もうさよならだから。
色の無い部屋の中に、リクはいた。
小さくて、窓も何もない、閉ざされた世界。
そこには何もなかったが。
母が、ナオがいた。
優しく微笑むナオがいてくれれば、リクにはそれで十分だった。
リクの小さな世界には、他には何も必要なかった。
ナオがいれば、それでいい。
怖いものなんて無い。
部屋の中は、世界は空っぽだったけど。
欲しいものなんて、足りないものなんて、何もない。
あるとき。
部屋の中に、光が射した。
それはとても眩しくて。
鮮やかで。
気が付けば、世界は色であふれ返っていて。
リクは、その奔流に見惚れてしまって。
心を奪われた。
開いた扉の向こうから。
神様を名乗る女の子が。
そっと、手を差し伸べている。
世界は、本当は無数の色彩に覆われている。
世界は、本当はもっと広くて、どこまでも続いている。
色に魅せられたまま、リクは外に踏み出そうとして。
ナオの方を振り向いた。
「どうしたの?」
ナオが優しく問いかける。
色の無い部屋。何も無い部屋。
その中心で、ナオは静かに微笑んでいる。
リクがこのまま外に出て行ったら。
残されたナオはどうなるのだろう。
この小さな世界は、どうなってしまうのだろう。
「あなたにしか出来ないこと、あるでしょう?」
ナオに言われて、リクは自分の掌を見た。
暖かさを感じる。
誰かが握ってくれた、手。
その柔らかさを、熱を。
無くしてしまってはいけない。
このまま。
小さな世界と、ナオを無くしてしまうことよりも。
もっと大切なことが、大事なものが。
外の世界には存在する。
いや。
出来てしまった。
気付いてしまった。
世界は眩しくて。
世界は広くて。
その美しい世界の中心には。
リクを世界に導いてくれた。
一人の女の子がいる。
「行きなさい、リク」
ナオの言葉を受けて。
リクは、扉の外に出た。
行かなければならない。
光と色の洪水。何処までも広がる世界の中を。
何よりも、誰よりも。
大切で。
絶対に無くしてはいけない、彼女のところへ。
リクの手に、冷たい感触が流れ込んできた。
無数の針で刺されるような痛み、苦しみ。
あの時、あれほど暖かく、柔らかかったトヨは、まるで感じられない。
「どうした、そのまま・・・」
サキチが声を上げたが。
「消さない!」
歯を食いしばると、リクはそのままトヨを引き寄せて。
両手でしっかりとトヨの小さな身体を抱きしめた。
「トヨ!」
リクは叫んだ。
トヨの身体から伝わる痛みが、リクの全身に流れ込んでくる。
気を許せば今にもバラバラになってしまいそうな痛みの中で、リクはトヨに向かって叫び続けた。
「何やってるんだよ、トヨ。神様なんだろう?しっかりしてくれ、ちゃんとしてくれ」
五穀豊穣の女神、トヨウケビメノカミ。
トヨは得意げにそう名乗っていた。
「この土地を守ってきたんだろう?俺たちを守ってくれるんだろう?神様なんだってところ、見せてくれよ」
「・・・リク」
トヨが言葉を発した。
苦しげな、悲しげな表情で、トヨはリクを見つめていた。
「ごめんね、リク。私は、神様失格みたいだ。だからもう・・・」
今にも消えてしまいそうな声でそう言うと。
トヨは、諦めたように、目を閉じようとした。
「神様なんて関係ない!」
リクはトヨを怒鳴りつけると。
トヨの両肩を掴んで、真正面から見返した。
「どうせ押し付けられた神様じゃないか。作られた神様じゃないか。そんなこと、どうでもいい」
水神に捧げられた生贄の少女。
ただ願いをかなえるという目的のために存在した、作られた神。
「神様なんてどうでもいい。俺は・・・」
神社に行けばいつもいて。
供え物のお菓子を食べ散らかして。
ユイと楽しそうにおしゃべりして。
サキチや猫たちと戯れて。
まるで何でも知っているという感じで。
