また、会えたね。
三島リクが高校に入学して、二週間ほどが経っていた。
いつものように登校して、いつものように授業を受けて、いつものように帰宅する。
いつの頃からか、リクは自分が何かぼんやりとした霧みたいなものに包まれていると考えていた。
何を見ても、視界は白い半透明のフィルターに覆われている。
何を聞いても、低いホワイトノイズのような音に遮られている。
何を考えても、ハッキリとはまとまらない。
うまく言い表すことが出来ないが、自分がそこにいることを、自分で今一つ理解しきれていないような感覚だった。
学校帰り、河原沿いの土手の上を歩いていると、遅咲きの桜が咲いていた。
その薄いピンク色も、リクにはなんだか灰色がかって見えた。
味気ない色、味気ない世界。
高校の入学式も、リクにはまるで半分夢の中の出来事みたいだった。
沢山の新入生がいて、自分はその中の一人で、誰かが何かを喋って、自分も何かを喋って。
それがまるで遠い世界の出来事のようで、ひとかけらの現実感も存在しない。
楽しいとか、嬉しいとか。
つらいとか、悲しいとか。
そういった感情のうねりが頭をもたげることがない。
非常にフラットな、そこにある世界に生かされてる。そんな感じ。
猫の声がして、リクはふと視線を下げた。
足元で、一匹の大きなキジトラ猫がリクを見上げていた。
「やあ、サキチ」
リクがサキチと呼んだ猫は、よくリクの家にエサをねだりに来る野良猫だ。
身体も大きいし毛並もいいので、飼い猫かとも思ったが、どうもそういう様子も無い。
近所の猫の中では格段に身体が大きいし、他の猫もサキチの前ではやけに大人しい。
ボス猫のような存在なのだろう。
サキチを見ている時、リクは何故か自分を取り巻く霧が薄くなる気がしていた。
少しだけ自分の思考がクリアになる、不思議な感覚。
サキチを撫でてやると、サキチはうっすらと目を閉じた。
(そう言えば、お前の名前、どうしてサキチって呼んだんだっけ・・・?)
リクの中で、小さな疑問が生まれて。
その泡は意識の深い所から徐々に上がりかけたが。
(よく覚えてないな)
大きくなる前に弾けて消えてしまった。
サキチは大人しくリクに撫でられていた。
が、エサをくれる様子が無いからか、しばらくするとふいっと身を翻して、何処かへと姿を消してしまった。
河原沿いの土手の上をしばらく行くと、稲荷神社に通じている。
社務所も何もない。おみくじもお守りも売っていない。
それでも誰かが丁寧に手入れをしているのか、いつもゴミ一つなく綺麗に片付いている。
リクが小さな鳥居をくぐって境内に入ると、小ぢんまりとした拝殿が見えた。
拝殿の前には賽銭箱が置かれ、本坪鈴から麻縄が垂れ下がっている。
リク以外には人影は全くなく、辺りはしんと静まり返っていた。
境内に一本だけある桜の木にはまだ花が少し残っていて、ひらり、ひらりと花びらが舞い落ちている。
その光景がやけに目について、リクはしばらく桜の散る様に見入ってしまった。
子供の頃から、リクは時間があればこの稲荷神社に足を運んでいた。
住宅街の中にあって、ほとんど人気のない小さな神社は、いつも静けさに包まれている。
この雰囲気が好きなのかもしれない。
稲荷神社に来ると、リクは薄皮の中にいる自分が、外にある本当の何かに触れることが出来るような、そんな気がしていた。
丁度サキチを相手にしている時と同じ感覚だ。
リクはぼんやりと拝殿の方に目を向けた。
扉はしっかりと閉じられている。
中に誰かがいるわけでも、何かがあるわけでもないだろう。
拝殿に近寄る。
心の中で、何かがざわめき立つのを感じる。
(なんだろう?)
よく判らない。
よく判らないが、心の中が騒がしくなる。
誰かが、自分のことを見ているような、見守っているような、不思議な感覚。
(神様とか。まさかね)
ため息をつくと、リクはポケットから財布を取り出し、十円玉を取り出した。
賽銭箱に投げ入れて、柏手を打つ。
何を願うわけでもなく、リクはそのまま稲荷神社を後にした。
もうほとんど寒さは感じなくなってはいるが、夜は少し冷え込む。
夜食を買うために、リクは一人コンビニに向かっていた。
ほとんど灯りの無い路地に差し掛かった時、塀の上で何かが動いた。
「・・・サキチ?」
サキチがリクのことを見下ろしていた。
まるで見張ってるみたいだな、と思ったが、リクはあまり気にせずに軽く手を振って、そのまま通り過ぎた。
角を曲がったところで。
今度は、ぞくり、と背中の毛が逆立つのを感じた。
(なんだろう、これ?)
