そんなお願い、聞けないよ。
黒いモノは鳥居のすぐ前にまで迫っていた。
忌み地の中に封じられていた、煮凝りのような悲しみの心。
リクが忌み地の中で感じたトヨの気配は、まさに忌み地の中にあった。
神様の、トヨの痛みが固まったモノ。
リクが以前に出会ったとき、それは大きくて、見上げるほどのモノだった。
そして今、鳥居の外にいるモノは、その比ではない。
腫れ上がり、膨れ上がり、見る見るうちに大きく伸びあがっていく。
気が付けば、空を隠し、それほど広くない境内の周囲を覆いつくし、こちらに襲い掛かる機会を伺っていた。
「これはどちらかと言えば私の専門のようですけど」
マナの言葉を聞いて、トヨが鋭く睨みつけた。
「手を出さないで」
「でしょうね」
マナはあっさりと引き下がった。
「トヨ、一体・・・」
何が起きているのか、リクにはまるでわからなかった。
世界の理に従わないモノを、消し飛ばすことが出来る力。
この力があれば、あの黒いモノを消し去ることが出来る。
トヨを、助けることが出来る。
そう考えていたのに。
呆然と立つリクに近付くと、トヨは優しくその手を握った。
「リク、ありがとう。でも、これは私がどうにかしなきゃいけないの」
トヨの手は柔らかく、そしてあたたかい。
「頑張ってみるけど、もし・・・」
うつむいたまま、トヨはリクの顔を見ようとはしなかった。
「もし私が、私に飲まれるようなら、その時は・・・」
声が震えている。
夏祭りの日。
誰もいない暗がりに向かって語りかけるトヨの姿を、リクは思い出した。
あの時と同じだ。
まだリクの知らないトヨ。
リクの前でずっと隠してきたトヨ。
多分、長い間誰にも見せることが出来ないでいたトヨが、そこにいる。
リクは、握った手の上に何かが落ちたのを感じた。
熱くて、冷たい何か。
それがトヨの涙だとわかって。
リクは言葉を失った。
「この手で、私を消して」
トヨはリクの手を離して踵を返した。
「トヨ」
リクの伸ばした手が空を掴む。
振り返ることなく、トヨは駆け出した。
鳥居を抜け、神社の境内から外に出る。
そこはもう何も見えない真っ黒な世界。
夢に沈めた町は、すっかりトヨの痛みに飲み込まれてしまっている。
これがこのまま現実の世界に入り込めば、町はただでは済まないだろう。
トヨは両手を広げ、その黒いモノを自らの身の中に取り込もうとした。
「ずっと逃げてきた。これは、私だ。私が向き合わなくちゃいけないんだ」
胸の奥が痛んだ。
忘れていた痛みが、悲しみが、トヨの中に渦巻き始める。
無数の死霊と、切り離してきた想い。
その奥に懐かしい面影が見えた。
「ヨウシュウ・・・」
痩せ細った、不健康そうな、人形師の男。
そのカタチが、トヨの目の前で崩れる。
封じてきた記憶が、濁流のようにトヨの心を押しつぶし、粉々に打ち砕いていく。
独りで、暗い部屋の中で、誰にも看取られることもなく。
愛した人の名を呼んでも届かず。
何かを残すことも出来ずに。
命の炎が、消える。
最後に彼は誰の名を呼んだだろう。
誰の姿を求めただろう。
何を残そうとしたのだろう。
「嫌だっ!」
トヨは絶叫した。
自分が壊れていく。
自分が形を失っていく。
せめて、彼の最後の姿を見ていたかった。
命の火が消える時、その傍らにいたかった。
話したいことが、伝えたいことがまだ沢山あった。
最後まで、そばにいたかった。
せめて。
もう一度、会いたかった。
悲しみも痛みも、まるでその勢いを失っていない。
それはむしろ、長い時を経て強く、より確かなものとなっていた。
「ヨウシュウ、私は・・・」
トヨは暗闇の中でもがくように手を伸ばした。
どんなに求めても、決して届くことの無かった、この手。
触れることのかなわない想い。
「私は・・・」
ヨウシュウの手が伸びて。
トヨの手が。
触れることなく、すり抜ける。
掴もうとして、空を切る。
こうやって、何度となく繰り返した。
繰り返すたびに、胸の中が苦しくなった。
「貴方に触れることは、出来ないんだ」
まただ。
また、繰り返している。
肩を抱くことも。
指を絡めることも。
ぬくもりを知ることも。
「貴方の子を成すことは、出来ないんだ」
何も。
何も得ることが出来ないままに、全て消えてしまった。
触れられないのなら。
失うことしか出来ないのなら。
求めることに意味などないのなら。
「貴方と共にあることは、出来ないんだ」
好きでいることが、苦しみしか生まないのであれば。
もう。
もう、ここにいることに。
「私は」
存在していることに。
自分が自分であることに、どんな意味があるのか。
「私は、消えてしまいたい・・・」
自分の姿が黒い霧になり、薄れていくのを感じる。