偉そうに説教して。
「トヨが消えるのが・・・嫌だ・・・」
お酒を飲んで暴れて。
強く、優しく手を握って。
見ているだけで少し幸せになれて。
笑顔がまるで、花が咲くみたいで。
とても可愛くて、綺麗な。
そんな女の子。
「俺は・・・トヨが・・・」
そうだ。
どうして今まで気付かなかったんだろう。
そこにいることが当たり前になって。
触れることが当然になって。
無くなるかもしれないという時になって。
今になって。
正体を無くすようなナオの泣き顔。
身体がバラバラになりそうなトヨの痛み。
失うということが、こんなに。
こんなに。
「トヨ・・・」
無くしたくない。
失いたくない。
このまま消えてしまうなんて。
ありえない。
トヨの肩を掴むリクの手に、力が。
熱が、こもる。
想いが。
「リク・・・」
トヨがそっと、両掌を上げた。
優しく、リクの頬に触れる。
涙に触れる。
そこには、暖かさが。
柔らかさがあって。
そして。
そして、トヨはリクの頬を力いっぱいつねり上げた。
「痛!?いたたた・・・痛い!」
悲鳴を上げるリクに構わず、二度三度とひねりを加える。
「リク、キミは私のことをそういう風に言うんだな。ちょっと信心というものが足りてないんじゃないのかな」
思わず手を離したリクの傍から、トヨは、ひらり、と離れて立った。
「ふん、触れられるっていうのは便利だったり不便だったりするね」
「も、戻った。トヨ様が、戻った」
サキチが目を丸くした。
「トヨちゃん!」
ユイが、猫たちが歓声を上げる。
そこに立っているのは、まぎれも無いトヨウケビメノカミ、トヨだった。
トヨの背中から、黒い霧状のものが、ぬらり、とこぼれ出る。
それはまるで意識を持った液体のように空間の中でうねり、膨らみ、やがてトヨの姿を取った。
かつてトヨが切り離した心の痛み。
ヨウシュウを失ったことへの、悲しみの心。
「・・・まあそう簡単に消えるモノでは無いか」
トヨはそちらの方に向き直った。
「トヨちゃーん!」
ユイが叫んだ。
「私、まだリクにあのこと言ってない!」
驚いた表情で、トヨが振り返る。
「だから、ちゃんとトヨちゃんからリクに直接言って!」
ユイはトヨに向かって手を合わせた。
「お願い・・・」
拍子抜けしたみたいに、トヨの顔から険しさが抜け落ちる。
「参ったな。お願いされちゃったら、神様としては努力せざるを得ないというか」
まるで吹き出すようにしてほんの少し微笑んで、トヨはリクの方を見た。
「リク、ちょっと頼みたいことがあるんだけど、後で聞いてくれるかな」
いつものトヨの声で、いつもみたいに語り。
「すぐに終わらせるから、ね」
トヨは笑った。花が咲くような、あの笑顔だった。
もう一人のトヨに向かって、歩き出す。
そこには、鏡映しになった二人のトヨの姿があった。
トヨは目を閉じると、深く息を吐いた。
再び、トヨの姿をしていたものの形が崩れ、黒い霧となり。
トヨの中に、溶け込むようにして姿を消した。
「ヨウシュウ・・・ありがとう。私は貴方の想い、嬉しかった。神様ではなく、一人の女として貴方に想われたこと、嬉しかった」
トヨは慈しむように、ヨウシュウの面影に手を伸ばした。
だが、トヨの手が彼に触れることはない。
その記憶、思い出はトヨの中には存在しない。
「私は貴方と子を成すことは出来ない。私たちは、互いに触れることすら叶わなかったのだから」
暗い澱がトヨの中を満たし始める。
絶望が、帳のようにトヨの心を暗く閉ざし始める。
「でも、私の中には貴方の想いが残ってる。貴方はちゃんと私の中にいる。貴方と心を通わせて、私の中で培われたこの想い。これが貴方と私、二人の子供」
トヨは目を開けた。
目の前に、ヨウシュウがいた。
懐かしい姿。