今までに無い感覚だった。
自分を取り巻いているふわふわとしたオブラートを貫いて。
黒い針が突き刺さって来る。
冷たくて、硬くて、ざらっとして。
そして、はっきりとした感じ。
リクは自分の目の前の暗闇の中に、何かがいることに気が付いた。
焦点がゆっくりと合っていく。
視界が徐々に結ばれていく。
暗い道の先。
そこに黒い何かが。
途端に、足元を黒い塊がかすめた。
「うわっ」
驚いて足がもつれて、その場に軽く尻餅をつく。
軽い痛みに顔をしかめると、サキチがひょい、と飛び出してきた。
「なんだ、サキチか」
そう言って我に返った時には、辺りはいつもの感じに戻っていた。
目の前にいた黒い何かなど、影も形も無い。
ただの、普段通りのコンビニに続いている道だ。
リクはそろそろと起き上がると、周囲を見回した。
何もない。何も変わったところは無い。
ぼんやりと自分の掌を見た。特に擦り傷なども無い。
そこまで考えて、リクは自分の視界がいつもみたいな霧に覆われていないことに、ようやく思い至った。
空を見上げると、月が輝いている。
「・・・綺麗だ」
思わず言葉が漏れた。
その晩、リクは悪夢を見た。
灯りの無い暗い道に、リクは一人で佇んでた。
自分を追う者の気配を感じる。
じっとしていればすぐに捕まる。リクは慌てて走り出した。
手足が重い。思うように走れない。
金縛りというものはこんなものなのだろうか、息苦しささえ感じる。
それでも、背後に何かが迫っていることだけは判った。
リクはがむしゃらに手足を動かした。
あの角を曲がれば、後は真っ直ぐ。
真っ直ぐに行くだけで、あそこに。
角に辿り着いたところで、リクの背中に冷たい何かが触れた。
夢から覚めると、家の外、薄暗い路地裏でリクは一人立ちすくんでいた。
状況が呑み込めないリクの手の中で、いつの間に持っていたのか、携帯電話が鳴った。
「良かった。今ならちゃんと届く」
電話から聞こえてきたのは、女の子の声だった。
「キミは?」
「ゴメン、今はのんびり話をしている余裕はないんだ」
切羽詰ったように電話の先の声はそう言った。
「稲荷神社、わかるよね?そこに行くんだ」
電話の声に誘われるままに、リクは稲荷神社に向かった。
夢の中と同じ、灯り一つない街。
それでも、手足は普通に動かせる。
頭の中は冴えている。
自分の手足が、自分の心が、自分の思い通りになっている感覚。
「そこなら、うろついているアイツをもう一度封じられる」
電話から聞こえる女の子の声が、それを加速させている気がした。
直線路、狭い参道を一気に駆け抜けて、リクは稲荷神社に辿り着いた。
その背後、鳥居の向こうで何かが膨れ上がった。
リクは振り返ると、そこにうごめく黒い『モノ』を視た。
人に似た姿をした、真っ黒い塊。
明らかにそこに存在しているのに、まるでそこには居ないかのような、不安定な気配。
悲しみ、怒り、痛み。
見ているだけで心の中がささくれ立ち、ちくちくとあちこちを刺激してくる。
鳥居の向こうで、大きく両手を広げたそいつが、神域の中に入って来ようとしていた。
「強い・・・何かが力を与えているのかもしれない」
電話から聞こえる声は悲痛だった。
「視る力が足りない」
電話に男の声が加わった。
その場にはリクと、黒いモノの姿しか見えない。
だが、実際には誰かがいて、リクを守ろうとしている。
不意に猫の声がした。
後ろを見ると、サキチが黒いモノに向かって威嚇していた。
「リク、視るんだ!」
その言葉とともに、リクの頭の中から、霧が吹き飛んだ。
濁流のように過去の記憶がよみがえってくる。
稲荷神社の境内で、リクはサキチと、一人の女の子と談笑していた。
一緒に遊んでいた。
何でも知っていて、何でも応えてくれて。
願いを叶えてくれる。
眩しい笑顔を浮かべる女の子の名前を。
リクは確かに、こう呼んでいた。
「トヨ!」
次の瞬間、神社の中を強い風が吹き過ぎた。
桜の花びらが舞い、ごうという音が耳元を通り過ぎる。
そして、神社の中は急に静かになった。
鳥居の外にいた黒いモノはもういない。
立ち上がって、背後に向き直る。
サキチの横に一人の女の子がいた。
舞い散る桜の花びらは、淡い紅色。
それを照らす月明かりはほんのりとした黄金色。
夜の暗い光の中でも、鮮やかに生える朱の袴。
リクは目の前に現れた色の洪水に目を奪われて。
続けて、彼女に心を奪われた。
遠い昔に見た覚えのある、整った顔立ちの優しい微笑み。
「やあ、久し振り、リク」
彼女の名前はトヨウケビメノカミ、この稲荷神社に祭られている神様だった。