傷つけないで。
神社に着いたリクを迎えたのは、ユイだった。
「何が起きてるんだ?」
「とにかく、こっちに」
ユイについていくと、そこには沢山の猫たちに囲まれたトヨと、シロの姿があった。
「申し訳ありませんトヨ様、月の防衛線はもちそうにありません」
「シロ、君たちはよくやってくれている。後は私たちでなんとかするよ」
トヨはリクに気が付くと、状況を説明し始めた。
少し前から忌み地の力が強くなってきていた。
その力に呼応するようにして、宇宙から来る良くないモノの数が増えている。
今まではシロたち、月にいる猫たちによってなんとか押し返していたが。
つい先ほど月の防衛線を抜けて、良くないモノの一団がこの地に向かってきている、とのことだった。
「今は少しでも視る力を持つモノの手が必要なんだ。リクもユイも、私に力を貸してほしい」
ユイはすぐに力強くうなずいた。
トヨの真剣な顔を見て、リクもすぐに同意した。
トヨは猫たちの指揮を執るため、拝殿の中に入っていった。
辺りでは慌ただしく猫たちが走り回っている。
リクとユイはいざという時のために後ろにいてくれれば良いということで、濡れ縁に並んで座っていた。
「こういうこと、沢山あるのか?」
「沢山は無いかな。月が抜かれるのは、本当に久しぶり。私も三回目くらい」
ユイの話によれば、忌み地の影響でこの土地は攻撃の標的にされやすいらしい、とのことだった。
宇宙から来るモノは、地球の猫たちと対立している。
地球に攻め込み、猫たちの共有意識のネットワークを破壊し、地球を自分たちの都合の良い環境に作り替えようとしている。
太古の昔から、猫たちは人知れずその侵略から地球を守ってきていた。
「人間と協力しようとは思わないのかな」
「猫にしてみれば、これは猫の問題なんだって。それに、相手は視る力で攻撃してくるから、多分人間が関与してもどうにもならないんじゃないかって」
不思議な話だった。
自分が住んでいる、自分の星が侵略されそうになっていて、それを防ぐ戦いが起きているというのに。
その星の支配者であるはずの人間は、そんな戦いがあるということに気付いてすらいない。
それどころか、人間たちがペットとして飼育していると思っている猫たちが、人間たちの世界を守るために戦っている。
「本当に、わからないことばかりだ」
「そう?」
ユイは少し楽しそうに笑った。
「大丈夫だよ。トヨちゃんが守ってくれる」
「お二人さん、楽しそうな所申し訳ないけど、そろそろ始めるよ」
二人の後ろに、いつの間にかトヨが立っていた。
「これからこの土地を全部夢に沈める。二人の力も貸してくれ」
知らない間に、日がとっぷりと暮れていた。
町中に配置された猫たちが、トヨの指示を受けて視る力を媒介する。
猫たちの共有意識の力が、数キロの範囲に渡って、町を、この土地全体を覆って行く。
神社を中心にした広大な地域が全て夢に沈み、世界は境界線が曖昧な二つの面を持つ。
世界は、リクの良く見知ったいつもの世界であるのと同時に、全く異なる別の世界にもなっていた。
猫たちはこの夢に沈んだ世界の中に侵略者を誘い込み、元の世界から隔絶された環境で戦闘をおこなう。
主な理由は、地球外の理が残されることによって侵略の橋頭保とされることを防ぐため、ということだった。
戦いを人間に気付かれないようにするため、というのは、むしろ付随的なものだ。
全ての事情は、基本的にはあくまで猫たちの都合によるものだった。
「後は奴らが何処に・・・」
サキチがそう言ったとき、トヨが真上を睨みつけた。
「まさか、ここに直接!?」
衝撃が周囲を襲った。
木々が倒れ、塀が砕かれ、土煙が舞う。
何匹かの猫が吹き飛ばされ。
リクとユイはその場に倒れ込んだ。
「やってくれる!」
ぼやけた視界の何処かから、サキチの声がした。
酷い衝撃だったが、どうやら怪我はしなかったらしい。
リクは立ち上がって周囲を見回した。
立ち込める土煙の中で何かが蠢いているのがわかる。