痩せていて、栄養が足りてない感じで、引きこもりで、いつも何か考え込んでいて。
それでいて子供みたいに無邪気に笑う。
そうだ、その笑顔が、見たかったんだ。好きだったんだ。
「ありがとう。ごめんね、ずっと引き留めて。でも、もうさよならだから」
トヨの目から、涙があふれた。
冷たくない、暖かい涙。
愛情と、感謝と。
別れの、覚悟。
「もう、大丈夫だよ」
そして、とても大事な言葉を呟いた。
今のトヨを支えている、とても大切な言葉。
今までではなく、これからを作っていく言葉。
素敵な縁が作る、楽しい未来を期待させる言葉を。
鳥居の下で、トヨは立ち尽くしたまま動かない。
リクが、ユイが、マナが、サキチが、猫たちが見守る前で、トヨはゆっくりと振り返った。
「うん・・・もう、大丈夫だ」
わあ、と歓声が上がった。
少しおぼつかない足取りで、トヨはリクの前まで歩いてきた。
「へへへ、カッコ悪い所見られちゃった。神様なのにだらしなくてゴメンね」
いつもの声で、いつもみたいに笑って、頭を掻く。
リクが何か言葉をかけようとしたとき。
乾いた拍手が境内に響いた。
全員がその音の方を見ると、そこにはいつの間にか黒いスーツを着た一人の男が立っていた。
黒い山高帽に、のっぺりとした白い面を付けていて、その顔は窺い知れない。
何か恐ろしい気配を感じて、リクは身震いした。
「うん、なかなか面白かった」
地の底から響くような声で、そいつは語りだした。
「神に転じた人の子の迷い、葛藤、そこから生まれた暗きモノ」
そいつが何を言っているのか、リクには最初わからなかった。
「そしてそれを自ら受け入れることで、神として一皮むける、なかなか楽しかったよ」
わからなかったが、リクの視る力が、そいつの語る内容を理解させた。
「お前、お前が全て・・・」
リクは強く拳を握った。
怒りが、体の芯から湧き上がってくる。
全て、そいつが考えたことだった。
「まあ個人的には、せっかく用意したんだし」
仮にトヨが、自分の痛みに押しつぶされたときには。
「暗きモノに取り込まれた神を、自らの意思に反して撃ち滅ぼし」
リクの手でトヨを消させようとしていた。
「後悔の念に押しつぶされ、悲しみの連鎖が生まれる様までを見物したかったのだが」
そのことが、リクにとってどんなに残酷な意味を持つのかを知ったうえで。
「これはいた仕方ない、か」
全てをコマにして、遊んでいた。
「お前・・・お前が・・・」
忌み地の封印を弱めてリクの力の蓋を外すきっかけを与え。
この神社に外界の侵略者を呼び寄せ。
最後に忌み地の封印を解いたのは。
「ほう、なるほど、そこまでわかるか」
楽しそうな、いたぶるような声。
全ては、そいつの仕業だった。
「ダメだ、リク!」
トヨが叫んだ。
今にも動き出そうとするリクを、トヨは抱き止めた。
「でも・・・!」
「ダメだリク。あれは・・・あれは本当の「神」だ!」
トヨの言葉に、リクは愕然とした。
猫たちの共有意識が地球の全てを覆うことが出来るというのなら。
この神は宇宙の全てを覆うことが出来る。
いや、現在進行形で宇宙の全てを「視て」いる。
「無貌の神」
マナがぼそり、と呟いた。
「おや、怖いのがいるね。これじゃあ思惑通りに行かなくても仕方ないか」
マナの存在に気付いて、男は仰々しく肩をすくめてみせた。
「しかし、楽しみが全て消えたわけではない」
顔の無い仮面が、トヨの方を向いた。
「お前がまた新しい忌み地を作り出さないという保証は無い、そうだろう?」
その言葉を聞いて、トヨの身体が震えた。
リクを掴む手に力が入る。
怯えたように目を瞑るトヨを見て。
リクは怒りに打ち震え。
ギリッ、と奥歯を噛みしめた。
「まあ、また面白くなりそうになったら見物に来るよ。今日はなかなか面白かった」
嘲笑う声と共に、男は姿を消した。