていくから」
ユイはリクのことなどお構いなしに、あれよあれよと話を決めていく。
「じゃあ、日曜日ね」
そして、さっさと帰り支度して去っていってしまった。
リクはサキチにユイの事を聞いてみた。
人に見えないモノを視ることが出来る力を持つ少女。
かつて、自分はそんな世界に耐えることが出来なくなり、その力に蓋をしてもらっていた。
ユイはどうだったのだろう。訳の判らないモノに囲まれる生活を、恐れてはいなかったのだろうか。
「あいつは基本的にトヨが教育してたからなぁ」
以前ユイが言っていた通り、眼に見えないモノの中にも、恐ろしいモノとそうでないモノがいる。
その見分けだけしっかりとしていれば、必要以上に怖がることは無い。
祖父に連れられてほぼ毎日のように神社を訪れていたユイは、トヨによってそういったことを教えられ、正しい対処の仕方を学んでいるという。
「まあでもそれだけのことだよ。特別なことなんて何もない」
サキチは退屈そうにそう言った。
リクにはよくわからなかった。
目に見えないモノがあふれる世界の中、涼しげな表情で何事も無く日々を過ごしているユイは、リクにとっては十分に特別な存在だった。
日曜日、リクはユイとの待ち合わせ場所に向かった。
「ちょっと遠出になるけどいいかな?」
「何処に行くんだ?」
微笑むだけで、ユイはその質問には答えなかった。
バスと電車を乗り継いでやって来たのは、少し離れた街だった。
「ここは、もうトヨちゃんの管轄の外なんだよね」
そんなことを言いながら、ユイはどんどん先を歩いていく。
市街地を抜けて、さびれた人気のない公園の中、小さな塚の前までやって来た。
「ここだよ、リク」
リクは身震いした。
真夏だというのに、強い日差しの下にいるというのに、何故かうすら寒い空気が辺りに立ち込めている。
この感じには覚えがあった。
少し前、あの黒いモノに追い回された時、悪い夢が現実に連なっているみたいな。
世界が夢に沈んでいる、ということなのだろうか。
「そこにいるの、わかる?」
ユイが指差した先には、確かに何か、見えないモノがいた。
リクでも目を凝らさないとわからないほどの、ぼんやりとした不確かなモノ。
だがそれは、リクが視る力を取り戻してから街中で見るモノとは何かが違うような気がした。
「わかる・・・けど、ユイ、あれはなんだ?」
「あれは、死霊だよ」
ユイは事も無げに言った。
「人間には霊魂がある。思考とか本質が魂、記憶が霊。死んだ人の記憶が残されていれば、それは死霊」
「地縛霊ってヤツか?」
「そんなものかな」
ユイが死霊に近付く。
死霊はユラユラとゆらいで、少年の姿になった。
「良くないモノ、なんだよね。だからトヨちゃんやサキチさんには頼めなくて」
リクの方を向いて、ユイは寂しげに笑った。
「リク、お願いして良いかな。私だと力が弱くて彼の声が聞こえないから・・・代わりに聞いてほしいの」
「聞く?」
「そう、これは彼の記憶だから、彼が覚えていたことは知っているはず」
死霊の前に立つユイの姿が、かすかに揺れた気がした。
「教えてほしいの。あなたは、本当に見えていましたか?、って」
翌日、リクは目が覚めると、サキチから学校帰りに神社に来るように言われた。
神社ではトヨが不機嫌そうな表情で待ち構えていた。
「死霊の臭いがする。今朝、ユイからも同じ臭いがした。キミたちは私の力の及ばないところで何をしてたんだ?」
観念して、リクは昨日ユイに連れられて死霊のいる場所に行って来たと伝えた。
「はあ、キミたちは本当にもう」
呆れかえったようにトヨは説教を始めた。
いわく、死んだ者は生きている者とは異なる理に従っている。
いわく、イタズラに死んだ者と言葉を交わしてはいけない。それは生きている者とは相容れない存在の言葉である。
「それで万が一キミたちに何かあったらどうなることやら」
散々一方的に話した後で。
「とにかく、リク」
トヨは厳しくリクを睨みつけた。
「・・・今回はありがとう」
不意にトヨの表情が柔らかくなって、リクは驚いた。
「私やサキチでは、どうしても理に縛られてしまうからね。ユイの願いを聞き届けてあげることは出来なかった。これは、リクにしか出来ないことだっただろうね」
リクは昨日のことを思い返し、改めてトヨに報告した。
死霊に向かって、リクは「見えていたのか?」と問いかけた。
返事は、「見えていない」だった。
その言葉をユイに伝えると、ユイは目を閉じて何事かを考えているようだった。
「・・・そう、やっぱり」
小さな声で呟くと、ユイは顔を上げた。
その目から、涙が一粒、零れ落ちた。
「知ってた。だって、ここには何もいなかったんだから」