「それを見るな!」
トヨの声が響いた。
「それはこの世界の理の外にいるモノだ。見れば向こうの理に引きずりこまれる」
ユイの悲鳴が聞こえた。
頭を抱えてうずくまっている。
間髪入れず、リクも激しい頭痛と嘔吐感に襲われた。
自分の中が、滅茶苦茶にかきまぜられるような感覚。
立っている場所があやふやになり、自分の身体が判らなくなり、ドロドロに溶けて、形を見失いそうになる。
世界が侵食されるとは、こういうことなのだろうか。
リクは歯を食いしばると、目を見開いた。
眼前に落ちてきた、正体の判らない何か。
よく判らないモノ、この世界の理の外にあるモノ。
自分たちが住むこの世界を、根底から奪い去ろうとするモノ。
トヨがそいつに向かって手を伸ばし、何かを叫んでいる。
猫たちが次々と土煙の中に飛び込んでいく。
リクの視界が歪む。
いや、歪んでいるのは空間の方だろうか。
それすらも定かではない。全ての感覚が不正確になっていく。
リクは、ただそこに立っているだけで精いっぱいだった。
「苦労しているみたいですね」
声がした方を見ると、いつの間にか拝殿の脇にマナがいた。
「お手伝いいたしましょうか?」
「どうせ何か条件付けてくるんでしょ?」
トヨの言葉に、マナは微笑んだ。
「そんなこと言いませんよ。私だってこの世界が壊れるのは嫌です」
不意に、リクを襲う様々な浸食の感覚が和らいだ。
それだけではない。土煙の中にいる何かの動きが鈍くなっている気がする。
マナが何かをしたのだろうか。
「とりあえずこちらの屋台骨を支えます」
視界の歪みも、平衡感覚も元に戻ってきている。
異世界の理を揺り戻して、リクたちの住む世界の理が優勢になった、ということか。
「後は何とか押し切れれば」
トヨの目線がサキチの方に向き、僅かに中心にいるモノから逸れたとき。
何かが弾け飛び、トヨの身体を直撃した。
小さな悲鳴を上げて、トヨは吹き飛んだ。
「トヨ様!」
猫たちがざわめく。
呼応するようにして、ずるり、と混乱の中心にいるモノが身を起こした。
ボンヤリとした影、硬くも無く、柔らかくも無く、暗くも無く、明るくも無い。
この世界の理と異なるモノが、ゆっくりと立ち上がる。
「落とし子か。こんなものを呼びよせるなんて」
マナの表情が曇った。
そこにいるモノの姿を、思わず、リクは真正面から「視た」。
この世界の理の外にいるモノ。
この世界の理を破壊するモノ。
そこにいるモノが、じわじわと地を割り、根を張っていくイメージが伝わってくる。
この土地を根底から掘り返し、自分の世界に変えようとしている。
今までそこにいたものなど、何一つ構いはしない。顧みない。
そんなものなどまるで見えていないかのように。
蹂躙し。
踏みにじり。
ただただ自分に都合良く書き換えていく。
後には何も残されない。
人がいた形跡も、かつてそこにあったものも。
何一つとして残されない。
そこには、最初から何も無かったとでもいうかのように。
何も。
『リク、今度の日曜日さ、お買い物付きあってよ』
リクの中に、唐突にナオの言葉が蘇った。
建物を考え、造ることを生業にしている彼女。
図面ケースを背負って、玄関から出ていくナオの姿。
ナオと約束したショッピングモール。
この土地には、世界には。
リクに取って大切なものが溢れている。
『私とリクの、小さな世界』
そう言って笑ったナオが。
『ダメだ、リク。ダメだ。ダメだ。ダメだ』
正体を無くしたように、泣き崩れる。
リクの目の前に、極彩色の何かが迫った。
地球の外の色を持つそれは、眼前にいる異世界の理を破壊するため、激しい敵意を剥き出しにしていた。
「リク!」
ユイが叫ぶのと同時に。
リクの拳が、その怪物を捉えていた。
拳がそれと触れた瞬間、触れた部分がまるで風船のように膨らんで。
それは、そのまま破裂して消滅した。
「へぇ」
マナが目を見開いた。
「なるほど、神様に触れられる手、か」
