Pain(痛みにまつわる話。)
・・・この話は、俺が後でトヨやサキチから聞いた話をまとめたものだ。
だから、正確じゃない所や、事実とは異なっている所もあるかもしれない。
だが、おおよその出来事としては間違ってはいないはずだ。
昔、この土地で起きた出来事。
痛みの記憶。
恐らく明治のころ、この土地はまだのどかな農村地帯だった。
トヨはその当時も、天災を抑え五穀豊穣を司る土地神として慕われ、崇められていた。
人間たちからも、そして猫たちからも。
ある年、一人の余所者がやって来た。
あまり人付き合いを好まず、外れにある暮山の斜面に庵を構え、独りで篭って何事かを行っているという。
興味を持ったトヨは、その庵を訪ねてみた。
庵にいたのは、青年が一人。何やら線が細く、押せば折れてしまいそうな男だった。
「ありゃ、ちゃんと食べてるのかね」
「余計なお世話だ。あやかし如きに心配されるいわれなどない」
青年はトヨの声を聴き、トヨの姿を見ることが出来た。
「これは失礼。まさかこの土地を収める神様であったとは。今までご挨拶もせず、ご無礼をお許しください」
青年の名前はヨウシュウ。人形作りを生業としている者だった。
今までは人の多い街に住んでいたが、街にいるモノは性質が悪く、日々の生活にも困るほどであったため、静かな土地に越してきたという。
「そういうことであれば、あまりこの庵の周りで騒がぬように注意をしておいてあげるよ。どうも見知らぬ者が来たということで、イタズラに騒ぎ立てるモノもいるみたいだし」
「それはありがたい」
「あと・・・やっぱりちゃんとご飯食べてないんじゃない?」
五穀豊穣の神として祭られている立場上、トヨはどうしてもそのことが気になった。
自分の姿が見えて、声を聴くことが出来る。
珍しい力を持った人間の存在が、トヨには嬉しかった。
ヨウシュウは一人静かに仕事をすることを好んだ。
そのため、トヨはあまりヨウシュウの邪魔はしないようにしていた。
ただ、どうしてもヨウシュウの身体のことだけは心配だったので。
ヨウシュウに色々と差し入れをするようになった。
「ヨウシュウ、今年のお米で餅が出来たんだ。村人がお祭りの時にお供えしてくれたんだよ。良かったら食べてよ」
「これはトヨ様、いつもありがとうございます」
「気にしないで。私の土地で餓死者が出るなんて事態になったら、神無月の集まりでいっぱい怒られちゃうよ」
知らない間に、トヨはヨウシュウの元を訪ねることが楽しくなっていた。
ヨウシュウと言葉を交わすことを、求めるようになっていた。
それは、ヨウシュウの方も同じ事であった。
「トヨ様、実は見ていただきたいものがあります」
ある時、そう言ってヨウシュウはトヨを庵の中に招き入れた。
トヨがそこで見たのは、美しい、自分に似せて作られた人形だった。
「綺麗だ・・・これ、ひょっとして私?」
「トヨ様の姿を似せてみようと努力してみました。ですが、なかなか思い通りになりません」
「いや、凄いよ。十分凄い。私なんかよりずっと綺麗に見える」
「いいえ・・・トヨ様の方がお美しいです」
「ヨウシュウ、キミはお世辞がうまいな」
「神様にお世辞なんて恐れ多いです」
「・・・うん、そうだよ、ヨウシュウ。私は神様なんだ」
ヨウシュウもトヨも、お互いにしばらくは自分の中にある感情を押し殺していた。
ヨウシュウの視る力はある程度の強さを持っていた。
だが、それはトヨに触れられるほどのものではない。
姿を見て、言葉を交わす程度のもの。
ある時、ヨウシュウが遠くの街に出かけ、何か文献のようなものを入手してきた。
ヨウシュウは熱心にその文献を調べ、そして、何事かを決意した。
「トヨ、私は貴女に触れたい、貴女の手を取りたい、貴女を抱きしめたい・・・貴女と子を成したい」
「ヨウシュウ・・・どうしたんだ。そんなことを言われても、私は」
「聞いてほしい、トヨ。私は神の魂ですら収められる器、人形の製法を掴めるかもしれない」
「ヨウシュウ、無理をしないで。私は貴方に触れることは出来ないけど、貴方と言葉を交わすことが出来れば、それで良い。貴方の笑顔が見れれば、それで良い」
「しかし、言葉を交わせば、それだけもどかしくなる。逢瀬を重ねれば、それだけつらくなる」
ヨウシュウの苦しげな表情に、トヨは心を痛めた。
「待っていてほしい、トヨ」
その日から、ヨウシュウは庵に篭ったまま一切外に出てこなくなった。
トヨが呼びかけても、返事一つ返さない。
思い切って戸に手をかけたこともあったが、結局何も出来ずに庵の前から去ることしか出来なかった。
「私は怖かった。あの人を愛してしまう自分が。私を、あんなに真剣に愛してくれるあの人が」
「怖かったんだ」
トヨは、ヨウシュウを待つことにした。
それがどれだけの時を必要とするのかは判らなかったが、ヨウシュウに会えない時間を耐えるのは苦しかった。
だから、少しの間まどろんでしまった。
そのまどろみは、神様の時間ならほんの一瞬、少し船を漕いだ程度の間だったかもしれない。
だがそれは人の世においては、十分すぎるくらいの長い時間だった。
トヨが目を覚ました時、神社には沢山の猫たちがいた。
猫たちは、長い間眠りについていたトヨを起こすために集まってきていた。
「みんな、どうした・・・」
「トヨ様、ヨウシュウ殿が・・・」
その言葉を、トヨは最後まで聞かなかった。
ただ走った。
暮山の西、ヨウシュウの庵に。
「ヨウシュウ!」
そして、ヨウシュウがすでにこの世にいないことを知った。
・・・そのとき、トヨは神様になって初めて、声を出して泣いた。
ヨウシュウの死が具体的にどのようなものであったのか、トヨも、猫たちも語ろうとはしなかった。
だから、その死の詳細はわからない。
わからないからこそ、そのときのトヨの悲しみの深さが感じられた。
トヨの悲しみは激しかった。
余りの激しさに、猫たちももうこの土地を諦めるしかないと考え始めた矢先。
急にトヨの悲しみが消えた。
このままでは自分が祟り神になると自覚したトヨは、自らの悲しみを切り離したのだ。
簡単には消し去ることの出来ない心の痛み。
消せないのであれば、ひとまずは切り離して、閉じ込めておくしかない。
トヨは切り離した自分の痛みを、ヨウシュウのいた庵に閉じ込めた。
そして、その場所を忌み地として何者にも立ち入れないように厳重に封印した。
・・・トヨがあの痛みを残したのは、祟り神にならないようにするためだけじゃない・・・未練だ
ヨウシュウが死んだということを認めたくなかった。
ヨウシュウへの想いを、神としてではなく一人の女としての想いを、残したかった。諦めたくなかった。
トヨは恐らく、本気でヨウシュウのことを愛していた。