今でも大好きなんだ。
日曜日の朝、リクはいつもより早く目が覚めた。
リビングの方でバタバタと騒々しい音がする。
部屋から出て行ってみると、母親の三島ナオが慌ただしく出勤の準備をしていた。
「ああ、ごめん、リク、起こしちゃったか」
邪魔だからという理由だけでざっくりと切られた茶色い髪。
くりくりと良く動く大きな瞳に、きゅっと引き締まった小さな唇。
それほど背は高くないが、四肢がすらっとしているからか、あまり小さいとは思われない。
パッと見、ナオはとても高校生の息子がいるようには見えなかった。
保護者会などでも姉と間違われることが多かった。
実際、ナオは今三十代前半なので、年の離れた姉であったとしてもあまり不思議はない。
「急に出になっちゃってさ。ゴメン、ごはん自分で何とかして」
リクは小さな頃からナオと二人暮らし、母子家庭だ。
ナオは若くしてリクを生み。
夫、リクの父を亡くし。
随分苦労してリクを育てたという。
ただ、リクにはどうもその辺りの記憶が薄かった。
「じゃ、行ってくる」
グレーのパンツスーツを着込み、図面ケースを背負って、ナオは玄関から飛び出すようにして出かけて行った。
騒々しかった家の中が一瞬で静まり返り。
リクはトヨに呼び出されていたことを思い出した。
稲荷神社に着くと、リクはトヨに拝殿の中に入るように言われた。
初めて見る拝殿の内部は、がらんとしていて、祭壇に飾られている鏡や供物台以外には目立つものは何もなかった。
板敷の床の上に、申し訳程度の座布団が敷かれている。
祭壇を背にしてトヨが座ったので、リクは向かい合うようにしてその前に座った。
「では早速だけど本題に入ろう」
トヨは居住まいを正すと、軽く咳払いした。
「リク、今回キミの視る力の蓋が外れたのは・・・正直事故だと思ってる」
黒いモノに目を付けられ、追われ、そいつを封印する力を得るために、リクは自ら視る力の蓋を取り払った。
外から蓋を外すことはまず出来ないハズ。
恐らくは黒いモノとの接触がきっかけとなり、リクの中で蓋の力が弱まったのだろう、ということだった。
「しばらく様子を見てきたけど、ユイやサキチの助けもあって、今、リクは割と安定していると、私はそう思っている」
実際、サキチやユイが色々と教えてくれることもあって、リクは今の所それほど心を悩ますこと無く、日々の生活を送ることが出来ていた。
「そこで、だ」
トヨがリクを真っ直ぐに見つめた。
「キミがもう一度その力に蓋をしたいのかどうか、その意思を確認したい」
リクが視る力に蓋をしたのは、リク自身が自分の視る力によって、見えないモノを見ることを恐れたため。
トヨも、サキチも、ユイもそう言っていた。
だが、リクは自分が何をそんなに恐れていたのか、未だに思い出せないでいた。
「そうか、まだ思い出していないんだね」
トヨは少し困った顔をした。
蓋が取れてからもうだいぶ時間が経っている。
それでも思い出さないというのであれば、それは恐らくはつらい、悲しい記憶なのだろう。
思い出さずに済むのであれば、それはそれで良いことなのかも知れないが。
「・・・いや、出来ることなら思い出したい」
リクはきっぱりと言い切った。
トヨに会って、リクは今まで自分を覆っていた霧が一斉に晴れたみたいな気がしていた。
何をしていてもここにいないような、本当の自分ではないような感覚。
それが消えた今、リクはもっと自分のことが知りたかった。
「もし思い出して、またつらくなったらどうする?」
「その時は、また蓋をしてもらえれば良いんじゃないかな」
子供の頃の話だ。
ひょっとしたら、それは今から考えれば他愛もないことなのかもしれない。
「そう・・・だね」
何かを口に出しかけたが、トヨは途中で言葉を切った。
「わかった。じゃあ、目を閉じて」
言われるままにリクは目を閉じた。
「多分、つらいよ」
トヨの声が聞こえて、リクの意識は深く沈んでいった。
リクの手を、誰かが握っていた。
見上げると、ナオだった。
見たことも無い黒い服を着て、じっと立ちすくんでいる。
その表情を見て、リクはゾッとした。
泣いている。
ナオの泣く顔など、リクの記憶の中には存在しない。
こんなにぐちゃぐちゃになって、全てをさらけ出して、涙と鼻水をこぼして。
ナオは泣いていた。
「さあ、リク君もお父さんに最後のご挨拶をして」
誰かの声がした。
聞きなれない大人の声。
そちらを見ると、白い大きな箱があった。
まだ小さなリクの背では、もっと近付かなければその中身を見ることは出来ない。
リクが前に出ようとすると、ナオが痛いほど強くリクの手を握ってきた。
「ダメだ・・・」
ナオの声は掠れていて、ほとんど聞き取れなかった。
「ダメだ、リク。ダメだ。ダメだ。ダメだ」
壊れたみたいにその言葉を繰り返す。
あまりにも強くナオが握るので、リクはその手を無理矢理振りほどいた。
箱のところまで駆けて行き、その中を覗き込む。
ナオが大声で叫んで泣き崩れた。
リクは箱の中身を隅々まで見回した。
そこには誰もいない。
声は、確かにお父さんだと言っていたのに。
お父さんはいなかった。
ただ、お父さんの形をしたものが、肉が、骨が。
そこには横たえられていた。
リクの目には「視えて」いた。
父親がもうそこにはいないことが。
後に残された物は、かつては父親だったかもしれないが、今はただの物体にすぎないということが。
「リク!」
後ろから抱きしめられた。
ナオがすがりつくようにして、リクの身体を抱いていた。