自分でも何が起きたのかわからないまま、リクは拳を見つめた。
無我夢中だった。
襲われそうになった時、迫ってくる何かの存在に気が付き。
それを殴る自分の姿を。
視た。
「リク、キミのその力は・・・」
起き上がったトヨが、呆然とリクの姿を見ていた。
「そうか、自分の理に無理矢理従わせているんだ」
自分の見たままに、相手の実体を固定し、触れることが出来る。
その際、相手がこの世界の理と相容れないモノだとすれば、それはどうなるのか。
自分の理に合わないモノに、無理矢理自分の理を押し付ければ。
「存在自体を消し飛ばすとか、凄いですね」
マナが感嘆の声を上げた。
リクのその力を恐れたのか。
侵略者たちの動きが鈍った。
「今だ」
サキチはその隙を逃さず、号令をかけた。
猫たちが一斉に襲い掛かる。
「リク、力を貸してくれ。俺たちが援護する。あのデカブツを消し飛ばすんだ」
しばらく、リクはその場に立ち尽くしていたが。
サキチの言葉に、顔を上げた。
ここには、リクが守りたい沢山のものがある。
ユイや、サキチや、シロ。
稲荷神社に、トヨ。
ナオ。
自分にとって大切な、世界。
それを何の理由もなく、一方的に破壊されるいわれなどない。
好き勝手に消されていいはずなどない。
この手でそれが守れるなら。
リクは目の前にそびえたつ異世界の侵略者に向かって走り出した。
周囲から無数の存在が近付くのを感じる。
猫たちが素早く動いてリクへの攻撃をブロックする。
リクの手は、触れるだけで相手に自分の理を押し付け、従えなければ消し去る。
根を張ろうとする巨体に、リクは拳を振り上げて。
渾身の力で、叩きつけた。
音にもならない断末魔が周囲に響き渡り。
侵略者は欠片も残さずにリクによって消し飛ばされた。
傷ついた猫たちがリクの周りを囲み、勝利を讃えた。
肩で息をしていたリクも、ようやく状況を飲み込んで。
ふっと、笑みをこぼした。
「なんとかなった、かな」
トヨはがっくりと肩の力を抜いた。
同じように緊張を解こうとしたサキチが。
何かに気付いてキッと遠くの空を見つめた。
「トヨ様、まずいことになりました」
サキチの声に、猫たちが一斉に静まり返る。
「忌み地の封印が・・・解けています」
リクが先ほどまで訪れていたあの場所。
黒いモノ。
神様、トヨですら封印することがやっとだという、恐ろしいモノが。
「恐らくこの襲撃で一時的にトヨ様の封じの力が弱まったためではないかと」
リクはマナの方を見た。
「私じゃないわ。そもそもここにいたじゃない」
マナは肩をすくめてみせた。
「通達、まだ町は夢に沈めたままに」
サキチの号令がかかり、猫たちの動きが再び慌ただしくなる。
トヨはその場に立ってうつむいていた。
掌を握りしめ、じっと何かを考えていたが。
「・・・アレが放たれたとして、その目指す先は一つしかありません」
そう言って顔を上げた。
ひきつった、厳しい表情だった。
「ここで迎え撃ちます。ヤツを誘導しつつ、この神社を深く夢の中に沈めます」
トヨはリクの方を向いた。
どうしてだろうか、リクにはトヨのその顔が。
泣いているように見えた。
「来ます」
猫たちの間に、緊張感が走った。
そいつの気配はもう鳥居のすぐ外にまで来ていた。
あの時と同じ、滓のように凝り固まった、黒いモノ。
リクは拳を握りしめた。
あの時とは違う。怖いことなんて何もない。
今なら、この力でトヨを助けることが出来る。
顔を上げ、鳥居に迫るモノを睨みつける。
自分の世界を、トヨを守ってみせる。
走り出そうとしたその目の前に。
「やめて!」
トヨが立ちはだかった。
「お願い、リク・・・」
何もかもうまくいくと、そう思っていた。
全てを忘れていられると。
「これを・・・」
このまま楽しい時間だけが積み重なって。
ずっと笑顔でいられればいいと。
痛みなんて、無くなってしまえと。
「この想いを・・・傷つけないで・・・!」
絞り出すような悲痛な声で、トヨは叫んだ。