トヨの目から、涙がこぼれ落ちた。
「リク、来るぞ、覚悟を決めろ」
サキチが身構えた。
「サキチさん、そんな」
「ユイもだ。あそこにいるのはもうトヨ様じゃない」
リクはただ茫然と、鳥居の外に立つトヨの姿を眺めていた。
いつものように明るく振る舞って。
陽射しのように暖かくて。
花咲くように笑う神様は、もうそこにはいなかった。
そこにはただ暗く、冷たい、世界にぽっかりと空いた黒い穴のような何かが。
トヨの姿をして立っていた。
「あれはもう、祟り神だ」
サキチの声は、砂を吐くようだった。
「トヨ様」「トヨ様」
猫たちがざわめく。
その動揺を反映して、神社全体の空間がぐにゃり、と歪んだ。
「集中しろ、向こうの夢に飲まれるな!」
サキチの声が、リクにはまるで遠い世界の出来事に思えた。
「ウソだ・・・」
リクは呟いた。
力強くリクを助けてくれた彼女。
この土地を守ってきたと誇らしげに語った彼女。
間違えれば叱ってくれた彼女。
それでも、最後には優しく許してくれた彼女。
友達みたいで、なんだかとても神様のようには思えなくて。
神様のようには見えなかったけど。
実は家族のために、みんなのために、自らの命を投げ出して願いを叶えてくれた神様で。
今でもみんなを、優しく見守ってくれていた彼女。
そんなトヨが、もう、そこにはいない。
「リク!」
サキチの声で、リクは我に返った。
だが一瞬遅く、トヨであったモノから放たれた黒い塊がリクの身体を直撃した。
激しい衝撃でリクの身体が浮き、そのまま地面に叩きつけられる。
痛みが全身を駆け巡り、体中の穴という穴から冷たい炎が噴き出しているようだ。
これが。
トヨの中にある痛みだというのだろうか。
こんな痛みを、トヨは一人で抱えて、耐えているのか。
「リク、しっかりして」
ユイがリクに駆け寄り、その体を助け起こした。
「トヨちゃんを助けて、リク!」
「ユイ、アイツはもうトヨ様じゃない」
「サキチさん、おかしなこと言わないでよ。トヨちゃんだよ!」
ユイが叫んだ。
「トヨちゃんだよ。みんな、ずっと一緒にいたじゃない。お話ししたじゃない」
ほとんど人気のない稲荷神社で、濡れ縁に腰かけて。
「トヨちゃんが、私たちの神様が消えるわけないじゃない!」
楽しそうに話して、笑って。
「私は信じてる。トヨちゃんはトヨちゃんだ。消えてなんかいない!」
ユイの言葉に、リクははっとした。
自分の掌を見下ろす。
そこには最後にトヨが触れた時の感触が、ぬくもりが、まだ残っていた。
『この手で、私を消して』
トヨの声が脳裏に蘇る。
その言葉を残した時、トヨは。
泣いていた。
祟り神になるのであれば、誰にも迷惑をかけることの無いようにと。
リクの力で、リクの手で。
世界の理から外れた自分を消してほしいと。
リクへと託した。
そんな想いが、この掌に残されたぬくもり。
「トヨ・・・」
リクの知らないトヨ。
何処か遠くを見ているトヨ。
泣きそうになるのをこらえているトヨ。
明るくて、笑顔で、自信に溢れたトヨだけが、トヨじゃない。
トヨは、神様だ。
神様だけど。
トヨは、女の子だ。
傷付くこともある。
痛みに耐えられないこともある。
涙を流すこともある。
だから。
「・・・そんなお願い、聞けないよ」
リクは拳を握りしめた。
「俺は、神様じゃないからさ」
リクはふらつく足に喝を入れて立ち上がると、トヨであったモノの方に歩きはじめた。
それに気付いたのか、トヨであったモノの周囲から黒い塊が湧き出ると、リクに向かって放たれた。
高速で迫る黒い塊は、しかしリクの身体に触れる直前に前触れなく霧散した。
驚くリクに向かって、マナが手を振ってみせた。
「約束した手前、手は出さないけど、あなたを守るのは私の勝手ってことで」
リクはマナを一瞥すると、トヨであったモノに向かって再び歩を進めた。
次から次へと黒い塊がリクに襲い掛かるが、一つとしてリクの身体には触れられない。
マナの守りは万全だ。
遠巻きに塊をばらまきながら、トヨであったモノはじりじりと後退していく。
「ヤツめ、リクが直接触れればそれで消されることがわかってるんだ」
祟り神は、世界の理からはみ出た存在。
そうであるならば、リクの力で消し飛ばすことが出来る。
猫たちが包囲し、威嚇の声を上げる。
トヨであったモノの動きが、一瞬ひるんだ。
「リク、行け。そのままやるんだ」
サキチが叫んだ。
リクが走り出す。
身を翻して逃げようとするトヨであったモノに、リクは素早く手を伸ばした。
トヨであったモノが、大きく飛び退く。
あと少し、手が届かないというところで。
リクは相手の腕を掴む自分の手を「視た」。
そしてその世界を自分の現実に引き寄せて。
「トヨ!」
力強くその腕を掴んだ。