「あなたは私が、私が守るから。絶対に、私が!」
その言葉を、リクは何処か遠くに聞いていた。
リクの父親は、リクが小さいころに死んでいる。
そのことについては、リク自身ちゃんと認識している。覚えている。
ただ、父親の死体を見たこの時の記憶は、今まですっかりと抜け落ちていた。
ナオは苦労してリクを育てた。
色々と事情があったのだろう。ナオは誰の手も借りず、独りでリクを養った。
一度でも弱音を吐かず、リクの前では気丈に振る舞った。
悪いことをすれば叱り、良いことをすれば笑顔で褒めた。
がらんとした借家は二人暮らしには広すぎるくらいだった。
余りにも寂しい光景に、ある年のリクの誕生日、ナオは笑ってこう言った。
「私とリクの、小さな世界」
電灯の消えた室内。
ケーキの上の小さなろうそくの明かりで照らされた家の中は、本当に二人のためだけに用意された、小さな完成された世界のようだった。
ただ、リクとナオだけの小さな世界は、脆く、儚く、吹けば飛んでしまいそうな代物でしかなく。
それゆえに、リクにとって、母親に見えないモノの存在は恐怖以外の何物でもなかった。
「ママ、あそこにいる!あそこに!」
「大丈夫よ、リク。そんなのいない。大丈夫」
リクが泣き叫ぶと、ナオは優しくその身体を抱いてくれた。
それでも、モノたちは変わらずにそこにいる。
我が物顔でそこらを歩き、リクの顔を覗きこみ、時に嘲笑った。
リクは、目に見えないモノたちがリクを、ナオを傷つけるのではないかと気が気ではなかった。
ナオが気付かない間に、自分が何かされたらどうしよう。
ナオに何かがあったらどうしよう。
目に見えないモノたちの存在は、リクにとってはそれ自体が恐怖の対象となった。
「わかったよ、リク」
そんな時、稲荷神社で神様を名乗る女の子がそう言った。
「キミに会えたのは素敵な縁だと思ったんだけど、キミにはキミの世界の方が大切だろう」
女の子の手が差し伸べられる。
「さあ、私に、神様に願ってごらん。そんな怖いモノなんて、みんないなくなってしまえって」
リクは目を開けた。
拝殿の中で、トヨが静かにこちらを見て座っている。
知らない間に、リクの眼から涙が零れ落ちていた。
「つらくない過去なら、そんなに厳重に自分で封をしたりしないさ」
リクから視線を外して、トヨはふぅっ、と息を吐いた。
リクは涙をぬぐった。
子供の頃、リクはナオとの世界が壊れることを恐れていた。
必死になってリクを支えるナオに、何か良くないことが起こるのが。
リクに何かがあって、ナオが再び正体を無くすほどに泣いてしまうことが。
リクには怖かった。
ナオのこと、母親のことが大事なのは、今でも変わらない。
今でもたった一人でリクのことを支えてくれる、唯一の肉親。
ぶつかることが無いわけではないが、大切な、家族だ。
『怖いモノはたくさんあるけど、注意してきちんと対処していれば別に怖くもなんともないでしょう?』
ユイの言葉を思い出した。
そういうことか、と腑に落ちた気がした。
子供の頃の自分は、わけも判らずに見えるモノをただ恐れていた。
それが自分を、ナオを傷つけるものだと思い込んでいた。
「正しく恐れる方法を知れば良い。それは、私からもユイからも教えることが出来る」
リクの考えを読んだように、トヨがそう言った。
見えるものであっても、恐ろしいものはある。
正しく恐れること、それさえ理解していれば、普通に生きていくことは難しくは無い。
トヨの言葉を聞いて。
「わかった・・・」
リクは、小さくうなずいた。
涙はもう出てこない。
自分の中で全ての記憶がつながった。
リクはようやく本当の自分自身を取り戻したような、そんな気がしていた。
「もう蓋は必要ない」
意味もなく怯えるだけの子供ではないのだから。
これからは、ちゃんと世界と向き合っていける。
ユイも、サキチもいる。
トヨも、神様だっていてくれる。
そんなリクを見て、トヨは満足げにうなずいた。
「やれやれ、ホントに良かったよ」
ホッとしたように肩の力を抜いてから、トヨはぐぅーっと伸びをした。
「二回もお別れするのは流石につらいからね。改めて、おかえり、リク」
そう言いながら浮かべた笑顔が花のようで。
リクは思わずトヨに見惚れてしまった。
そして、どんなに怖いモノがいるのだとしても。
この神様を失うなんて考えられないと、そう思った。
ナオはいつものように、日が暮れてだいぶ過ぎてから帰宅してきた。
風呂に入り、冷蔵庫から缶ビールを取り出して開ける。
リビングのソファで、ぼんやりとテレビのニュース番組を観ているナオの横に、リクは座った。
「ちょっといいかな、母さん」
「んー、何改まって?」
ナオはテレビから目を離さずに訊いてきた。
「父さんのこと、なんだけどさ」
ナオの動きが止まった。
しばらく、テレビの音だけが流れていた。
ちらり、とリクはナオの方を窺った。
ナオは目を閉じて何かを考えている様子だったが。
不意にくすくすと笑いだした。
「・・・そうか、リクもやっとその話をするようになったか」
遠い目をして、まるで何かを懐かしむかのような表情を浮かべる。
「しかし高校生になってようやくか。まあ、そんなもんなのかな」
ナオはリクの方に向き直った。
「リク、私はあなたのお父さんのことがね」
ずっと話したくてたまらなかった。そんな感じで、言葉が溢れだす。
「大好きだった。ううん、今でも大好きなんだ」
そう言った笑顔が、まるで花が咲いたみたいで。
トヨに似ている、とリクは思った。