ユイは優しく微笑んだ。
ユイの言葉が聞こえたのか、死霊の姿が、ぐにゃり、と歪んで。
そのまま世界に溶け込むようにして消えてしまった。
「中学の同級生、クラスメイトだったの」
公園のベンチに座って、ユイはぽつりぽつりと語った。
「ちょっと変わった子で、ひょうきんで、みんなを笑わせようとしてる感じで、なんだか目立ってた」
その頃のユイはクラスの、いや学校の中でも少し浮いている感じだった。
見えないものが見えると言う気持ちの悪い子。それが周囲のユイに対する評価だった。
それはユイにとっては単なる事実であったし、いちいち否定することもわずらわしかったため、ユイはそのまま孤立していた。
「そんな時、彼が声をかけてきたの。俺にも見えるんだ、って」
何かを思い出したのか、ユイはふふっと笑った。
「ホントに、そんなウソすぐ判るのにね」
そのクラスメイトは、ユイをこの場所に連れてきた。
ユイにトヨがいるように、この場所に、彼の神様がいると言って。
「何もいない、形だけの塚なのに」
そこでユイは一旦言葉を切り、うつむいた。
「でも、その時私はウソをついた」
いないとわかっていたのに。
「そうだね、ここには、あなたの神様がいるね、って」
そう、応えてしまった。
ユイの肩が震えた。
目線の先には、何もいない小さな塚があった。
ユイにはわからなかった。
「そんなものいないって言った方が良かったのか、それとも本当に私には見えていなくて彼にだけは見えていたのか、私にはわからなかった」
彼が何のためにそんなことを言ったのか、彼がどうしてユイに声をかけたのか、わからなかった。
「何もわからないまま・・・彼は死んでしまった」
ユイは掌を強く握った。
彼が死んだ後、ユイはここに彼の死霊が居ることを知った。
ここには、彼にとって、何か大事な心残りがあるのだろうと、そう思った。
「だから、聞いてみたかった。それを知ることが良くないことだとわかっていても」
彼がここに何を残したのか。
「知りたかったの」
ユイは静かに泣いた。
リクにはそんなユイの姿を、黙って見ていることしか出来なかった。
リクは、ユイのことが少しだけわかった気がした。
特別な力を持った特別な存在などではない。
確かに特別な力は持っているが、そうだ、サキチの言った通り「特別なことなんて何もない」のだ。
ユイは特別な力を持った、ごく普通の女の子。
それだけのことだった。
「ユイにどんな事情があったのかは、一応知っているつもりだよ」
リクの話を聞き終えると、トヨは深くため息をついた。
「まあでもあまり聞いてくれるな。リクに聞かれたくない話だってあるだろうし」
「・・・そいつは、そのクラスメイトってのは、結局どんな心残りがあったんだろう」
「その死霊の言葉を直接聞いたリクなら、ある程度は察しがついてるんじゃないかい?」
死霊の姿を、リクは思い出してみた。
塚の上に、陽炎のように揺らめく影のような想い。
その中にかすかに見えたのは、まだ子供らしさを残したユイの、あどけない笑顔だった。
「そんな未練を残すような想いがあったってことだよ。野暮なことは口にするな」
野暮、なのかもしれない。
残された人の記憶を覗き見るということは、それだけで野暮なのだろう。
「その時はそこにいたんだよ、彼にしか見えない女神様が、さ」
そう言ってトヨは微笑んだ。
家に帰ると、ナオが夕食の準備の途中で力尽きて眠っていた。
部屋から毛布を持ってきて、リクはナオの身体にかけてやった。
リクの父親が死んだ時、ナオはあれだけ泣いていた。
リクの父親も死霊を残しただろうか。
それは猫たちによって片付けられたのか、それとも、まだ何処かに残っているのだろうか。
そんなことを考えながら、ナオの寝顔を見た。
余程疲れていたのか、ナオが目を覚ます気配はない。
リクはキッチンに立った。
自分に出来ることがあるなら、やれるだけのことはしたい。
死霊になるほどの強い未練なんて残したくない。
死んでまでこの母親に迷惑をかけたくない。
そう思った。
その次の日、ユイはいつものように神社に来て、境内の掃除をし、猫や見えないモノたちの相手をしていた。
いつもと変わらない、いつもと同じ光景。
「そう言えば、境内の掃除なんだけど、やっぱり俺も手伝おうか?」
「んー・・・それはもうちょっと待って」
ユイははっきりとリクの申し出を断った。
「多分、トヨちゃんから直接話があると思うの。私からするのは、良くないかな」
境内の掃除をすることは、何か特別な意味でもあるのだろうか。
リクは色々と疑問に思ったが、トヨがいつか話してくれることならばと、その場ではもうそれ以上の詮索はしなかった。